No.2625 外延の形而上学_Metaphysics of Extension
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.836, Newness
The beginning of a new day means the beginning of a new me.
Both the inner and outer world started anew.
Groningen; 07:49, 8/21/2021
No.837, A Game Creator
Reality is a kind of game made by the Creator.
I’m a game creator.
Groningen; 20:21, 8/21/2021
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本日の3曲
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タイトル一覧
7255. 今朝方の夢
7256. リアリティと言語
7257. 発達理論の大学院レベルのプログラムの作成に向けて
7255. 今朝方の夢
時刻は午前7時を迎えた。昨日と同様に、今朝も曇っている。この様子だと、今朝は朝日を拝むことができなさそうである。明日は天気が崩れ、雨となるが、明後日からはまた天気が良くなるそうだ。
今日も引き続き、来週の月曜日と金曜日の動画撮影に向けて、発達理論に関する文献に片っ端から目を通していこうと思う。昨日も午後のトレーニングまでそれを行なっており、それを通じて色々と新たな発見があった。いつまでも新たな発見があるということ。それは探究の醍醐味であろう。
今朝方に見ていた夢を思い出す。全体として愉快な雰囲気が漂っている夢だった。夢の中で私は、小中高時代の友人3人(SI & NK & HY)と一緒に大きなデパートにいた。これから何か食べ物でも買って、それを持って外で食べようということになり、デパート最上階にある食料品店に向かった。
そこまではエレベーターではなく、エスカレーターで向かうことにし、吹き抜けのエスカレーターからの眺めは見晴らしが良かった。そのエスカレーターは少し変わった作りになっていて、途中までは段差がなく、真ん中辺りから突然段差が現れ、そこに乗ると一気にスピードが上がって上まで運ばれるというものだった。
食料品店に無事に到着すると、そこには大量の商品が極めて安く売られていた。しかも、1つ1つの商品がかなり大きかった。友人たちはこのスーパーの商品を気に入っているようだったが、私はこの店の商品をあまり好きになれなかった。そうしたこともあり、私はそこで食べ物を買うことをせず、下の階にある高級スーパーへ1人で行くことにした。
1人でエスカレーターを下っていると、進行方向とは逆向きに1人の中年女性がエスカレーターに乗って来た。その女性はエスカレーターに乗った瞬間に、それが逆向きだということに気づき、恥ずかしそうにすぐさま降りた。
中年女性:「いやだ、恥ずかしい」
私:「誰だって逆向きに乗ってしまうこともありますよ。それにこのエスカレーターの作りは紛らわしいですから」
中年女性が独り言で恥ずかしそうに呟いていたので、それをフォローするような形の言葉を掛けた。するとその中年女性は気を取り戻し、笑顔になった。
そこから気がつけば、高級スーパーではなく、どこかの階にあるマッサージ屋にいた。そこはとても高級そうな雰囲気が漂っていて、落ち着いた空間だった。
マッサージを受けるために待合室で待っていると、私の左横にブラジル人の中年夫妻がいた。彼らはポルトガル語しか話せず、私はポルトガル語が話せなかったので、なんとなくの雰囲気で彼らと少しコミュニケーションを取っていた。
すると、夫人の方が、マッサージが始まるまでの時間を受付にあるゲームでもして時間を潰していたらどうかと提案して来た。受付の方を見ると、受付の壁に60cmぐらいの正方形の穴があり、穴の向こうになんと湖が広がっていた。そして、壁の穴からすぐのところに、一枚のガラス板が湖面に対して垂直方向に立て掛けられていた。
これは一体何のゲームか夫人に尋ねたところ、穴の外から紙を投げ、湖面に立て掛けられたガラス板の上にその紙を乗せるゲームだという。それはかなり難しそうに思えたが、成功すると32ドルがもらえることになっていた。
私は試しに早速やってみたところ、なんと一発で成功させた。すると、壁の横にあったガチャポンのような機具から32ドルが出て来た。私はそれを受け取り、なんかラッキーな気分になった。
ブラジル人夫妻も私が一発で成功させたことを驚いていたが、笑顔で拍手してくれた。すると、2人はどこかに消えていった。
まだマッサージまで待ち時間があるようだったので、再びゲームをしてみると、なんとそこから2連続で一発成功し、合計で96ドルの賞金を得た。そのタイミングで、お店の人がやって来て、マッサージの説明をしてくれた。
担当してくれるのは、日本語が流暢な韓国人の若い女性だった。その女性はとても美人であり、最初日本人の方かと思ったが、よくよく日本語を聞いてみると、少し訛りがあり、出身地を尋ねると韓国の片田舎の町で生まれたとのことだった。
色々とマッサージのメニューがある中で、100ドルの指圧マッサージをお願いすることにした。最初私は50ドルのマッサージにしようと思った。というのも財布には現金で50ドルぐらいしかなかったからである。しかしクレジットカード払いもできるということだったので、金額について心配することはないとすぐにわかった。
マッサージのグレードで一番高価なものは80分で200ドルのものがあったが、それはサービス内容が不明だった。担当の女性がマッサージに向けて準備をするとのことであり、そこでもまた短い時間が空いたので、また例のゲームをやってみたところ、そこでも一発で成功し、4連続成功となった。
ところが、賞金の32ドルは10ドルしかガチャポンから出てこず、故障してしまったようだった。なので、後ほど店の人にその連絡をしておこうと思った。結局、そのゲームで受け取ったのは合計106ドルとなり、それはマッサージの支払額を超えていた。
マッサージの準備が整ったようなので、別室に向かおうとしたところ、その前にお手洗いに行っておこうと思って、お店の人にトイレの場所を尋ねた。すると、すぐ目の前に男性用のトイレがあり、扉を開けると、そこは浴室のようだった。
実際に浴槽があり、その奥にトイレの和式便器があった。浴槽にはお湯は張られておらず、すっからかんであり、その代わりに浴槽には小さな子供用のおもちゃがたくさん置かれていた。
和式便器にかがみ、用を足そうとすると、足場があまりなかったので、用が足しづらかった。そこで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2021/8/21(土)07:37
7256. リアリティと言語
時刻は午前11時に近づきつつある。空には雲が所々見えるが、時折朝日が差し込む瞬間がある。今日はとても穏やかな土曜日になりそうだ。
果てしなく広がるリアリティ。アルフレッド·コージブスキーが指摘するように、リアリティは理解に先立つのだ。
私たちが何かを理解するというのは、広大なリアリティから一部を切り取って捕まえることを意味するに過ぎない。リアリティは常に全体であり、それは無限の広さを持っている。そのようなことを思わせてくれる朝の世界が広がっている。
午前中にふと、フランス語やドイツ語で開示されるリアリティに改めて関心を持った。このところ、探究上この2つの外国語に対する関心が高まっていることは確かである。
サピア=ウォーフ仮説にあるように、私たちの思考や感覚は、私たちが用いる言語によって規定されている。言い換えると、異なる言語は異なるリアリティを生成し、異なる思考や感覚をもたらすということである。
また、様々な外国語に触れることによって、他の外国語や母国語によってコンディショニングされた思考や感覚を内省対象に取り上げ、コンディショニングをチューニングすることが可能になる。
発達心理学者のスザンヌ·クック=グロイターが指摘するように、人間に対して社会化を促す最も強力な手段が言語であり、それは逆に言えば、言語によって私たちの内面世界が大きく規定されるということである。
ある1つの言語による制約を希薄化し、内面世界を解放させていくために、クック=グロイターもまた外国語の習得を推奨している。言語によって所有され、支配されるのではなく、言語による所有と支配から解放されるためにも、多言語(他言語)に触れることが重要になるだろう。自分のこれまでの体験と照らし合わせてもそのように思う。
午前中は読書を通じて言葉の世界に浸っていた。この日記を書き終えたら、作曲実践をしよう。それは言葉の世界から離れさせてくれる最良の実践の1つである。
後慣習的段階の特徴として、言語シンボル的に構築されたリアリティの諸相を脱構築できるほどの言語能力を獲得することが挙げられる。ここでも言語シンボル的に構築されたリアリティの姿に気づき、それを脱構築するために言語能力が鍵を握る点が興味深い。
言語の虚構性を言語が暴いていくという点が興味深いのだ。日々絵画の創作や作曲実践を続けていくと、そうした言葉の世界から離れた実践が、自分の言語感覚を磨き、言葉の世界を豊かにしているように思えてくる。
それに加えて、言語シンボル的に構築されたリアリティの虚構性に対してますます敏感になっている自分がいることを思う。フローニンゲン:2021/8/21(土)10:56
7257. 発達理論の大学院レベルのプログラムの作成に向けて
時刻は午後5時を迎えようとしている。この日記を書いて少し寛いだら夕食の準備をしようかと思う。
発達理論に関する大学院レベルのプログラムの作成に向けて、今日もまた色々と文献に目を通していた。専門書と論文を数多く読み返す中で、色々と考えが深まる場面があった。明後日からの動画撮影に向けて、明日もまた準備時間があるので、明日も同様に文献を読み返していこうと思う。
今日は人間発達について色々な観点から考察をしていたが、改めて発達測定について考えることがあった。そもそも人間は測定できるのか?はたまた、人間はそもそも測定するべきなのか?仮に測定するとしたらどのような目的で、どのような状況や前提条件において測定するべきなのか?そして、人間を測定する場合に、発達測定においては何が測定されるのか?という一連の問いに沿って考察を深めていた。
人間には不可知領域、すなわち未知の領域が無限にあるので、人間の全ての部分を測定することはそもそも不可能である。しかし仮に全てが測定できてしまったと仮定しても、人間の全てを測定するべきではないと考えている。
ある能力が可視化され、それが測定されてしまうというのは、他者との比較が不可避に伴う。人間というのはそもそも、本質的には比較的できない固有の尊い価値を内包した存在なのではないだろうか。そうした特性を蔑ろにした形で測定を強引に進めていくというのはある種の生命倫理を犯すことにつながるのではないかと思う。
不可侵領域を残しておくことの意義の1つは、そうした不可侵領域が、人間性や個人の尊厳の最後の防波堤になりうるところにあるのではないかと思う。人間の全てを測定しようとするのは、そうした防波堤を全て破壊するような行為であり、豊かな森を裸の更地にするような略奪行為のようである。
そのようなことをきっかけに、そこからも多様な観点で発達測定について考えていた。一連の考察は、ここで書き留めるのではなく、プログラムの中の動画の中で説明したいと思う。
鈴木さんとの対談レクチャーの中で話したいことがたくさんある。それら全てを対談レクチャーの中で取り上げることはできないであろうから、今回のプログラムでもまた補助音声ファイルを積極的に作っていければと思う。今はそれに向けてできる限りの準備をする。フローニンゲン:2021/8/21(土)16:58
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