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8142-8146: フローニンゲンからの便り 2022年4月6日(火)



No.3487 清らかな綿_A Serene Cotton


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1406, Our Well-Being

Our well-being is inextricably connected with the well-being of everything and everyone else.

Our well-being is a tapestry of interlinked connections of all things and beings.

Groningen; 09:12, 4/5/2022


No.1407, Invisible Hidden Dimensions

There are a number of invisible hidden dimensions in this universe.

Once we open our dormant senses, we may be able to perceive those dimensions.

Groningen; 20:48, 4/5/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8142. 貢献の道/今朝方の夢

8143. 今朝方の夢の続き

8144. 神道関係の学術書との良縁に感謝して

8145. 影に居場所を与える夢日記/リーダーシップの発揮に向けて

8146. ジャイナ教/今後の研究において大切にするべきこと


8142. 貢献の道/今朝方の夢


時刻は午前7時を迎えた。空にはうっすらとした雲がかかっていて、今は雨は降っていないが、今日は小雨が降るようだ。小雨程度であれば外出にはさほど支障がないので、午後にはジムに行ってこようと思う。


ここ数日間は、1996年から1998年にかけてハーバード大学神学大学院で10回以上にわたって開催された世界の宗教とエコロジーに関するカンファレンスをもとに執筆された論文集を読み進めている。それぞれの宗教ごとに500ページ近くの書籍としてまとめられていて、入手できるものは全て購入した。


神道とエコロジーに関するカンファレンスも開催されていたのだが、論文集のシリーズの中に神道だけがなかった。どうやら神道は英語ではなく日本語で書籍が出版されたとのことであり、ハーバード大学出版からそのような書籍が出されているかを確認したところ、結局見つけることができなかった。


こうした事情からも、神道が国際的な学会の場において非常に内向きであり、神道のプレゼンスの低さを痛感する。この点にも何か自分が貢献できそうなことがありそうだ。


神道における英語の論文は他の分野に比べれば圧倒的に少なく、逆に日本語で豊富に蓄積されている研究を自分の観点を付け加える形で積極的に論文にまとめていき、当該学問分野に貢献をしていこう。


そのようなことを考えながら、今朝方の夢について今少し振り返っている。今朝方は、日本の片田舎のコンビニにいる夢を見ていた。場所は山岳地帯であり、山を切り開いた場所にコンビニがあった。その周りは開拓が進んでいて、道もちゃんと整備されていた。


コンビニの中に入ると、店員の中年女性が挨拶をしてきたので、挨拶を返した。私は昼食を購入したいと思っていて、店内に置かれているものを色々と眺めた。ところが目星の商品はほとんどなかった。どれも体に悪そうに思えたのである。


食べ物が発しているオーラが鬱屈としていて、食べ物に活力や覇気を感じることができなかった。そうした食べ物を体内に入れてしまうと、こちらのエネルギーも減退してしまう。コンビニに置かれている食材の多くに肉が入っていることが気になり、無駄な殺生が横行していることを思った。


しかし消費者はおそらくそれに気づくことなく、商品に手を伸ばすのだろうと思った。何か口にできそうなものはないかと探したところ、唯一サラダならなんとか食べられそうだと思ったが、結局それも買うことをせず、水だけ購入してコンビニを出た。そのような夢の場面があった。フローニンゲン:2022/4/5(火)07:28


8143. 今朝方の夢の続き


今朝もまた静けさに包まれている。時の流れも緩やかで、穏やかな雰囲気と穏やかな時の流れに包まれながら、今朝方の夢の続きを振り返っている。


夢の中で私は、山と海の間に位置する洞穴にいた。その洞穴には温泉が湧いていて、それに浸かっていた。温泉の温度はちょうど良く、自然の恵みを実感しながらしばらく温泉に1人で浸かっていた。


すると、洞穴の上を誰かが歩いている音が聞こえた。この温泉は使用許可なく誰でも使えるので何もやましいことはなかったが、洞穴の上を歩いている人物も温泉に入ろうとしているのがわかったので、私は温泉から出て、洞穴の隅に身を潜めることにした。


洞穴の上を歩いていた人物が温泉のところまでやって来ると、その人物は小中学校時代の友人だった。彼は双子の兄の方だった。


私は彼に声を掛けようと思ったが、考えを変え、今身を潜めているのだから、突然彼に声をかけたら彼も驚くだろうと思った。なので、そのまま洞穴から外に出ることにした。


洞穴の外に出ると、ひんやりとした空気がとても気持ち良かった。すると、後ろから声を掛けられ、振り向くと、そこに大学時代の友人がいた。彼は私に、今から洞穴のある崖の上から海に飛び込もうと述べた。そこは崖から海に飛び込むことに適していて、温泉で温まった体を一度冷やすのに海に飛び込むのはうってつけだったのである。


崖の上から下を見ると、高さはあったが、海は穏やかで、ここから飛び込むことも不可能ではないと思った。私は意を決して、彼よりも先に海に飛び込んだ。着水の瞬間に水しぶきをあげたくなかったので、腕を天に上げて足を揃える形で、まるで針が海面に突き刺さるような形で着水した。


すると、見事に着水の水しぶきは抑えられ、崖の高さが高かったので、そのまま10mほど体が海の中に入っていった。さすがにこれ以上深く沈んでいくと息が苦しくなると思ったので、そこからゆっくりと海面に向かって上がっていった。


海面に顔を出すと、ちょうど友人の彼が飛び込もうとしていた。彼にぶつからないように、私は場所を空けるために崖の方に泳ぎ出した。すると、彼も飛び込み、激しい水しぶきを上げて着水した。


飛び込みを終えた後、気分爽快で洞穴に戻ると、地元の人たちが数人ほど山道を歩いていて、声を掛けられた。これから公民館のような場所で食事会をするのでどうかと誘われたのである。断る理由がなかったので、お邪魔させてもらうことにした。


公民館に到着すると、そこには小中高時代の友人(AF)がいて、彼はこの村に長く住み、村を取りまとめているポジションにいるようだった。早速食事会が始まり、雰囲気がとても良い中で、彼は私に声を掛けてきて、この村で起こった殺人事件について話をしてくれた。


それはちょうど私がこの村にやってきた頃に起こったらしく、彼は最初のうちはその事件の経緯や現在の状況について話をしてくれた。ところが、途中から、村の人々が自分を犯人だと疑い始めているということを聞かされ、とても驚いた。


彼は自分の無実を信じてくれていて、これからどのようにして無実を証明していくかを一緒に考えようということになった。なんだか楽しいはずの食事会がそうではなくなり、少し真面目に今後の対応を考えないといけないと思った。フローニンゲン:2022/4/5(火)07:51


8144. 神道関係の学術書との良縁に感謝して


時刻は午前10時半を迎えた。天気予報の予想が良い方向に外れ、今は小雨が降っておらず、静かな朝の世界が広がっている。予定では今日の午後にジムに行こうと思っていたが、ジムに行くのは明日にして、今日は近所のスーパーに買い物に出かけることに留めようと思う。


神道の研究を日々行っていると、徐々に自分の関心が焦点化され、洗練されていく一方で、関心がまた広がるという嬉しい現象がある。研究テーマがより明瞭なものになりながらも、同時にそのテーマに広がりをもたらすかのように、関心が同心円状に広がっていくのを実感している。


その現象が一番現れているのは、次々と面白そうな学術書が見つかることである。先ほど改めて神道に関する洋書を調べていると、今の自分にクリックする書籍を20冊ほど見つけることができた。検索結果に表示されたおよそ500冊ぐらいの書籍を全てタイトルなどから吟味し、20冊ほどが今の自分にとって購入に値するものだと判断した。


それらについてすぐに注文しようと思ったが、再来週の今頃はすでにバルト三国にいることもあり、それらの書籍の注文はバルト三国旅行から帰ってきてからにするか、最後に滞在するエストニア滞在中に時間があれば注文を終えておきたい。


神道関係の洋書は他の分野のそれに比べると遥かに量は少ないが、それでもそこそこの数はある。それらを中心にして、来年から仮に神学大学院に進学することになったら、学術書だけではなく、学術論文を旺盛に読み込んでいこうと思う。


学術書よりも学術論文の方が圧倒的に数が多いので、自分の関心テーマやトピックについて執筆された良質な論文と出会うことが期待される。とりあえず学術機関に戻るまでは、学術機関にいなくても手に入りやすい学術書を中心に読んでいく。そして学術機関に戻ったら、一般にはアクセスしにくく、入手にもコストがかかる学術論文を旺盛に読んでいこう。


今は、神道関係の学術書を通じて、神道に関する土地勘を養っていく時期である。そもそも自分が神道に関心を持って日が浅いので、今はとにかく神道に関する様々な知識を幅広く得ていくことが大切になる。その過程の中で、絶えず自分の関心テーマやトピックについて思いを巡らし、実際の論文の執筆に向けて少しずつそれらに関する知識を得ていけばいい。


最初からピンポイントで研究を進めていくこともできるが、神道に関する研究を一生涯行っていくことを考えれば、最初は研究の広さを確保し、今後の研究の発展性を踏まえて、今は神道に関する多様な知識を獲得していこう。それが懸命な道に思える。


幸運にも学術機関に戻れたら、論文だけではなく、一般に入手しにくい希少価値のある古書にもアクセスできるであろうから、研究がより進んでいくだろう。そんな楽しみがある。フローニンゲン:2022/4/5(火)10:37


8145. 影に居場所を与える夢日記/リーダーシップの発揮に向けて


時刻は午前11時に近づいている。この時間帯になっても小鳥たちのさえずりが聞こえるのは喜ばしいことである。彼らの鳴き声にどれだけ癒しを受けていることか。


先ほどふと、毎日夢日記を書くことを通じて、夢日記を書くというのは、夢という影に居場所を与えることであり、影の声を表現することなのだと気づいた。これはまでは特にそのような意識がない形で夢日記を書き続けていた。


少なくとも夢を書き留めるようになって7年ほどになるかと思うが、7年経ってようやくそうした気づきがもたらされた。実践と気づきの関係は非常に面白いものである。小さいように思えて重要な気づきは、ある時ふと天啓のような形で降って来る。


夢日記に関する上記の気づきもそのようなものであった。そうした気づきが降って来るための条件としては、実践を継続させていくことと、それについて書き留めることが重要なのだろう。


夢日記の場合は、最初から書くという行為が付随しているため、思わぬ気づきが降ってきやすいのかもしれない。つくづく人間にとって書くという営みの神聖さと不思議さを思う。


今日も午前中に、宗教とエコロジーに関する書籍を読み進めていた。それらの書籍の初読が終わったので、ここから神道に関する書籍を読んでいこうと思う。そうすれば、正午になるだろうか。午後からは、すでに初読を終えた神道関係の学術書を読み進めていく。


宗教とエコロジーを架橋させたテーマについて探究を進めていると、宗教家の方には人文社会科学と自然科学に関する知識と関心が薄く、逆に地球環境問題で主導的な立場にいる政治経済関係の人たちの方には宗教に関する知識と関心が薄いという対称性が見えて来る。


両者の対話を促していくこともまた自分の役割なのかもしれないと思えて来る。お互いの無知·無関心をどのように補完していくか、そのあたりの実践の道を探していこう。


宗教家がエコロジーの問題を扱う場合には、あからさまに自然科学の知識や政治経済に関する知識が不足しているのが見て取れる。逆に、政治経済の関係者がエコロジーを扱う場合には、経済合理性一辺倒の議論や偏った政治思想に裏打ちされた議論に終始しがちである。ここからも、真の意味で包括的かつ統合的に物事を考えることがどれだけ難しいかがわかる。


とりわけエコロジーのように複雑な問題を扱う際には、なお一層それが難しいのだろう。しかし、それをしなければ地球環境問題の改善·解決に向けた実行的な策を打ち出し、それを実現させていくことは不可能だろう。


普段はあまりリーダーシップという陳腐化された言葉を使わないが、この問題については率先したリーダーシップを発揮していこうと思う自分がいる。このあたりにも自己の変化を見て取る。フローニンゲン:2022/4/5(火)11:00


8146. ジャイナ教/今後の研究において大切にするべきこと


時刻は午後5時半を迎えた。先ほど近所のオーガニックスーパーに足を運び、自宅に戻ってきた。その後、隣の家に預かってもらっていた書籍を受け取った。宗教とエコロジーに関する学術論文集が4冊ほど届いた。いずれも分厚いものであり、つい今し方、ジャイナ教とエコロジーに関する論文集の初読を終えた。


以前、機内食でジャイナ教の食事を特別注文したことがあり、その時以来、ジャイナ教は気になる宗教であった。苦行と禁欲を掲げながらも、今でいうビジネスパーソンである商人たちの間で信仰が広がっていった興味深い宗教である。ユダヤ教、キリスト教、原始宗教とエコロジーに関する論文集を明日以降読み進めていこう。


午前中にふと、神道というのはひょっとしたら、インテグラル理論と同様に、本質的には非常に包容力のある思想·実践体系なのかもしれないと思った。神道の本質部分において、排除の思想はなく、抱擁と調和の精神をそこに見て取ることができる。


しかしながら、民族宗教ゆえに普遍性の訴求については難しいものもあるかもしれない。現代の要請としての種々の問題と神道が向き合っていく際には、そのあたりに課題や可能性を見つけることができる。これまで学んできたインテグラル理論と神道の接続をするような意識も持って研究に携わっていこう。


そこから、今後の研究において自分が大切にするべきことについて考えていた。端的には、重箱の隅をつつくような研究は自分にとって意義を見出せない。重要なことは、現代社会で実際に起こっている種々の問題や、文明の病理に焦点を当て、それらを生み出している構造やメカニズムの特定をし、それらに対して小さくてもいいでの具体的な処方箋を提示するような研究をしていきたい。神道の研究というのもそのような意識に基づいて行っていく。


宗教関係の研究は得てして、マニアックなものになりがちなので、自分にとって尚更注意が必要である。当然ながら、単純にその学問領域の知見を蓄積させていくという学問の本質的姿勢に則れば、マニアックな研究をしていても全く問題ない。だが、自分はそうした研究に意義を見出せず、自分はそのような研究をすることに自らの使命や役割を見出せない。


マニアックな研究が実践的な処方箋の提示に繋がる場合も当然あるが、そのように2つのベン図が重なり合うことは経験上極めて少ない。そうしたことから、自分の研究の焦点を常に、今人類が直面している何かしらの問題に置き、その問題の解決に向けた具体的な処方箋を提示することことに置く。エコロジーの問題を扱う時はまさにそうした形で研究を進めていく。


もう1つの研究の柱である死生観の問題を扱った研究をしていく際にも、同様の意識を持って研究に従事する。その他にも、特定の神道家に焦点を当てた論文を執筆していく場合においても、必ずこの現代社会が直面している現代的課題について何かしらの言及をし、現段階で自分なりに見出した処方箋のようなものを論文の最後に言及する形で論文を執筆していきたい。


自分にとって、論文を執筆するということそのものが社会的な実践であり、現代社会の治癒と変容に向けた試みであることを常に念頭に置く。フローニンゲン:2022/4/5(火)17:51

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