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8413-8420: フローニンゲンからの便り 2022年5月17日(火)



No.3649 夕方の微笑み_A Smile of the Evening


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1529, The Morning Sun

The morning sun is smiling very much.

It gives tremendous life energy to the earth.

Groningen; 09:13, 5/17/2022


No.1530, My Existence in Another Universe

I’m in this universe.

Who am I in another universe?

Groningen; 19:48, 5/17/2022


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本日の3曲


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楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8413. 樹木葬について思うこと

8414. ニッサン・インゲル先生に関する夢

8415. 不気味な光景を目撃する夢

8416. 今朝方の夢の続き

8417. 時の歩みと共に/文学的性質を増す日記

8418. 魂の交通整理

8419. 変化と存在/集合的な無意識の対象化

8420. 夏を感じさせる一日に


8413. 樹木葬について思うこと


見事な光に包まれた朝の世界。地上が光に満ち満ちていて、早朝から輝く世界の中に入れることに至福さを覚える。日が昇るのが随分と早くなり、このところは起床する頃には随分と明るい。フローニンゲンは春を飛び越えて、初夏の様相を呈している。気温としてはまだまだ春のそれだが、生命の感じと太陽の力強さが初夏のそれを思わせる。確かに、いつの間にかもう5月の半ばを迎えていたのだから、そのように感じるのも無理はない。書斎の窓から外を眺めてみると、改めて色々な種類の木々があることに気づく。それらはどれも濃く鮮やかな緑に彩られているが、変わった花をつけているものもあり、種類は豊富だ。書斎の窓のすぐそばに咲いている木は、濃い緑というよりも薄緑と言ったほうが正確かもしれない。その木は確か、オーナー夫妻が思い入れのあるものだと言っていた。その木の葉っぱは小さく、とても可愛らしい。時々、小鳥がそこにやって来て、休んでいることもある。その光景はとても微笑ましい。


昨夜から、ルートリッジ出版から出ている“Japanese Tree Burial: Ecology, Kinship and the Culture of Death”という書籍を読み始めた。本書は、日本での樹木葬を文化人類学的な観点から取り上げたものである。日本人の死生観について関心を持ち、関連書籍を調べている中で本書と出会った。お墓を建てるのではなく、樹のそばで埋葬される樹木葬は日本でも近年増えて来ているらしく、そのあたりの理由についても知りたいと思った。以前母から、桜の下に埋葬される桜葬について聞いたことがあり、それもまた樹木葬の一例である。街の中の墓地に埋葬されるより、個人的には山の中で自然に帰り、樹木葬される方が有り難いように思えた。墓石のように人工的なものを建て、人工的な環境の中で眠るより、本来自然から生まれ、自然に帰ることを人間の一生の本質だとすると、樹木葬の方がその本質に適っていると思ったのである。本書に掲載されていた樹木葬の写真を見ると、埋葬された人の名前が木のプレートに書かれるだけのシンプルな点も好感を持った。また、先祖の墓参りをする際にも、墓石と祖先を結びつけるよりも、植えられた木と祖先を結びつける方が、自然と人間が一体であるという認識を涵養することにもつながるのではないかと思ったのである。環境問題への関心が薄いというのは、自然への無関心、そして自然と人間が完全に別のものであるという認識に起因している部分も多いかと思う。亡くなった人が山の中の木と共にあり続けているという認識を育むことは、エコロジー問題に取り組む際の基礎的な認識になり得ないだろうか。そのようなことを考えながら本書を読み進めていた。今日は本書の続きを読み、そのあたりの自分の問題意識をさらに育み、考えを深めていけたらと思う。自分はどこの山のどんな木の下で眠ろうか。ひょっとしたら山である必要はなく、何かの木の下で眠れたらそれでいいのかもしれないとも思う。フローニンゲン:2022/5/17(火)07:04


8414. ニッサン・インゲル先生に関する夢


朝の世界は輝くことをやめはしない。光に満ち満ちた世界の中にいる至福さが全身を包んでいる。光というのはこうも有り難いものだったのだ。種々の深い闇で覆われた現代社会に光を照らすこと。それはきっと自分が果たさなければならない大きな役割の1つだ。享受した光は返礼しなければならない。世界から受け取った光は世界に返すのである。世界の一部であるこの現代社会に光を照らす試みに心血を注いでいこう。そのようなことを思わせてくれる光に満ちた朝の世界の中にいる。


今朝方の夢が静かに思い出されて来た。夢の中で私は、外国の見慣れない浜辺にいた。そこでとある日本人の有名な女優に声を掛けられた。彼女と私は知り合いであり、彼女は私よりも干支が1つ違うぐらい年上で、年齢差はあるが仲が良かった。彼女は1人で浜辺を散歩していて、私も1人で浜辺でくつろいでいたので、せっかくだから2人で一緒に散歩をし、その後に食事を一緒にすることになった。その誘いは彼女の方から受け、特に断る理由もなく、むしろ彼女と過ごす時間は自分にとっても楽しかったので、快諾をした。しばらく浜辺を歩いていると、そこである有名な実業家の男性と出会った。彼女とその男性は知り合いであり、実は私もその男性とは知り合いだった。その男性は彼女のことを下の名前で呼び、その男性の態度を見ていると、2人は付き合っているのかと思った。2人は日本では非常に有名なので、もし付き合っているということが判明したら、色々と面倒なことになるだろうなと思い、今いる日本ではないこの国では、2人は気にせずに恋人同士の関係でいられるのだろうと思った。せっかくなので彼も含めて食事をすることになった。レストランに到着すると、彼女はおもむろに壁に近寄って行った。壁の方を見ると、小さな絵が掛けられていて、彼女はその作品を見ているようだった。私も絵画が好きなので、壁の方に近寄ってみると、どこかで見たことの絵だった。すると、男性の知人もその絵に近寄って来て、「あぁ、インゲル先生の作品か。やっぱりいいね」と述べた。私は一瞬耳を疑った。というのも、私もニッサン·インゲル先生の作品が好きであり、彼がまさかインゲル先生のことを知っているとは思わなかったからである。


私:「えっ、インゲル先生のことを知ってるんですか?」

男性:「うん、まぁね。というか、原画を持ってるよ」

私:「え~、そうなんですか!実は自分も原画を持ってるんですよ」


そのようなやり取りをし、自分が持っている原画を今度彼に見せることになった。彼を自宅に呼ぶか、彼のところに原画を持っていく形で、自分が所有しているお気に入りの作品を彼に見せる約束をした。彼がインゲル先生のことを知っていて、原画を持っているぐらいにインゲル先生の作品が好きだということに嬉しくなり、強い共感をしたので思わず手を差し出し、握手を求めた。彼は少し恥ずかしそうにしながらも、握手をしてくれた。そのような夢の場面があった。フローニンゲン:2022/5/17(火)07:22


8415. 不気味な光景を目撃する夢


時刻は午前7時半を迎えようとしているが、引き続き穏やかな朝の世界が広がっている。そよ風も清々しく、木々の葉が風に揺られて気持ち良さそうだ。葉が風に揺られてダンスを踊ると、葉を照らす光もまたダンスを踊っているかのようだ。


先ほど、今朝方の夢を振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるので、それについても振り返っておきたい。夢の中で私は、小中学校時代の親友(KF)と一緒に畑道を自転車で2人乗りをして走っていた。最初私は、彼が足をつけながらゆっくり運転する自転車の脇を歩いていて、しばらくして後ろの荷台に乗せてもらう形で2人乗りを始めた。最初のうちはうまく運転できていたのだが、途中から彼の運転がおかしくなり、どうも右の方向に偏る形で自転車が進んでいった。畑の横の道をはみ出してしまうと、畑に落ちてしまう危険性もあったので、大丈夫かと心配していたところ、心配も無用なほどに彼の運転はひどくなり、畑の道を外れて、車が走る道の方に出て行った。すると不思議なことに、そこからは彼もまっすぐ運転ができるようになった。しばらく自転車を走らせていると、サッカー場に出会した。そこでふと、そういえば今日は自分が所属する少年サッカーチームの試合があることを思い出したのである。会場のフェンスの近くに、自分とは違うチームに所属している知り合いがいて、彼に声を掛けた。彼はどうやらフェンス越しに、中で行われている試合を見ているようだった。まだ朝が早かったので、これから他のチームが集まって来るだろうと思った。自分のチームの初戦は正午からだったので、まだ時間があると思い、朝食を今から摂って、エネルギーを補給しておこうと思った。自転車を運転してくれていた友人はいつの間にか消えていて、そこからは会場にいるチームメイトを探そうと思った。すると、会場の受付からトロッコ列車に乗れるらしく、それに乗って控え室を兼ねた建物に移動することができるそうだった。早速トロッコ列車に乗って、目的の建物に向かった。すると、最初こそ順調な形で出発したが、途中からトロッコ列車に異変が生じ、再び元いた受付のところに戻って来てしまった。なぜそのようなことが起こったのか不明であり、列車は係員を乗せて、原因の調査を兼ねてもう一度出発した。すると、途中で何か変な音がし、列車はそこで止まった。ちょうどトンネルから抜けた場所で列車は立ち往生し、2人の係員は列車の下を調べた。すると、線路の下に人間の死体が挟まっていることがわかったのである。それを知った時、私は少し恐ろしくなった。また、2人の係員が死体を回収するところを目撃してしまい、バラバラになって血で真っ赤に染まった肉片が気持ち悪く、めまいがしそうであった。幸か不幸か、死体の顔は見えず、もし顔が見えたらまた何か情が移ってしまいそうだったので、それだけは助かった。死体が回収された後、トロッコ列車は再び何事もなかったかのように動き始め、目的地である控室のある建物に到着した。列車から降りた時、改めて先ほどの死体について思い出してしまった。そして、2人の係員がまるで何事もなかったかのように平然と死体を片付けている姿も強く印象に残っており、それもまた奇妙かつ不気味に思えた。フローニンゲン:2022/5/17(火)07:39


8416. 今朝方の夢の続き


小鳥たちの鳴き声が耳に大変心地良い。彼らの歌声に癒されながら、静かな朝の時間がゆっくりと進行していく。自分はそよ風と化し、朝日と化し、小鳥の鳴き声と化す。世界と自己が融即しているのがわかる。


時刻は午前9時を迎え、起床してしばらく経ったが、今朝方の夢の続きを思い出した。夢の中で私は、少年サッカー大会に出場することになっていて、トロッコ列車に乗って控え室のある場所に到着したことについて書き留めていたように思う。そこからの続きがまだある。私は控室で、小中高時代の友人(AF)と会い、彼もちょうど朝食を食べようとしていたので、一緒に建物内にあるレストランに向かおうとした。その際に、どういうわけか中東の話となった。自分の脳裏に中東諸国の地図が浮かび上がり、まるで自分がそれらの国にいるかのように鮮明なイメージが見えた。そこは現実の地理とは少し違っていて、中東の10か国、あるいは数え方によっては13か国が、ある大きな川に沿って縦に並んでいた。彼らは川の水の利権をめぐって絶えず争いを続けていて、それらの国々はいつも戦争状態だった。私はある1つの国にいて、川の辺りの景色を眺めていた。そこはとても長閑であり、絶えず戦争状態にあるような国には決して思えなかった。しかし、しばらくして、遠くの空に陰りが見え、何か不穏な感じがした。それはこれからやって来る戦争を暗示しているように思えたのである。私はその場に佇んで、今目の前に見えている長閑な景色が戦争で破壊されてしまうことをひどく憂いた。


すると、そこでハッとして、意識が再び友人との会話に向かった。彼とレストランで朝食を摂ろうとすると、また別の友人(SN)が合流して来た。彼はいつもチームでゴールキーパーを務めていて、今日も彼に守護神になってもらおうと思った。ところが、彼は今日は別のポジションで出場したいと述べ始めたのである。私は監督ではないが、監督に意見を伝える立場でもあり、また自分の意見は往々にして通ったので、彼の思いをまず聞いてみることにした。彼の話を聞いた後、確かに彼の体格と身体能力を考えれば、フィールドで彼に活躍してもらう方がいいかと思い、彼が望むポジションで試合に出場してもらうことになった。彼とのやり取りを終えると、自分の目の前には小中高時代の女性友達(NI)がいて、彼女は応援に来てくれたようだった。彼女もちょうど朝食を摂ろうとしていたので、そこにいる2人の友人を含め、一緒に食事を楽しむことにした。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/5/17(火)09:29

8417. 時の歩みと共に/文学的性質を増す日記


今熱心に探究と実践を進めているものは、しかるべき時間をかけて発酵されていく。そして、しかるべき形となっていつか姿を現すだろう。探究も実践もゆっくりと進めながら、同時に、それらをじっくり発酵させる時間も必要となる。このように、探究も実践も一朝一夕にいくようなものでは決してなく、しかるべき時間が必要なのだ。焦ることなく、絶えず今を注視し、今を通じて探究と実践を継続していけば、時間はきっと応えてくれる。時間に寛ぎ、時間と共に歩みを進めていけば、その報いを必ず受ける。そんな展望が自ずと開かれて来る。おそらく自己が実現するというのはそういうことなのだろう。しかるべき探究と実践をしかるべき時間をかけて行い、しかるべき時間に寝かせることによって、自然と総発して来るそれこそが自己実現なのだ。


絶えず世界に開かれていること。そして、絶えず新しい感覚に開かれていること。そうした開かれた態度もまた自己実現には不可欠だ。探究と実践が健全に発酵されていくためには、しかるべき刺激と養分が必要になる。世界に開かれ、新しい感覚が入って来ることは、発酵に不可欠な刺激と養分になる。それらがあって初めて健全な発酵過程が進展し、自己実現が実現されていく。世界に絶えず開かれ、新たな感覚を求めていくこと。それを忘れないようにしたい。


一連の日記の文学的性質が増していく。おそらく自己というものを深く理解するときに、学術的な客観記述には限界があるのだ。そもそも主観的な自己というものを客観的文章記述で把握しようとすることが原理的に不可能なのだ。そうしたことから、日記を通じて自己を探究し、紐解いていく試みにおいて、その文章形態が文学的な様相を帯びるというのは至極当たり前のことだったのだ。これからも絶えず私的な文学作品を執筆するかのように、この世界で唯一無二のこの自己が経験する冒険の一部始終をつぶさに書き留めていきたいと思う。フローニンゲン:2022/5/17(火)10:46


8418. 魂の交通整理


このようにして毎日日記を綴ることや、内側から形になることを望んでいるものを創作活動を通じて表現していくことは、魂の歩みの交通整理になる。現代は、人間の魂の歩みを阻害するもので埋め尽くされていて、自己の魂が健全な足取りで歩むことはますます困難になっている。魂の通る道には、障害物やガラクタが山のように散乱していて、自己はそれを整理していく必要に迫られている。自分にとって、そうした整理の役割を果たすのが、日記の執筆と創作活動のようだ。こうした表現活動に絶えず従事していると、魂の歩む道はみるみるうちに綺麗になっていく。すると、魂は展望晴れやかに力強い足取りでその道を進んでいく。魂には方向性があり、その方向性を阻害させないこと。現代社会は、絶えずその方向性を曲げるような働きかけをして来る。そもそも魂の方向性は、各人様々であるにもかかわらず、現代社会はとにかく標準化を至る所で強いてくる。世に出回る製品にせよ、サービスにせよ、教育にせよ、標準化の波は激しい。そうした標準化の波に飲まれてしまうと、魂は本来の方向性を見失い、彷徨ってしまう。行く当ての無い魂は、どんどん活力を失ってしまう。現代人の魂の力が弱体化しているのは、そうした事情によるところが大きいだろう。いずれにせよ、魂が求める方向性を邪魔しないことが重要であって、魂が求める方向性は自己の生命エネルギーの流れの方向性と一致している。この流れを妨げず、障害物を取り除きながら流れを促進する役割を果たしているのが、自分にとって日記の執筆や創作活動なのだ。


内側にある感覚·感性の塊が、純化され、そして経験の層を経て形になって現れて来る。そこにその人の固有性を見る。自分の創作物もそのような形で生まれてくる。自分らしさはそこに滲み出している。逆に言えば、そのような過程を経ないものは、自分らしさが欠如したものになる。感覚·感性の塊が純化を経て外に生み出される際に通る経験の層こそ、魂の層だと言えるだろうか。そうした層を経るから、形となって生まれたものに固有性を見て取るのかも知れない。何せ魂は、固有性の塊の輝きなのだから。フローニンゲン:2022/5/17(火)10:59


8419. 変化と存在/集合的な無意識の対象化


存在が絶えず変化していくというよりも、存在そのものは悠久的な不変であって、存在は絶えま無い変化を通り抜けているような感覚がある。これまでは存在が変化すると認識していたが、今降って来た直観的なビジョンと感覚は、そうではなく、存在が無限に変化していく立体的な層を通り抜けていく姿を提示していた。存在は、そうした変化の中に絶えずあるものだと言えるかもしれない。存在は変化せず、存在は変化していく空間をゆっくりと通り過ぎていき、変化を味わう主体として存在しているのかもしれない。時間の進行と共に景観を変える変化の旅をしている主体。それこそが自己という存在なのかもしれない。


集合的な無意識の領域で進展している諸々の事柄を意識化し、それを形にしていくこと。学術論文の執筆も、日記の執筆も、創作活動も、全てそれにつながるものとしてある。それが自分の仕事なのだ。集合規模で無意識になっている事柄を意識化し、形にすることによって、集合的無意識に癒しと変容をもたらすこと。それは言うは易し行うは難しである。だが、どんなに困難であってもそれに従事し続け、自分の任務を継続していくことに乗り出している自己がいる。


時刻は午後1時を迎えた。引き続き太陽が燦然と輝き、そよ風がダンスを踊りながら世界を優しく駆け抜けている。振り返ってみると、午前中の探究活動、実践活動、創作活動の全てが充実していた。この三位一体の活動を絶えず充実したものにしていくこと。新たな目と新たな感覚でそれらに従事すると、世界を見る目も、世界を感じる感覚もまた刷新されていく。そして、深く力強い充実感が内側から自然と溢れて来る。この充実感に乗っていれば、至福さと化すことできる。こうした形で日々を形作っていくこと。それをこれからも継続させていく。


今からもう少しばかりELSAを使って英語の発話能力の鍛錬をし、そこから仮眠を少々取りたい。仮眠から目覚めたら、ジョギングがてらジムに行き、トレーニングに励む。今日も集中してジークンドーの鍛錬を行いたい。良い汗をかいたら、さらにサウナで良い汗をかきたいと思う。当初の予定では、本日中に近くのおもちゃ屋に川面凡児に関する書籍が届くことになっている。サウナから上がって、メールをチェックし、その通知が来ていないかを確認しよう。無事に配達されているようであれば、ジムからの帰りにおもちゃ屋に立ち寄り、その足で近所のスーパーに行く。こうした些細なことに思えるような事柄も、自分の人生を彩る1つの重要な出来事であり、そこに楽しみと喜びの芽があることを知っている。フローニンゲン:2022/5/17(火)13:08


8420. 夏を感じさせる一日に


時刻は午後4時を迎えた。今日は本当に良い天気であり、気温は25度近くになって夏を感じさせるような日だった。昨夜小雨が降ったことにより、湿度も上がっていたのか、体感温度はとても温かった。街ゆく人たちはほぼ全員半袖だったように思う。午後にジムに行く際に、いつものようにジョギングをしていたのだが、今日はジムに着く頃には汗が滲んでいた。ジムの鏡のある部屋はいつもひんやりしているのだが、それでも今日は、ジークンドーの鍛錬をしていると、自然と発汗した。そこからサウナに入って、サウナから出て涼んでいても汗が滲むほどであり、今日は本当に暖かさを感じることができた1日だった。


先ほど、『川面凡児伝』を受け取り、明日は晴れるようなので、近所のおもちゃ屋に行って『言霊の幸』を受け取りたいと思う。ちょうど自宅に戻った際に、郵便局から書籍がおもちゃ屋に届いたという連絡を入れ違いの連絡を受けた。今日受け取れたら一番良かったが、明日も散歩がてら外出し、書籍を受け取り、昨夜切れた電球を買いに行こうと思う。


これで川面凡児全集以外の書籍は全て受け取ったことになるが、文化箏の到着はまだだ。確認したところ、在庫がどうやら切れているらしく、在庫が補充されるのも未定とのことだったので、一旦注文をキャンセルした。注文した際にはすぐにでも文化箏が欲しかったので、ソフトケースのモデルを注文したのだが、実際には立柱ケースの方がお洒落であり、保管にも便利なので、そちらの在庫が補充されるのを待って改めて注文することにした。その際には、全音の羽衣モデルではなく、一つ格上の上級モデルの立柱ケース付きのものを購入してもいいかもしれない。立柱ケースはデザインと色が自分の好みと合っているし、今後持ち運びをする際にも大切な箏を傷つける心配がないように思える。確かにすぐにでも箏の演奏を始めたいところだが、これも何かの運命かと思い、自分の欲しいモデルの在庫が補充されるのを気ままに待とう。その間にも他の研究と実践を進めていき、いざ箏が届いたら、箏の演奏に注力すればいい。楽しみが実現するよりも、待っている状態が一番幸せなのかも知れない。フローニンゲン:2022/5/17(火)16:37

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