No.2562 光の王冠_A Crown of Light
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.803, My Time
I would never be captured by a thief of time.
My time doesn’t have any constraints.
It is totally free.
Groningen; 07:10, 8/6/2021
No.804, 211 Books
So far, I ordered 211 academic books this month.
Today, I received around 60 books.
My rigorous academic research will start again.
Groningen; 20:51, 8/6/2021
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本日の3曲
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タイトル一覧
7211. 今朝方の夢
7212. ストーリー性・即興性/テクノロジーによる植民地化
7213. 天窓を歩く猫/ジャック・エラルのテクノロジー神学
7211. 今朝方の夢
時刻は午前6時を迎えた。遠くの空に朝焼けが見えるが、空の大部分は雲に覆われている。どうやら今日は午前中の比較的早い段階から雨が降るらしい。もし雨が降らなければ、書籍を受け取りに近所のコピー屋に足を運ぼうと思っていたのだが、もう少し様子をみたいと思う。
届けられた書籍は1週間ほど預かってもらえるので焦る必要はない。明日は午前中が晴れのようなので、そのタイミングでコピー屋に足を運ぶことを検討しよう。
今朝方の夢について思い出している。無意識というのは自分のものであったとしても、実際にはほとんど知らないことを思うと、無意識というものがどれだけ奥深いものであるかわかってくる。
決して汲み取り切れない何かがそこにある。それは逆に言えば、自らの存在もまた決して汲み取り切れないほどに深いものなのだろう。
それはそっくりそのまま他者の存在にも当てはまる。人間存在というのは、汲み取り切れ無さに裏打ちされているのだろう。
夢の中で私は、見慣れない場所にいた。その場所を説明するのは難しい。
少し白味がかかった空間に私はいて、高校時代の女性友達と話をしていた。彼女とは高校生活の最後の2年間を同じクラスで過ごした仲であり、当時のことを思い出しながらしばらくそこで話をしていた。
すると場面が変わり、今度はどこかの国の古代遺跡にいた。古代遺跡の散策を小中学校時代の親友たちと行っていた。
古代遺跡の1階には大きな広間があり、私たちはそこで壁画などを眺めていた。すると、1匹の白い猫がやって来て、何やら深刻そうな表情を浮かべながら、広間の反対側に向かってゆっくりと歩いて行った。
反対側を見ると、そこにも1匹の茶色い猫がいた。どうやら彼らは今から決闘を行うようだった。2匹の猫が睨み合ったかと思うと、いきなり噛みつき合いが始まった。
すると、白い猫がとっさにマングースをもう片方の茶色い猫の方に投げた。すると、茶色い猫はそれをかわし、慌てて背後に引き下がった。どうやらその猫にとってマングースは天敵のようだった。
茶色い猫はもう攻撃する様子を見せず、いつの間にかどこかに消えていた。その場に残った白い猫を見ると、顔から血を流しており、相当激しく噛み付かれたようだった。
とても痛々しい光景を目にしたと思った瞬間に、遺跡の上部にいた。そこでは書籍が遺跡を取り囲むように山のように積み重なっていて、遺跡を守っているかのようであった。
2人の親友と私は、書籍の山に跨ってゆっくりと進んでいった。私の前に1人の親友(HS)がいて、私の後ろにもう一方の親友(SI)がいる形で前に進んでいった。
すると、後ろの友人がやたらと私の靴に捕まってこようとするので、それを振り払い、靴を掴まれると落ちそうになるのでやめるように笑いながら述べた。すると、彼もまた笑みを浮かべ、それでもなお靴を掴んでこようとしたので、前にいる友人に進む速度を上げてもらい、そこからは一気に前に進んでいった。
するとそこからは後ろの友人に足を掴まれることはなく、書籍の山の最後の箇所に辿り着き、そこからジャンプする形で地面に着地した。実は最後の箇所に到達した時に、本の山を少し崩し、後ろの友人が進みづらいようにしていた。
その際に書籍のタイトルを確認すると、小学校5年生用の社会か何かの参考書だった。すると突然、どういうわけか、小学校5年生の夏休みの時に社会の問題集の宿題に取り掛かっている記憶が思い出された。
私はいつもながら適当に宿題をしていて、どうせ何ひとつ覚える気も頭に入れる気もないので真剣に問題集に取り組むのは馬鹿げていると思い、答えを見ながら機械的に答えを書き写していた。自分には学校の勉強以外にもっとやりたいことが他にあったのである。
そのようなことを思い出し、再び意識が自分に戻ってきた時には、もう私は遺跡にはいなかった。フローニンゲン:2021/8/6(金)06:38
7212. ストーリー性・即興性/テクノロジーによる植民地化
今朝方の夢について先ほどまで振り返っていた。書き始める前はあまり夢を覚えていないかもしれないと思っていたが、それは杞憂に終わった。書きながら次々と夢の場面が思い出されてきたのである。
夢にはストーリーがあるのだが、ひょっとしたらそうしたストーリーを生み出す無意識そのものが何らかのストーリーなのではないかと思えてくる。
無意識というのはストーリーの産物なのかもしれない。そして意識もそうなのだろう。意識と無意識は内在的にストーリーそのものだったのだ。
今日もまたあるストーリーとしての1日が始まる。今日はどのような気づきや発見があるだろうか。
ゆっくりと自分の探究を深めていく1日にしたい。今日もまた旺盛に書物を読み進めていく。昨日の続きとして、バーナード·スティグラーとジャック·エラルの書籍を読み進めていく。そして今日は、スティグラーと並ぶ現代に生きるテクノロジー哲学者であるアンドリュー·フィーンバーグの書籍を読み進めていく。
昨日ふと、即興的に話すことや即興的に書くことを好む自分がいることに気づいた。作曲も絵画の創作もいつも即興的なものである。
そのように考えてみると、即興性というのもが何か自分にとって重要なものがあることがわかる。ここから仮にアカデミックの世界に再び戻り、そこで論文を書くことになれば、それは即興的なものとは少し違うのかもしれない。
そこには練り上げていく、あるいはゆっくりと構築していくというような性格があるが、よくよく考えてみると、論文の執筆ですらもその瞬間瞬間は即興性が発揮されているように思える。そうであれば、論文の執筆、さらには書籍の執筆というものも自分の内在的な性質である即興性に反しない。
いずれにせよ、今の自分はその瞬間に自分の中に湧き起こる感覚や、その瞬間に掴んだ真実を即興的に形にしていきたいという思いがある。その思いを大切にしよう。
洗濯機が止まる音が聞こえた。今から洗濯物を干し朝風呂に入ろうと思う。
昨日テクノロジー哲学の書籍を読んでいる時に、AIの武器化について考えていた。これは映画でよくモチーフになるテーマである。そしてそこから、デジタル空間上においてますます時空間の距離がなくなり、連続性が拡大されていくことに伴い、それは私たちを時間の制約から解放してくれたというよりもむしろ、時間泥棒として機能しているのではないだろうかということを考えていた。
それは、テクノロジーによる時間の植民地化である。そして時間感覚のみならず、美的感覚を含めた内的感覚の植民地化も進行している。こうした状況に私たちはどのように向き合うべきなのだろうか。
テクノロジーの進展はもはや止めがたいものになっており、それを抑制する方向に向かうというのは非現実的であり、絶えず私たちは自らを取り巻くテクノロジーに対して思慮深くならなければならないのだろう。今よりもずっと思慮深くならなければ、いつの間にかテクノロジーまみれの中で自己を見失ってしまうだろう。フローニンゲン:2021/8/6(金)06:50
7213. 天窓を歩く猫/ジャック・エラルのテクノロジー神学
時刻は午前11時に向かっている。先ほどから小雨が降り始め、今も雨は止むことなく地上に降り注いでいる。正午過ぎには一旦雨が上がるようなので、そのタイミングを見計らって近所のコピー屋に立ち寄って、届けられた書籍を受け取りたい。
早朝に朝風呂に入っていると、浴室の天窓の上を猫が歩いていた。その姿を見ながら、そう言えば今朝方の夢で舞台になっていた古代遺跡には、何匹もの猫が穏やかな表情でひっそりと死んでいる場所があったことを思い出した。
猫は他の野生動物と同じく、死際になると人目を避けて自らの死に場所を探すと聞いたことがあるが、まさに人目につかないようなところに猫たちがひっそりと、そして平穏な表情で死んでいた姿が印象に残っている。
この場面は一体何を象徴しているのだろうか。シンボルとしての猫、そしてシンボルとしての穏やかな死。それらはどれも意味深長である。
先ほど、昨日から読み進めていた2冊の書籍を読み終えた。これからヒューマンエンハンスメントと霊性及び倫理に関する書籍を読み始め、その後、アンドリュー·フィーンバーグのテクノロジー哲学の書籍を読み始める。
先ほどまで、フランスの神学者かつ社会学者であったジャック·エラルのテクノロジー神学に関する書籍を読んでいた。テクノロジー神学についてはエラルの思想から得られるものが多い。エラルは、テクノロジーを生き物のように進化発達する存在としみなし、人間の性格類型論のようなものをテクノロジーに対しても考案している点が興味深い。
テクノロジー哲学者のスティグラーは、テクノロジーの否定的な性質を緻密に暴きながら、そうした考察を通じてテクノロジーを通じた個人と社会の変容と解放を企図している点に、否定神学的な発想のあり方を見る。
一方で、エラルは神学的な観点からテクノロジー——エラルは「技術(technique)」という言葉の中にテクノロジーを含めている——の負の側面に強く焦点を当てている印象を受けていた。しかしながら文献を読み進めていくと、エラルがテクノロジーの肯定的な側面にも言及していることに気づく。
テクノロジーもまた創造主による創造物であるという発想をもとに、テクノロジーに価値を見出している。また、技術なしでは文明も人間性も存在し得ないという指摘からも、エラルがテクノロジーを単に批判しているだけではないことがわかる。
エラルが述べるテクノロジーの世俗化とは、テクノロジーを否定することではなく、それを神秘化せずにいかに倫理的に活用していくかを模索していくことなのだ。エラルはマルクスの発想に影響を受けていることもあり、テクノロジーに私たちが支配され、逆利用されることにエラルは警鐘を鳴らしている。
こうしたエラルの発想に触れながら、「テクノロジー恐怖症(techno-phobia)」に落ちることなく、そしてテクノロジーを神秘化することなく、いかにテクノロジーを個人と社会の治癒·変容に対して倫理的に活用していくかの道をここから本格的に模索していく気持ちを新たにする。フローニンゲン:2021/8/6(金)11:08
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