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7316-7319: フローニンゲンからの便り 2021年9月11日(日)



No.2686 内面の海_The Inner Sea


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.892, Creativity

My life is saturated with tremendous creativity.

Today would be also immensely creative.

Everything in my life stimulates and cultivates my creativity.

Groningen; 07:28, 9/11/2021


No.893, The Essential Principle of This Reality

Nothing becomes something.

Anything becomes nothing.

That would be the essential principle of this reality.

Groningen; 20:54, 9/11/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7316. 今朝方の夢

7317. 道具的理性/テクノロジーに使われる道具としての人間

7318. 空間と記号論、空間と自然

7319. ドイツの思想家ビュンチュル·ハンとの出会い/龍樹とミラレパに関する知られざる共通点を見つけて


7316. 今朝方の夢


時刻は午前7時を迎えた。昨日から再び涼しさが戻り、今日からは肌寒さを感じられるような日々に戻るようだ。実際に、最高気温は19度までしか上がらない。明日からもほぼ同様の最高気温であり、最低気温に関しては今日よりも低い日が続くようだ。


洗濯機の回転速度が早くなり、洗濯は間も無く終わるだろう。今日もまたゆっくりと新たな日が始まろうとしている。


昨日は動画撮影に多くの時間を充て、その後も10個ほど音声ファイルを作成していた。そして映画も3本ほど見ていたので、読書からは離れていた形になる。


今日は読書に力を入れたい。8月には250冊ほど書籍を注文していたが、大して積読状態になっていないのは、日々かなりの量の書籍を読んできたからだろう。今日は十分に時間があるので、4冊か5冊ぐらいの初読を終えることができるのではないかと思う。


今朝方の夢を静かな気持ちで思い出している。夢の中で私は、高校時代のクラスメートの友人の家に行き、そこで彼と遊んでいた。しばらくすると、彼の友人がその他にもやって来て、彼らはみんな私の友達でもあった。


彼らのうちの2人が私の近くにいたので、彼らと話をしていた。すると何かのきっかけで、あるゲームについての話になった。それは可愛らしいキャラクターのキーホルダーが動き出すゲームであり、そのキャラクターから瞬間的に出される左右の触手のうち、どちらが長いかを答える少しシュールなゲームだった。


私は2人に、なんでそんなゲームを常に携帯しているのかを尋ねてみたところ、キャラクターが可愛いからとのことだった。そこから話が変わり、1人の友人が、私の体つきが随分とたくましくなっていることを指摘してくれた。


少し前に始めた筋トレの成果が他人にもわかるように現れ始めているようであり、嬉しく思った。自分の体つきの変化に気づいてくれた彼もまた体を鍛えていることが見た目からわかり、いい腕をしていた。


次の夢の場面では、小中学校時代の同窓会の宴会の席にいた。そこで私は、1人の親友(SI)と1人の女性友達(NI)と3人でお互いの近況について話していた。2人とも結婚をしていて、子育ての話をしてくれた。


すると私の意識は海辺にあり、そこで彼らの子供と将来の自分の子供と一緒にバーベキューをして楽しんでいる姿が浮かんできた。


もう1つ覚えていることとしては、夢の中で自分は実際に通っていた高校の教室にいたことである。あまり話したことのなかったある女子が私の机の引き出しからノートを取り出し、「次の曲はどんなの?毎回新しい曲を楽しみにしている」と述べた。


彼女が取り出したノートは自分の作曲ノートであり、そこに作った曲の全てが記録されている。私は、彼女がまさか自分が作った曲を毎日聴いてくれているとは知らず、嬉しく思った。


そして、これからはもう少し人に聴かせれるような、人が何かを感じてくれるような曲を作ろうという気持ちになった。フローニンゲン:2021/9/11(土)07:25


7317. 道具的理性/テクノロジーに使われる道具としての人間


私たちは気をつけなければ、すぐさま道具的理性に絡め取られるということ。フランクフルト学派の始祖のテオドール·アドルノとマックス·ホルクハイマーが執筆した“Dialectic of Enlightenment”という書籍の内容を思い出しながらそのように思った。


本来手段であったはずのものが、いつの間にか目的に変わってしまい、私たちはそのすり替えに気づかない形で、自らの知性や存在そのものをその目的達成のための道具のように活用してしまう。そうした事態は今に始まったことではなく、人間が理性を獲得した時から脈々と生じていることなのだろう。


ハイデガーの技術論に触れていると、“standing reserve (Bestand)”という言葉によく出会す。ハイデガーは、テクノロジーは私たちに物事を“standing reserve”として顕現させると指摘した。この単語がどのように日本語に翻訳されているのかは不明である。


“reserve”というのは、「予備」「備え」という意味や、「保護区」というような意味がある。さらには「沈黙」という意味もある。それらの意味する事柄は、確かにテクノロジーの性質に当てはまりそうである。


すなわち、テクノロジーというのは、それそのものとしてはある種価値中立的に黙ってそこに佇んでいるような存在だが、ひとたび人間がそれを見出すと、そこに価値評価的な判断が生まれ、テクノロジーは即座に何かのために良し悪しという判断基準のもとにこの世界で使われる。


テクノロジーそれ自体は「空(くう)」のようなものだが、それは常に何かのために存在しているという見方もできる。テクノロジーは、常に何かのために活用されることを待っているような備えとしての存在。そうした構えを持っている存在なのだ。


しかし、上記の道具的理性の問題と絡めてみると、人間はテクノロジーを何かの目的のために活用していたところから、気づけばテクノロジーに取り込まれる形で、人間という存在がテクノロジーの道具になってしまったかのような転倒現象が生じる。


道具としてテクノロジーを使っていたはずの人間が、いつの間にかテクノロジーの道具になっているという悲劇、ないしは喜劇、あるいは笑劇。


人間はテクノロジーに溢れたこの社会に埋め込まれる形で形取られ、テクノロジーの道具として駆り立てられている——enframingされている——。人間がAIを活用するのではなく、AIが人間を活用する現象の遥か前から、人間はテクノロジーの道具と化していたのである。


時計という道具によって時間に縛られている人間は、ある意味時計の道具なのだ。時計を活用していると思っている浅はかな思考の背後には、すでにその道具によって奴隷となっている自らの存在があるのだ。フローニンゲン:2021/9/11(土)09:30


7318. 空間と記号論、空間と自然


時刻は午前11時半を迎えた。昨夜の段階の天気予報とは異なり、今日は雨が降らないようだ。空は確かにうっすらとした雲で覆われているが、雨が降らないので午後に近所のスーパーに買い物に出かけようかと思う。


午前中の時間に3冊ほどの書籍の初読を終えた。読書をしながら考えていたことを書き留めておきたい。


場所は固有の歴史を持つ。それはよく言われることだ。一方で忘れがちなのは、いかなる場所もそこは元来自然だったということである。


さらに言えば、いかなる場所も今その瞬間において自然の一部であるということ。人はそれを忘れがちだ。


また、いかなる場所も何かしらの象徴性を帯びている。それは社会的シンボルとしての機能も担っている。


歴史·自然·象徴としての空間。その観点で身近な空間と接してみよう。


チャールズ·サンダース·パースの記号論と絡めると、空間はsignifier、signified、そしてreferentの全ての要素を持っていることがわかる。


存在論的に、ある空間はreferentを持っていて、その空間が言葉として表現された場合には、即座にsignifierとsignifiedの双方を生み出す。空間に対するこうした記号論的な見方に対して、時間と記憶の観点を加えてみよう。


物理的な空間を超えて、知性や思考を司る抽象的な空間に目を向けてみると、そこで知性や思考、さらにはスキルといったものが建築空間的に構築されていく様はやはり興味深い。


これは自分の専門である認知的発達心理学で言われている事柄なのでそれそのものは全く目新しくないのだが、特定の知性や思考、そしてスキルと呼ばれる目には見えないものが、目には見えない抽象的な空間の中で各々場所を見つけ、その場所に建築的に構築物が出来上がっていく姿が不思議なのだ。


ここから作曲実践を挟み、再び読書に戻って来たいと思う。その際には、ゼロの記号論に関する書籍と、資本主義と死への衝動に関する書籍を読み進めようと思う。それら2冊はそれほど分厚いものではないので、今日はその他にもまだ書籍が読めるかもしれない。


夕方にはいつものように、現在創作中のゲームのシナリオを作っていく。そして夜は映画を2本ほど見ようと思う。


探究と創作、創作と探究の往復によって日々が静かに進行していく。自分はこの流れと同一化し、探究と創作という存在としてこの世界で引き続き生きていく。フローニンゲン:2021/9/11(土)11:43


7319. ドイツの思想家ビュンチュル·ハンとの出会い/

龍樹とミラレパに関する知られざる共通点を見つけて


時刻は午後4時半を迎えようとしている。早朝の天気予報から変化があり、今少し小雨が降っている。ちょうど買い物に出かけようというタイミングで雨が降り始め、もう少ししたら雨が止みそうなので、しばらく待ちたいと思う。


今日はこれまでのところ、6冊ほどの書籍の初読を終えた。読書がとても捗った1日であった。


その中でも、韓国生まれのドイツの思想家ビュンチュル·ハンの“Capitalism and the Death Drive”の書籍は大変興味深い内容であった。彼の生き様に共感するものが多く、その他の彼の書籍もきっと啓発をもたらしてくれるであろうから、残りの書籍も全て購入しようと思った。


今月末から10月の初旬にかけて行われるドイツ旅行から帰ってきたら、シモン·ワイルの書籍、そしてベーシックインカムに関する学術書に合わせて、ハンの書籍で英訳されている15冊ほどの書籍を購入したい。


ハンはもともと韓国の大学で冶金学を研究していたが、ある時韓国社会で生きることに実存的問題意識を覚え、ドイツ語が全く話せない状態でドイツに飛び込み、冶金学者から哲学者へと転身を遂げた。自分はこうした既存の社会に不適合で、尚且つ己のダイモーンに導かれた人間に共鳴することを改めて実感する。


そこから仏教に関する書籍を読んでいると、龍樹とミラレパが意外な実践を行なっていたことを本日初めて知り、大きな驚きを得た。この点についてはさらに文献調査を進めていこうと思う——知識が一人歩きする危険性を考えて、その共通点が何かはここで明記しない——。


早速文献を探したところ、良書を1冊見つけたので、それもドイツ旅行から戻ってきたら購入しようと思う。


それにしても、知識というものが持つ覆いを外す性質と、対象に覆いをかける性質の双方を改めて実感する。知識がなければ全く見えない現象がこの世界には無数に存在しており、個人が獲得できる知識には限界があることから、私たちは誰しも無知のベールに覆い隠される形でこのリアリティを生きていると言えるだろう。


今日得られた龍樹とミラレパに関する共通項に関する知識は、自分の無知のベールを1つ剥がしてくれた。そのベールが剥がれたことにより、仏教芸術を見る際の視点が変わったことも嬉しいことである。今後美術館において仏教芸術を見る際には、今日得られた密教的知識を用いてそれらの芸術作品を鑑賞したいと思う。


そう言えば、ミラレパについては彼の詩集を半年前に読んでいて、改めてそれを読んでみようと思った。今日得られた知識は、ミラレパの詩的知覚体験を紐解く上でも非常に有益だと思われる。フローニンゲン:2021/9/11(土)16:36


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