No.3688 原点回帰_Return to the Original Source
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1559, A Ray of Light
A ray of light comes from the sky above the earth.
It nourishes everything on this planet.
Groningen; 10:35, 5/28/2022
No. 1560, My Relaxing Soul
My soul is relaxing anytime anywhere.
It deepens and cultivates itself further and forever.
Groningen; 11:08, 5/28/2022
No.1561, Death as a Gift
Death is not a burden of life.
It is a gift to shed light on our life.
Groningen; 11:29, 5/28/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8495. 輝く朝の中で
8496. 今朝方の夢
8497. ELSAの楽しみ
8498. 深く長く留まること/より良き生への渇望
8499. 魂の成熟と果実/分かることと覚醒すること/死と生
8500. 贈り物としての死/運命/在ることと幸福
8501. 絶対無と絶対無を架ける虹の架け橋/傍観者的な態度が蔓延るこの現代社会の中で
8502. 光の園で/死んで成ること/情熱と自己棄却/時との戯れ
8503. 高次元の欲望を希求すること/新自由主義的な風潮の中で
8495. 輝く朝の中で
時刻は午前7時半を迎えた。今、燦然と輝く朝日が地上に降り注いでいる。朝日の昇る時間や日照時間はもう夏のそれであり、あとは気温がもう少し暖かくなってくれば、より夏を感じられるだろう。気温に関してはやはりまだまだ低く、朝の時間帯は特に肌寒い。今日の最高気温は13度であり、最低気温は8度だ。明日と明後日も似たような気温になる。
朝のそよ風に木々の葉が揺れ、そこに朝日の輝きが降り注いでいる姿はとても美しい。何気ない光景の中に眩さを見出し、思わず目を奪われる。輝きに満ちた今日もまた、自分の取り組みをゆっくり進めていこう。今日も読書と創作活動に従事し、その合間合間にELSAを使って英語の発話能力の鍛錬を行う。もうほぼ全てのコンテンツをやり尽くしたので、新しくオックスフォード大学が提供しているコンテンツを別途購入しようかと思う。そちらを購入すれば、また相当にコンテンツが拡充されるようであり、オックスフォード大学のコンテンツのレベルや質についても知るいい機会になるかと思う。ここ最近はELSAをよく使っていて、それによって、徐々にだが確実に発話能力が向上しているのを実感する。英語の発話能力はまだまだ向上の余地があることをこれまでは見落としていたが、今改めてそうした余地の存在を認識することができたことを嬉しく思う。能力を伸ばす楽しみというものがあるらしく、それは子供たちが感じるような喜びに似ているかもしれない。これまでできなかったことができるようになるということや、これまでよりもそれがうまくできるようになるというのは、大人にとっても純粋に嬉しいものなのだ。そうした気持ちこそが成長の喜びの本質だろう。他の実践もその気持ちを大切にして進めていく。昨日ふと、ジークンドーの鍛錬において、これまでずっと利き手側を前に出すオーソドックスな構えだけを鍛錬していたが、利き手でない方の構えもそろそろ練習し始めようかと思った。逆の構えも習得できると、スイッチしながら戦うことができるし、身体をバランスよく鍛えることにも繋がる。また、利き手で内包の構えは、脳にとって慣れていないので、逆にそうした鍛錬をすることによって、脳にも良い刺激となるだろう。今日から早速、逆側の構えでも練習してみることにする。これまで習った技の全てを逆の構えで練習する実践をしていこう。そうすると、利き手側の構えの時の技がより精確に出せるようになるという嬉しい副作用があるのではないかと思う。ジークンドー以外にも、昨日考えていたのは、ここからしばらくは、三位一体や三種の神器の数字と同じく3つほどの曲とデジタル絵画を毎日作っていくようにするということだ。数字の3は個人的にもこだわりのあるもので、しばらくは創作活動で生み出すものの数は3つにしようと思う。そのようなことを昨日考えていた。フローニンゲン:2022/5/28(土)07:48
8496. 今朝方の夢
今日も1日が充実感で満たされたものになるであろうという確信がある。朝の眩い世界を眺めているだけで、もうそのような確信めいた気持ちになる。毎朝をそのような気持ちで始めることができていることに感謝をしたい。自分という存在を通して映し出される世界も自己も吹けば飛ぶような儚き存在であり、感謝の念がなければ、美しさ、充実感、至福さといったものは儚くすぐに消えていってしまうだろう。感謝の念は、それらをこの地上に繋ぎ止めてくれる存在なのだ。また、感謝の念は、それらを生み出してくれる存在でもある。それを忘れず、祈りにも似た感謝の念を絶えず持って日々の生活を営んでいこう。
今朝方は変わった夢を見ていた。夢の中で私は、脳と意識の最先端の実験に協力していた。場所は実験室であり、実験室のある建物は、欧州のある町の古代遺跡の中にあった。実験室に到着すると、実験を担当する女性教授がいて、今回の実験の趣旨と手順について説明をしてくれた。今回の実験は、別に危険なものではなく、自分にとってはどのような現象が起こるのかとても楽しみだった。早速、実験室にあったベッドの上に横たわり、実験が始まった。女性教授はまず、私の顔にゼリー状のクリームを薄く伸ばしながら塗っていった。どうやら顔や頭に機械を当てる際に、滑りを良くするためだろうと推測した。クリームを塗り終えた後、いざ機械が顔や脳に当てられると、とても心地良く感じた。機械からは特殊な電波が発せられていて、それが脳波を刺激し、脳がとても喜んでいるのがわかった。実験中はお互いに黙っているわけではなく、女性教授と色々と会話をしていた。何やら、今脳に当てている電波は、脳全体の機能を向上させ、脳の細胞の破損を修復させる力があるようだった。道理で自分の脳が喜んでいるわけだと合点がいった。実験を終える頃には、脳が生まれ変わったように活き活きと動き始めていて、とても気持ち良い体験だったと思った。すると、私の左横のベッドの上に、女性の知人が横たわっていて、今度は彼女が実験台になるようだった。結局この実験は何だったのだろうと改めて考えてみると、やはりあの特殊な電波が脳にどのような働きかけをするかを確かめたかったのだろうと思った。自分にとってはあまり実験に参加したという実感はなく、何か深いリラクゼーションをもたらしてくれるマッサージを受けたような感じだった。そのような夢を見ていた。この夢以外にも、欧州のある国の町の郊外にいて、そこで見知らぬ男性と会話を楽しんでいる場面もあった。不思議と、その会話もまた自分の活力を高めてくれるものであり、今朝方は目覚めた瞬間に、気力が満ち満ちているのを感じた。フローニンゲン:2022/5/28(土)08:01
8497. ELSAの楽しみ
時刻は午前10時半を迎えた。つい先ほどまで、英会話アプリのELSAを用いて英語の発話能力の鍛錬を行なっていた。時間にして70分ほどそのアプリを使っていた。改めて、中学校の時に初めて習った単語の発音を間違って覚えている場合、それを矯正することは難しいが、その困難さが逆に面白くもあることを思った。意外と間違って覚えていた発音があり、それを見つけていく楽しみがあるのと同時に、矯正していく楽しみがある。思わぬ形で変な発音をしていたことに気づいた時、眼から鱗が落ちることがある。学習において、このように驚きというのは非常に重要な感情であり、そうした驚きの感情をもたらしてくれるのもこのアプリの良さである。
今日からは、オックスフォード大学出版の6つのレベルのビジネス英会話コースを楽しみ始めた。それはELSAと契約をしているものなのだが、それは有料のコンテンツだ。金額としてはわずか20ドルを一度支払うだけで、かなりの量のコンテンツを楽しむことができる。1つ1つのレベルの中に8つぐらいのカテゴリーがあり、それぞれのカテゴリーに20ぐらいのコンテンツがあるので、しばらくはこのコースを楽しめそうだ。このコースで1つ好感を持ったのは、単語にイメージ写真が付いていることがあることだ。単語の具体性や抽象性を考えると、全ての単語にイメージ写真を付けることは難しく、できるだけ単語にイメージ写真を付け、学習者が単語と具体的なイメージを結びつけやすくしていることに好感を持ったのである。イメージを活用するというのは学習上肝であり、そうした工夫があるのが良いと思った。このコースは、ビジネス英会話に焦点を当てているが、ビジネスの文脈で用いられる単語や表現は、学術機関で働く際にもよく用いられるものが多いので、今後大学で働く際にも役に立つだろう。午後からもこのアプリを楽しみながら、発音の矯正と新しい表現の獲得に励んでいこうと思う。フローニンゲン:2022/5/28(土)10:34
8498. 深く長く留まること/より良き生への渇望
世界が喜びを差し出してくれている。世界が意味を差し出してくれている。そうした喜びの感情と意味の内側に入り、そこに留まること。しかもできるだけ深く長く留まること。それがこの人生を深く生きることにつながる。逆に言えば、留まることができないというのは、表層的な生をもたらしてしまう。私たちの世は、本来どこまでも広く深い。そうした生の広さと深さを深く深く味わうのだ。そこにできるだけ留まるようにしていこう。だが、現代社会は、留まることをよしとしない。次から次に目移りさせることを私たちにもたらす。そんな働きかけと仕組みで蔓延する社会の中で、自己防衛をしながら、絶えずそうした事柄に自覚的になり、できるだけ事物に留まるようにすること。事物の内側に入っていけば、それ固有の時間に深く留まることをもたらしてくれる。そこに深層的な寛ぎがある。魂は遍歴する性質を持っていながらにして、憩いの場所を必要とする。安心できる場所を求めて魂は移動する性質を持っているが、現代社会は、そうした魂の性質を逆手に取り、魂が真に寛げる場所を提供することなく、欲望を刺激するような場所をたくさん作って、魂が真に寛ぐことを妨げている節がある。その状況を直視しながら、できるだけ自らの魂を寛がせ、そうした状況に抗うこと。それが強く求められる社会に私たちは生きている。
ここ最近、私たちの魂は、より良き生を渇望する性質を本来持っているのではないかと思うことがよくある。それは内在的かつ本質的な渇望であって、欲望を追い求めるのとは性質を異にする。後者のようなものを渇望し、追い求める場合、魂は疲弊する。そして心身共に疲弊してしまう。一方で、より良い生を渇望し、それに向けて探求することやこの世界を味わおうとすることは、魂を疲弊させることはなく、むしろ魂を励まし、魂を躍動させる。今の自分は、より良き生を渇望することに自己を明け渡していて、魂が喜ぶ活動に絶えず従事している。この渇望感は、魂の本質的な生理的要求事項なのだろう。生を蝕む渇望ではなく、生を豊かにし、生をより良きものにしていく渇望感を見出し、その感覚に従って生きる日々がこれからも長く続いていく。フローニンゲン:2022/5/28(土)10:50
8499. 魂の成熟と果実/分かることと覚醒すること/死と生
魂の糧となる行いを日々続け、魂を育み続けていくこと。魂が成熟し、そこになる実が初めて、真に他者に役立つものであるということ。その点を絶えず忘れないようにしたい。今の自分は、とにかく魂を深め、成熟の歩みを続けていかなければならない。真に他者や社会に対して役に立とうと思うのであれば、その道を歩み続けるという精進を続けていく必要がある。青い実を落とさないようにすること。人々を喜ばす熟れた果実を実らせること。そのための努力は惜しまず、自分の全てを捧げながら、そうした果実を育んでいく。
分かることと覚醒すること。両者は実は密接不可分の関係にあるのかもしれない。何かが真に分かるというのは、いつもハッとさせられるような感情が伴うが、その瞬間には自己に覚醒が起こっているのだと思う。既存の自己の認識世界から離れること、すなわち覚醒によって初めて、ハッとした感情が伴う理解がやって来る。学術的な研究においても、いかなる実践においても、覚醒感が伴う理解の瞬間がやって来ることは興味深い。おそらく覚醒しない形での理解というのは、真に対象を分かるということを意味しないのだろう。そうした理解は、もはや理解とは言えず、単に情報が頭に入っただけである。真の理解には、身体的な感情を伴った覚醒感が必ず生じるのだ。それはすなわち、既存の自己から新たな自己への超越をもたらすものである。真の理解というのは、脱自的であり、超越的なものだったのだ。発達の原理を考えれば、そのように表現するのは至極妥当である。
死は死を考えさせてくれるのだろうか。ひょっとしたらそれはありえないのかもしれない。死は、自らを考えさせることを役割として持っているのではなく、陰陽の関係となる生を考えさせてくれるのだ。逆に、生は死とは何かを考えさせてくれる。死を通して死を見つめるのではなく、死を通して生を見つめること。生を通して死を見つめること。そうした対極的な方向性でお互いについて考えを深めていくこと。ここでいう考えは、実存的感覚かつ霊的感覚が伴ったものでなければならない。そのような感覚のない考えは、ちょっとした風で吹き飛ばされてしまう取るに足らないものなのだ。午前中が終わりに向かい、午後の時間がやってこようとしている。ここにもまた死と再生を見る。午前の時間が死ぬからこそ、午後の時間の生誕があるのだ。時間は死と再生を繰り返し、そうした時間の中で生きる自己もまた死と再生を繰り返しながら、魂を深める歩みを一歩一歩進めている。フローニンゲン:2022/5/28(土)11:04
8500. 贈り物としての死/運命/在ることと幸福
死というのは、決して忌み嫌うものではなく、生の重荷でもない。それは、生をより輝かせる贈り物なのだ。そのようなことを感じさせてくれる土曜日の朝の世界が広がっている。それはこちらに微笑みを投げかけ、生の素晴らしさを伝えている。ある瞬間が死に、消え、次の瞬間へバトンを渡している。そうした死と誕生の無限のプロセスの中に私たちはいる。自らの命は、そのようにしてしかるべく場所に運ばれていく。それを運命というのだろう。私たちの命は、しかるべき形で、しかるべき速度で、しかるべき場所に運ばれていく。その運ばれに寛ぎ、運ばれを受け入れること。それが運命を引き受けるということなのだろう。
人はそれぞれ自らの運命を生きながら、自らの歌と詩を読み上げている。そうした歌と詩の存在に気づき、それらに敬意を評しながらそれらを楽しむこと。そこに運命の交差と交流がある。人は誰しも、己の命の歌を歌い、詩を書いている。命はそのような芸術性を常に持っている。それは、私たちの命が絶えず新たな形を求めて運動を行なっているからに他ならない。生命が持つ無限の造形作用に改めて驚嘆する。自分の命にもそうした性質が当然ながら備わっている。それを絶えず育んでいくこと。それを通じて、命はしかるべき場所にしかるべき形と速度で運ばれていくのだ。
在るということが、即幸福を意味していることに気づいていただろうか。在ることそのものは極めて尊く、極めて幸せなことだったのだ。自己がこのようにして単に在るということ。そのシンプルな存在感覚こそが、幸福感の源泉だったのだ。この世界に在るということの奇跡。そして、その有り難さ。そうした気持ちが今、目の前の世界を満たす光のように自分の内側に満ち溢れている。フローニンゲン:2022/5/28(土)11:40
8501. 絶対無と絶対無を架ける虹の架け橋/傍観者的な態度が蔓延るこの現代社会の中で
ある1人の人間の生涯というのは、生というは、絶対無と絶対無の間の束の間の瞬間なのかもしれないと思う。あるいは、それは2つの絶対無を繋ぐ虹の架け橋のようなものなのかもしれない。だから私たちの生は、本来絶えず輝いているのである。生誕の前の絶対無と、死後の絶対無。それら2つの絶対無があるおかげで、生は無尽蔵の輝きを本来発する。その輝きを発露させるためには、2つの絶対無に対する理解と畏敬の念が必要なのかもしれない。それら2つの絶対無を無視したり、蔑ろにしたり、忌み嫌ったりすることは、生の輝きを減じてしまう。それら2つの存在を敬意を持って認識しなければ、生という虹の架け橋は生まれないのだ。生という虹の架け橋は、虹と同じく儚く消えていく。だが、それが確かにこの世界にあったということと、それが発した輝きは、消し去ることのできないものとしてこの世界に刻まれる。
時間という川の流れを外側から眺めるのではなく、川の中に入って戯れること。それが時間と一体化することであり、今というこの瞬間を真に深く味わうことである。川の外に立って傍観している人間に、川を楽しむことなどできるだろうか。それは不可能なのだ。川の外に立つのではなく、川の中に入って川と触れ合うこと。そして川そのものと化すこと。それが時間と溶け合って、今というこの瞬間を十全に楽しむことなのだ。傍観者的な態度が蔓延るこの現代社会の中で、そうした生き方はますます困難なものになってきている。だからこそ、そうした生き方を貫くような透徹した実存的態度が求められ、それを守り、育むことに尽力していかなければならない。さもなくば、この世界にますます生の喜びを喪失した傍観者が溢れてしまう。それだけは絶対に避けなければいけないことなのだ。そうした実存的·霊的規範意識が芽生える。そうしたものが芽生えるほどに、本来この生とは深く喜びや楽しさに満ちたものなのだということを実感する。フローニンゲン:2022/5/28(土)11:53
8502. 光の園で/死んで成ること/情熱と自己棄却/時との戯れ
自分の存在の内側に、一筋の光が通る。そうした光と共に生きることが、筋を通して生きるということなのかもしれない。土曜日のフローニンゲンの朝はすこぶる穏やかであり、無数の光の筋で満ち満ちている。存在1つ1つが持つ光が、巨大な光の園を作り上げている。そうした光の園で寛いでいるのが、自己という光の存在の権化である。
深い充実感と幸福感は、私たちに敬虔な気持ちにさせてくれる。そして、私たちを謙虚にしてくれる。こうした敬虔な気持ちと謙虚さを携えて生きること。それこそが、深い充実感と幸福感に包まれた生を生きるということだったのだ。
死んで成ること。絶えず、小さな自我を超えていき、より大きな自己に向かって歩みを進めること。矮小な自我が死んでいき、より利他的·包摂的な大きな自己に成っていくこと。それが人間発達の要諦である。
無関心が支配するこの現代社会において、様々なことに関心を示し、情熱を持って生きることは希少なものになっている。多様な関心事項に打ち込み、情熱を持って生きる人は、高く尊き存在に映る。何かに夢中になることは、人を高貴な存在にしていくのかもしれない。情熱が失われたこの現代社会において、絶えず情熱の灯火を灯して力強く生きたいと改めて思う。
自己は、自我の欲望を満たすためだけに必要なことを棄てていきながら絶えず発達を遂げていく。発達とは、そうした自己棄却的プロセスだったのだ。自己はそうした絶え間ない自己棄却を経て、ますます利他的な広く大きな存在になっていく。
時と戯れること。さすれば時間は豊かに有意義に過ぎていく。時と戯れることは、時間を深く味わい、豊かな時間と一体となることだったのだ。そのような形で、気がつけば土曜日の時間がゆっくりと進行していた。もう少し好きな本を読んでから、買い物に出かけよう。近所のオーガニックスーパーに行くことも、そこで食品を吟味することもまた、時間との戯れである。全ては遊戯の中で、充実感と至福さを伴って現れては消えていく。フローニンゲン:2022/5/28(土)14:32
8503. 高次元の欲望を希求すること/新自由主義的な風潮の中で
絶え間なく既存の自己を少しずつ超えていく自分を見たときに、その超越プロセスが無限に小さく進んでいる絵図を捉えることができる。すると自ずと、超越的なものについて思いを馳せざるをえず、それが神学探究に乗り出したことのきっかけの1つである。成長·発達を遂げていく自分の姿をつぶさに観察してみると、自然と神の存在を思わずにはいられない。自分の内側には、絶えず超越的な何かが内在しているのである。それが開かれていく様子も、それが無限に続く様子も、どちらも共に超越的な存在に近づいていく姿を映し出していて、神的な存在について考えざるをえなくなるのである。
欲望の否定ではなく、低次元の欲望を超えて含みながら、絶えず高次元の欲望を希求すること。利己的な欲望を超えて、利他的な欲望に基づいて行動をすること。欲望を無くすことのできない人間にとって、そうした在り方が重要だが、現代社会は低次元の欲望に私たちを押し留める。そして、無限に低次元の欲望を生み出させ、それを搾取する形で、欲望の肥大化を促している。自分の欲望を見つめ、その質を吟味すること。その次元を吟味しながら、欲望とうまく付き合い、より高次元の欲望へと低次元の欲望を昇華させていくこと。そうした個人的な試みが1人1人に強く求められる時代は今以上にないかもしれない。
午後のそよ風に、木々の葉が揺れている。今日は朝から風が吹いている。そよ風に揺れる木々の葉は、決して互いに競い合っていない。葉の揺れ具合いは、数値化されることも、金銭換算されることもない。翻って人間社会はどうだろう。競争と数値化が所与となった新自由主義的な風潮の中で、ありとあらゆるものが競争に晒され、金銭換算されてしまう存在に成り下がっている。教育しかり、人の命しかりである。それらは本来、決して競争や金銭換算されるようなものではなかったはずである。不要な競争と金銭化が、本来豊かであったものをますます貧困なものにしてしまっている。公共的なものを排除し、全てを私的なものにしようとする発想もまた新自由主義の中に内包されていて、それもまた社会の精神的貧困化を加速させている。私たちの心や精神というものは、私的空間だけではなく、公共空間があってこそ落ち着けるのである。公共空間があるからこそ、固有の私的空間が立ち現れ、公共空間がなければ、全てが混沌とした空間になってしまう。それは空間的な話だけではなく、当然時間にも当てはまるし、他の文化財やサービス全般にも当てはまる。社会から公共性が消えていくのは本当に怖いことである。全てが欲望に支配された私的なものに成り下がるのは、本当に地獄絵図である。公私を超えた自然の世界が、馬鹿げた方向に進む人間社会の有り様を心配している。そんな午後の世界が目の前に凛として佇んでいる。フローニンゲン:2022/5/28(土)15:21
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