No.2685 虚数の充満_Abundance of Imaginary Numbers
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.890, Continuing to Walk
I’ll continue to walk at my own pace today, too.
Each of my footsteps is precious and important.
I’ll not look back but just continue to walk.
Groningen; 07:53, 9/10/2021
No.891, The Rhythm of Time
Once we know the rhythm of time, we can fly anytime and anywhere.
Groningen; 21:07, 9/10/2021
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本日の3曲
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タイトル一覧
7313. 昨日見た映画より
7314. 今朝方の夢
7315. 今日を振り返って
7313. 昨日見た映画より
時刻は午前7時を迎えようとしている。空が少しずつ明るくなってきている。日の出の時間も随分と遅くなったものである。
一昨日、昨日と、大変暖かい日が続いていたが、今日からまた涼しげな日々となる。それでも今日はまだ昨日の暖かさが残っていて、最高気温は23度ほどになる。最低気温も16度とのことなので暖かい。
明日からはまた最高気温が20度前後、最低気温は10度前半という肌寒さを感じられるような日々になるそうだ。
昨日は書籍を4冊読み、映画を4本見ていた。今は少なくとも毎日2本ほど夜に映画を見ていて、トレーニングを行った昨日のような日には、トレーニング後からは映画を見て、大抵3本が4本ぐらい見ることができている。
昨日見た映画の中では、『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち(2013)』と『雲ながるる果てに(1953)』が印象に残っている。前者のドキュメンタリー映画を見ながら、旅行者としてある場所を訪れていては決して見ることのできない人々の生活の様子というものがあることを改めて思った。
人々が実に色々なことを考えながら、色々なことを思って様々なことを毎日行って生きている。生き方の多様性と、そうした多様な生き方が表には見えないことの不思議さを改めて思った。
また、作品中には色々な対比が用いられていることも興味深かった。飛行機が何度もローマの環状線の街の上を通るところが映像に映し出されるのだが、それと対比する形で地上の人々の生活が描かれていた。
飛行機は合理性の産物であるが、地上に生きる人々の生活はそうではない。人間の生活には、合理性だけでは割り切れないものがたくさんあるのだ。そのあたりの対比を感じさせるシンボルだった。
最後のシーンもまた印象に残っている。最後のシーンでは、環状線を走る無数の車が映し出される。その前のシーンでは、ヤシの木を食い潰す害虫が描かれている。
両者の連続を見た時、社会あるいは地球にとって、人間とは害虫のような存在なのかもしれないと思わされたのである。害虫ではなく、人間は社会や地球と共生する生き物になっていかなければならない。そのようなことを改めて考えさせられる。
もう1つ印象に残っている映画は『雲ながるる果てに(1953)』だ。制作年は古く、白黒映画だったのだが、この映画を通じては、色々と実存的なことを考えさせられた。
この作品は、太平洋戦争末期の特攻隊基地を舞台に、学徒兵たちの短い青春を描いた戦争ドラマである。単なる反戦映画としての意味を超えて、記憶を伝承していくことの大切さや、歪んだ死生観の蔓延することの危険性を思った。
とりわけ作品の中では、哲学者の田辺元の思想につながるような「悠久の大義のため」と称して若者たちが進んで死に向かっていくのだが、一部の学徒兵がその発想のおかしさに気づいていた姿が描かれていた。
悠久の大義のために死ぬことや、祖国のために死ぬことは、よくよく考えてみれば随分と歪んだ死生観なのではないかと思う。合理的な知性ではなく、神話的な知性、あるいは慣習的ないしは民族中心的な知性の段階から発せられるような死生観が最良のものとされていた時代において、それよりも発達した知性を持つ人の死生観は受け入れられなかったのだ。
作品の中では、歪んだ死生観に違和感を持っていた学徒兵は、結局全体の無言の圧力に流され、最終的には特攻隊として空に旅立って行った。
田辺元の哲学が、特攻隊の死を後押ししていたことは有名だが、人を自殺を含む殺人マシーンに仕立て上げてしまう思想が存在することと、それが蔓延してしまうことの危険性を改めて思う。現代社会を覆う死生観はいかほどのものだろうか。フローニンゲン:2021/9/10(金)07:18
7314. 今朝方の夢
時刻は午前7時半を迎えた。今朝方の夢をまだ振り返っていなかったので、夢の振り返りをしておきたい。その後、朝風呂に入り、午前中の創作活動と読書を始める。
今日は昼前に、知人の鈴木規夫さんとの第4回目の対談レクチャーの動画撮影がある。その前のミーティングを含めると、3時間半ぐらいの時間を要する。撮影後は、レクチャーの内容を補足する形で補助音声ファイルを今回も作っていくことになるだろう。
今朝方の夢。夢の中で私は、西ヨーロッパのどこかの国のどこかの街にいた。その街で、偶然にも小中学校時代の女性友達(AS)と出会った。彼女は当時から優しい性格だったが、今もその性格が変わっていないことにとても好感を持った。
彼女と一緒にその街を散策していると、突然目の前にバスケットボール コートトが現れ、今からそこでバスケをすることになった。コートを見ると、数人の友人たちがバスケを楽しんでいて、私もそこに加えてもらうことになった。
学年で一番背の高い友人がこちらのチームにいたので、試合を有利に運ぶことができるように思った。すると、屋外だったはずのコートが屋内コートに変わり、周りにいた友人たちが突如として変なコスチュームを身につけていた。それは顔まで覆ったものであり、覆面のヒーローのような格好であったが、全員の体は黄金色に輝いていた。
次の夢の場面では、私は磯にいた。そこで2人の友人と釣りをしていたのである。
最初私たちは海辺の家で遊んでいたのだが、海が満潮になった頃を見計らって、今日は潮回りもいいことから釣りをすることになったのである。
磯部から餌釣りではなくルアーを使った釣りを楽しんでいると、海面の下に何か黒い魚が走っていく姿が見えた。それは結構な大きさであり、何の魚かわからなかったが、その魚が向かっていきそうなところにルアーを投げた。
ルアーをゆっくりと動かしていくと、その魚がルアーを追ってきたのだが、食い付くところまではいかなかった。もう少し動かし方や動かす速度を調節しようと思って再度試したが、またしてもその魚はルアーを追ってくるのだが、食い付くところまではいかなかった。
その後も何度か試したが、結果は同じだった。すると、釣りの上手い父が合流してきた。
父は魚がいそうなポイントをわきまえているようであり、私たちがいる場所とは少し違う場所に行き、そこでルアーを投げた。すると、早速父のルアーに魚が食い付いたようだった。そこで夢の場面が変わった。
そう言えばこの夢において、足場が細い丸太でできた場所に行き、丸太の隙間から海水が少し噴き上げてきていた光景を覚えている。その時の私は裸足であり、裸足で丸太の上を歩くことは少し危険かと思った。そのため、途中で引き返し、靴を取り行こうとしたのを覚えている。
また、海の近くを潜水艦のようなものが通り過ぎようとしており、2人の友人のうちの1人が海に飛び込んで泳いでいる最中に、その潜水艦の中に入って行ってしまったのを覚えている。フローニンゲン:2021/9/10(金)07:46
7315. 今日を振り返って
時刻は午後4時半を迎えた。今日は昼前から、鈴木規夫さんとの対談レクチャーの第4回目の動画撮影を行った。
早いもので今日からの撮影は全6回のうちの後半に該当するものであり、残りの撮影は来週と再来週のものだけとなった。
今日の対談レクチャーのテーマは、「発達理論の光と闇」というものであり、2時間強に渡って様々な観点からこのテーマについて話が行われた。対談の中では経済やテクノロジーについても話題となり、対談後に改めてそれらのテーマに関していくつか音声ファイルを作成していた。
いつもは対談後に20個近くの音声ファイルを作っているのだが、今日は対談の中で随分と多くのことをカバーすることができたため、音声ファイルは7個ほどのとどまった。今日は一仕事したこともあり、夕方のこれからの時間と夜はゆっくりしようと思う。見かけている映画の鑑賞をしたい。
数日前に、神学者のポール·ティリッヒの思想の広さと深さに改めて感銘を受け、ティリッヒを筆頭にした「実存的神学(existential theology)」の思想に注目をしていこうと改めて思った。テクノロジーに関しても実存的神学の観点からテクノロジーが私たちの実存性にもたらす影響や意味を考えていくことは非常に重要だと思われる。
今日はこれからリラックスをして、また明日からの探究活動に力を入れていきたいと思う。フローニンゲン:2021/9/10(金)16:51
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