No.3508 同心円的花_A Concentric Flower
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1417, A Ray of Light
Everything began from a ray of light.
It created everything.
Everything returns back to it.
This process continues forever.
Groningen; 08:33, 4/10/2022
No.1418, The True Empty Mind
The true empty mind enables us not to attach anything.
But it also enables us to be anything in an authentic way.
Groningen; 08:41, 4/10/2022
No.1419, Essential Learning
Essential learning does not compel us to cram information.
Instead, it helps us to discover what we already have in us.
Groningen; 08:47, 4/10/2022
No.1420, A Divine Moment
For a moment, the surrounding embraces no sound.
Time passes gently.
Time stops to flow at last.
Then, the self and the world begin to shine divinely.
Groningen; 08:53, 4/10/2022
No.1421, The Everlasting Changeless State
Dive into the ocean of constant changes.
And you can unite with the everlasting changeless state.
Groningen; 09:42, 4/10/2022
No.1422, The Subsoil Water
Even though the soil looks dry, we have to see the subsoil water.
The soil of the spirituality of modern people might be desiccated, we need to discover and cultivate underflow water.
If we can do it, our spirituality fully blooms and sheds light on this planet again.
Groningen; 09:57, 4/10/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8175. 今朝方の夢
8176. 川面神学の研究/今朝方の夢の続き
8177. 音そぎとしての作曲実践
8178. 霊光と光の交響曲
8179. 天人不二/神託成就の場としてのこの世界
8180. 伏流水の発見と涵養に向けて/川面凡児の神観
8181. 『この音とまれ!(2019)』を見て/古代人の音の感覚
8175. 今朝方の夢
時刻は午前6時半を迎えようとしている。今、小鳥たちが静かな鳴き声を上げている。彼らの祝福に満ちた合唱を聴きながら、静かに今朝方の夢を振り返っている。
夢の中で私は、両親と愛犬と一緒に火星か木星のような惑星にいた。そこには水があり、生命が存在しているような気配があったが、それを確認することはできなかった。私たちは車に乗っていて、運転は父が行ってくれていた。
この惑星の最大の見どころは見事な岩石群であり、圧倒的な景観が目の前に広がった時、思わず息を飲んだ。実に美しい巨大な岩たちがそれぞれ個性的な輝きを放っていたのである。岩石の色も独特なものが多く、色に目が奪われ、引き込まれてしまうことが多々あった。そこからは岩石を眺めながらドライブを楽しんだ。
すると、気がつけば私は別の場所に瞬間移動していた。そこはもう地球であり、外国の郊外のようだった。どうも中東地方の国のように感じた。
中東地方の砂漠地帯にこれから日本の建築会社が日本人専用のマンションを建てるようだった。その建築会社の方とそこの下見に私は行っていた。
マンションの建築予定地に到着すると、周りは本当に砂漠だった。視界を遮るものがないという点において爽快であり、車で移動すれば買い物にも不便はなかったので、都市部の喧騒から離れる意味で素晴らしい立地かと思った。
建築会社の方と私は、早速その土地の地質の検査を始めた。地中に含まれているガスや鉱物の検査をする必要があったのだ。それによってマンションが建てられるのか無理なのかがわかるため、この検査は重要だった。
検査をしてみたところ、どうやら無事にマンションを建てられるようだった。その他にも周りの空気の検査も含め、色々と検査をする必要のあることがあった。全ての検査を終えた時、私たちは安堵のため息をついて、再び都市部の方に車で引き返すことにした。
今朝方はそのような夢を見ていた。確か、両親たちと惑星を車で移動する前に、惑星にある自宅で軽く朝食を食べていたのを覚えている。その時に私は、ヨールグルトに混ぜるフルーツを何にしようかと考えていた。イチゴがあればベストだったがそれがなかったので、何か代わりに赤いフルーツはないかと思った。
近くにスーパーがあったのでそこに立ち寄ると、イチゴが安く売られていたが、結局ヨーグルトに混ぜるのはニンジンが入ったフルーツジュースがいいだろうと判断してそれを購入することにした。
レジの中年女性はオランダ人であり、支払いまではオランダ語でやり取りし、そこからの雑談は英語で行った。スーパーを出た後に気づいたが、そこはお洒落なホテルの1階にあり、雰囲気が良かったので、今度そのホテルに宿泊しようと思った。そのような夢の場面もあった。フローニンゲン:2022/4/10(日)06:40
8176. 川面神学の研究/今朝方の夢の続き
今、辺りに小鳥たちの清澄な鳴き声が響き渡っている。今日は幸いにも天気が良いようであり、実際に今は朝焼けが見え始めている。今日も火そぎとしての日光浴を楽しもう。
今日もまた川面凡児の思想について研究を進めていく。川面凡児のコスモロジーや死生観·霊性観の探究というのはすなわち、「川面神学」とでも形容できるものを探究することである。今日からは川面神学という言葉を用い、川面神学の研究に従事していくという意識を持とう。
先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢の世界はもう少し続いていた。それについても振り返っておこう。
夢の中で私は、小中高時代のある女性友達(YY)の家にいた。彼女の部屋には大きなパソコンモニターがあり、それは彼女の机の上ではなく、フロアにテレビを置くかのように設置されていた。
彼女の部屋はとても片付いていて、清潔感に溢れていた。私たちはそこである課題に取り組んでいた。私もパソコンを持参していて、お互いにノートパソコンはMacのものを使っていた。
彼女はどうやら最新のMacBookを持っているようだったので、自分が持っている1つ前の型と色々と性能を比較させてもらうことにした。まずは画像の解像度について比較してみることにした。
ちょうど私たちはパソコンを通じて画像のあるテキストを開いていたので、テキスト内の植物の写真の解像度を比較してみた。すると、彼女のパソコンの方が色は鮮明に見えたが、輪郭としてはこちらのパソコンの方がくっきりしているように思えた。そこからは他の機能についても比較していこうと思ったが、彼女が突然御朱印の話をし始めた。
私も以前神社に参拝するたびに御朱印を集めていて、彼女もその収集癖があるようだった。彼女は私に御朱印帳を見せてくれ、中を開けるとたくさんの御朱印があって驚いた。まさかここまで御朱印を集めているとは思わなかったのである。
そこから彼女は神社に関する諸々のことを教えてくれ、彼女がそのような知識を持っていることに改めて驚いた。しばらくすると、彼女の弟が部屋に入ってきて、せっかくなので3人で、フロアに置かれたモニターを通じてゲームをしようということになった。弟の彼は部活の後輩でもあり、親しくしていたので、そこからはゲームを含め、随分と盛り上がった。そのような夢の場面があったことを思い出す。
時刻は間も無く午前7時を迎える。今日もまた素晴らしい1日になるという確信がある。毎朝それを感じ、その通りになる。そうした形で毎日を生きることができていることに感謝をしよう。その感謝の念を自分の全ての取り組みに体現させていく。それが自分にとっての返礼としての祈りの行為である。フローニンゲン:2022/4/10(日)06:58
8177. 音そぎとしての作曲実践
時刻は午前8時を迎えた。今、空にはうっすらとした雲がかかっているが、今日はこれから天気が良くなっていく。実際に、先ほども朝日がちらりと顔を覗かせる瞬間があった。
先ほど、いつものようにバッハの音楽を参考に、箏の音で2曲ほど曲を作った。バッハのコラールをもとに1曲作ることは、ここ数年間の朝の儀式のようなものである。
神道的に解釈すれば、早朝に真っ先にバッハのコーラルで作曲実践をするというのは、自分にとって空間の浄化であり、心身の浄化でもあるため、ある種の祓いの儀式だと言っていいかもしれない。また、音というものが水のように遍満し、充満していく性質を持っていることから、音を浴びることは水を浴びることにも似ているのではないかと思う。ゆえに、浄化作用のある神聖な音を浴びることは、禊(水そぎ)の実践だと言えるかもしれない。
それは音を通じた禊であるがゆえに、「音そぎ」とでも形容しよう。いつも自分はそれを行っていたのだ。この5年間、作曲実践を通じて、自分は心身及び魂を清めていたのだ。
ここ最近は、コラールだけではなく、基本的に全ての作曲実践はバッハの曲を参考にしている。バッハの曲には珠玉の曲が目白押しであり、それらを参考にして曲を作ることになんとも言えない喜びと楽しさがある。そして、そこには浄化作用もあるのだ。
ひょっとしたら、喜びと楽しさという感情も浄化の作用を強める働きをしているのではないかと思う。禊や祓いというのは外からのアプローチだけではなく、感情面からの内面的アプローチもあるようだ。そのような気づきを得る。
今日もまた川面神学の探究に精を出していこうと思う。今日はその前に、昨日届いた2冊の書籍を読もう。
オーナーのペイトラさんからテキストメッセージが夜にあり、2冊の書籍が郵便受けに入らなかったようなので、家の横にある雨除けの下のテーブルの上に置いてくれていたのである。1冊は、マーシャルアーツの解剖学的側面に関する書籍である。それは単に急所や経絡の解説に留まらず、いかに治癒につなげていくかという実践的な知識も掲載されている。
そしてもう1冊は、ブルース·リーの芸術性に関する書籍である。どちらの書籍も随分と前に注文していて、注文したことを忘れていた。なのでこれらの2冊の書籍が届けられた時には驚いたが、神道研究の小休憩がてら、早速今からこれらの書籍に目を通していこう。フローニンゲン:2022/4/10(日)08:29
8178. 霊光と光の交響曲
今ここにあるというのは、全てと関係を持つということ。関係を断ち、孤立するというのは死を意味する。
日曜日の朝は静かで、そして優しい。幾筋かの朝日が地上に降り注いでいる。耳を澄ませば小鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。そしてそよ風の声も聞こえてくる。
本質的な学習とは、情報を詰め込むことではなく、私たちがすでに内側に持っていることに気づかせてくる。言い換えれば、本質的な学習は、私たちの内側に眠っているものを掘り起こして気づかせてくれるものである。
自分の日々の学習は、そうした形で進行している。毎日、自分の新たな側面に気づくことができているのだ。絶え間ない自己発見と本質的な学習は表裏一体の関係を成している。
川面凡児の発想を用いれば、物事を「表裏合観」することを自分は日々行っているようだ。物事を表から見るのではなく、裏にあるものを裏から見据えること。それによって初めて、物事は全体性を露わにし、本質を開示してくれる。
先ほどふと、マーシャルアーツで鍛錬した身体操作と身体感覚は、きっと箏の演奏に活きてくるだろうと思った。脱力や力の込め方などにマーシャルアーツの鍛錬がきっと活きてくるという確信がある。
日々のジークンドーの鍛錬では、一瞬一瞬の中に死と再生を感じることを行っているのではないかと思う。それはきっと箏の演奏でも実現されることだろうし、またそうある必要があるだろう。一音一音の輝きは、きっと死と再生の陰陽的輝きなのだ。
言葉の森を歩き、森の声を聞いている自分。森は絶えず自分に何かを語りかけてきてくれる。その声に真摯に耳を傾けると、自分の内側から何かが花開き、光が発現される。
創造主が光を作ったのではなく、光が創造主を作り、万物を生み出したという川面の発想。今の自分はその考えに賛同している。
全ての存在の出発点に光があったということ。光が原初的根源であったこと。それはとても霊的に共鳴する考え方である。
自分が長らく育った町の名前が光であったことを何か運命的なものとして捉えている自分がいる。
光。空からまた光が降ってきた。自分はそれを浴び、光としての自己はまた活力と霊力を増す。光は万物の根源であり、この世界に満ち満ちている。
表裏合観すれば、全ては物理的光であり、霊的光である。今この瞬間、全てが眩い光を発し、光の交響曲を奏でている。フローニンゲン:2022/4/10(日)09:20
8179. 天人不二/神託成就の場としてのこの世界
ジークンドーの鍛錬も、箏の演奏も、川面神学の研究も、単に神的世界と繋がることを促してくれるだけではなく、それらは地上との結びつきも深めてくれる。自分にとって、それらは天地合一をもたらしてくれる。
ここでふと、川面の興味深い指摘を思い出す。「天人合一」という言葉は、その前提として天と人が分離しているニュアンスを持つため、川面は好んでその言葉を用いなかった。その代わりに、川面は「天人不二」という言葉を用いた。この言葉には大変共感するものがある。
天も人も本来は、非二元なのである。両者は共に分け隔てなく結びついているものであり、天は人であり、人は天なのである。また、人のみならず他の全ての存在者にもそれが当てはまる。全ての物質そして生きとし生けるもの全てが天と不二なのだ。
川面神学を研究していると、その発想としてプロティノスの流出論に相通じるものがあることに気づく。また、キリスト教やユダヤ教の発想とは違う神的世界観があることにも気づき、様々な神秘思想家の思想や他の伝統的な宗教思想と川面の神学思想を比較していく研究にも着手したいものである。
今日もまたジークンドーの鍛錬が楽しみだ。そこには即興性と創造性が溢れている。箏の演奏もきっとそうなるだろう。既存の曲を演奏する時であっても即興性と創造性を発揮することができる。
箏の注文はバルト三国旅行中にしようと思っていて、それはきっと良い思い出になるのではないかと思う。今のところ、バルト三国のラトヴィアに訪れた時に箏を注文しようと思う。
ラトヴィアのリガは、かつて夢に現れたからという理由で足を運ぶ。昨日その点を家のオーナーのペイトラさんと隣人のマークと話している時にシェアをした。すると2人は少し目を丸くして、ペイトラさんは微笑みながら“Is that realistic?”ということを述べていた。
その言葉の意味は、「それは現実的なの?」という直訳的意味があり、背後には「それは非現実的なんじゃないの?」という意味がある。自分にとって、夢とは現実的なものに他ならない。
かつての神道家、いや神道家のみならず宗教家は夢のお告げを大切にしていた。それはある意味、託宣のようなものではないかと思う。夢は神託なのだ。
数年の前のあの日、ラトヴィアのリガについて夢を見たことは、リガに訪れ、箏を購入することを告げていたのである。いやはや、そのようなことが現実世界で起こるとは思っても見なかったことである。
これからも自分は、神託としての夢のお告げを聞き続ける。そのお告げをもとに、この現実世界で具体的な行動に乗り出していくのである。
神託成就。この世界は、夢のお告げにつぶさに耳を傾ける人にとってみれば、神託成就の場なのではないかと思う。フローニンゲン:2022/4/10(日)09:37
8180. 伏流水の発見と涵養に向けて/川面凡児の神観
朝の世界は静謐さを保ち続けている。そこに優しい朝日が融合を遂げている。
現代人の霊性は確かに貧困であり、その土壌は枯渇する一方である。現代社会は、その傾向を加速させ続けている。
土壌には水がもはや流れていないように見えるが、土中にある伏流水に自分は注目をしたいと思う。土中にはきっとまだ水脈が流れているはずなのだ。
現代人の内側には、まだまだ霊性を取り戻すための伏流水がわずかであっても残っているのではないかと思う。自分の研究と実践は、そうした伏流水の発見と涵養に向けたものになるだろう。
本居宣長のカミの定義と、ルドルフ·オットーの聖なるものの定義はどこか似ている。本居宣長は、カミを「何にまれ、世の常ならず優れたる徳のありて、かしこきもの」と定義した。
端的には、本居宣長にとってカミとは、全ての存在もカミになり得るが、私たちに畏怖の心を呼び覚ます優れた徳を持ったものであると定義していたのである。逆に言えば、そうした力を持たないものはカミ足り得なかったのである。ルドルフ·オットーも似たような形で、聖なるものを畏怖心を呼び覚ますものであると捉えていた。
一方で、古事記には大変興味深い記述がある。本来、古事記を丹念に研究した本居宣長が見逃すはずはなかったであろうが、古事記においては、人間の糞尿を含め、血も涙も汗も含めて、およそ優れた徳など持ち得ないものや畏怖心を引き起こさないと思われるようなものもカミになり得ると捉えていたのである。
川面凡児はそれを見抜き、「カミよりいづるものはカミなり」という言葉を残している。物質もあらゆる生命も、全ての存在がカミより生まれ出たものなのだから、優れた徳のあるなしや、畏怖をもたらすか否かというのは、カミの定義足り得ないのではないかと思えてくる。ここからさらに、川面凡児の神観について研究を進めていこう。
1匹の猫が、陽だまりで日向ぼっこをしている。その猫もまたカミの権化であり、陽だまりもまたそうだ。そして、太陽もまたそうである。そこには徳のある無しなどは一切関係ない。
徳のあるなしを判断するのも人間であり、畏怖心を持つのも人間であることを考えると、優れた徳のあるなしや、畏怖心を引き起こすか否かをカミの定義に組み込んでしまうことは、つくづく人間中心的なカミの捉え方かと思う。猫も陽だまりも太陽も、そのことを自分に教えてくれている。フローニンゲン:2022/4/10(日)10:11
8181. 『この音とまれ!(2019)』を見て/古代人の音の感覚
時刻は午後8時を迎えた。依然として気温が低い日が続いているが、日はすっかりと伸び、この時間帯でもまだ随分と明るい。それはライトブルーに透き通っていて、日が完全に暮れるまではまだ時間がありそうだ。
数日前に箏に関心を持ち、そこから箏に関する何か面白そうなアニメはないかと思って探したところ、『この音とまれ!(2019)』という作品を見つけて、ここ数日間をかけて見ていた。先ほど全てのエピソードを見終え、非常に素晴らしい作品を見ることできて心底嬉しく思った。
自分が関心を持った箏が取り上げられているということもあるが、この作品の主要な登場人物の背後にあるエピソードや思いが丁寧に描かれていて、それも相まって作品を通じて随所に感動する場面があった。
『鬼滅の刃』においても、登場人物や敵の鬼の背後にあるエピソードが丹念に描かれていて、同様の素晴らしさを見る。どちらの作品も、視点取得能力の高さが窺える。登場するキャラクターの背後にあるものを描くことによって、コンテクストがより豊かなものになり、キャラクターの背後にあるコンテクストが見事に重なり合い、見る者を引きつけ、引き込む世界観が生まれるのだと感じた。
ここ最近は、日本のアニメで秀逸な作品と数多く出会えていることを嬉しく思う。『この音とまれ!(2019)』という作品に触発される形で、自分も早く箏の演奏を楽しみたいという純粋な気持ちが高まる。
雲が一切なく澄み渡る夕方の空。時刻としてはもう夜であるから、夜の澄み渡る空と述べた方が正確だろうか。今目に映るのと同じく澄み渡る音を生み出したい。作曲においてもそうであるし、演奏においてもそうだ。
心を透き通ったものにすることと、無心になることは似た側面があるのではないかと思う。ここからもまだまだ精進を続けていき、自分なりの表現活動を毎日楽しみながら磨いていこうと思う。自分にとっては、学術研究もまた重要な表現活動の1つである。全ては自己の権限であり、自己の表現活動である。そのようなことを強く思う。
最後にもう1つ書き留めておきたいことがある。古代の日本人の音の感覚に注目し、とりわけ縄文人がどのように音を捉えていたのかに関心が芽生えた。彼らはきっと現代人には聞き取れないような音を聞き取ることができていたのではないか。そしてそれが彼らの死生観や霊性観を形作っていたのではないかという考えがある。
そのあたりも研究の範囲に含め、その研究の成果をもとに作曲と箏の演奏をしていきたい。日本人の意識の古層に眠っている音の感性·感覚を呼び覚ましていくような音を求めて探究をしていく。
日本人固有の霊性観と普遍的な霊性観の探究に向けて、音の奥深い世界を探究していこう。太古の人々の音の世界を知ることは、何か大きな扉を開けてくれそうだ。フローニンゲン:2022/4/10(日)20:26
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