No.3637 静かな霊_A Silent Spirit
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1512, Soul-Dependent Reality
Is our reality mind-dependent?
It could be.
Yet, more preciously, it is soul-dependent.
Groningen; 09:14, 5/12/2022
No.1513, A Gentle Morning Soul
A gentle morning soul is whispering.
It resonates with a little bird’s song.
Both are dancing together happily and joyfully.
Groningen; 09:16, 5/12/2022
No.1514, The Need to Re-Enchant Our World
Our world has been demystified in the era of enlightenment.
Yet, I believe that we need to re-enchant our world to restore the spiritual dimensions of our reality.
It should not be done in a regressive way but should be done in a progressive and evolutionary way.
Groningen; 11:16, 5/12/2022
No.1515, A Dialectical Process
Everything occurring within me has a dialectical process.
Even this writing has it.
It’s a tapestry of negation and emergence.
Groningen; 11:31, 5/12/2022
No.1516, The Cosmic Ground
Whenever I show my creativity and spontaneity, I can rest on the cosmic ground.
The place is indefinably peaceful and heavenly.
Groningen; 11:35, 5/12/2022
No.1517, Geometric Patterns and Shapes
I don’t know why, but geometric patterns and shapes capture me very strongly.
They have spiritual energy and gravity.
Groningen; 16:56, 5/12/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8376. 静かに進行する探究
8377. ヒルマ·アフ·クリントの画集を眺めて
8378. ロイ・バスカーの批判的実在論/7月のスウェーデン旅行の計画
8379. 今朝方の夢
8380. 夢を見つつ目覚めていること・目覚めつつ夢を見ること
8381. ヒルマ·アフ·クリントの世界に触れて/ジークンドートレーニング105:虚実の生成
8382. 拝むことの本質/7月のスウェーデン旅行の計画を変更して
8376. 静かに進行する探究
雲ひとつない見事な空が広がっている。朝日が燦然と照り輝いていて、地上はすこぶる明るい。申し分のない光の世界が目の前に広がっている。朝日を眺めていると、太陽神である天照大神を思い出す。この神が女神であることは大変興味深い。皇祖神が女性であるということの意味をもう少し考えたいと思う。
昨夜は就寝前ぐらいから雨が降っていたのだが、それが止み、今は本当に申し分ない天気だ。今日も日中は最高気温が19度まで上がるらしいので、とても暖かく感じられるだろう。朝の時間はまだヒートテックを上下に着込んでいるが、5月半ばも迎え、もうそろそろしたらヒートテックを着なくて済むかもしれない。最近は湯たんぽをもう使わなくなったので、しまう準備をしている。今のフローニンゲンの季節感はそのような感じである。
昨日の段階で天皇論に関する書籍の初読を終え、これにて先日届けられた全ての書籍の初読を終えた。なので今日からは再び洋書に戻ってこようと思う。ここ最近は意図的に洋書から離れ、あえて和書を読んでいたのだが、今日からまたしばらくは洋書を毎日読んでいこうと思う。今日は、ロイ·バスカーとインドの詩人との対話本を読み進めていく。これは単なる対話本と侮ることはできず、非常に中身が濃く、初読の際には理解し切れないことがたくさんあった。今回は初読から時間も経ち、その間に様々なことを学んできたし、経験もして来たので、それらを動員することによって、本書の理解もまた変わって来るだろう。対話形式と言うこともあって、本書は音読するとなおいいだろうか。備忘録がてらタイトルも記録しておくと、“Reality and Its Depths: A Conversation Between Savita Singh and Roy Bhaskar”というものだ。本書の再読を音読しながら行うとすれば、本書を読み終えるのには数日を要するだろう。
本書を読み終えたら、テクノロジー神学の探究に向けて、バーナード·スティグラーの書籍か、アンドリュー·フィーンバーグの書籍を読んでいこう。もしマネー神学の探究に舵を切るのであれば、フィリップ·グッドチャイルドの書籍を再読していこう。やはり自分は、川面神道神学の研究を核にしながらも、副専攻としてテクノロジー神学とマネー神学を探究していきたいと思う。昨夜も就寝前にそのようなことを改めて思った。来年に神学大学院に進学することができたら、主専攻と副専攻はそのように決めて研究を進めていきたい。神学大学院への準備はこの秋から本格的に進めていく必要があるが、進学に向けての探究は、このようにもっとずっと前から静かに始まっている。フローニンゲン:2022/5/12(木)07:42
8377. ヒルマ·アフ·クリントの画集を眺めて
朝日を眺めながら、天照大神を思う自分が最近現れ始めている。これは間違いなく神道を勉強し始めてからだろうし、それによって自分の中の日本人性が覚醒し始めてからだろう。先日のタリン旅行の際に購入した絵画のモチーフが太陽と2体の女性像というのは、なんという偶然だろうか。ベラルーシ人のアレックス·サロウ氏のこの作品に、自分は神道的なものを見出し、それを感じた。そうした作品との出会いに感謝し、今自分の自宅にその作品があってそれを眺めていられることの有り難さを思う。
昨夜就寝前に書斎を離れるときに、ふとヒルマ·アフ·クリント(1862-1944)の画集を手に取った。この女性画家との出会いは、ベルリンで訪れた美術館でもたらされた。アフ·クリントの立派な画集を2冊購入し、それは今、書斎の傍らで不思議な霊力を放っている。彼女自身は神秘主義者でもあり、ヘレナ·ヴラヴァツキーの神智学やルドルフ・シュタイナーの人智学からも多大な影響を受けている。数学にも造詣が深かったアフ·クリントは、幾何学的な模様と神秘主義を見事に関連付け、自分の霊感を刺激する作品を数多く残している。この画集も今日から眺め、解説文にも目を通したいと思う。
昨夜気になっていたのは、彼女の作品が多く所蔵される美術館がどこなのかということである。以前調べたのだが、もう一度改めて調べてみると、ニューヨークのソロモン·R·グッゲンハイム美術館(通称グッゲンハイム美術館)はその筆頭である。アメリカに戻ることになったらぜひ訪れたいと思っていたことをふと思い出した。彼女の作品をヨーロッパでも見れないかと思って調べてみると、彼女はスウェーデン人であったことから、やはりスウェーデンの美術館にも作品が所蔵されているそうだ。具体的には、ストックホルムの“Moderna Museet”という美術館にアフ·クリントの作品が所蔵されている。今から4年前にストックホルムに訪れた際には、この美術館に足を運ぶことはなかった。見ると、足を運んだノーベル賞博物館の対岸にある島にこの現代美術館があり、またストックホルムを訪れたい際にはぜひこの美術館に行ってみたいと思う。7月にちょうどスウェーデンのヨーテボリを訪れることになっていて、そこに6泊ぐらいしようと思っていたが、滞在日数を短くし、ストックホルムに足を伸ばしてみてもいいかもしれない。ヨーテボリ中央駅からストックホルム中央駅まで列車で3時間ほどであり、西のヨーテボリから東のストックホルムに横断していく列車の旅もどこか風情がある。ストックホルムは確かに4年前に随分と見て回ったが、現代美術館以外にも、“Museum of Far Eastern Antiquities”という美術館も気になる。この美術館には、日本、韓国、中国の古代の芸術作品が所蔵されており、今の自分の関心を引く。ちょうど現代美術館と同じ小島にあるため、ここにも足を運ぼう。7月の旅の計画は当初から柔軟なものだったので、ぜひストックホルムに足を運び、数日ストックホルムに滞在しよう。フローニンゲン:2022/5/12(木)08:07
8378. ロイ・バスカーの批判的実在論/7月のスウェーデン旅行の計画
見事な太陽の輝き。それに呼応する形で地上の生命が喜びの声を上げている。自分もまた喜びが存在の奥底から溢れ出て来ており、自分は喜びと化している。生をそのように生きること。喜びの中にいて、喜びとして生きることをこれからも続けていきたい。自然への感謝の念を持ち続け、自然と触れ合い続けていけば、それは実現されるだろう。
今日からロイ·バスカーの書籍を読み返していこうと思っているが、改めてバスカーの批判的実在論は、霊性の科学をより精緻にするのに大きな役割を果たすと思った。ケン·ウィルバーの理論モデルは、霊性の科学の認識論的な観点を支えるのに有益であり、一方でバスカーの批判的実在論は存在論の観点を支えるのに大きな役割を果たす。神学大学院でこれから長く研究をしていくのであれば、霊性の科学の精緻化に向けた研究をしてみるというのも考えとして芽生える。その際には、バスカーの批判的実在論は非常に重要な役割を担うだろうし、バスカーの協働者であったマーガレット·アーチャーの理論的枠組みも重要になるに違いない。そんな予感がする。
今日はバスカーの書籍と合わせて、やはりヒルマ·アフ·クリントの画集を改めて読み進めていこうと思う。ベルリンの美術館では、“Hilma af Klint: Artist, Researcher, Medium”と“Hilma af Klint: Paintings for the Future”の2冊の画集を購入していた。アフ·クリント財団のホームページを見ると、どうやらさらにもう1冊英語で最新の画集が出ているようであり、その購入も検討しようと思う。とりあえず今は、手持ちの2冊の画集を読み進めていこう。単にアフ·クリントの作品を眺めるだけではなく、それらの2冊の書籍は解説が秀一であり、学術書のような体裁をなしているゆえに読解という作業が求められる。アフ·クリントの作品と思想は、自分にとって大きな霊感を与えてくれる。これは先日リトアニアのヴィリニュスを訪れた際に出会った、ミカロユス·チュルリョーニスの作品と思想にも等しく当てはまる。チュルリョーニスの画集もまた近々再度味わおうと思う。
アフ·クリントの作品がストックホルムの現代美術館で見れることをこのタイミングで知ってよかった。ちょうど7月のヨーテボリ旅行の計画を少しずつ立てていこうと思っていたので、今回はヨーテボリに4泊ぐらいしたら、ストックホルムに移動して、上記の美術館に足を運ぶ。ヨーテボリについても先ほど調べてみたところ、ヨーテボリで訪れたい場所もだいたいリストアップできた。リストアップされた数からすると、やはり4泊5日あれば十分かと思う。そのうちの1日は、協働者の方の息子さんのサッカーの大会の応援に出かけ、翌日は協働者の方と一緒に美術館に足を運ぶのも良いかもしれない。両親以外では誰かと一緒に美術館に行くというのは久方ないので、新しい体験になるかもしれない。いずれにせよ、7月のスウェーデンは爽やかであろうから、その爽快さと共に、スウェーデンで文化と自然の双方を味わって来たいと思う。フローニンゲン:2022/5/12(木)09:12
8379. 今朝方の夢
今朝は朝からヒルマ·アフ·クリントやスウェーデン旅行について日記を書き留めていたので、まだ今朝方の夢について振り返っていなかった。輝きを増す朝日を眺めながら、今朝方の夢をゆっくり振り返ってみよう。
夢の中で私は、空飛ぶ基地の中にいた。そこで私は、どういうわけか悪者扱いされていた。基地の中には特殊部隊がいて、彼らは戦闘能力が高く、私を排除しようと襲いかかって来た。彼らは肉弾戦に長けているだけではなく、最先端の殺戮兵器の取り扱いにも長けていて、彼らと戦うことは無謀であったが、彼らとの戦いは避けられないと思った。なぜ自分が悪者扱いされているのかわからないまま、とにかく自分の命は自分で守ろうと思い、基地の中を逃げ回りながら、時折応戦するということをしてなんとか命を守っていた。すると、基地の中の行き止まりに追い込まれ、そこからはマシンガンを用いた銃撃戦となった。驚いたことに、特殊部隊の中に小中高時代の友人(YU)がいて、彼もまた私を殺そうとしてマシンガンを撃っている姿が目に入った。私はもちろんそれを残念に思ったが、今はいかなる感情も優位にならないぐらいに、自分の命を守るために切迫した状態だった。激しい打ち合いの後、突然行き止まりの壁が動き出し、そこに1人乗りの小さなヘリコプターがあった。私はこれを使って脱出するしかないと思って、すぐにそれに乗り込み、エンジンをかけた。するとなんとかすぐに動き出してくれ、空飛ぶ基地から脱出した。眼下にはどこかの国の海岸線が見え、そこに降り立とうかと思った。しかし、基地から急いで脱出したこともあり、パスポートも財布もなかったので、どうやって元の生活拠点に帰ろうかと思ったところで夢の場面が変わった。
次の夢の場面では、日本のどこかの街のカフェのテラス席にいた。そこで、小中学校時代の友人(AF)と話をしていた。話の中で、私は日本のある伝統芸能の名前が一切出てこず、苦戦していた。なんとか思い出そうとするものの、その伝統芸能の名前だけが不思議と全く出てこなかったのだ。記憶のブラックホールに落ちしてしまったかのように、その名前を必死に思い出そうとしていると、友人の言葉がきっかけとなってふとその名前を思い出した。能でも歌舞伎でもなく、なんだったかと記憶を探っていると、自分が言いたかったのは落語であることを思い出したのである。それを思い出した途端に、何か晴れやかな気持ちになったが、それも一時的で、何かモヤモヤするものが自分の内側に生まれた。確かに、忘れていたものは落語だと思うが、どうもそれではない可能性もあると思えてしまったのである。とは言え、モヤモヤを抱えるのは嫌だったので、それを解消するべく、実際に落語を聞きに行こうと思った。すると、友人の彼はもうその場にはおらず、その代わりに小学校までが同じだった女性友達がそこにいて、久しぶりに彼女と再会した喜びもあり、彼女と一緒に落語を聞きにいこうと思った。そのような夢の場面があった。それ以外にも、高校時代のクラスメートの家に遊びに行き、彼の家で絵画作品を何点か見せてもらったり、バスケの話をしていた夢もあったことを思い出す。彼の家からお邪魔する際に、彼の家の周りが白く幻想的な霧で包まれていて、自分の手袋が坂道を転げ落ちていき、それを彼の犬が拾ってくれていた場面があったのを覚えている。これら一連の夢もまた、自分の養分となり、自分の導き手となってその意味と力を徐々に顕現させるだろう。フローニンゲン:2022/5/12(木)10:05
8380. 夢を見つつ目覚めていること・目覚めつつ夢を見ること
なぜ人は脱自的体験をするのだろうか。そしてなぜ人は自らを超えていくことができるのだろうか。おそらく、そうした現象を経て人は永遠を感じるようにできているからなのではないかと思う。あるいは、本来永遠である人間存在の本質に触れるような計らいがなされているのかもしれない。
種々の抑圧から解放され、自由を享受することもまた永遠へ参入するためなのだ。日々を忙しなく生きるのではなく、余暇を持って遊戯に従事することは、永遠に参入する不可欠の条件のように思えてくる。今、そうした条件が満たされた生活が実現されている。それに対して感謝をしよう。重要なことは、こうした生活を今後一生継続させていくことである。それを通じて初めて、自己は完全なる永遠性に一体化するだろう。
夢を見つつ目覚めていること、目覚めつつ夢を見ること。そうした両極性を通じて日々を生きていくことの大切さも浮かび上がってくる。夢を見ているだけでも、目覚めているだけでもダメなのだ。どちらも同時に実現されていなければならない。本来、2つの状態を同時に体感することはできない。だが、そうした不可能性に挑んでいかなければいけない。夢を見ていることと目覚めていることは、本質的には非二元のはずである。そうであるならば、非二元の状態を通じて覚醒即夢見、夢見即覚醒の状態でいられることはあながち不可能なことではないように思う。現代においては、とにかくこのあり方の重要性が増している。基本的に人は眠りについたままである。それは神秘思想家のグルジェフも指摘していたことである。まずは眠りから覚め、覚醒せなばならない。そして、今度はそこから社会的に構築された虚構の夢ではなく、自らの真正の夢を見なければならない。その後に初めて、覚醒即夢見、夢見即覚醒の非二元の状態が姿を現す。午後の太陽と青空と一体化している自己は、そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2022/5/12(木)13:43
8381. ヒルマ·アフ·クリントの世界に触れて/ジークンドートレーニング105:虚実の生成
夕方の穏やかな世界にホッと一息ついている。平穏な世界を眺めていると、それだけ心が落ち着き、そこに深く入っていこうとすると、さらに落ち着きがもたらされる。
先ほど、ヒルマ·アフ·クリントの画集を眺めていた。彼女の作品を眺めていると、感嘆の声が自然と漏れてくる。アフ·クリントの霊的認識力とそれが体現された見事な絵画作品の数々に純粋に感銘を受ける。画集の中の解説文を読んでいると、アフ·クリントがこの世を去った日は自分の誕生日と重なっていた。そこに奇妙な偶然を感じる。また、深い親近感が改めて湧き上がってくる。
アフ·クリントの画集を読んだ後、ジークンドーの鍛錬をしていた。今日はまず、昨日同様に、ドロップシフトの練習をしていた。これは中段への攻撃技であり、とにかく重力と体重移動の重みを拳に乗せることを意識して鍛錬を行った。ちょうど明日はジムに行く予定なので、その際に、重力と体重が上手く乗った場合の拳の重さがどれほどなのかをサンドバッグを叩くことによって確認してみようと思う。そして、さらに精度を上げるように身体操作を見つめ直すことによって、どのように拳の重さが変化するのかを検証してみよう。
ドロップシフトの練習をした後には、ストレートスラストキックからのストレートリード、及びフックキックからのストレートリードを練習した。この組み合わせの技についても、体重移動をいかに拳に乗せていくかが鍵を握る。キックはもちろん当たるに越したことはないが、仮に当たらなくても相手の意識を下段に向けることができれば御の字であり、下段に相手の意思を持っていき、虚となった上段にストレートリードを打ち込むことが最大の狙いである。ジークンドーの鍛錬をしていると、意識の虚実の性質を身を持って知ることができ、人間理解に繋がっている。意図的に虚や実を生み出すことがジークンドーの技の中で繰り広げられていることは実に面白く、虚実の生成に関する工夫と方法をこれからも探究していこうと思う。
それでは今から本日最後の作曲実践をし、アフ·クリントの2冊目の画集を鑑賞したいと思う。もしそれでも時間があれば、言霊学の書籍の再読を早速始めよう。フローニンゲン:2022/5/12(木)16:33
8382. 拝むことの本質/7月のスウェーデン旅行の計画を変更して
時刻は午後8時を迎えようとしている。サマータイムに入ってしばらく経ったので、この時間帯はまだまだ明るい。今夕方に入ったばかりであるかのような明るさがある。光の季節。今は光の時間の長い光に満ちた季節なのだと実感する。この季節を謳歌しよう。光を浴びるだけ浴び、自分の存在が光に化すまで光の恩恵に授からせてもらおう。光を客体化して拝むのではなく、光を主体化して、光として光の存在を拝むこと。拝むというのは本来そのような行為をいうのではないだろうか。拝むというのは、決して何かを対象化してそれを拝むのではなく、それと合一化して、それを内側から拝み通していくことが本質なのだと思う。
今日は、ヒルマ·アフ·クリントの画集を眺める時間が多く、彼女の作品を通じて、自分の世界がまた広がった。アフ·クリントにゆかりのある美術館を調べたところ、ストックホルムの現代美術館だけではなく、スウェーデンの第3の都市であるマルメの現代美術館を見つけた。マルメの街は、以前バス停にだけ降りたことがある。デンマークのコペンハーゲンに滞在し、そこからノルウェーのオスロに向かう旅の最中でマルメに立ち寄ったのだ。今回は、アフ·クリントをきっかけにして、マルメに宿泊し、街をしっかり巡りたいと思った。マルメには現代美術館以外にも少なくとももう1つ関心を持った美術館があり、7月の旅は計画を少し変更して、スウェーデンの3つの都市を巡る旅にしようと思う。まず最初にフローニンゲンからマルメに向かう。この時に、一番便利な行き方は、アムステルダム国際空港からコペンハーゲン国際空港に飛行機で行き、そこから電車でマルメに行くことである。アムステルダム国際空港からコペンハーゲン国際空港には、朝早くなく午後の良い時間帯にスカンジナビア航空(SAS)のフライトがあり、フライト時間はわずか1時間半ほどである。そして、コペンハーゲン空港駅からマルメ中央駅までも列車で一本であり、乗車時間も海峡を越えてわずか25分程度だ。そうしたことから7月はまずマルメに行こう。そして、マルメで数泊した後に、ヨーテボリに移動する。ヨーテボリからストックホルムまでも高速列車で3時間ほどなのだが、それと同様に、マルメからヨーテボリも高速列車で乗り換えなしで3時間ほどである。ヨーテボりではせっかくなので、3泊4日か4泊5日で滞在し、ヨーテボリ美術館、ヨーテボリ植物園、国際文化博物館、市立博物館などを巡りたい。そして、ヨーテボリの滞在を終えたらストックホルムに行くという旅程を立てた。自分はどうもやはり北欧を好む傾向があり、北欧に何かと導かれることが多い。その導きに身を任せる形でこの夏の旅を楽しみたい。フローニンゲン:2022/5/12(木)20:04
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