No.2599 美の化身_A Paragon of Beauty
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.823, Silence
Silence is calling another silence.
Yet, both are continuous.
Silence is not discrete.
Groningen; 07:43, 8/15/2021
No.824, A Transcendental Experience
A few minutes ago, my consciousness transcended itself for a while.
In that experience, transcendental views existed beyond myself.
A constant influx of transcendence always occurs to me.
Groningen; 20:50, 8/15/2021
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本日の3曲
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タイトル一覧
7240. 今朝方の夢
7241. 存在/発達フェロモン/中庸
7242. 狂気さの保護/デジタル·リヴァイアサン/非ヒューマニスト
7240. 今朝方の夢
時刻は午前7時を迎えた。日曜日の静かな朝が目の前に広がっている。
今朝はうっすらとした雲が空を覆っており、朝日を拝むことができていない。しかし天気予報を確認すると、これから晴れ間が広がってくるようだ。また今日は最高気温が24度に達するようなので、今の時間こそ肌寒いが、日中は半袖で過ごすことができるだろう。
明日からは少し天気が崩れ、気温もグッと下がる。明日の最高気温は17度だ。
穏やかな気持ちで今朝方の夢を振り返っている。夢の中で私は、だだっ広い海の上を飛んでいた。海は太陽の光で輝いており、海面に宝石が散りばめられているのではないかと思えてしまうほどだった。
私はそこから高度を思いっきり上げて、雲の上まで出ていき、その高度を維持して飛行していた。しばらく空を飛んでいると、眼下に平地が広がり始めた。
平地に長閑な田園風景が広がっていて、その光景はオランダを思わせた。牧場や畑がちらほらあり、懐かしい景色のように思えた。
そこからさらに飛行を続けていると、今度は前方に、深く巨大な森が現れた。なんと、自分が今飛んでいる高さに到達するかのような木々が繁茂しており、その森の深さには驚かされた。
随分と長く飛行していたこともあり、また時間も夕暮れに迫ってきていたので、私は森を抜けるのは明日にし、今日は森の手前側か森の中の宿泊施設に泊まろうと思った。森の向こう側はカナダであり、こちら側は日本だということを私は知っていて、今夜はこちら側でゆっくりしようと思った。
森の入り口、いやもうそこは幾分周辺が森に囲まれていたので、森の始まりと言ってもいいであろう場所に、とある日本企業の建物があった。そこは数階建ての建物であり、私はその会社の部長と知り合いだった。
建物の中に入ると、1階のロビーの天井付近に懸垂棒で出来た不思議なオブジェがあった。私はそこでも宙にフッと浮いて、懸垂棒のある天井付近に向かった。そして、懸垂棒につかまりながら、ハイハイをするようにゆっくり前に進んで行った。
すると、下に知り合いの部長がいて、私は部長に声を掛けた。部長は声のする方を見上げ、私の存在に気づき、驚いていた。一体そのようなところで何をしているのかという驚きの顔だった。
そこで私はオブジェの上から下に向かってジャンプし、着地寸前に再び宙にフッと浮いて、着地の衝撃をゼロにした。そこからしばらく部長と立ち話をし、空を飛ぶことができる能力を部長に説明したついでに、もう1つの能力である建物を貫通する能力も披露しようと思った。
そこで私は再びオブジェのある天井に向かって飛び、そこから天井を貫通する形で外に出た。気がつくともう辺りは随分と暗くなっていたので、近辺でロッジを探し、そこに宿泊しようと思った。
するとすぐに良さそうなロッジを見つけたので、そこの受け付けに向かうと、何人かの知人たちがいて、せっかくなので彼らにも壁の通り抜けの技術を披露しようと思った。最初知人たちは半信半疑だったので、私はあえて壁の貫通に苦戦する演技をした。
「なんだ、やはり壁の通り抜けなんて無理なんじゃないか」という雰囲気が醸成された頃合いを見計らって、私はさっと壁の向こうに通り抜けた。すると、その場にいた知人たちは皆、目を丸くして驚いていた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2021/8/15(日)07:28
7241. 存在/発達フェロモン/中庸
時刻は午前11時を迎えた。早朝の空を覆っていた雲はどこかに消え去り、今は午前中の穏やかな太陽の光が地上に降り注いでいる。少し気温が上がってきたので上着を脱ぎ、今からは半袖で過ごそうかと思う。
昨日から読み始めていたバーナード·スティグラーとアンドリュー·フィーンバーグの2冊の書籍を先ほど読み終えた。その中に、ハイデガーが言うところの「存在(Dasein)」に関する記述に目が止まった。
ハイデガー的な存在というのは己の存在そのものに対する理解があり、同時にその理解が時の経過に応じて変化していくものなのだ。その観点を用いれば、現代人は存在そのものを喪失してしまったのかもしれないと思えてくる。
果たしてどれほどの現代人が己の存在に対して内省的な眼差しを向けているのだろうか。そして、そうした眼差しからもたらされる存在への理解を絶えず検証し、理解そのものを深めていこうとしている現代人などほとんどいないのではないかと思えてくる。
スティグラーの「デジタルフェロモン」という言葉を受けて、昨今では「発達フェロモン」の甘い香りに誘われる人々が増えてきている姿を見る。「成長」「発達」という言葉の蜜に吸い寄せられるようにそこにやって来て、それを必死に消費しようとする愚かな現代人。
そうした愚かな現代人そのものを批判していてもしょうがなく、重要なことはそうした愚昧な現代人を生み出す社会文化的な構造に批判意識を向け、それを変容させていく試みに従事することだ。
とは言え現段階では、まずは現代人の病理を事細かく列挙していくことから始めていかなければならない。それを通じて少しずつ病理を生み出す構造的メカニズムの所在を探っていく。
テクノロジーも発達理論も、その活用の仕方を誤ると毒薬にも良薬にもなり得るという点で中庸的である。それらは決して価値中立的なものではなく、両義的性質を絶えず内包する中庸的なものなのだ。しかしながらどうして人々はそれに気づかずに、それらを良薬としてのみみなそうとするのだろうか。
イヴァン·イリッチやパウロ·フレイレが言うところの批判的意識の欠如なのだろうか。さらには、エポケーする力が欠如しているのかもしれない。すなわち立ち止まって対象を考えるような感覚·感性·能力が喪失しているのである。
こうしたエポケーをするためには、隙間を精神空間に作り出す力が必要になるのだが、現代はそうした隙間を作らせないほどに現代人は情報的·感覚刺激的な大波に溺れているのかもしれない。フローニンゲン:2021/8/15(日)11:25
7242. 狂気さの保護/デジタル·リヴァイアサン/非ヒューマニスト
時刻は午後5時を迎えた。今日は25度まで気温が上がっているが、非常に涼しい。そうなると、最高気温が17度ほどの明日からはもっと涼しさを感じられるだろう。
自分の内側に内在する狂気さを大切にすること。現代は狂気さを社会衛生的観点で排斥しようとする動きを絶えず見せているのだから、自己の固有性の源泉である自らの狂気さをなお一層のこと大切にしようということについて考えていた。固有の狂気さを抑圧するような社会的仕組みには本当に注意が必要である。
私たちの生活のみならず、内的感覚がますますデジタル化されている現代社会。スティグラーの言葉を借りれば、「デジタル·リヴァイアサン」という現象がまさに起きている。契約と法によるデジタル管理の傾向が加速する時代において、人々は大切なものを失っていく。
トマス·ホッブズが指摘するように、人間は生まれ持って社会に適応するのではなく、規律によって適応させられるのである。適応の過程で規律によって埋め込まれた足枷を一つ一つ外していくこと。それは「後慣習的段階」の発達段階において必ず行われるインナーワークの一つである。
午後にふと、自分はヒューマニストではないことを思った。人間の根源悪と種々の限界に絶えず自覚的な自分がいる。
確かに人間は、心温まる出来事を見せてくれる。だがそれは、ある意味奇跡的な出来事である。それはまるで流れ星のような、滅多に見えるものではない儚き一瞬の輝きのようである。
人間には間違いなく善が存在しているが、それを覆い隠すぐらいの深い悪がある。そして闇がある。
人間性というものを否定する形で人間存在を考えていく発想は、プロテスタント神学と親和性があるだろうか。
振り返ってみると今週もまた探究活動が大いに進んだ。この調子でゆっくりと自らのペースで探究を進めていけばいい。
来週もまた探求が大いに捗るであろう。そのような予感がする日曜日の夕方である。フローニンゲン:2021/8/15(日)17:24
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