No.2937 無意識の炎_An Unconscious Flame
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1034, The Entire Universe
I’m not a drop of the universe.
Instead, I’m the entire universe of a drop.
Groningen; 19:17, 11/18/2021
下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。
本日の3曲
全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。
楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。
タイトル一覧
7490. 今朝方の夢
7491. 音読と言葉/発達理論との卒業に向けて
7492. 念のために病院へ/献身
7490. 今朝方の夢
時刻は午前7時半を迎えようとしている。辺りはまだ暗く、フローニンゲンの街が目覚めるのはもう少し後になるようだ。
今朝方は1つ印象的な夢を見ていたので、早速それについて振り返りたい。夢の中で私は、見慣れない空間にいた。そこはどこかの部屋なのだが、その建物がどこにあるのかは不明だった。
部屋の中は比較的明るくかったが、どこか殺風景だった。部屋には2人ほど見知らぬ人がいて、彼らが私の方に近づいてきた。すると、片一方は日本人の著名な社会学者の先生だった。
私はその先生とは初対面であり、お互いに自己紹介をした。もう1人の男性も初対面だったのだが、不思議とその人には自己紹介が不要かと思った。その人とはどこかで会ったことがあったような気がしたのである。
相手もそのように感じていたので、私たちはお互いに自己紹介の挨拶をすることがなかった。すると、社会学者の先生が私に1つ質問をしてきた。それは会計学に関するものだった。
厳密には、財務会計上の実務的な質問だった。それはかなり応用的な質問であり、単に財務会計を座学で学んでいるだけでは答えられないものだった。
私はその質問に対する自論を述べた。すると、先生は感心したような目をして、どうやってその答えを導いたのかを尋ねてきた。それに対して私は、大学時代に会計学を学んでいたことに加え、社会人になってからは実務で会計に触れていたからだと述べた。しかし先生は、そうだとしてもその質問はとても応用的なものであり、きっとまだ他に理由があるに違いないと微笑みながら述べた。
気がつくと2人はどこかに消えていて、その場が学校の教室に変わった。それはどこか実際に通っていた高校の教室のようだった。しかしその場にいた生徒たちは高校時代の友人ではなく、大学時代のゼミの友人が自分と同じ列の席に座っていた。
不思議とその他の列には誰も座っておらず、私が座っている列にだけ大学時代のゼミの友人がいたのである。何やら私たちは、これから公認会計士の試験を受けることになっていた。
私たちは短答式試験を突破しており、これから論述試験に挑むことになっていた。ところが、配られた解答用紙を見ると、それはマークシートを記入するものになっていた。
私は何かおかしいなと思いつつも、前に座っている女性友達から受け取った解答用紙をそのまま後ろの男性友達に渡した。よくよく解答用紙を見ると、マークシートが途中で切れていて、それをみんなに指摘した。
不思議なことに、その場には試験監督はおらず、マークシートの不備を誰に伝えればいいのか迷った。とりあえずみんなにその点には注意するように伝えた。
するとまたしても場面が変わり、教室から先ほどいた不思議な空間に場面が変わった。今度はそこで、敬愛しているアメリカの教育哲学者が私に、先ほどの社会学者の先生が質問した点に加えて、会計上の修正仕分けの切り方について質問してきた。
いやそれは質問というよりも、私の回答に足して付け加える形での指摘だったように思う。確かに修正仕分けが必要であり、その際に「標準費」という見慣れない勘定科目を用いることになったことを覚えている。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2021/11/17(水)07:36
7491. 音読と言葉/発達理論との卒業に向けて
時刻は午前8時半を迎えた。辺りはようやく明るくなってきたが、今朝は霧が出ているので少々薄暗い。風はなく、静かな世界が目の前に佇んでいる。
昨日、音読をしていると、書物が楽譜に思えて来るという体験をした。まるで著者の言葉が音楽のように響いて来たのである。
読書とは、著者の深層的なボイスを聴くという音楽鑑賞的な側面があるのだという体験だった。ここのところ、言葉の持つ力について改めて考えている。そして、書かれた文章を実際に声に出してみるという実践の力についても考えさせられる。
自分自身が毎日音読をするという直接体験を積む中で、その力の偉大さに目を開かされている。
昨夜ふと、現在開催している発達理論マスターコースを一つの集大成にして、来年からは発達理論に関する活動を極力控え、再来年にはその活動を限りなくゼロにしていきたいと改めて思った。これは前から考えていたことでもある。
当然ながら人間や社会の発達については一生涯を通じて探究していくことになるだろうが、それを発達理論という限定的なコンテクストで語るようなことはもうあまりしたくないというのが正直なところである。兎にも角にも自分にはもう次の、そしてさらに次の探究領域が見えているのだから。
それらの探究に移行していくためには、このあたりで発達理論に関する活動を収束させていく必要がある。すぐにはゼロにできないが、とりあえず来年からは当該活動を極力控え、再来年にはなとかゼロに近づけたいところだ。
今回の発達理論マスターコースが自分にとっても一つの集大成であることから、自ずとその関与に力が入っているように思う。コミュニティーのページは1日中開きっぱなしであるし、補助音声ファイルも相当の数を作っている。そうした姿を眺めると、やはり自分が相当に思い入れを持って今回のプログラムに従事していることがわかる。
卒業を気持ちよく行うために必要なことを行っていると言えるかもしれない。新たな探究領域に移っていくためには、既存の探究領域からうまく卒業していく必要がある。
もちろん卒業と言っても色々な方法がある。また卒業したからと言って、その領域に全く関与しないかと言うとそうでもない。ただし、今のような形で発達理論を取り上げるようなことはもうあまりしたくないのだ。
発達理論を通じて多くの素晴らしい出会いがあった。そうした出会いに感謝しながら、新たな出会いに向けて、自分は未知の探究分野に乗り出していく必要がある。
そこではきっとまた新たな素晴らしい出会いがあるだろう。このようにして自分自身の人生は進んでいく。
発達理論と然るべき卒業ができるように、ここからもう1ヶ月ほどのマスターコースに悔いなく関与したい。フローニンゲン:2021/11/17(水)08:47
7492. 念のために病院へ/献身
時刻は午後7時を迎えた。今日は天気に恵まれ、午後の仮眠を終えて買い物に出かけた際にはとても気持ちが良かった。
気温はすっかり冬のそれだが、太陽の暖かい光のおかげでどこか温かい気持ちに包まれていた。道中に横切ったノーダープラントソン公園の紅葉がとても美しく、池を泳ぐアヒルたちも気持ち良さそうであった。
明日の病院の診察に向けて二転三転考え事をしていたが、やはり念のため大事を取って病院の皮膚科で診察を受けることにした。もう肌はすっかり良くなり、夜中に痒みで目覚めるという辛い状況からは脱却できているが、専門家の意見を通じて思わぬ気づきや発見があるかもしれないと思ったのである。
実際にオランダの病院でサービスを受けるという体験もさることながら、今回10年間収まっていたアトピーの症状が突然勃発したことも何かのメッセージかと思い、念のため病院に行くことにした。
明日は9:05に診察を受ける予定になっていて、自宅から病院まで自転車で20分弱だが、早めに自宅を出発しようと思う。数年前に起業家ビザの申請にあたり、フローニンゲンの商工会議所を訪れる必要があり、病院は商工会議所よりも少し南に行ったところにある。
自宅から病院までの道のりは複雑ではないので、その点は安心だ。明日は午後から少し天気が崩れる可能性があるが、幸いにも午前中は天気が持つそうなので何よりである。
すでに隣人のインド人のサハルにはお願いをしていて、自転車を貸してもらえることになっている。夏に書籍の受け取りの際にサハルには自転車を借りていて、もう操作は慣れたものかと思う。
明日はオランダで初めて病院に行くことになる。これも何かの学びかと思うので、その体験を大切にしたい。
結局今日は1日を通して読書に充てる時間がなかった。それは否定的なことかと言うと全くそうではない。
読書以上に重要なことは、自分がこれまで学んできたことを他者に共有することであり、対話をすることである。今日は協働者のアントレプレナーファクトリーさんと1年半近く行っている発達理論のアンバサダーコースの定期ミーティングがあったのだ。
2ヶ月に1度のこのミーティングも、今日で10回目を迎え、そうするともう2年弱の取り組みなのだとわかる。今、改めて振り返ってみてそれに気づいた。
定期的に活動を続けていたので、その蓄積に気づかなかったのだ。おそらくこれでいいのだと思う。
その取り組みに従事している最中はそれに専心しているのだから、何かが蓄積されているという感覚は特段もたなくてもいいのだ。ある時振り返ってみたときにそこに確かな足跡が残っているということ。それでいいのだろう。
明後日にはまたマスターコースがある。今は本当にこのコースにできる限りのことを捧げる気持ちでいる。明後日の第3回目のセッションが今からとても待ち遠しい。
5年前の自分、10年前の自分がこのような取り組みをしていることを想像できただろうか。あの時の自分は、今の自分が発達理論を通じて素晴らしい出会いに恵まれているということなど想像できなかったに違いない。
人間発達というテーマは、自分に出会いを運んでくれたのである。今回のマスターコースの参加者の方々との出会いは、まさにそのような贈り物なのだ。
それに対して深い感謝の念を捧げながら、今日という1日をゆっくりと終えて行こう。さすればまた明日は、さらに輝いた1日になるのではないかと思う。
世界がどれだけ闇に覆われても、世界を照らす光のような存在であり続けることは自分の大切な役割なのではないかと思う。フローニンゲン:2021/11/17(水)19:25
Commentaires