No.2802 トリアーの夢夜_A Dream Night in Trier
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.954, Crystal-Clearness
This morning is a little bit foggy,
Yet, my mind is crystal-clear.
I can see anything perspicuously thanks to my pellucid eyes.
I look forward to what I can see today.
Groningen; 08:08, 10/7/2021
No.955, A Diamond-Like Day
Today was like a diamond.
It was brilliantly shining.
Everything was lucid and radiant for me.
I hope tomorrow will be the same.
Groningen; 20:59, 10/7/2021
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本日の3曲
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タイトル一覧
7390. 今朝方の夢
7391. 偶有性/真性の光を求めて
7390. 今朝方の夢
時刻は午前7時半を迎えた。今朝もまた起床した時に自動でヒーターが入っていて、今もそれが動き続けている。今の外気は8度と低いので、ヒーターが自然に入るのも納得である。今夜は6度まで気温が下がるそうだ。
今朝方は起床直前に印象的な夢を見ていた。ところが、ここ最近の夢と同じように、その逃げ足は早い。
ドイツ旅行から戻って来てからこうした現象にたびたび見舞われている。それでも何か覚えていることはないかと想起している。
夢の中で私は、今のオランダの自宅にいたように思う。そこで発達理論を含めた幅広いテーマに関して音声ファイルを作っていた。
その時の自分は、音声ファイルを作ることを重要な表現活動及び創造活動だとみなしていて、作成中は嬉々としていた。そのような場面があったことをまず思い出す。
確かに昨日の現実世界において、オンラインセミナーの後にそれを補足する意味での、そして感想戦としての意味での音声ファイルを14個ほど作成していた。時間にして3時間ほどのものだった。セミナー自体は90分のものだったから、セミナーの2倍の分量を1人語りしていたことになる。
それでも就寝前のベッドの上で、そう言えばまだ話し足りないことがあり、翌日にもまた音声ファイルを作成しようと思っていた。そうした思いが夢として形になったのかもしれない。
その他にもどのような夢を見ていただろうか。間違いなくあと1つ夢があったはずだ。
そこには自分以外の誰かが登場していた。感情としては肯定的なものであり、夢の中に充満する雰囲気もまた良かった。
ただし、それらが輪郭としてぼんやりと浮かび上がっているだけであり、夢の中身そのものは思い出せない。昨日のようにふと思い出すことがあるかもしれないので、いったんここで夢の想起を保留しておこう。
保留すること。その姿勢は重要である。何かを掴みに行くだけではなく、掴むためにその場に留まるのである。その重要性を自分は知っている。
であれば、それを夢に対して適用してみよう。そうすれば、何かがまた自発的に開かれてくるかもしれない。
今日は、昨日に引き続き、テクノロジー哲学者のアンドリュー·フィーンバーグの書籍を読み進めていく。その初読が終われば、ポストヒューマンに関する書籍を読み、可能であれば、神学の記号論に関する興味深い書籍に着手する。
今日もまた昼前に1件ほどオンラインミーティングがあり、午後からは筋力トレーニングに励む。トレーニング後は昨日に引き続き音声ファイルを作成したり、シナリオとしては完成したゲームの動作確認を継続して行おうと思う。今日もなんだかとても充実した日になりそうだ。フローニンゲン:2021/10/7(木)07:55
7391. 偶有性/真性の光を求めて
時刻は午前10時を迎えた。フローニンゲンに戻って来ての3日目が始まった。
先ほどまで読書をしていたのだが、それはどこか渇きを癒すかのような行為に思えた。旅を通じて書物から離れたことと、旅そのものから得られた刺激によって、読書に向かわせる強い力が働いているのかもしれない。旅の効能はこうしたところにも現れているのだ。
確かに自分は数日前までドイツにいたのだが、その記憶が不思議な形を取り始めている。ドイツ旅行の記憶がどこか偶有的なのだ。
アリストテレスはかつて、存在することもしないこともありうる存在のあり方を「偶有性」と述べたがまさにそれである。あの旅は存在していたとも言えるし、存在していなかったとも言えるような不思議な感覚がある。
もう少しこの感覚を言葉にするならば、確かに存在論的にも認識論的にもあの旅はあったと言えるのだが、あの旅があの形で在ったということがどこか奇跡的なことのように思え、それがあの旅の存在性を肯定的な意味で透明化させているように感じる。おそらくこの説明は、今自分が感じている内的感覚を比較的適切に描写していると思われる。
先ほど、科学の2つの内在特性である定量化(quantification)と道具化(instrumentalization)について考えていた。科学はまさに定量化を通じて分析を進めていき、分析結果をもとに対象あるいは発見事項を道具的に活用する。
科学が開示してくれる定量的真実の重要性を認めながらも、自分は実存的真実をより希求する。
果たして、客体宇宙と主体宇宙というのは同じ大きさを持つものなのだろうか。どちらも無限に広いものなのだろうか。あるいは、主体宇宙の方が深く広いものなのだろうか。
霧に包まれたフローニンゲンの朝にそのようなことを思う。
霧、そして闇。
虚構の擬似的な光に包まれながら歩みを進めることで、果たして本当の光が見えるのだろうか。すなわち、この現代社会に対して希望を持って実践を行うことを通じて、真実の光など見えるのだろうか。
自分は、透徹した眼差しで絶望を見据え、深い絶望の中でそれでも歩みを続けることで初めて真実の光が見えてくるのではないだろうかと考える。真性の光を求め、それをこの世界に具現化させるというのはそういうことを指すのではないだろうか。
希望から出発するというのはナイーブな楽観的態度であるばかりではなく、結局のところ本当の光を見出すことに失敗してしまうのではないだろうか。
今朝はまだ夜が明けぬ闇から始まった。闇から出発した自分がここにいる。
フローニンゲンの冬。それは、毎日深い闇から出発することを自分に突きつけてくる。アメリカ西海岸で生活をしていた頃と1日の始まり方が随分違うということをふと思う。
大部分の時間を闇に包まれながら過ごすことのできることの幸せ。その幸せを自分だけが享受していても仕方ない。
自分に求められていることは、闇から出発し、闇の中を歩くことを通じて知覚された光をこの世界に共有することである。それが今この瞬間、この土地で生きることを宿命づけられた自分が果たす重要な役割である。フローニンゲン:2021/10/7(木)10:19
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