No.2889 夕方の神_An Evening God
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1013, A Morning March
I can hear a morning march from somewhere.
It navigates me to a peaceful place.
I hope that everybody can find such a place.
It would feel like our mother ocean.
Groningen; 08:23, 11/4/2021
No.1014, My Ultimate Concern
What is my ultimate concern?
I pondered it for a while.
All of my answers lead to the meaning of my existence and the world.
Also, all of them reached where the world and I will go from now.
Groningen; 17:44, 11/4/2021
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本日の3曲
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タイトル一覧
7463. テクノロジー神学者としてのポール・ティリッヒ/今朝方の夢
7464. パスカルの指摘/神学者の本質
7463. テクノロジー神学者としてのポール・ティリッヒ/今朝方の夢
時刻は午前7時半を迎えた。早朝より、暖房が大活躍している。今も暖房がせっせと働いてくれていて、そのおかげで部屋の気温が維持されている。テクノロジーの恩恵を実感する。
テクノロジーということで言えば、神学者のポール·ティリッヒが「テクノロジー神学者」と呼ぶにふさわしいほどに、テクノロジー社会における人間性について深い考察を残していることを昨日の読書を通じて改めて思った。
現在ティリッヒの書籍を再読中なのだが、マルクス、キルケゴール、ニーチェ、フロイトといった思想家についても造詣が深いことが本文の記述がひしひしと伝わって来て、探究範囲の広い神学者であったことがわかる。
その背後には、同時代の具体的な課題を直視し、その課題を乗り越えていく形で人間の救済を希求したティリッヒの在り方が存在しているように思える。この点には大いに共感するところである。
今日は午前中に、ティリッヒの書籍の残りの箇所を読み進めていく。おそらく午前中に再読が終わるであろうから、そこからはバーナード·スティグラーの“Nanjing Lectures 2016-2019”の音読を始める。
こちらの初読はすでに終わっているのだが、本書は分量は多いが、内容的にとても濃く、得られるものが無数にあるであろう。今日の読書も楽しみながら行いたい。
今朝方の夢を静かな気持ちで振り返っている。今朝方の夢の世界は総じて落ち着いていたように思う。覚えていることがあるとすれば、起床前に見ていた場面だろうか。
夢の中で私は、ドイツを思わせる街にいた。その街にある大学院に入学し、そこで神学の勉強をしていた。実際のところはアメリカの大学院に正規の席があり、今はドイツに留学しているようだった。
自分の関心領域に関する優れた教授がその大学院にいて、今はそのドイツ人教授から直接に教えを受けていた。教授の研究室を訪れると、そこは昼の太陽の光が降り注いでいて、とても明るく、そして暖かかった。
とても気持ちよくさせてくれる雰囲気の中、私は教授との会話を始めた。そのような夢の場面があった。
その他にも何か夢を見ていたように思うが、何か思い出せないだろうか。
もう1つの夢は、少し冒険心に溢れるようなものだったように思う。自分を高揚させてくれる何かがその夢にあり、自分は子供のように無邪気な心でその場にいたのを覚えている。その高揚感を受け継ぎながら、今日の取り組みを純粋な気持ちで進めていきたいと思う。フローニンゲン:2021/11/4(木)07:45
7464. パスカルの指摘/神学者の本質
時刻は午後5時を迎えた。辺りはすっかり薄暗くなり、世界は夜に向けての準備を始めている。
今日もまた落ち着きの中で自分の取り組みを心ゆくまで行っていた。今日の読書を通じて考えていたことを備忘録として書き留めておきたい。
パスカルが指摘するように、私たちは自分たちの矮小さと偉大さの双方を見つめなければならない。矮小さだけでも偉大さだけでもなく、そのどちらも共に見つめることが重要である。
矮小さだけを見つめることはあまりに卑屈であり、偉大さだけを見つめることは自我の肥大化を引き起こしかねない。それらの両方を等しく見つめるには、それ相応の意識の器が必要になるだろう。
それを涵養しながらそれらの1つ1つを見つめていくこと。尊厳を失いながらも、同時に自我が肥大化している奇妙な人間群が現代社会に蔓延っている姿を見ると、この点は社会的にやはり重要だ。
神学者のポール·ティリッヒは、神学者とは実存的な究極的関心のもとに自己と世界を見つめることのできる者だと定義した。自分の存在の意味と世界の存在の意味を深く内省しながら、同時代の課題に向き合っていくことのできるものが神学者だと言い換えることもできる。
この定義は大変共感するものがある。神学に関する座学を学ぶことによって人は神学者になるのではなく、己の実存的究極的関心事項をもとに自己と世界を絶えず深く理解しようとする姿勢を持ちながらこの世界に関与することのできる者が神学者になるのである。
早いもので、明日からはいよいよ友人の鈴木規夫さんとの発達理論マスターコースが開講される。想定よりも多くの方に参加いただけることは主催者の1人としてとても嬉しいことである。
これから年末にかけての2ヶ月間は、このマスターコースに注力していこう。それに並行する形で、日々少しずつ自分の探究を続けていく。
2021年も充実した形で締めくくることができそうだ。それによって、来年もまた充実した年になるような架け橋をかけることができるのではないかと思う。フローニンゲン:2021/11/4(木)17:30
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