No.2335 世界体験_World Experience
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.671, Dreamwork
Whenever I have a dream, I re-enter the dream world after I wake up.
This practice makes my psyche revitalized.
I feel that my psyche starts to dance.
Groningen; 07:44, 6/7/2021
No.672, The Theme of My Lifework
My current study focuses on two dimensions of money.
One is the aspect of the absolute or transcendental nature of money.
The other is the aspect of the relative nature of money.
I rigorously study those aspects from the perspectives of theology.
This theme could be my lifework.
Groningen; 21:32, 6/7/2021
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本日生まれた3曲
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タイトル一覧
7017. 今朝方の夢
7018. 理性の限界と理性を超えた実在世界
7019. スピノザを思い出して/マネーの神学的性質
7020. マネーの性質と死に関する対極的な衝動の結びつき
7017. 今朝方の夢
時刻は午前7時を迎えた。今、朝日が燦々と降り注いでいる。また少し寒さが戻り、昨夜は湯たんぽを使って寝ることになった。今夜もまた湯たんぽが必要かもしれない。
とは言え、暖かい方向に向かっていることは確かであり、今日も気温はそれほど上がらないが、雲ひとつない快晴になるようだ。そうしたこともあり、今日は午後に街の中心部のコーヒー屋に足を運び、コーヒー豆を購入したいと思う。コーヒー屋から帰ってくる際には、近所のスーパーに立ち寄っていくつか必要な野菜を購入したい。
今日からまた新しい週となる。昨日届けられた書籍を含め、今週もまた旺盛に読書を行っていく。昨夜、政治神学についての書籍もいくつか文献リストに入れておいた。それらを購入するのは来月にしようかと思う。
今朝方は1つ印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、不思議な空間にいた。そこは夢の中の夢の世界のようだった。
想像上の生き物が辺りを徘徊しており、そこには人間も混じっていた。私はそこで高校時代の友人と出会った。彼がなんと小さなネズミに変化することができ、小中高時代の別の友人(HY)もまたネズミに変化することができた。
2人はこれから戦い合う必要があり、勝者には何かが贈られるようだった。私たちがいるのは幻想的な雰囲気を発する建物であり、戦いは1つ下のフロアで行われた。
小中高時代の友人は、ネズミに変化する前に、周りにいる人たちに声を掛け、戦いが終わったら一緒に生活しようということを持ちかけていた。どいうわけか私と高校時代の友人にはその話を持ちかけて来ず、私たちは少し寂しさを感じていた。
そうしたこともあって、2人が戦う際には、私は高校時代の友人の方を応援することにした。もちろんそれは口に出さず、黙って彼を応援することにした。
いざ戦いが始まってみると、高校時代の友人が化けたネズミの方が圧倒的に強く、もう一方の友人のネズミは尻尾を食いちぎられてしまった。彼の尻尾は細長いトマトで出来ていて、食いちぎられたトマトの尻尾がフロアを生き物のようにウネウネと動いていた。私はそれを見て、完全に高校時代の友人が勝利を収めたのだと思った。
2人が戦っていたのはネズミにしか入れないような小さな穴の下のフロアであり、戦いがひと段落したと思ったので穴の中を覗くと、穴の中にはまた広大な世界が広がっていた。そこには人の姿もちらほら見れたので、私も中に入ってみることにした。
中にいた人たちは、どうやらそのフロアの絵画作品を鑑賞していたようだった。フロアの先にはまだまだ別のフロアがあり、そこは迷宮のようになっていた。私はさらに奥の方を探索してみようと思ったところ、夢の場面が変わった。
この夢はとても印象的であり、今朝はこの夢しか覚えていないと思ったら、また別の夢を思い出した。私は見慣れない列車の中にいて、乗客のほとんどはオランダ人だった。
中にはちらほらとアフリカ系の人たちもいたが、それはスリナム出身のアフリカ系オランダ人ではなく、どうやらアフリカ系アメリカ人のようだった。どういうわけか突然時が止まり、私以外の乗客の身動きがピタリと止まった。
どうやら列車の中で殺人事件があったらしく、私は時が止まった状態で犯人を突き止めることが自分の役割だと直感的に理解し、犯人の特定を急いだ。だがなかなか犯人を特定できず、いつの間にか再び時が動き出し、乗客もまた身動きができるようになった。フローニンゲン:2021/6/7(月)07:37
7018. 理性の限界と理性を超えた実在世界
小鳥たちの鳴き声が辺りに鳴り響く月曜日の朝。まだ朝の雰囲気が残っているが、時刻としては昼に近づいてきた。
今日は雲ひとつない青空が広がっていて、とても気持ちがいい。気温も涼しげであり、昨日に引き続き長袖長ズボンを着用して過ごしている。
先ほど、人間の理性について考えていた。人間の理性の及ぶ範囲などたかが知れており、むしろ私たちは理性の世界の外と絶えず触れる形で生きている。
理性の外から突如として体験や出来事がやってきて、私たちはごくわずかな理性の力を発揮する形でその体験や出来事に意味づけをする。実際には、その体験や出来事は理性には遠く及ばない世界からやってきていることを私たちは往々にして見過ごしてしまう。
バスカーの言葉で言えば、実在世界(the real)は理性の遥かに及ばないところに実在していて、そこから体験や出来事が投げかけられてくるのである。理性で把握できるのはまさにそうした体験や出来事に留まるのだ。
そう言えば、これまでバスカーの用語体系に関して、現実世界(the actual)と実在世界(the real)の日本語を逆にして使っていたことも多かったように思う。それらの英語が日本語でどのように訳されているのか不明であり、今のところ現実世界の及ばぬ存在世界のことをバスカーは“the real”と呼んでいて、それに対して「実在世界」という日本語を当てておこうと思う。重要なことは、私たちが理性で認識するよりも広く深い世界が存在するということだ。
しかし、だからといって理性の力を蔑ろにするわけではない。理性を活用し、理性的世界の探求をしていきながらも、同時に理性を超えた世界の探求も絶えず行っていく。
理性を超えた世界を認識する際には、理性からの飛躍が必要になる。それは超越的な直感能力のようなものだと言えばわかりやすいだろうか。
ふとそちらの世界を知覚する瞬間がここ最近多くなってきている。これは言語優位の理性ではなく、直感的な形で行われる創作活動に従事し続けていることと何か関係があるかもしれない。現在行っている神学探究というのは、究極的には理性を超えた実在世界の探究だと言えるのではないかと思う。
数日前にふと、失われゆく記憶と風化していく歴史について考えていた。記憶も歴史も、誰か語り継ぐ者の存在がいなければ、それらはこの世界からいとも簡単に消えていってしまう。記憶を引き続き、歴史の系譜を存続させる語り部のような存在の重要性をふと思った。フローニンゲン:2021/6/7(月)11:33
7019. スピノザを思い出して/マネーの神学的性質
今日は見事な青空が一日中広がっていて、先ほど買い物に出かけた際には思わず高揚感を得るほどであった。気温も清々しいほどであり、ジョギングがてら街の中心部に行くにはもってこいであった。
こうした天気の良い日は、フローニンゲンの街全体に幸福感が広がっている。そうした幸福感を感じるために外に出かけるという意味もあるように思う。個人の幸福感を日々感じていながら、外に出かけて集合的な幸福感を感じることの大切さを思う。
街の中心部から自宅に戻ってくる途中には立派な教会がある。いつもその教会の敷地内の緑を堪能して帰ってくる。その際にふと、今から数年前にハーグ郊外にあるスピノザ博物館を訪れたことを思い出した。
神学において多大な功績を残したスピノザ。そこでスピノザに関する幾つかの文献を購入したのを覚えている。また、それらの文献とは別途スピノザ全集を購入し、複雑性科学の研究の傍らで、スピノザ全集を読み進めていた日々があったことを思い出した。
改めて今、神学というものに関心を持ち、オランダが産んだ偉大な哲学者のスピノザの神学を学ぶ必要性を思う。全集を引っ張り出してきて、“Theologico-Political Treatise”を再度読み進めていく。きっと数年前には気付けなかったことがあるはずだ。
いつも買い物に行く際にはジョギングを兼ねているので、運動によって脳が刺激されたり、頭の中が整理されたりする。その効能を感じる。
買い物から帰ってくる最中に、マネーのあの世的な性質について考えていた。仮に紙幣や硬貨であればマネーそのものは物理的世界にあるが、電子マネーになるとそれはもう想像空間の中に存在しており、マネーの価値や機能というものも目には見えないという点で想像空間上の産物である。
しかしながら、それ以上に重要なこととして、マネーの価値や機能に還元できない何か得体の知れない性質——それは例えば人間が永遠性を求める性質や死を拒絶する性質と密接に結びついた何か——は、想像空間にあるのではなくて、超越的な空間に存在しているのではないかと思う。
であるがゆえに、マネーが神学的に探究することができるというのは非常にうなづける。また、マネーの得体の知れない超越的な性質に付帯する形で、社会や歴史がそこに様々な物語を構築していることも見逃してはならない。
既存の経済·金融思想の問題点を取り上げる際には、マネーの超越的な性質とそこに付属している種々の物語を解き明かしていかなければならない。マネーには具体的にどのような超越的性質があるのか——そもそもそれは具体的に語ることができるのか——、そして付帯している相対的な物語の歪みと虚構性がいかなるものかを探究していこう。
マネーというものはどうやら、理性ではありえないようなことを想像させたり、私たちを行動に駆り立てたりする。そこに神学的なものを見る。
人は絶えず神学的な何かを求めながらも、神学的な何かによって囚われる。そうした囚われから解放されるためには、理性を突き詰め、理性を超えていくという神学的なあり方を純化させていく道を辿る必要があるのではないかと思う。そのようなことを考えながら自宅に戻っていた。フローニンゲン:2021/6/7(月)16:49
7020. マネーの性質と死に関する対極的な衝動の結びつき
つい今し方、1階のフロアに置かれた書籍の入った段ボール群の中から、スピノザ全集を引っ張り出してきた。その際に、ハーグ郊外にあるスピノザ博物館に関与しているスピノザ研究者たちが執筆した小冊子も合わせて引っ張り出してきた。
その中に、“Spinoza as an Economist”という今の関心テーマに沿った小冊子を見つけることができたのは幸運であった。これらの文献を用いて、時間を作ってスピノザの神学思想と経済思想を学んでいく。
先ほどふと、これから本腰を入れて行う探究の焦点は、マネーの超越的側面と相対的側面に絞ってしまっていいのではないかと思った。一旦そのテーマで探究を可能な限り進めていきたい。
バスカーの思想体系を用いれば、マネーの実在世界における絶対的な性質を明らかにしていき、それが現実世界において顕現させる種々の虚構的な機能や価値を精査していく。最近読み進めていた神学的なアプローチで経済やマネーを取り上げた学術書は大きな導きとなるだろう。また、これからジンメルの“Philosophy of Money”を再読しようと考えていて、この書籍は社会学的なアプローチでマネーを取り上げたものだが、自分の関心と必ず合致する論証があるはずだ。
マネーの相対的側面については、様々な思想家がそれについて多様な観点で論じている。ポストモダンの思想家たちを含め、現代の哲学者たちも様々な洞察をもたらしてくれている。
それらもできるだけ包括的に探究していきながら、マネーの相対的側面については、その歴史的な変遷も踏まえて、多様なナラティブをできる限り理解していきたいと思う。マネーは本当に神のような超越性とそこに様々な物語が付帯している興味深い存在である。
現代の金融資本主義は、戦争、政治的な危機、そして自然災害までも搾取の対象にしているという暴挙を見ると、この問題について深く考えていかざるをえないという思いになる。
マネーの超越的性質と相対的性質の探究は、新たな経済·金融思想を創出していく際に必ずや重要になるはずだ。自分の探究の社会性をそこに見出す。
マネーの2つの大きな側面についての探究に並行して、引き続き人間性についても探究をしていかなければならない。マネーというものを生み出した人間と、それと付き合う人間の特性を蔑ろにしていては、自分の探究は片手落ちになってしまう。
そのようなことを考えていると、死への衝動について改めて意識が向かった。死への衝動には破壊的な側面と超越的な側面がある。前者は、自傷的な性質を帯びていて、自己を破滅に導いてしまう可能性がある。一方で後者は、人間の成長·発達が死と再生のプロセスと言われるように、そのプロセスにとって不可欠なものでもある。
こうした死への衝動と対極的に死を拒絶する衝動も私たちに内在しており、それは自我の自己保存的衝動と密接に結びつきながら、人間を種々の駆り立てに誘う。その駆り立ての1つはもちろんマネーへの執着である。
マネーと死に関する対極的な衝動がどのように結びついているのか。それについても理解を深めていきたい。フローニンゲン:2021/6/7(月)17:42
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