No.3650 象徴の森_A Forest of Symbols
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1533, A Morning Lullaby
A morning lullaby soothes everything in the world.
The lullaby itself is being pacified by the calm world.
Groningen; 07:54, 5/19/2022
No. 1534, The Edge of the Universe
The limit of our imagination determines the edge of the universe.
If we have a limitless imagination, the universe is infinite.
Groningen; 16:13, 5/19/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8428. ELSAからの嬉しい返信
8429. スウェーデン旅行に向けて/今朝方の夢
8430. 真に自由な人/箏における和音の演奏
8431. 木を育てたい気持ち/魂の律動と作曲
8432. 深淵宇宙の扉としての音楽/「ことたま」
8433. 文化箏の再注文を終えて/予感/自分自身を読む読書
8434. 箏曲の作曲に向かう魂/辻邦生先生の『夏の砦』を読みたくなって
8428. ELSAからの嬉しい返信
時刻は午前6時半を迎えた。今、朝日が淡い輝きを放っている。昨日は随分と気温が上がり、2階の部屋の温度が随分上がっていた。ここから本格的に夏を迎えるにあたっては、こうした気温が上がる日にどのように室温を下げるのかについて考えておかなければならない。昨年のことを思い出すと、やはり窓を開けて風を通すことが一番良い方法だろうか。2階には3つの窓があり、普段は2つの窓しか開けていないが、夏場は3つ全てを開けて、風を通すことによって室内の気温を下げることを考えよう。
どうやら今日は、朝のこの瞬間は天気が良いが、午後から雷を伴う雨が降るようだ。ここ最近は連日天気が良かったので、それをかき消すかのような雨が降るのも理解できる。このように季節は、一進一退を行いながら徐々に変化していく。その様子は、人間の成長·発達プロセスと瓜二つである。
昨日、問い合わせていた件で、ELSAから早速返信があった。嬉しいことに、TOEFLやGREに関するコンテンツの制作と提供に前向きであり、自分の問い合わせをコンテンツ開発チームに伝えてもらえることになった。今のコンテンツも十分に魅力的だが、アメリカ留学を志す人や、アカデミックな英語の発話能力を高めたいと思う人にとって、TOEFLやGREのコンテンツが存在することは大変魅力的かと思う。自分もアカデミックな世界での英語の発話能力はまだまだ高めていきたいと思っているので、それらのコンテンツが拡充されれば、さらにELSAを使い込んでいきたい。AIを活用したこのアプリには今後も随分とお世話になるだろう。
今日の予定としては、午後に箏を注文したいと思う。昨夜の段階で注文をしてもいいかと思ったが、昨夜は夕食後にはELSAを使っていたり、昨日届いた和書を読んだりしていたので時間がなかった。今日の午後に時間を取って、すでに注文の品は決まっているが、他のラインナップも改めて眺めてみて、よく吟味した上で箏を購入したい。今回購入するのは、箏が民間でもっと普及できるようにコンパクトな大きさになった文化箏と呼ばれるものであり、大きさが半分になったものとは言え、価格はそれなりにするので、そう何度も購入できるようなものではない。なので、しっかりと吟味し、納得の行く文化箏を購入し、それを末長く使っていきたいと思う。フローニンゲン:2022/5/19(木)06:43
8429. スウェーデン旅行に向けて/今朝方の夢
小鳥たちが断続的に鳴き声を上げている。彼らの鳴き声に反応する魂。魂は、小鳥たちの鳴き声を刺激として、その鼓動を高めている。この時間帯はまだ天気が良いので、小鳥たちには思う存分鳴き声を上げて欲しいと思う。そうすれば、魂もまた喜ぶはずだから。
昨日、協働者の方からヨーテボリ旅行の件で連絡があった。シンガポール在住のその方は、今回息子さんと一緒にヨーテボリに来られる。ヨーテボリで開催されるサッカーの国際大会に参加するのがその目的だが、その前にアムステルダムに宿泊され、オランダの名門アヤックスのサマーキャンプに息子さんが参加されるとのことだった。自分がサッカーをしていた頃は、そうした国際大会に参加したり、海外の名門チームのサマーキャンプに参加したりするというのは非常にハードルが高いことだったように思う。それを考えると、今の子供たちは色々な機会に恵まれているのだなと思う。息子さんの試合を見るために、こちらも丸一日空けておこうと思うのだが、そもそも部外者が試合を観戦できるのかも確認しておきたい。事前に何か申し込みや登録が必要なのかを確認しておく。その返信を受けて、今週末か遅くても来週末にでも、7月のスウェーデン旅行の予約を済ませておきたい。今回は、マルメ、ヨーテボリ、ストックホルムと3つの都市に滞在する。すでにおおよその日程と行きたい場所は決まっているので、それぞれの都市での滞在日数を確定させた上で、アムステルダムからマルメ行きの航空券とストックホルムからアムステルダム行きの航空券、そしてホテルの予約を済ませておきたい。6月の旅の前に7月の旅の予約を完了させておこう。
昨日はいくつか印象に残る夢を見ていたが、今朝方の夢は落ち着いていた。覚えていることがあるとすれば、幼少時代に見ていた人気のアニメのキャラクターたちと一緒に、旅館の朝食会場でミーティングをしていたことである。そのミーティングを終えたら、みんなで一緒に朝食を摂ろうということになっており、自ずから全員ミーティングに気合いが入っていて、活発な意見交換ができた。そこでは、これからの武術のトレーニングメニューをどうするかが話し合われ、合宿の後半に弾みをつける有意義なミーティングとなった。そのような夢を見ていた。その他にも、小中高時代の友人の数名と話をしていた夢があったのを思い出す。そこではサッカーの練習について話し合っていただろうか。いずれにせよ、今朝方の夢は、自分以外の誰かと一緒にトレーニングをし、そのトレーニング内容を話し合うということが共通したテーマになっていたように思う。さて、この夢は何を暗示しているのだろうか。フローニンゲン:2022/5/19(木)06:59
8430. 真に自由な人/箏における和音の演奏
真に自由な人というのは、絶えず自己を変革し、自らの限界を絶えず超克し続けている人のことを指すのだろう。一時的に自己を縛る何かから解放されるのではなく、自己には絶えず新たな制約がのしかかり、また新たな制約が自己の内から発見されるのだから、絶えずそれらの制約を見出し、それらから自己を解放している人が真に自由な人なのだろう。
時刻はゆっくりと正午に向かっているが、今もなお小鳥たちが鳴き声を上げている。午前中に一瞬ばかり雨が降ったが、それは今はもう止んだ。空は薄い雲に覆われているが、それでも地上にはうっすらと光が差し込んでいる。光のカーテンは柔らく動いていて、今日の朝の世界も穏やかだ。夕方には雷を伴う雨が降るとのことだが、今の空の様子からはそれは信じられない。さて、夕方の世界はどのようになるだろうか。夕方の楽しみとしては、夕方の時間に箏を注文しようと思っている。仮にそのタイミングで雷に見舞われれば、雷神からの祝福だと受け止めよう。
昨日、箏の演奏に関して、和音をどのように演奏していくのかが気になったので調べてみた。どうやらピアノと同じく、和音も箏で演奏できるようだが、箏の方が指の可動性の可能性を生かせば、より豊かな響きの和音を奏でることができそうだということがわかって嬉しくなった。そもそも「和音」という名から分かるように、そこには日本的な何かを感じることができる。3つ以上の音が混ざり合って織りなす和音は、八百万の神的な精神と結びついているかもしれない。このあたりはとにかく箏の演奏を通じた実践によって明らかにしていこう。もちろん音楽理論や、雅楽の理論についても色々と学びたいが、まずは演奏という実践を通じて、音楽体験を豊かにしていきたい。箏の演奏は、自己変革のための重要な実践になるだろう。そんな予感がしている。フローニンゲン:2022/5/19(木)11:25
8431. 木を育てたい気持ち/魂の律動と作曲
時刻は午後2時半を迎え、空が随分と曇ってきた。まだ雷を伴う雨が降っていないが、確かにこの様子だともう少し雲が濃くなり、雨が降って来るかもしれない。そんな予感がある。
午前中にふと、自分の人生と共に歩む木を植えたいということを思った。それはとっさの思いつきなのだが、木を育てながら自己を育む将来の自分の姿がふと知覚された。まるで目の前の木が自分であるかのように、植物を育てたいという思いがやって来たのである。木を植え、木を育てるとなると、それなりの場所と準備が必要そうだが、いつか木を育てられるような家に住むような予感がする。もちろん、今の家の庭でも十分に木を育てることができる。オーナー夫妻もそれを歓迎しているが、自分がちゃんと面倒を見る必要から、今は木を植えるようなことはしていない。頻繁に旅行に出かけているために、木の世話がちゃんとできるか心配だったのだ。とは言え、オーナー夫妻にせよ、隣人のマークとサハルにせよ、自分が植えた植物にも合わせて水をやってくれるような人たちなので、どこかのタイミングで木を育てみるのもいいかもしれない。オーナーもいくつか木を育てていて、りんごの木を育てているのはユニークだ。実際にそれは果実をつけ、果物の木はそれを育てる楽しみだけではなく、実りを享受させてもらう楽しみもあるようだ。
その他にも、箏と神道との関係、その歴史を調べてみようということを午前中に思った。まず簡単に今からインターネット上でそれについて調べてみよう。詳細な学術書や論文を読むのはそれからだ。箏への関心は日増しに高まっていく。昨日注文できなかった箏は、後ほど時間を取って注文しようと思う。箏が到着したら、それを演奏しながら作曲をしていく楽しみがある。即興演奏をしながら、そこで見出された自分なりの音をつなぎ合わせて、1つの曲にしていこう。あるいは曲全体として降って来たものがあれば、それをちゃんと記譜しておきたい。音を通じて時間と空間を造形していく楽しみが作曲にはある。その造形的楽しみは、おそらく他の芸術表現にはないだろう。時間と空間の結晶として生み出される音楽は、自分の魂の喜びを通じて生み出されるものであり、魂が通過した道の跡でもある。魂の律動が形になったものが曲なのだ。箏を通じて、自分の音楽生活がさらに充実しそうである。これまでも細々と毎日曲を作って来たが、実際に楽器を演奏するとなると、音楽生活はきっと彩り豊かなものになり、さらに深いものになっていくだろう。これまで購入した音楽理論や和声理論に関する数々の書籍は、箏曲の作曲を補完する上で大きな役割を果たしてくれるだろう。また、音楽哲学や音楽美学に関する書籍は、作曲家としての自己と演奏家としての自己をさらに深めてくれるなくてはならない養分にこれからなっていく。そんな嬉しい予感がする。フローニンゲン:2022/5/19(木)14:38
8432. 深淵宇宙の扉としての音楽/「ことたま」
数学と音楽でしか開示されない宇宙の姿について探究をしなければならない。数学と音楽の深い関係についても是非とも探究を進めたいものである。その際に、数学を応用した現代音楽のアプローチのような形ではなく、もっと哲学的に、もっと神学的に、もっと霊学的にそれらの関係性を紐解きたい。音楽というのは、やはりどこまでも深淵である。自分にとっては、音楽こそが深淵な宇宙への最良の扉であり、最良の道なのかもしれない。音楽を通じた学術探究と、作曲と演奏を通じた実践道を歩んでいく。そんなことを考えていると、空が一気に暗くなり、雨が降り始めた。雷がやって来るのも間も無くかもしれない。雨雲が不思議と明るく見える。今の自分の心象風景を投影することによって、そのような感じがするのかもしれない。音楽のおかげで、いつも心は輝きに満たされている。魂の哀しみや苦難について表現したはずの曲でさえ、深層的な輝きに満ちているものに知覚される。そうした曲でさえも、魂の哀しみや苦難の先にある喜びを見出す対象になっているのかもしれない。そもそも、曲という形で誕生したものの中に生誕の喜びを感じるのだ。どんなに絶望的な曲でも、そうした曲がこの宇宙で生まれたことそのものが尊く、愛おしく感じるのである。それは深い慈愛と言えるだろうか。絶望でさえも慈悲の心で包むことができ、慈愛の対象になるようなのだ。それはつくづく驚くべきことである。
昼前に、いくつか重要な気づきがやって来た。1つは、この一連の日記は、言葉による作曲実践であることに、雷鳴を撃たれたかのように突然気付いたことである。言葉によって音楽を奏で、それを形にしているのがこの日記なのだ。言葉は音楽だったのだ。そして、音楽は言葉だったのだ。それは自然言語的な意味での言葉ではなく、魂に関する言葉である。昨夜、多田雄三著『言霊の幸』という本をベッドの上で読んでいると、興味深い記述に出会った。「言霊」は本来、「ことだま」と濁音で読むのではなく、「ことたま」と清音で読むものだったそうだ。濁音には悪魔的なものが含まれていて、清音には天使的なものが含まれている。「ことたま」と清音で発して初めて、神の深い力を享受することができる。日記を綴る際にも、そのような力に預からせてもらいたいものだ。ここからの日記は、「ことたま」の滲んだものになる。そんな展望的予感がある。フローニンゲン:2022/5/19(木)14:56
数学と音楽でしか開示されない宇宙の姿について探究をしなければならない。数学と音楽の深い関係についても是非とも探究を進めたいものである。その際に、数学を応用した現代音楽のアプローチのような形ではなく、もっと哲学的に、もっと神学的に、もっと霊学的にそれらの関係性を紐解きたい。音楽というのは、やはりどこまでも深淵である。自分にとっては、音楽こそが深淵な宇宙への最良の扉であり、最良の道なのかもしれない。音楽を通じた学術探究と、作曲と演奏を通じた実践道を歩んでいく。そんなことを考えていると、空が一気に暗くなり、雨が降り始めた。雷がやって来るのも間も無くかもしれない。雨雲が不思議と明るく見える。今の自分の心象風景を投影することによって、そのような感じがするのかもしれない。音楽のおかげで、いつも心は輝きに満たされている。魂の哀しみや苦難について表現したはずの曲でさえ、深層的な輝きに満ちているものに知覚される。そうした曲でさえも、魂の哀しみや苦難の先にある喜びを見出す対象になっているのかもしれない。そもそも、曲という形で誕生したものの中に生誕の喜びを感じるのだ。どんなに絶望的な曲でも、そうした曲がこの宇宙で生まれたことそのものが尊く、愛おしく感じるのである。それは深い慈愛と言えるだろうか。絶望でさえも慈悲の心で包むことができ、慈愛の対象になるようなのだ。それはつくづく驚くべきことである。
昼前に、いくつか重要な気づきがやって来た。1つは、この一連の日記は、言葉による作曲実践であることに、雷鳴を撃たれたかのように突然気付いたことである。言葉によって音楽を奏で、それを形にしているのがこの日記なのだ。言葉は音楽だったのだ。そして、音楽は言葉だったのだ。それは自然言語的な意味での言葉ではなく、魂に関する言葉である。昨夜、多田雄三著『言霊の幸』という本をベッドの上で読んでいると、興味深い記述に出会った。「言霊」は本来、「ことだま」と濁音で読むのではなく、「ことたま」と清音で読むものだったそうだ。濁音には悪魔的なものが含まれていて、清音には天使的なものが含まれている。「ことたま」と清音で発して初めて、神の深い力を享受することができる。日記を綴る際にも、そのような力に預からせてもらいたいものだ。ここからの日記は、「ことたま」の滲んだものになる。そんな展望的予感がある。フローニンゲン:2022/5/19(木)14:56
8433. 文化箏の再注文を終えて/予感/自分自身を読む読書
激しい音ではなく、小さい音を伴った雷が落ちて来た。それに伴って、雨がシトシトと滴り落ちている。そんな様子を眺めながら、先ほど 文化箏の再注文を終えた。以前注文した際には、アマゾンを経由して「文化箏羽衣ソフトケースセット」の注文をしたのだが、それをすぐに注文したのは、早く箏が弾きたいからであり、在庫があるようだったからだ。ところが、注文後に在庫切れであるという表示に変わり、それであれば、本当はソフトケースではなく、立柱ケースの方が見た目もお洒落であり、箏の持ち運びや保管においても安全かと思い、注文を一度キャンセルした。そしてそこからさらに吟味したところ、「羽衣」よりも一つ格上の「文化箏上級立柱ケース仕様」を今回注文することにした。こちらも在庫が不足している状態だが、当初から欲しかった立柱ケースにし、一つ格上の箏を注文できたことに喜びを感じる。あとは気ままに在庫が補充され、その到着を待とうと思う。成長や発達において待つことが重要なのと同じく、こうしたところでも待つことを大切にしたい。待つ時間が長ければ長いほどに、それがやって来たときの喜びは大きくなるだろう。長い冬が明けて、春がようやくやって来た喜びと同じである。
ここ最近は、直観的な予感が降りて来ることが多い。今日の日記の中でも、何度かすでに予感に関する記述を残している。こうした直観的な予感が到来するのも、自分の変容の1つの結果なのかもしれないと思う。ここから変容の歩みを継続していけばいくだけ、直観的な予感はより明瞭な形を伴い、そして予感は実際のものとしてこの現実世界に姿を現すだろう。
ここから夕食までの時間を使って、マネー神学に関する書籍を読み進めていこうと思う。フィリップ·グッドチャイルドの力作の再読を昨日から始めており、今夜もその続きに取り掛かる。書物を読むというのは、結局のところ、自分自身を読むということだったのだ。絶えず自分自身を読むことを通じて、知性はより逞しいものに変貌していく。読書を通じて自分自身を読み解きながら、知性と自己の双方の涵養を進めていきたいものだ。フローニンゲン:2022/5/19(木)16:08
8434. 箏曲の作曲に向かう魂/辻邦生先生の『夏の砦』を読みたくなって
午後の雷を伴う雨はもう止み、穏やかな夕方の世界が広がっている。時刻は午後8時を迎えたが、まだまだ明るいこの時間帯を夜と表現することはやはりできず、夕方と表現するのがふさわしい。
振り返ってみると、今日もまた非常に充実した1日を過ごしていた。創作活動と読書、そしてジークンドーの鍛錬をしながら1日が過ぎていった。ここからは、ここに箏の演奏が加わる。本日改めて注文した文化箏の到着を首を長くして待とう。
午後に、短い詩のような、俳句のような箏曲を大量に作っていきたいという内在欲求が湧き上がって来た。それを実現させる日は近く、箏が届けられたら、本格的にその創作活動を始めていく。既存の曲に対する箏の演奏練習をしながら、同時に、自分の内側に生じている感覚に基づいて即興的に演奏をし、それを記譜する形で曲作りをしていきたい。そこに向けた学習と実践は惜しまない。そんな心積りでいる。
夕方に、辻邦生先生の『夏の砦』という名作を改めて読みたいと思った。それは実家にあり、この秋の一時帰国の際には、実家に滞在中にこの作品を最初から最後まで味読したいと思う。この力作は、日本人が西洋と出会い、西洋との出会いを通じて生きるとは何か、美とは何かを見出していく姿を描いている。それは、今このようにして西洋社会で生きる自分にとって響くものであるし、また新しい洞察をもたらしてくれるに違いない。何よりも、この世と生を謳歌する活力を与えてくれるに違いない。辻先生の作品に思いを馳せていると、ふと、過去に購入した画集を無性に眺めたくなった。同様に、過去に購入した詩集を無性に読みたくなった。そのため、オディロン·ルドン、ラファエロ、レオナルド·ダ·ヴィンチの画集を1階の書籍置き場から引っ張り出して来た。また、詩集に関しては、2階の本棚から引っ張り出して来た。画集や詩集に没入したいというのは、魂の要求なのだろう。そして、それは内からの促しなのだ。画集や詩集と共に日々を形作り、それらを味わう日々をこれから過ごしていこうと思う。日々は、過去の偉人が残してくれた魂の結晶化された芸術作品と自然と共にある。フローニンゲン:2022/5/19(木)20:27
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