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8207-8210: フローニンゲンからの便り 2022年4月16日(金)



No.3532 大日如来_Dainich Nyorai


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1438, Symbols

Symbols come.

Symbols fly.

Symbols become the world.

Groningen; 10:09, 4/15/2022


No.1439, Natural Breathing

Natural breathing invites a spirit.

The spirit brings vitality and creativity to us.

Groningen; 20:25, 4/15/2022

下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8207. 今朝方の夢

8208. 今朝方の夢の続き

8209. 無条件性に基づいて/光と霊性/資本主義教の遍満性

8210. 太陽の恵み/記憶/日本語の恩恵


8207. 今朝方の夢


時刻は午前6時半を迎えた。今、空が明るくなり始めている。今朝は少しうっすらとした雲が空を覆っている。そんな中、小鳥たちは健気に鳴き声を上げている。彼らの鳴き声に身を委ねながら、今朝方の夢について振り返っている。


夢の中で私は、高校時代のクラスメート2人と洋楽について話をしていた。彼らが最近聴いているお勧めのグループについて話を聞き、自分もそれらのグループの曲を聴いてみようと思った。ちょうど学校帰りにレコード屋に立ち寄ろうと思っていたので、その時に曲を探してみようと思った。


すると、気がつけば私は、スポーツカーの助手席に座っていた。車を運転しているのは若いアメリカ人の男性であり、後部座席にもアメリカ人の別の若い男性がいた。2人と私は知り合いのようであり、仕事の話をしていた。


彼らは投資ファンドを立ち上げ、今経営の調子がうなぎ上りで良くなっているとのことだった。収益が倍増し、新たな人員を確保しようかと考えているとのことである。


車は新緑の美しい道を走っていて、周りは自然が豊かだった。ちょうどある山を超えて、麓に下りていく際に車のスピードがどんどんと上がっていった。その車はもともとスポーツカーであるから最高速度が早い。そのせいもあってか、下りになるとまるでジェットコースターにでも乗っているかのような感覚になった。それぐらいに速度が出ていたのだ。


運転手のアメリカ人の運転は見事であり、彼の運転はまるでレーサーのそれのようであった。ハンドル捌きも見事であり、速度は速いが安心して乗っていられるような気がした。


麓に下りてもずっと速度が早いままで、流石にその時は少し怖さがあった。前を走っている車を追い越そうとして車線からはみ出ていくと、なんと対向車がやって来た。するとどういうわけか、対向車はその場に止まり、私たちの追い越しを可能にしてくれた。


あのような場合に対向車がその場で止まってくれることは普通ないので、どうしたものかと思った。運転手の彼曰く、アメリカではそれは普通とのことだった。そのようなやりとりをしていると、いつの間にか夢の場面が変わっていた。


次の夢の場面では、私は見慣れない合宿所の更衣室にいた。ちょうど先ほど体を動かすトレーニングを終えて、今から風呂に入ろうと思っていた。更衣室には小中高時代の2人の友人(YU & YU)がいた。2人のうち1人の友人はすでに風呂場に向かっていて、もう1人の友人もこれから風呂に入ろうとしているようだった。


風呂場は最大2人までしか入れないような広さだったので、私は更衣室に残っている彼に今から風呂に入ろうと思っているのかを尋ねた。すると、彼は本当は今から風呂に入りたいと思っているはずだが、私に気を遣ってくれ、彼はもう少し後に風呂に入ると述べた。


彼の言葉を受け、先に風呂に入らせてくれたことを彼に感謝して風呂場のドアを開けた。開けてみると、なんとそこには浴室というよりも1つの部屋があって、ベッドや机なども置かれていた。そのようなスペースに、確かに風呂桶や風呂の蛇口などもあって、部屋の作りが不思議であった。フローニンゲン:2022/4/15(金)06:48


8208. 今朝方の夢の続き


昨日は日中に気温が上がり、室内の気温も上がっている時間帯があったので、薄着になれる時間帯もあった。今朝からはもう湯たんぽを使わないで大丈夫かと思っていたが、やはり少々冷えるので、先ほど湯を沸かし、湯たんぽを使うことにした。今は背中に湯たんぽを当てて温めている。


4月もちょうど折り返しを迎えようとしているが、やはり朝夕はまだまだ寒い。明日は晴天に恵まれるが、最低気温は1度まで下がるとのことである。


今朝方の夢についてその続きを振り返っておこう。断片的に覚えていることとして、宗教とエコロジーをテーマにして誰かと話している場面があった。相手は学者のようであり、自分も大学教授だったので、議論は非常に深いものになった。


そこからふと、小中高時代の親友(HO)と一緒にカフェに行った夢があったことを思い出した。そのカフェはとてもお洒落な作りをしていて、外装と内装ともにこだわりと美しさがあった。カフェに入ると、煎れたてのコーヒーの良い香りが漂って来た。


私たちは空いている席を見つけようとした。時間帯が良かったのか、幸いにも席は随分と空いていて、落ち着けそうな席をいくつか見つけ、そのうちの1つを自分で選んで、彼にその席でいいかを尋ねた。彼はうなづき、私は店全体が見える奥の方に腰掛け、彼はカウンターに背を向ける形で座った。椅子に腰掛けて彼と話をしようと思った瞬間に夢の場面が変わった。


最後に覚えている夢は、これから入学する予定になっている高校に行き、部活の説明会に参加するというものである。私は中学校でやっていた部活をそのまま高校でもやろうと思っていたが、ふと高校では何か新しいことに挑戦してみようと思った。


ちょうど両親と旅行に出かけることになっていたので、部活の説明会が開催される幾つかの日時のうち、どのタイミングであれば旅行に支障がないかを両親と話し合った。幸いにも幾つかの説明会の日時には都合がつきそうだったので、そのうちの1つの日時を選んで高校に行ってみた。


高校に向かう坂道をゆっくりと歩きながら登っていると、中学校時代の部活の先輩3人と出会った。3人のうち1人は中学と同じくバスケ部に所属しているようであり、もう1人は小学校時代にやっていたサッカーを高校から再度始め、もう1人はテニス部に入っているとのことだった。


とりわけテニス部に入った先輩の選択を私は驚いた。というのも、その先輩はテニスをするような雰囲気ではなく、バスケがとても上手かったので、そのままバスケを続けていると思っていたからである。


3人の先輩は優しい言葉を私に掛けてくれ、確かにそれぞれの先輩は自分が所属している部活に私を誘って来たが、最終的には好きなことをすればいいと言ってくれた。先輩と別れて高校の門をくぐろうとしたときに、ふと自分は弓道部に入ろうかと思った。ところがその部には弓道部はないので、それであれば少し遠いが弓道部のある高校に入り直そうかと思った。


その高校は今自分が門をくぐった高校よりも進学校であり、その点も含めてそちらの高校に進学することが魅力的に思えて来た。今朝方はそのような夢を見ていた。実際のところは、弓道部と箏部の掛け持ちをしたいと思っていたように思う。マーシャルアーツと芸術の双方を実践しようとする夢の中の自分は、現実世界の自分を見事に映しているように思える。フローニンゲン:2022/4/15(金)07:03


8209. 無条件性に基づいて/光と霊性/資本主義教の遍満性


早朝に引き続き、今朝はうっすらとした雲が空を覆っていて、朝日の姿は見えない。世界は静けさに包まれていて、そこに小鳥たちが鳴き声を上げて彩りを付け加えている。


無条件性、即興性、創造性。それらは自分の存在を根底から支えている重要な要素のようだ。とりわけ無条件性というのは、最近の自分の取り組みの中に色濃く体現されている。


何か条件づけがあって事に当たるのではなく、無私無欲の無条件性に支えられて活動に営んでいる自分がいる。もちろん活動の背後には喜びや楽しさの感情があるが、そうした感情を求めて活動を行うというような条件付けはなく、気がつけば種々の活動に従事しているというのが実情である。


これからも無条件性に裏打ちされ、即興性と創造性を十分に発揮しながら活動に当たっていこう。今日の種々の取り組みもまたその一例である。


ここ最近は、光をテーマにした曲やデジタル絵画を創作することが多いことに気づく。また、霊的な何かを表現しようとする傾向も見られる。これもまた内在傾向であり、内側からの要求に基づくものである。


気がつけば自分は光や霊的なものを表現しようとしているだけなのだ。そこに作為的な意図はなく、勝手にそうしたものを表現することに向かっている自分がいる。


光と霊的なものの繋がりは興味深い。このあたりは最近の探究テーマの1つである。


この世界は言葉から始まったのではなく、光から始まったと考える創造説。言葉は光からもたらされた恵みであり、言葉が光を産んだわけではない。神道の創造論とキリスト教を含めたその他の宗教の創造論を比較してみよう。


宗教には大別すると、信仰をベースにした宗教と体験をベースにした宗教があるという話を昨日Podcastで聞いた。なるほど、現代にはおそらくそれらが歪な形で混淆した形で資本主義教ないしは貨幣教とでも言えるものが蔓延していると言えるかもしれない。


人々は資本主義と貨幣に付帯する種々の信仰物語の中に取り込まれていて、そこで諸々の体験をする。それらの体験は外側から与えられたものであり、言ってみれば餌付けのようなものである。


人々はそうした餌付け的体験に味を占めて、それらの体験を客観的に眺めたり、そうした体験を意味づけする集合規模の信仰に目を向けたりしない。すると、人々はますます資本主義教に浸っていき、この新興宗教は拡大の一途を辿る。


資本主義の遍満性は、日本における神道の遍満性と似ている。資本主義的なものや神道的なものは、様々な形を取って、日本社会に遍く形で存在している。


ここで興味深いのは、どちらも教祖は存在せず、特定の経典を持たないということである。おそらくそうであるがゆえに、老若男女様々な年齢の人々に広く深く資本主義的なものは入り込むことが可能なのだろう。


また教祖と経典の不在ゆえに、その教えや行動を客体化させにくいのかもしれない。資本主義教の浸透力とその克服の厄介さの一端はそうしたところにも見出せる。フローニンゲン:2022/4/15(金)08:44


8210. 太陽の恵み/記憶/日本語の恩恵


静けさと共に時刻は午後7時半を迎えた。つい先ほど夕食を摂り終えた。


今日は1日を通して曇りがちであったが、午前中には少しの時間日光浴をすることができた。太陽の恵みに感謝をしたい気持ちで一杯である。


やはり太陽の力というのは目を見張るものがあり、日光浴をし始めてから心身にエネルギーがより満ちるようになった。肌の状態も以前よりも良くなって来ており、太陽の力には浄化作用と活力を増幅させてくれる作用の双方があるようだ。


夕方に、改めて記憶について考えていた。というのも、自分の内側にある無数の記憶が意識に逆流入する形で流れ込み、記憶の物語の中にしばらく浸る瞬間が最近よくあるからだ。


記憶には肯定的な性質と厄介な性質の双方があるが、現代の社会においては、おそらく記憶の負の効果が増幅し、同時に重要な記憶が喪失している状態に陥っているように映る。良き記憶を思い出し、それを保持·伝承していくことの重要性が増す一方の社会である。


そのようなことを考えながら、今後の研究において使用する言語について考えていた。もちろん論文の執筆や文献の読解において主要な言語は英語である。


川面神学の研究をするに当たっては自分の母国語である現代日本語を存分に活用することができ、それに加えて古典日本語を活用することもできるだろう。学術研究上、日本語のリテラシーがあるというのがアドバンテージになるというのは初めてのことである。


これから再び欧米の学術機関で神道の研究をしていく際には、自分が日本語を活用できるということが初めて大きな意味を持つだろう。それもまた自分に賦与された恵みとしての能力である。


神道神学の研究をするに当たって、古典アラビア語やラテン語を学ぶよりも、日本の古代文字や日本の古語についてリテラシーを高めていく必要があるだろう。神道神学の探究において、日本の古代の言語の読解力を文献解読しながら高めていく道が見えて来ている。この試みは必然的に長期的なものになる。


日本語とはいえ、また新しい言語を学習するようなイメージでそのリテラシーを磨いていこう。ゆっくりとでいい。ゆっくりと着実に自分のなすべき使命を果たしていく。


着実な一歩の歩みを弛まず前に進めていけば、自分の取り組みがいつかこの世界に貢献する日がやってくるはずだ。フローニンゲン:2022/4/15(金)19:42

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