No.2198 光の桜吹雪_A Rain of Cherry Blossoms of Light
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.587, The Contradictory Nature of Human Beings
People who seem the most insane are completely sane in a certain sense.
On the other hand, people who seem the most sane are absolutely insane in a certain sense.
Human beings are that kind of contradictory creatures.
Groningen; 07:02, 5/4/2021
No.588, No Boundary Between the World and Me
Suddenly I felt that there is no boundary between the world and me.
To put it differently, I felt that the world and I might be the same boundary.
This is not a wordplay, but the word of “boundary” is not proper, instead it is something different.
It could be the same circle.
Groningen; 07:50, 5/4/2021
No.589, We & Reality
All of us are a part of reality.
All of us are the whole reality.
Groningen; 10:35, 5/4/2021
No.590, Self-Transformation and Social Transformation
Self-transformation and social transformation are one.
They happen in concert.
Self-transformation without social transformation and vice versa are bogus and illusory.
Groningen; 10:52, 5/4/2021
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本日生まれた5曲
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タイトル一覧
6880. 今朝方の夢
6881. 種々の存在証明/「神は死んだ」という言葉について
6882. 超越的一致/リアルの要件
6880. 今朝方の夢
時刻は午前6時半を迎えた。今は小雨が降っていて、今日は一日中雨のようだ。今日もまた降りしきる雨を時折眺めながら、探究活動と創作活動に力を入れていこう。
一昨日と昨日に、『インテグラル心理学』の読書会に関する音声ファイルを随分と作ったので、今日は少し休むことにし、続きはまた明日作っていこうかと思う。本日はその分読書に精を出す。
今朝方の夢を思い出してみると、それは冒険的な内容だった。夢の最後に印象的なメッセージが英語で現れたことを覚えている。それは聖なる水に関するものだった。
起床直後にはそのメッセージを正確に覚えていたのだが、今はそれを完全に覚えておらず、ただし何か意外なものが聖なる水と等しいことを伝えるものだったことは覚えている。
夢の中で私は種々の課題を乗り越えていく冒険を楽しんでいるようだった。困難を困難と思っておらず、1つ1つの課題を着実にクリアしながら進んでいく自分の姿がそこにあった。
夢の中で現れた人物に関して言えば、多くの夢のように友人や知り合いが現れることはなく、見知らぬ人が1人か2人現れる程度だったように思う。
今朝方の夢を改めて振り返ってみると、やはりキーワードは聖なる水だった。水が持つ神聖な側面、そして神聖な力に触れる瞬間があり、それについて今改めて考えている。
後ほど朝風呂に入る際には、まさに水の恩恵を受けることになる。水は時に人間の手には負えないような凶暴な力を発揮する一方で、生命にとってはなくてはならないものである。
人間の体の6割以上が水で構成されていると言われるほどなのだ。自らを構成する水が神聖であるのと同時に、時に暴力的な力を振るうというのは、どこか心の光と闇の側面に似ている。そのようなことを考えさせられる。
ここ最近感じることとして、探究活動に充てる時間とエネルギーが増えており、日々の探究活動は、どうやら創作活動に統合されていく流れを歩んでいるようだ。
今後はより一層、人間発達や社会に関する全ての探究活動の成果が、ゆっくりと創作物に流れ込み、徐々にそこに体現され、それを通じて開示されていくことを願う。フローニンゲン:2021/5/4(火)06:56
6881. 種々の存在証明/「神は死んだ」という言葉について
時刻は午前8時を迎えようとしている。静かに雨音が聞こえてくる。
朝風呂に入った後、浴槽を洗っている最中に、こうした掃除も自分の心がけ次第で十分創造的な活動にすることができ、さらには治癒的な効果が得られることに気づいた。
それは「掃除アート」、ないしは「掃除セラピー」とでも形容できるようなものであり、掃除の際に創造性を発揮することによる快感と、外面世界が綺麗になることによって心も綺麗になるかのような効果を実感した。後者に関して言えば、アフォーダンス現象を持ち出すまでもなく、内面世界と外面世界はそもそも鏡のように互いに反射し合い、相互に影響を与え合っているものなのだ。
昨日ふと、科学哲学と神学の接点に対する関心が目覚めた。それは小さな関心であるが、神学においては神の存在に関して色々と議論がなされており、目には見えない神が存在するのかどうかという神学上の議論と、目には見えない素粒子やそれ以上に微細な物質が存在するのか否かという科学哲学上における議論は非常に似ているように思えた。
また、ここ最近は無意識の種々の階層構造に気づくような体験をしており、無意識のそうした階層がそもそも存在しているのかどうか、そしてそれがどれほど深く多様に存在しているのかどうかという議論もまたそれらの議論と似ている。このトピックも、バスカーの批判的実在論の探究を進める過程で色々とわかってくることがあるだろう。
このトピックの流れを汲んでか、風呂上りに、ニーチェの「神は死んだ」という言葉について考えていた。この言葉を単なる宗教批判、神の不在として受け取ってしまうと、霊性の発達がひどく抑圧されてしまうのではないか。
ニーチェがその言葉を発した真意ではなく、あえて別様に解釈してみるとどのようなことが言えるだろうか。ニーチェが生きていた時代精神の特性を考えると、神話的段階の神が死んだという意味を汲み取れなくもない。範囲を拡大して、神話的段階以下の全ての神が死んだという見方も可能である。
発達の原理である含んで超えるという観点からすれば、神話的段階の神が死んだというよりもむしろ、神話的段階の病理的な側面が死に、新たに合理性段階の神が誕生することを希求した言葉と受け取れなくもない。
いずれにせよ、ウィルバーが指摘するように、様々な段階の神が存在することを忘れてはならず、全ての神を一緒くたに葬り去ってしまおうとすることは、自身の霊性の発達をひどく抑圧する結果を招くことになるだろう。また、そうしたあり方をしている限り、自身やこの世界の中に潜む神聖な側面に決して気づくことができないだろう。
霊性に関する領域内には、「たらいの水と一緒に赤子を流す」という現象が、その他にもいくつも見られる。そうした認識上の誤りを正すことは、バスカーでいうところの“underlabouring”という概念であり、霊性探究に携わる者の重要な役割の1つはそれだろう。フローニンゲン:2021/5/4(火)08:09
6882. 超越的一致/リアルの要件
時刻はゆっくりと午後8時に向かっている。今日は激しい雨が降ったり止んだりを繰り返すような1日だった。今この瞬間は穏やかさを取り戻している。
今日もロイ·バスカーの書籍の音読を1日を通して行っていた。バスカーが提唱する非二元の1つの機能である、「超越的一致(transcendental identification)」という概念に少しばかり立ち止まっていた。
この日記を書く自己はこの日記と一致し、この日記を読む自己はこの日記と一致する。非二元の状態に参入すると、自己が純化し、その存在の基底と一体となるがゆえに、自己は何にでも合一化できる。
人の話を聞く時でもそうであるし、自分が何かを話している時にも、その行為と自己が完全に一致することができる。いついかなる瞬間も非二元でないことがないということがこの概念を通じてありありと理解できる。
ウィルバーと並ぶほどにバスカーは自分に大きな影響を与えてくれている。今読み進めている書籍だけではなく、バスカーは自身の書物の中でルーミーやウィリアム·ブレイクなどの霊的な詩を引用していることがよくある。そこに関心が向かう。
バスカーの批判的実在論とメタリアリティの思想にこれから親しんでいけば、バスカーとウィルバーの思想的枠組みの双方を用いて詩を豊かに解釈していくことができるように思える。それは自分の探究上、希望の道のようだ。
バスカーの批判的実在論に触れていると、リアルであるための要件がより明確なものになってくる。仮にそれが物理的な世界になかったとしても、それが何らかの因果的力を持つものであればそれはリアルであるというバスカーの捉え方は面白い。
バスカーが指摘するように、自我(エゴ)は虚構の産物であり、それは幻想なのだが、幻想であることがリアルでないと言えないことがこの定義からわかってくる。自我は幻想でありながらも、それが因果的力を持っているがゆえに、それはれっきとしてリアルな存在なのである。バスカーもまた自我は幻想でありながらリアルなものだと捉えており、自分の考えと一致する。
今夜も入浴までもう少し時間があるので、引き続きバスカーの書籍を音読していこう。この音読の行為もまた超越的一致として行われていく。フローニンゲン:2021/5/4(火)20:01
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