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8522-8531: フローニンゲンからの便り 2022年5月31日(火)



No.3696 神々の指紋_Fingerprints of Gods


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1566, Conditionings

In this civilized society, a variety of conditionings exist to torment us.

Physical, psychological, existential, and spiritual distorted conditionings are omnipresent to manipulate our beings.

Groningen; 14:15, 5/31/2022


No.1567, An Opening Mouth of the Universe

The universe is opening its mouth widely.

It looks like that it can eat anything.

Groningen; 20:29, 5/31/2022


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本日の3曲


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タイトル一覧

8522. 今日の計画/文明学の創出に向けて

8523. 文明学上の重要な思想家/今朝方の夢

8524. 永遠の歩み/一生付き合えるものたちに恵まれて

8525. 研究ノートの作成/記録と保存

8526. 生活と人生に根差した文明学の探究/自己と不可分な文明

8527. 文明的生存環境に関心が向かうこと

8528. 文明学の創出に際して

8529. ツィターについて

8530. 様々なコンディショニングをもたらす現代文明

8531. 都市社会学と実在論的社会学/フランクフルト学派の功績を再検証すること


8522. 今日の計画/文明学の創出に向けて


時刻は午前6時半を迎えた。今、キッチン側の窓の方から小鳥たちの鳴き声が聞こえてきている。彼らの澄み渡る鳴き声は、穏やかな瞑想の意識に誘ってくれる。早朝からこうした感覚を味わえることに深く感謝したい。今朝方も気温が随分と下がっていて、部屋の暖房が自動で入る温度になっている。今は暖房が動いていないが、ひょっとしたらすぐにでも動き出しそうである。それほどまでに今の気温は低い。今日は午後から小雨が降るという予報が出ているが、それは小雨であり、風もほとんどないようなので、午後にはジムに行ってこようかと思っている。ジムでは、一昨日のロビンさんとのセッションの内容をもとに、充実したトレーニングをしたい。昨日も自宅で自主トレーニングをしていたのだが、つくづくジークンドーは奥が深いことを思い知らされる。今日のトレーニングの際には、いつもロビンさんとのセッションで持参しているロビンさんの道場のオリジナルのマテリアルを持って行こうと思う。それは日本語で言えば、教則集のようなものであり、そこには習った技が列挙されていて、レッスンごとにそこに自分でポイントを書き留めている。先日のレッスンでは随分と重要な事柄を書き留めていたので、それらを見ながら、丁寧に復習をしていきたいと思う。とにかくトレーニングの場においては、ゆっくりと精確な動作を身体の奥深くに染み込ませていくことを意識したい。トレーニング後には、ゆっくりサウナに入り、近所のスーパーに立ち寄る形で自宅に戻ってこようと思う。


昨日、今後の探究に関して、文明学を構成する分野としてマネーとテクノロジーを必須のものとし、それらを神道神学の観点から扱っていくことについて考えていた。当然ながら他の宗教神学を採用してもよく、仮にそのアプローチを採用するのであれば、現代文明の中で支配的な役割を果たしているキリスト教神学の観点からマネーやテクノロジーを捉えていくことになるだろうか。それであれば、すでに先人となる学者が何人かいて、彼らの仕事を辿るだけに終わってしまうかもしれない。やはり自分なりに独自の貢献を果たしていくためには、神道を中心に据えていく必要があるし、それを望んでいる自分がいる。一旦、マネーやテクノロジーに関する主要文献を全て再読し、そこから核となる文献とじっくり向き合う形で、毎日何かしらの考察をこの一連の日記の中で書き記していきたいと思う。その際には、後に検索しやすいように、日記に検索しやすいタイトルを振るだけではなく、ナンバリングもしておこうと思う。そうすれば、自分でも後から調べやすくなり、後に考えを付け足すことにも役に立つだろう。フローニンゲン:2022/5/31(火)06:48


8523. 文明学上の重要な思想家/今朝方の夢


文明学の創出に向けては、再度フランクフルト学派の学者たちの主要な文献を読み返していく必要がある。テオドール·アドルノやマックス·ホルクハイマーといったフランクフルト学派の創設者の書籍だけではなく、ハーバート·マークーゼやエリック·フロムの書籍なども読み返していきたい。さらには、ヨルゲン·ハーバマスの書籍も読み返していく必要があるだろう。その中でも、マークーゼとフロムの仕事が文明学の創出においてはやはり重要になる。彼らの思想が今の自分の問題意識と一番合致しているからであり、マネーやテクノロジーの問題に応用できる考え方が随所にあるからだ。彼らドイツの思想家以外にも、フランスの現代思想家にも注目するべき人物たちが何人かいる。ドゥルーズやガタリ、リオタールやボードリヤールなどの仕事も改めて参照したいと思う。その他にも速度学の提唱者であるポール·ヴィリリオや都市社会学に関して重要な功績を残したヘンリー·ルフェーヴラの書籍も読み返したいと思う。上記のフランス思想家について言えば、まだ重要な著作を手元に置いていない可能性もあるので、それらについてはまたどこかのタイミングで調べたいと思う。


そのようなことを考えた後、今朝方の夢について振り返っていた。今朝方は夢の中で、欧州のどこかの街にいて、穏やかな時間を楽しんでいたのを覚えている。街のカフェで、オランダ人の女性と一緒に会話を楽しんでいた。彼女の人柄はとても良く、好感が持てた。お互いにすぐに打ち解けあって、気楽に話をすることができていたのも心地良かった。しばらくカフェで話をした後に、その場で別れ、またカフェで話をしようということになった。すると、昔の教え子の女の子が大学生になっていて、彼女と鉢合わせた。今日はいろいろな女性と話をすることが多いなと思いつつ、彼女が自分と話したいと述べ、私も彼女の近況を聞きたいと思ったので、話をすることにした。しかし、今カフェで寛いでいたばかりであったし、自宅に帰って仕事をしたいと思っていたこともあり、話をするのは自分の自宅でいいかと彼女に尋ねた。すると、何の問題もないということだったし、彼女は自分の家を見たいと述べた。そこから自宅までの帰り道でも、随分と彼女の話を聞くことができ、充実した大学生活を送っていることを何よりだと思った。そのような夢を見ていた。実際には、それ以外にも夢を見ていたように思う。もう少し土臭い夢があったように思う。街ではなく、どこか草原か何かの中にいて、そこで大いに寛いでいる夢があったように思う。また、何かスポーツをして体を動かしている場面があったように思う。そのように書き留めていると、そう言えば、中学校時代のバスケ部のメンバーと一緒に、自分のパスからメンバーにシュートを打ってもらう練習をしていた。その際には、こちらのパスの精度が鍵を握り、彼らが走る方向と速度に合わせて、彼らが立ち止まることのないようにピタリとパスを出す必要があった。最初のうちはパスがずれてしまうことがあったが、何本か練習しているうちに感覚が掴めてきて、後半はだいぶ精度が上がっていた。そのような夢を見ていたし、それ以外にも、駅から実際に通っていた大学に続く桜並木を歩いていた場面があった。実際には、その道を少し宙に浮かんで進んでいたのである。すると、小中学校時代の友人(KM)が後ろから話しかけてきて、彼と一緒に今から面白い店に行こうということになった。それを持ちかけたのは私であり、その店は中学校時代にお世話になっていた英語の先生が経営する店で、高校を卒業した今日を祝うがてら、その店で色々と楽しもうということになった。実際に店に到着すると、まずは店の店員の女性と話をし、しばらくすると、経営者の先生がやって来て、先生と思い出話をしたり、これらかの大学生活の展望に関する話をして楽しんだ。すると気がつけば私は、田舎の一軒家の中にいた。何やら辺りが騒がしく、どうやら近くの畑の横にある小屋に不審者が侵入したようだった。その不審者を捕まえるべく、街の若い男性が駆けつけ、そのうちの1人が小屋の中に入る様子が見えた。しかし、いつまで経っても不審者は外に出てこず、小屋に入った男性も外に出てくることはなかった。何か2人が神隠しにでもあってしまったかのようだった。フローニンゲン:2022/5/31(火)07:14


8524. 永遠の歩み/一生付き合えるものたちに恵まれて


自分の内側にある永遠が、その望むような速度と方向に歩みを進めている。自分はそれを見守りさえすればよく、その歩みと同化してしまえばいいのである。身をそこに委ねて、永遠の歩みの中に寛いでしまえばいいのだ。そうすれば、気づいた時に自分はしかるべきところにいる。今朝方に今後の探究の方向性について書き留めていたが、結局のところ、研究も仕事も人生も、予測不可能性で満たされているのだから、その瞬間に感じることに全てを委ねてしまっていいのである。漠然としたビジョンを描きながら、現実には地に足がついた形で、目の前のことに集中すればいいのである。魂の望むことを絶えずしていけば、研究も仕事も人生も、自ずからより広く深いものになっていくであろう。全ては完全なる明け渡しからの自発性と創造性の発揮なのだ。そのようなことを思う。


中学校の頃から換算すると、英語に触れてから25年近くになるだろうか。もうそのような期間を英語の学習に充てていたのかと思うと驚いてしまう。その期間に少しばかり中断の期間があったことは確かだが、25年をかけて辿り着けた境地があり、同時にまだ辿り着けていない境地があることを痛感する。今年の4月になって、突如として英語の発話能力を真剣に見つめ直そうと思ったことは何かの偶然であり、天啓的な意味を持ったものだったように思う。ここからは、英語以外にも、長大な時間をかけて深めたいものがいくつもある。学術研究もそうであるし、ジークンドーや箏の演奏もそうだ。デジタル絵画の創作も作曲も、そして英文による詩作もまた今後何十年もわたって深めていきたいものである。生涯を終えるまでに深めていきたいと思えるもの、一生付き合っていきたいと思えるものがこれだけあることに嬉しくなってしまう。同時に、深い感謝の念が湧く。一生付き合っていきたいものなどそうそう多くは見つからないのだ。あとは親友以外にも、一生付き合っていきたい人が現れてくれればなお有り難いことである。


時が静かな足音を立てながら、永遠に向かって歩みを続けている。重要なことは、静けさと化して、静かに歩いていくこと。歩みと化して、歩んでいることを完全に忘れながらにして歩き続けることである。時の進行と風の進行のように、静かに着実かつ永遠であれ。フローニンゲン:2022/5/31(火)09:32


8525. 研究ノートの作成/記録と保存


文明学の探究と創出に向けて、この日記の一部は、そのための研究ノートとしての性質と様相を帯びるであろう。そうなるであろと思うし、そういう形にしていきたいという思いがある。とにかく書きながらにして考えること。考えながらにして書くことが重要だ。書物を単に読みっぱなしにするのではなく、書きながら読んでいくことをより徹底させていきたい。理想は読む量よりも言葉として生まれ、書かれる量の分量が勝ることである。過去の偉大な学者たちが一様に膨大な文章執筆実践によって思想を磨いていったように、自分も絶えず書き続けていくのである。より良い現代文明、より良い未来の文明に向かって、日々の自分の学びと思考過程をできるだけ克明に書き留めておきたいと思う。研究ノートの1つ1つは、部分的であり、断片的であるが、それを全てまとめ上げて1つにした時に、いまだかつてないほどに巨大な文明論が全体として立ち上がればいいのである。研究ノートの1つ1つを、大伽藍の小さな石材のように積み重ねていくことをこれから大切にしていこう。この試みは確かにすでに始めていることではあるが、それをより意識的かつ形式的に進めていこう。形式的というのは、自分なりの方法論に基づいたものという意味である。書物をどのように読み、どのように文章を執筆していくかの基準を設け、それに従って文章を愚直に書き続けていく。そのような試みに激しく打ち込みたい。


昨夜、就寝中のベッドの上で、こんなことをふと思った。何を思ったかというと、小中高時代の教科書を捨てずに取っておけばよかったという他愛もないことである。それは他愛もないことなのだが、しかし自分にとっては重要なことでもあった。小中高時代に学んだことを今全て自分が実用に足る知識として獲得しているかと言ったらそうではなく、その習熟度合いはひょっとすると30%を下回るのではないかと思ったのだ。小学校から始まる理科と社会から出発して、高校で習う物理、化学、生物、日本史、世界史、地理、政治経済、倫理などの学習領域とそのレベルを考えてみたときに、今の自分は相当に知識が抜け漏れてしまっているように感じている。算数や数学においてもそうだし、古文や漢文においてもそうである。たった一つだけ、小中高時代の学力よりも高いものがあるとすれば、それは英語だけだろうか。そこに現代文を加えてもいいかもしれないが、唯一自分が継続的に学習し続けたものは英語しかないように思う。学校教育で使っていた教科書が残っていれば、当時の書き込みを含め、自分がどのようなことを学び、どのようなことを考えていたのかを辿ってみたいと昨夜強く思った。すべての教科書を捨ててしまっている今となってはもう後の祭りであるが、そこからも記録することの重要さと保存することの大切さを思った次第である。今の自分の取り組みは、全て克明に記録し、保存していきたいと思う。フローニンゲン:2022/5/31(火)09:45


8526. 生活と人生に根差した文明学の探究/自己と不可分な文明


文明学——「文明学」は"study of civilization"とでも命名しておこう——の探究と創出に際して、日々の研究ノートの執筆は、毎日の生活と密着していなければならない。なぜなら、今こうして生きている自分こそが現代文明に根を下ろして生きているからであり、自分の生活は現代文明の写し鏡として営まれているからである。日々の生活と離れた形で文明論を考えても論じても、全く意味のないことなのだ。自分の生活や人生に深く根ざしていない文明論の探究などやる意味がない。自らの実存性に立脚しない知的遊戯的な文明論探究などするに値しないのだ。例えば、今の目の目に映る木々の葉の揺れから現代文明について考えなければならない。今聞こえてくる箏曲の調べから、現代文明の時間の性質について考えなければならない。今口をつけた一杯のコーヒーから、農業と経済の観点から現代文明について考えなければならない。自らの生活を取り巻く種々の事柄から人間文明について考えられることはこのように無数にあるのだ。そうであれば、なぜ自分を取り巻くものたちから出発しないのか。自らの生活と人生を出発点にしない限り、結局その探究は地に足のつかないものになる。そうなれば、そこで生み出された思想まがいの思想は、現実世界に対して何も実践的な力を発揮してくれないだろう。


地に足のつかない思想家もどきは巷に溢れていて、過去にはそれに辟易していたが、今はそのような暇さえない。本物の実践的思想家の存在が身近にいるからである。すでにこの世を去っている者、まだ生きている者を含め、もう自分は本物の思想家を何人も知っているのだから、偽物の思想家もどきの言葉に触れている時間などないのであるし、それをする一切の理由がないのだ。日々の生活と旅の中に溢れている自らの固有の体験と思考を題材にし、自分なりの方法で文明論を探究し、文明学というものを創出することを通じて、文明の病の治癒と文明そのものの変容に何かしらの寄与をしたいと強く思う。このように自分を思わせる自己を取り巻く文明の性質を考えなければいけない。文明のいかような性質が、自分を文明の治癒と変容に向かわせているのだろうか。ここでも、自己と文明を切り離すのではなく、それらは主客二分の形で、二つで一つなのである。文明について考えることは自己について考えることであり、自己について考えることは本来文明について考えることなのだ。さらには、文明を治癒·変容するというのは、結局のところ、自分を癒し、自分を変容していくことに他ならないのである。文明と自己が不可分であると発想している人が現代社会の中にどれだけいるのだろう。文明への無関心さと文明の暴走に無知な現代人を見ていると、そのような発想をしている人はごくわずかなのではないかと思わずにはいられない。そうした状況を嘆く必要も暇もなく、そうした状況こそが文明の病なのだから、その治癒と変容に向けて、自分は探究と実践を粛々と進めていけばいいだけの話である。フローニンゲン:2022/5/31(火)10:02


8527. 文明的生存環境に関心が向かうこと


自分自身を知りたいというのは、とても自然な欲求であり、成長·発達において極めて重要な原動力かと思う。そうであれば、自分自身を取り巻く環境そのものに関心を持てないというのは、一体どうしたことだろうか。本来、自分自身を知るということと、自分が立脚している環境を知るというのは、同じことを本質的に意味しているはずなのだ。水や空気のように当たり前に存在している文明の様々な産物に対して無自覚、無関心、無頓着でいるというのはどういうことなのだろうか。それは成長·発達の放棄であり、自らの実存や霊性の放棄でもあるように思える。


昨日、協働者の方々とミーティングをしている際に、イヴァン·イリッチが提唱した「隠れたカリキュラム」という概念が話題に上った。まさに現代文明の様々な領域で、隠れたカリキュラムが無数に存在しており、それに自覚的になり、それらの歪みを是正していくことが個人と社会の解放を実現していくはずなのである。しかし、今の現代人を覆う無自覚、無関心、無頓着の有り様を見ていると、その実現は極めて困難な道のように思えてしまう。そのようなことを考えながら、自らは絶えず率先して、現代文明に隠された歪んだカリキュラムを特定し、その改善に向けた処方箋の立案と提示に向けて探究を進めて行こうと思う。この頃は、本当に自己を取り巻く環境が気になる。ここで述べている環境とは、物理的な環境だけを差すのではなく、精神的な環境、実存的な環境、霊的な環境も差す。カトリックの神学者ピエール·テイヤール·ド·シャルダンが述べるところの、物理圏、生物圏、叡智圏のいずれもが、現代文明によってどのように侵食汚染されてしまっているのか、そして私たちは何をするべきであり、何ができるのかを考えなければならないという思いが強い。自己がこのようにして、突如、自己を取り巻く文明的生存環境にまで関心が広がったのは、きっと自己の変容があったからなのだろう。意識の発達というのは、本来こうしたことを差すのだと思われる。自己が自己についてだけ意識が向かうというのは、とても未熟な段階の自己を表していて、自己が取り巻く環境と不可分であるという認識のもと、文明的生存環境にまで広く深く関心が及ぶことが現代社会で求められている意識の発達の1つの重要な到達点に該当するのではないだろうか。自我の欲求や欲望にまみれている暇など本来ないはずなのだ。もはや文明的生存環境は土台から溶解し始めているのだから。フローニンゲン:2022/5/31(火)10:23

8528. 文明学の創出に際して


文明学の創出に際しては、バーナード·スティグラーやアンドリュー·フィーンバーグのテクノロジー哲学、そしてフィリップ·グッドチャイルドとニミ·ワリボコのマネー神学だけではなく、ロイ·バスカーの批判的実在論やマーガレット·アーチャーの実在論的社会学も核として取り入れる必要がある。それらに並行して、改めてフランクフルト学派の文明批判の眼差しを理解していかなければならない。フランクフルト学派が提唱した批判理論により精通していこう。こうしたことを書き出していると、今後の読書の方向性が明瞭なものになる。また、手持ちの書籍の何を読み返せばいいのかも明らかになり、また今後どのような書籍を買い増せばいいのかも見えてくる。書きながらにして探究を進めていくこと。それをこれからも続けていく。


マネーの内在性質の理解を深めるだけではなく、現代の経済学の種々の構造上および思想上の問題についても研究の遡上にある。このテーマの切り口は、まずはロイ·バスカーの論考を辿ること、そして彼の批判的実在論を現代経済学批判の形で展開させている種々の研究者の論考を辿っていく。企業活動や金融の根幹にある経済学そのものの見直しも、文明の健全化において必要不可欠なのだ。


しばらく前に訪れた、ドイツのトリアーの旅の記憶が蘇る。トリアーに訪れたのは、マルクスの生家に足を運ぶことが主目的であった。記念館となったその場所で、マルクスの仕事に触れた。さて、文明学の創出に向けて、マルクスの思想のどのようなところを汲み取ることができるだろうか。彼が資本主義のどのような側面を批判していたのかをつぶさに探究し直さなければなるまい。マルクスの文明批判の眼差しをより精確に汲み取っていく必要がある。歴史上、マルクスほどに思想が誤って解釈された人はいないのだから。フローニンゲン:2022/5/31(火)11:03


8529. ツィターについて


時刻は午後4時半を迎えようとしている。先ほど、ジムに行き、買い物から帰ってきた。幸いにも雨が降り始める前に自宅に戻ることができた。今日は気温が低かったが、ジムでサウナに入った後には半袖半ズボンで自宅に帰ることができた。今、うっすらと雨雲が空を覆い始めている。雨が降り始めるまでもうすぐかもしれない。


ジムに行く前に、オーナーのフレディさんとバッタリ自宅の前で遭遇した。そこで少し立ち話をしている中で、箏の演奏を始めることにしたことをシェアした。すると、箏という楽器をフレディさんは知らないようだったが、楽器の説明をすると、「それはツィター(zither)のような楽器かい?」と尋ねられた。むしろ私は、ツィターなるものを知らなかったので、フレディさんに説明を求めたところ、ハープのような弦楽器をフラットにして演奏するものだと述べたので、まさにそのイメージに近いと伝えた。フレディさんの面白い説明として、「ツィターはほら、映画『第三の男(The Third Man)』の最後で演奏された楽器だよ」と笑みを浮かべて説明してくれたのだが、その映画は1949年のもので、私にとっては古すぎてピンとこなくて笑った。改めて今調べてみると、ツィターというはオーストリアの民族楽器のようであり、楽器の分類上も見た目としても、確かに箏に近い。箏は英語で“koto”として通用するが、別の表現として“Japanese zither”という言い方があることを知った。


さて、今日のジムでのジークンドーの自主トレーニングは、実りの多いものだった。先日のロビンさんのセッションで学んだことや、フィードバックを受けたものを参考にして、集中力高くトレーニングを行うことができた。先日のセッションでは、防御とカウンターの技の1から8に対して、1つパンチを加え、さらにステップバックの動きを加えて稽古をしたので、次回は同じことを9から17あるいは21まで行うのではないかと想像される。それを見越して、今日のトレーニングではそれを行なっていた。ここ最近のジムでの自主トレーニングは、ずっとランク2の技ばかりを稽古していたが、今日からは再びランク1の技も稽古し直すことにした。それらを忘れないようにするためでもあるし、さらに精度高く定着させたいという思いからそのようなことを行った。トレーニング後のサウナは格別であり、今日は常連の1人のオランダ人男性と一緒にサウナを入ることになった。彼がミントの香りのする液体をサウナに持ち込んでいて、私に断ってから、それを水に混ぜたものをサウナストーブの石にかけた。すると、大変良い香りがサウナ質に漂い、リラックス効果が倍増した。そこからも彼とは少し雑談を楽しみ、リラックスと共に、お互いの素姓に関係なくこうした何気ないコミュニケーションを楽しめるのもまたサウナの良さであると改めて実感した。フローニンゲン:2022/5/31(火)16:42


8530. 様々なコンディショニングをもたらす現代文明


今日は、バーナード·スティグラーを含むフランスの重要な現代思想家に関する論文集を読み進めている。その中で、スティグラー以外にも幾人か重要な思想家を見つけ、文明学の探究に向けて、彼らの書籍も読み進めていこうと思った。読書をしながらふと、身体的なコンディショニングのみならず、現代社会には、精神的、実存的、霊的コンディショニングによって調教された人間の姿がふと浮かび上がってきた。それらのコンディショニングの特徴と発生メカニズムをつぶさに捉えていくこと。それは自分が希求する文明学の役割の1つである。


どうやらフッサールと同様に、ハイデガーもまた、現代文明の特徴として、計測化、数値化、技術化を通じた存在と時間の拘束を挙げていたようだ。ハイデガーが活動していた時代に引き続き、その特徴は色濃く見える。むしろその傾向は加速し、それらを通じたグローバルな管理社会が到来しているように思える。スティグラーの思想を理解する上で、フッサールやハイデガーの思想を理解することが求められるので、彼らの書籍についても読み返していかなければなるまい。


夕方にジムから自宅に帰ってきたときに、郵便受けに書籍が届けられていた。去年の8月にアマゾンオランダに注文した書籍がようやく届けられた。それは、“Steiner, Marx and a New Paradigm”というもので、シュタイナーとマルクスの思想を架橋した非常にユニークな書籍だ。この書籍もまた文明批判の補助となるであろう。早速今夜から、あるいは明日から読み進めたい。


ジムに行く前に考えていたことも書き留めておこう。博士論文を執筆し、博士号を取得するというのが中年期の前半や半ば頃になるというのは、過去の人文系の博士号においてはあまり珍しくないことのように思えるが、現代は博士号も大量生産されるような時代であり、博士号の取得年齢も随分下がっているように思う。そんな流れの中で、自分は焦らず、逆に一昔前の博士号の取得の様子を踏襲して、ゆっくりと着実な探究をしていき、その成果をまとめ上げる形で博士論文を執筆したいと思う。その論文は、文明学の創出の礎になるようなものにしたいし、自分なりの文明学の萌芽が具現化されたものにしたい。そのようなことを考えている。せっかく5年ぐらいの時間をかけて論文を書き上げていくのであれば、文明学ぐらいの大きな射程を持ったものにしたいものだ。決して博士論文がゴールになるのではなく、それを執筆して初めて自分の仕事が始まると言ってもいい。そのような位置付けで、ここから地道な探究を続けていき、どこかのタイミングで博士論文としてまとめ上げ、文明学をより精緻なものにする形でこの現代文明に関与していきたいと思う。フローニンゲン:2022/5/31(火)17:07


8531. 都市社会学と実在論的社会学/フランクフルト学派の功績を再検証すること


現代の歪んだ時間感覚について考察することもまた、現代文明の病理を特定することにつながってくる。時間論を提唱している思想家は数多く、彼らの時間論を参考にするだけではなく、とりわけ時間と密接に結びついた芸術である音楽の観点から時間論を取り扱っている書籍も読み返そうと思う。また、時間の速度について考察を深める際には、ポール·ヴィリリオの速度学は必ず参照しなければならない。今朝方書き留めていたように、都市社会学に関して重要な功績を残したヘンリー·ルフェーヴラの書籍を読み返していく。彼の都市社会学に関する書籍には購入していないものが随分とあり、それらはこの夏の書籍の一括購入の際に必ず購入しよう。都市社会学の知見を獲得していけば、今後の旅の最中において、それぞれの都市がどのような構造や機能を有しているのかがより明確にわかってくるだろう。それを通じて、文明と都市との関係について考察を深めていくのである。都市社会学は、経済地理学とも親和性が高い学問領域かもしれない。そうであれば、都市社会学は自分の探究上、文明をより多角的に捉えていく際の重要な役割を果たす。いずれにせよ、文明学の創出に向けては、社会学的な洞察や経済学的な洞察は不可欠であり、前者に関していえば、やはりマーガレット·アーチャーの一連の書籍を読み返したいという思いが強くなっている。彼女の協働者でもあったロイ·バスカーの一連の著作物と合わせて、彼女の一連の書籍も必ず読み返そう。


時刻は午後8時を迎えようとしている。結局まだ雨が降っておらず、静かな夕方の世界が地上を覆っている。日が伸びたこの頃においては、この時間帯は早朝と同じぐらいに心を落ち着かせてくれる。


文明学の探究にあたっては、色々とアプローチがあり、参照するべき思想家が数多くいるが、これまで書き留めてきたこと以外に改めて、フランクフルト学派のハーバート·マークーゼの書籍を色々と読み返していこうと思う。そもそもフロイトの精神分析とマルクスの文明批判の思想体系が組み合わさったフランクフルト学派から学ぶことは多く、その中でもマークーゼの文明批判の視点は非常に参考になる。それはエリック·フロムに関しても同様であり、フロムの書籍も再読したいという強い欲求が生まれてくる。フランクフルト学派の功績を再検証することは、近いうちに必ず行おう。それは急務だ。


日々平穏な生活を営みながらも、これほどまでに強烈なエネルギーで文明批判を志している自分の姿に驚く。今の落ち着いた生活を強く保持し、それを強固に営んでいこうとするのはひょっとすると、本質的に平穏ではない世界に対する抵抗なのかもしれない。そうした魂の抗いが自分の生活として表出している。そのように見れなくもないことは確かである。崩れゆく文明社会の中にあって、1人の個人としてどれだけ尊厳と至福さを保った生活が営めるかというのは、小さくも非常に重要な実践であり、そうした生活実践を通じて、この文明社会で生き抜く処方箋を見出すことができるかもしれない。それはもう部分的に随分と見出し始めている。フローニンゲン:2022/5/31(火)19:57

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