No.2390 光の戯れ_Play of Light
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.702, Free From a Cage
Making a poem is an essential rest for my soul.
It emancipates me from a cage of constraints of everyday language.
Poetry makes my imagination free.
Groningen; 06:02, 6/21/2021
No.703, An Essential Revolution
I wish a revolution will come not from the human level but from the transcendental level.
An essential revolution is not terrestrial but celestial.
Groningen; 10:44, 6/21/2021
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本日生まれた3曲
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タイトル一覧
7068. 今朝方の夢
7069. 御用学としての経済学
7070. 超越的な視座から/制約条件の可視化に向かって
7068. 今朝方の夢
時刻はゆっくりと午前5時半に近づいている。今朝はとても寒い。寒さと合わせて、小雨が降っている。
今日は最高気温が14度までしか上がらず、昨日の予報よりも低くなっている。また、今日は夕方まで小雨が断続的に降るようだ。明日以降も数日間ほどは今日と同じような最高気温になる。
新たな週を迎えた本日もまた気持ちを新たにしている。新たな気持ちで日々を迎えることができていること。そこに毎日の充実さの源泉がある。
今日もまた旺盛に読書を進めていこう。今の研究テーマに関して良書が着々と揃い始めていることを本当に嬉しく思う。
今週中には先日届けられた26冊の神学関係の書籍とマルクス経済学関係の書籍を読み終えることができるだろうから、マネーとテクノロジーに関する基本書を最初から最後まで丁寧に音読していこうと思う。
今朝方は2つほど印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、見慣れない海を見下ろす形で上空にいた。時刻は夜であり、辺りは真っ暗だった。
空の上にはもう2人ほど人がいて、1人は小中高時代の友達であり、もう1人は見知らぬ女性だった。私たち3人は、これから山の方に向かい、そこでハイキングをすることになっていた。夜にハイキングをするのは一般的ではないが、それもまた一興であった。
山に向かう最中に、女性の足が何か機械のようになっていて、何かを察知したようだった。彼女は突然慌て出し、機械が故障してしまったのか、山の方に流されていく形で空を飛んでいった。
友人と私は彼女を追いかけ、無事に山の麓辺りで救出をした。彼女に話を聞くと、どうやら彼女の足は爆弾に反応したらしかった。具体的には、誰かが地上から空に向かって風船のようなものの中に爆弾を仕込み、その風船が彼女の足に近づいたことによってセンサーが作動したとのことである。
一体誰が爆弾を仕掛けたのだろうかと思ったが、とりあえず彼女が無事で何よりだった。そこから私たちはハイキングを始めようとすると、2人はもういなくなっていた。
1人になった私は仕方ないので山道を歩いていくことにした。山道はよく舗装されていて、歩きやすかった。
山の中腹に差し掛かると、山道から逸れた山奥で人の声がした。どうやら中学校時代のバスケ部の先輩たちがそこで遊んでいるようだった。先輩たちの声は何やら楽しげであり、私もそこに加わりたいと思ったが、私は1人で山道を歩き続けていくことを決意した。そこで夢の場面が変わった。
次の夢の場面では、少し古びた体育館の中にいた。そこで私はバスケのレイアップシュートの練習をしていた。というのも、先ほどそのシュートを久しぶりに試してみたら、やたらと外してしまう自分がいたからである。
一度身につけた感覚は確かにいつまでも残るものだが、それはまた錆び付いてしまうものでもあると思った。その錆を落とせば再びシュートが入るようになるだろうという希望を持って練習に取り組んでいると、ある友人が声を掛けてきた。何やらこれから、美大の先生から絵画の添削を受けられる機会があるとのことだった。
その体育館は美術館と隣り合わせになっており、隣の美術館にすぐに向かうことにした。館内はもう閉館間際となっていて、客は少なかった。
館内の奥に向かって進むと、たくさんの彫刻と絵画作品が飾られた部屋があり、その部屋の奥に初老の男性の先生が椅子に腰掛けていた。友人と私はその先生に作品を手渡し、添削をしてもらうことになった。
添削をするまで少し時間がかかるとのことだったので、いったん部屋の外に出て、館内の作品を見て回ることにした。すると警備員の男性が遠くから、「もう閉館です」と大きな声で叫んだ。それに対して私は事情を説明した。すると、その警備員は何も言わずに私たちに近づいてきて、「実は私も美大を目指しているんですよ」と微笑みながら述べた。
彼はまだ若く、彼も手に作品を持っていて、これから先生に添削指導を受けたいと思っているとのことだった。すると先生が私たちを呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら添削を終えたらしかった。
先生のところに行くと、まずは私の作品に対してコメントをしてもらった。作品そのものについては文句なしとのことだったが、作品のタイトルの付け方に関して細かな指導が入った。
コンマを使うのか、アポストロフィを使うのか、ダブルクォーテーションマークを使うのか、絵画のタイトルを付ける際にはそのあたりが厳格に決まっているらしく、私は学術論文の引用形式の癖が抜けておらず、その点を注意された。やたらと細かな点を指摘され、やはり美大のような場所で表現活動を行っていくことの窮屈さを感じた。フローニンゲン:2021/6/21(月)05:51
7069. 御用学としての経済学
時刻は午前7時を迎えた。ここのところは毎日確認をするかのように、自分の研究テーマについてあれこれ考えている。マネーの本質と虚構性の探究に関しては神学の観点を用い、現代経済学の方法論的·思想的限界については批判的実在論の観点を用いていく。
現代の金融資本主義を直接的に批判するよりも、それが立脚依存している現代経済学そのものを批判的に検討し、金融資本主義にとっての水のような、空気のような当たり前のものとして存在しているマネーを批判的に検討していく。
土台がおかしければその上に建てられるものはどこかで限界を来す。土台に瑕疵があり、土台の上に建てられた建物の中で流通するものに根本的なまやかしがあるというのが現代の金融資本主義社会の実情なのではないだろうか。
先ほど、行動経済学に関する批判的論文を読んでいると、つくづく経済学というものが御用学に過ぎないのではないかと思えてくる。当然ながら経済学がこの社会に対して果たしている肯定的な側面もあるが、根本的には特定の——歪んだ——経済政策を支えるための御用学的な役割を経済学は担うに過ぎないのではないかと思える。
近年のノーベル経済学賞がどのような分野に関するものなのかは調べてみないといけないが、一昔前は行動経済学関係のノーベル経済学賞が多かった。だが、その論文で言及されていたように、行動経済学もまた方法論的·思想的な過ちがいくつも存在しており、そうしたことを考えると、ノーベル経済学賞というのも御用学的な表彰にしか見えなくなってくる。
新自由主義の根幹を担う経済学を提唱したミルトン·フリードマンもノーベル経済学賞を受賞しているが、新自由主義がもたらした悲惨な現状を見ると、つくづく上記のような考えを持たざるを得ない。
ここからは改めて経済思想について整理をしていき、その方法論上の問題も合わせて整理していく。次回の書籍の一括注文の際にはこのトピックについても参考文献をいくつか購入しようと思う。
発達理論を探究してきたことの影響か、知識体系を構築していく際に、ネットワーク的な知識の繋がりを意識するだけではなく、知識を一つ次元の高い階層構造にまとめ上げていこうとするような意識が無意識的に働いていることに気づく。日々の読書の中でもそうした意識が無意識的に働いている。
現在いくつかの複数の探究テーマに関する読書を同時並行的に進めており、そこから得られた知識を階層構造的ネットワークとして構築するようなイメージを持っておこうと思う。そのようなことを昨日ふと考えていた。フローニンゲン:2021/6/21(月)07:18
7070. 超越的な視座から/制約条件の可視化に向かって
時刻は午後4時半を迎えた。小雨がパラパラと降っており、辺りはとても静かだ。
今日は朝から気温が低く、長袖と長ズボンを着用していないと寒さを随分感じるほどだった。明日もまたそのような気温になるようなので注意をしよう。
超越的な視座から、今自分が行っている探究実践を絶えず自己反省していくこと。そうすることによって冷静かつ謙虚なあり方を保持することができる。また、超越的な存在を措定して、それを通じて自己を眺め、それからの投げかけに応じて反省的に自己変革を行いつつ社会に関与していくあり方。それを貫いていきたい。
超越的な視座が欠落し、超越的な存在を認めないことによる罠。当然ながら、観念論的に超越的なものだけがリアルであると考えてしまうことも種々の問題を生む。
重要なことは地上にいることを自覚して、地上の存在として探究実践を続けていきながらも、それを促してくれる存在として、見守る存在として超越的なものがいるということを忘れないようにすることである。
自分の日常と生を無条件的に制約しているものを可視化していきたいという強い思い。その制約を乗り越えていくことは難しかったとしても、少なくとも無意識的なものを意識的なものに変えていくことによって、自身の生は少なくともより自由なものになっていくだろう。
日常と生を縛る種々の制約条件を丁寧に解明していこうと思う。それを行う個別具体的な領域としてマネー、テクノロジー、エコロジーがあり、学問領域としては経済学がある。そして、そうした対象に対して光を当ててくれるのが自分にとっては神学であり、批判的実在論であり、インテグラル理論というものである。
自己を縛る条件に気付いていくこと。解放の道はそこから始まる。
無意識的なものを意識的なものに変えていくというのは発達の原理でもある。発達理論を学んできたことと今の探究実践活動はやはり不可分のようなのだ。
自分にできる限りの範囲で、無意識的なものを可視化していく。可視化されたものは他者にとっての制約条件であるものも多分にあるだろう。おそらくは、全てと言ってもいいかもしれない。なぜなら、自分が関与していきたいのは、今に生きる人間を普遍的に縛っている制約条件だからである。
雨がシトシトと降っている。ふと、今夜は夕食を摂らずファスティングをし、その分の時間を読書に充てたいと思った。
食事と読書のどちらを重視するかというと、今の自分は後者を大切にしたい。もちろん、読書を行うのは肉体を持った自己であり、食事によって肉体の維持をする必要があるが、食事というのもこれまでの惰性的習慣で行っていいものでは本来なく、感覚を研ぎ澄ませ、自分の使命を全うするために必要であると判断したら、食事を摂らないという積極的な実践をしたい。今夜はそういう日だ。フローニンゲン:2021/6/21(月)16:47
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