No.2817 夜の宇宙_The Universe at Night
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.962, Unification
A serene Monday morning is whispering gently.
Everything is listening to the whisper.
Everything unites with the morning.
Groningen; 09:01, 10/11/2021
No.963, Determination and Indetermination
Any moment in our life has a bifurcation.
Which way do you want to choose?
Any bifurcation is given to us in a determinate way.
Yet, we can choose either way by our own free will.
Groningen; 21:00, 10/11/2021
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本日の3曲
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タイトル一覧
7401. お箸と今朝方の夢
7402. お箸から見る気遣いの精神と進歩・進化について
7403. データと事実/新自由主義と意識の発達/公共空間と絶望の海
7401. お箸と今朝方の夢
時刻は午前8時を迎えた。今日から新たな週が始まった。ドイツ旅行からフローニンゲンに戻ってきて初めての月曜日が今日から始まる。
昨日の天気予報では、今日は小雨が断続的に降るとのことだったが、先ほど天気予報を改めて確認すると、小雨が降るのは今夜から明日の朝方にかけてのようである。活動している時間帯に雨が降らないというのは有り難い。
昨日、近くのオーガニックスーパーに足を運んだのだが、日曜日が休みだということをすっかり忘れていて、結局購入したいものを買うことができなかった。なので今日の午後にもう一度足を運ぼう。
その前後に、隣のアジア雑貨店に足を運び、お箸を一膳購入したいと思う。ここ最近筋トレをした日とその翌日の夕食には寿司を食べるようにしていて、これまでは寿司をフォークで食べていたが、日本人としてそれは納得が行かず——この6年間にも寿司を食べることはあり、ずっとフォークで食べていたのだが——、お箸を購入することにした。
7、8年前に家族で熊本に旅行に行った時、そこで自分だけのオリジナルのお箸を作ってもらったのだが、そのお箸はずいぶん前に使えなくなって処分してしまっていた。それ以降はお箸を使わない生活が続いていた。
昨日そのアジア雑貨店を覗いたところ、店は閉まっていたが、ガラス越しにお箸が置いていることがわかったので、今日はそこでお箸を購入したいと思う。お箸は、日本人の魂の食事道具である。
そのようなことを考えながら、今朝方の夢について振り返っている。どうしたことか、やはりドイツ旅行から戻ってきてからというものの、夢の逃げ足が早い。そもそも記憶に残る夢をあまり見ていないようなのだ。
無意識の世界が旅で得られた刺激をゆっくりと咀嚼していて、旅から戻ってきた日常の刺激を受け取っておらず、それゆえにあまり夢を見ないのだろうか。
とは言え、今朝方にも何とか捕まえられそうな夢の記憶はある。夢の中の一場面として、屋外の明るい場所にいたものがあった。
青空の広がる空の下で、私は草原の上に仰向けになって横になっていた。青空をゆっくりと進んでいく雲を眺めながら、ぼんやりと空を見つめていた。
すると、自分が空と一体化するような瞬間があった。そこからの自分は文字通り空であった。
ひとたび空になると、自分はどこまでも果てしなく続いていくことがわかる。だって空なのだから。
空はこの世界のどこまでも続いている。空は全てと繋がっていて、宇宙全体とも繋がっているのだ。
なるほど、仏教における「空(くう)」というのは、空(そら)の本質的な特性と密接不可分にあるのではないかと思った。どちらも全ての存在と繋がっているのだ。
そのような気づきを得ると、仰向けに横になっている自分の視界に、1人の男性の顔が現れた。見知らぬ男性がやって来て、私の顔を覗き込んだのである。
私は驚いて飛び起きたところ、その男性はケラケラ笑っていた。そして私も思わず笑った。
その男性は見知らぬ人だったが、どこか親近感が湧き、そこからはしばらく話を楽しんでいた。その男性は、空が連れてきてくれた人だったのだろうか。
空は果てしなくどこまでも続き、空は様々なものを連れてきてくれる。フローニンゲン:2021/10/11(月)08:23
7402. お箸から見る気遣いの精神と進歩・進化について
ゆっくりと今日という日が終わりに近づいている。時刻は午後7時を迎え、辺りはもう随分と暗くなっている。
今日という日は何も書かれていないところから始まった。だが、このようにして今日は書かれたものになった。
明日はまだ何も書かれていないということを知っているだろうか。明日は、自分の言葉で書かれることを待っているのである。
書かれることを待つ日々。そして、書かれながらにして立ち現れてくる日々。日々は書くことの応答として充実さの輝きを放つ。
今日は午後にトレーニングをし、しばらくしてから夕方に近所のオーガニックスーパーに出かけた。その前に、スーパーの横のアジア雑貨店に立ち寄った。
オランダでは月曜日が休みな店が多いが、幸いにもそこは開いていた。店に入ると、奥から気さくそうな店主の中国人女性がやって来た。
お箸を探しているということを伝えると、笑顔でお箸が置かれている場所に案内してくれた。そこからは箸を使ってご飯を食べることに関して意気投合した。自分はもう何年も箸を使わずにご飯を食べていたので現金なものである。
フォークで寿司を食べていたことを店主の女性に伝えると、店主は笑いながら、それでは寿司が壊れてしまうでしょうということを述べていて、まさにその通りであった。それが不便で今回箸を購入することにしたのである。
肉体改造トレーニングをする日はいつもより炭水化物やタンパク質を摂る必要があり、寿司を夕食に食べるようになった。しばらくフォークで寿司を食べていたのだが、店主の言う通り、時々寿司がばらけてしまうことがあったので、今回箸を購入することにしたのである。
早速先ほどの夕食で箸を使ってみたところ、やはり箸というのはいいものだと思った。そこからふと、箸を使う日本人や中国人というのは、食材に対して気遣いがあるのかもしれないと思った。崩れやすいデリケートな食材に対してそれをそっとつまむような配慮というものがあるのかもしれない。そんなことを考えていた。
東西の食に対する接し方の違いについて考えていると、進歩(progress)という発想そのものが西洋的な物の見方かもしれないということについて先ほど考えていたことを思い出した。
ヘーゲル的な進歩史観的な発想が西洋に横たわっているのは確かであり、ダーウィンの進化論を始め、西洋の思想と科学において進歩や進化というのは所与の神話になっているかのようである。一方、東洋においては変化に言及する思想家はいても、進歩について直接言及する思想家はあまりいなかったのではないかと思う。
現代は著しい変化を遂げていても、果たして進歩していると言えるのだろうか。健全な進化の道を辿っていると言えるのだろうか。そのような疑問が頭をもたげる。フローニンゲン:2021/10/11(月)19:21
7403. データと事実/新自由主義と意識の発達/公共空間と絶望の海
静かな夜の世界がこちらを覗いている。自分はそうした夜の世界からの呼びかけに答える形でそちらを覗き返している。この瞬間に両者が出会う場所がある。
フランクフルト学派に起源を持つ批判理論は、データと事実を分ける点に特徴を持っている。データは理論的なシステムを参照しながらの解釈を要求するが、事実はそうではない。
果たして現代人は世の中に溢れる情報に対してどのように向き合っているのだろうか。おそらくは、大部分はそれを事実として鵜呑みにし、何ら検証を加えない形で接しているに違いない。
データと事実を峻別する批判的観点もなければ、データに対して解釈を加えるような健全な批判精神もないのである。そうした精神がないばかりか現代人は、近視眼的な発想にも囚われている。
新自由主義は近視眼的発想を私たちに強いるが、まさにその餌食になってしまっているのが大半の現代人だろう。
発達心理学者かつ精神科医のエリオット·ジャックスは、認知的発達と思考の時間軸の発達の相関関係を明らかにしたが、その観点からすれば、現代社会を覆う新自由主義的な発想のもとで無自覚に生きていることそのものが、私たちの意識の発達を大きく阻害させている一要因になってしまっているように思える。
単純に政治経済的な側面だけではなく、意識の発達という観点においても新自由主義の害悪さを目の当たりにする。
そこから、現代社会の公共空間(public space)について考えていた。
本来公共空間というのは、ハーバマスが指摘するように、お互いの精神を健全に保ち、育んでいく場であったはずなのだが、今となっては不安を共有し、不安を増幅させるような場になってしまっている。
今朝方聞いていたBBCのポッドキャストの中で、人々がネガティブなニュースを聞き続けることによって不安が増幅されるというスパイラルに陥っていることを知った。
公共空間の中で流布しているニュースの大部分はどれも悲観的·絶望的なものばかりであり、人々は絶望の海に投げ出されていると形容できるかもしれない。
絶望の海から人々が這い上がってくる姿もほとんど見えず、絶望の海に絶望の海を覆いかぶせるような形で人々は悲観的·絶望的なニュースの中で溺れている。しかもそれが日常になっているがゆえに、そうした危機的状態に対してほぼほぼ無自覚なのだ。
絶望の海の中で茹でガエルになっている現代人。彼らの救済の道がどこにあるのかを探す日々。
道がなければ作らなければならないのかもしれない。日々の探究と実践を通じて、少しずつその道を作っていこう。
辺りに広がる闇夜が静かにその決心を促す。フローニンゲン:2021/10/11(月)19:32
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