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6522-6524: アートの国オランダからの便り 2021年1月3日(日)


No.1702 快楽の流れ_A Flow of Pleasure

本日の言葉

Conscious intention colors and moves everything. Hsing Yun


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本日生まれた5曲

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タイトル一覧

6522. 詩集を発見して

6523. 映画の中で輝く詩/今朝方の夢

6524. 今日の映画鑑賞より/コリン·ウィルソンの詩の哲学


6522. 詩集を発見して


——全て慌ただしいものはすぐにも過ぎ去る。ただとどまるもののみが、我らを真実の世界へ導く——リルケ


時刻は午前4時を迎えた。静けさの小波が辺りを打っている。


微動だにしない真っ暗闇の世界が目の前に広がっていて、その闇の美しさに吸い込まれるかのようだ。


新年を迎えて、気がつけばもう2日経っていた。今日から3日目である。


時間の流れは早いようでいて、ゆっくりにも感じられる。時の流れの速さと遅さが打ち消し合い、自分には時が止まって感じられる。時の流れの速さと遅さが出会う瞬間地点に自分が佇んでいることを感じ、それを通じて真実が開示されるかのようだ。


昨夜、改めて手持ちの詩集をいろんな場所から引っ張り出してきた。本棚の中から、そしてソファに積み上げられた書籍群の中から詩集を引っ張り出してみたところ、嬉しい発見があった。


シュリ·オーロビンドの詩集を近々街の中心部の古書店で購入しようと考えていたのだが、それは今から2年前にすでに購入していて、購入日が記入されたその詩集がソファの上の書籍群から見つかった。


来週の晴れた日の平日に、古書店の店主であるテオさんに挨拶をしに行くがてら店に立ち寄ろうと考えていて、そのときにオーロビンドの詩集を購入しようと思っていたのだが、それはもう手元にあったのだ。そうしたこともあり、来週古書店に立ち寄った際には別の詩集を購入しよう。


昨日7人の過去の偉大な詩人の詩集をそれぞれ1冊ずつ、合計7冊ほど購入し、それは再来週あたりにイギリスから届けられる。彼ら以外に何かいい詩人がいないかを探してみて、面白そうな詩集があれば引き続きそれらを購入したい。


オランダ人の詩人で誰かいい人はいないだろうか。その詩人の詩集の英訳版あるいは蘭英バイリンガル版があればと思う。


その他に手持ちの詩集で発見したものとしては、ウィリアム·ブレイクの “The Complete Poems”というものや、ラルフ·ワルド·エマーソンの詩がいくつか収められた“Essential Writings”などがある。とりわけ後者の書籍には思い出があり、今から数年前にノルウェーに旅行に出掛けたときにそれを携帯していて、旅の合間合間にエマーソンのエッセイや詩を読んでいたことを思い出す。


エマーソンの詩だけ集められた“Ralph Waldo Emerson : Collected Poems and Translations”という詩集があることに気づき、エマーソンと親交の厚かったヘンリー·デイヴィッド·ソローの“Henry David Thoreau : Collected Essays and Poems”という詩集もあるようなので、ぜひそれらも追って購入したい。


また、先日見た映画の中でウェールズのディラン·トマスという詩人の素晴らしい詩が引用されていて、彼の詩集"The Collected Poems of Dylan Thomas: The New Centenary Edition”は、文献購入リストにすでに追加済みであった。来月はまた詩集をいくつかイギリスかドイツの書店に注文したいと思う。


詩を通じて、言語感覚の涵養をゆっくりと行っていき、既存の言語空間の変容と新たな言語空間の構築を実現させていこうと思う。それが今年のテーマの1つである。フローニンゲン2021/1/3(日)04:42


6523. 映画の中で輝く詩/今朝方の夢


——あなたが求めていることは、あなたを求めている——ルーミー


詩を求めている自分がいるということは、詩が自分を求めているということなのだろうか。ルーミーの超越的な発想からすると、そうなのかもしれない。


おそらく今の自分は、詩を求めていることを超えて、詩を通じた何かを求めている。そしてその何かが自分を求めているのだろう。


自らの言語世界を開拓·涵養していくだけではなく、きっとそれを通じて何かを実現させたいと求めているはずなのだ。それは昨日書き留めていた詩が果たす社会的役割と社会的力の話と関係しているかもしれない。


先ほどの日記の中で言及したウェールズの詩人ディラン·トマスの詩について改めて考えている。作品名を思い出したが、映画『ソラリス(2002)』の中でトマスの珠玉の詩がいくつか引用されていたのだ。


素晴らしい詩は、映画の中でなお一層輝くことがある。映画の物語と映像のコンテクストの養分を吸い上げて、感動的な詩が映画の中でさらなる輝きを放つ。


『ソラリス(2002)』の中で引用されていたトマスの詩はそうしたものだった。 トマスの詩集“The Collected Poems of Dylan Thomas”だけではなく、先日“Dylan Thomas: The Filmscripts”という書籍にも注目をしていて、そちらも文献リストに加えて購入を検討していた。


先ほどの日記では、来月にまた詩集の一括注文をしようと書き留めていたが、来月まで待つ必要などなく、来週末かどこかにでもまた詩集を一括注文しようと思う。その際には、上記のディランの詩集に加え、エマーソン、ソロー、そしてエドガー·アラン·ポーの詩集を購入しよう。


ここからは日々詩集を読み、特に自分の感覚に訴えかけてくるものがあれば、それは何度も声を出して味わおう。元々詩とは歌なのだ。歌は歌い上げることによってその真の姿を現し、真価を発揮する。


また、詩集でなくても、様々なジャンルの書籍から珠玉の言葉を意識的に集めていくことも検討しよう。自分に響く言葉を記録していく専用のファイルを作ろうかと思う。引用や検索がしやすいようにどのような工夫ができるかを考えていこう。


詩への関心が高まる中、今朝方の夢をふと思い出した。夢の中で私は、ある芸能人の女性の方と話をしていた。彼女は私よりも幾分歳が若く、何かの番組に一緒に出演したときに知り合いになった。


その番組の中でお互いの料理を持ち寄り、試食するというコーナーがあった。料理を食べながら談笑している際に、私が普段人と話をすることがないことについて話をし、彼女はそれを面白がっていた。彼女にとってみれば毎日誰かと何かしら話をしているらしく、私は人と話をする日があることの方が稀であることを伝えると、彼女は笑っていた。


次の夢の場面では、1950年代にマッカーシー上院議員がアメリカで「赤狩り」を行っていたような雰囲気がそのまま体現されているかのようだった。場所は日本だと思うが、共産主義者の赤狩りが行われていて、私はそれを実行している比較的若い女性と話をしていた。


彼女は赤いマグカップを手に持って何かを飲みながら話をしており、「赤狩りをする人間のコップが赤くていいのか?いや、赤狩りをする人間だからコップが赤いのか?」ということを私は幾分笑みを浮かべながら考えていた。


彼女の批判として、「共産主義者は自らの頭で思考しない」ということを述べていたが、その批判は少し的外れのように思えた。そこから彼女と対話をしばらくし、日本だと思っていたその場所が砂漠地帯に変化し、私は砂漠の方に向かって車を走らせることにした。フローニンゲン2021/1/3(日)05:05


6524. 今日の映画鑑賞より/コリン·ウィルソンの詩の哲学


——かつて、全ての考えは詩人から始まった。詩人は想像力に拠る。卓越した想像力に拠って、詩人たちは人間について最も大切なことを教えていた——ジャンバッティスタ·ヴィーコ(イタリアの哲学者)


時刻は午前7時半を迎えた。今日も1日が充実感と共に過ぎていった。


今日は早朝に、『ナイト·オン·ザ·プラネット(1991)』という映画を見た。この作品は、ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキの5つの都市を舞台に、それぞれの街を走るタクシードライバーが同時刻に乗客を乗せ、乗客との交流をオムニバス形式で描いている。


辻邦生先生の映画評論集の中にこの作品について言及があり、それもあって今日鑑賞した。この作品を見ながら、タクシードライバーと乗客たちが織り成す心の交流に小さな感動があった。それは大きな感動ではなく、どこか心温まるものである。


心の交流が貧弱なものになりつつあるこの現代社会において、この映画が描くような何気ない交流を他者と行っていくことの大切さを改めて思わされる。この世界の様々な場所で互いの心が通い合う時、そこには異なる歴史や価値観を持つ2つの人生が交差する輝きが生まれる。私たちの人生の充実さというのは、そうした輝きを大切にする中で得られるものなのではないだろうか。


その他に印象に残っている映画としては、『家族ゲーム(1983』という邦画だ。この映画は時代として古いが、そこで描かれていることは今の日本社会にも当てはまるだろう。


この映画では、家族のメンバーがゲームの中のキャラクターを演じるかのようにそれぞれ決まった役割を演じて日々を生きている。しかもその役割はとても窮屈で抑圧的である。


まさにこの映画のタイトルにあるように、現代の家族社会というのは役割を演じるゲームのような形で運営されているのではないかと思われる。視点を家族から学校社会や企業社会に移してみた時にも、その構造はほとんど変わらない。


つまり、そうした社会においても人々は決まった役割を演じ、自己の可能性を抑圧し、窮屈な形で生きることを迫られているのである。その点において、この社会はどのような集団に属していても、役割を演じるゲームに呪縛されていると言えるのではないだろうか。


今日は午前中に、神秘思想家のコリン·ウィルソンの“Poetry and Mysticism”という書籍を購入しようかと考えていた。しかし、ふと昨年末のマルタ共和国·ミラノ旅行のことが脳裏をよぎり、そこでこの書籍を持参していたことを思い出したのである。


慌てて本棚やソファの上を探すと、それを無事に発見することができた。 危うくもう一度注文するところだった。


早速本書を目に付くところに置いておこうと思い、今は書斎の机の上に置いている。明日から再読をしていく予定だ。


本書以外にも、昨日注文した7冊の詩集以外にも、ざっと15冊ほど詩集を文献購入リストに追加した。それらの注文を2月まで待つ必要はなく、近日中に注文をしてしまおうと思う。


シュリ·オーロビンドやウィリアム·ブレイクの詩集は街の中心部の古書店で偶然出会えた幸運があったので、近々その古書店に立ち寄って詩のコーナーを物色してみようと思う。セオさんの店の詩集コーナーはとても充実しているのだ。


仮にオランダ語、ドイツ語、フランス語などが堪能であれば、そこに置かれている詩集のほとんど全てを読むことができるのだが、残念ながらそうはいかない。それでも英訳されたものや英語を原語とした詩集も充実しているので、今度店を訪れた時にどのような詩集との出会いがあるか今から楽しみである。フローニンゲン2021/1/3(日)20:03

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