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6431-6433: アートの国オランダからの便り 2020年11月25日(水)


No.1584 朝の静けさを眺めて_Seeing the Morning Silence

本日の言葉

Remember that silence is sometimes the best answer. Tenzin Gyatso


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本日生まれた7曲

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タイトル一覧

6431. 「動く絵画」としての映画/今朝方の夢

6432. 穏やかな夕日を眺めながら

6433. 泡沫の如し宝のような流れとしての人生


6431. 「動く絵画」としての映画/今朝方の夢


時刻は午前4時を迎えた。今朝は3時半あたりに目が覚め、そのまま起床することにした。目覚めがとても良く、もうそれ以上睡眠は必要ないと判断したからである。


今の気温は4度であり、今日は8度まで気温が上がるそうだ。昨日は結局買い物に行くことができなかったので、今日は午後に気分転換も兼ねて買い物に出かけたい。


まずはコーヒー屋に行き、その後オーガニックスーパーに立ち寄る。帰りがけに近所のスーパーを梯子する形で帰ってこようと思う。


今日は午前中に1件ほどオンラインミーティングがあるが、それ以外の時間は昨日と同様に、作曲実践と映画鑑賞に充てていこう。


昨日ふと、映画を「動く絵画」として眺める感覚が芽生えていることに気づいた。端的には、映像美を楽しむという視点が加わったのである。


自分が見たことのない景色や風景を堪能できる楽しみ。生涯において足を踏み入れることができないであろう世界の景色や風景、さらには未来の想像世界の景色や風景を楽しむこともできる。映画にはそのような魅力もある。


映画で流れる音楽もまた印象的なものが多く、映画は目と耳の双方を大いに楽しませてくれる。目と耳から刺激される感覚が多いことを考えてみると、映画は実に多くの刺激をもたらしてくれることがわかる。


家にいながらにして、どこか未知の世界に冒険に出かけているような感覚をもたらしてくれることも映画の良さである。


今朝方は起床前に印象的な夢を見ていた。私は塾のような建物の中にいて、そこの2階で台湾人や中国人の女性と会話をしていた。2人とも背丈が大きくなく、1人の女性は私よりも少し若いぐらいであったが、もう1人は随分と若いようであった。


2人は随分と流暢な日本語を話すことができ、2人と会話をする前に、私が忙しく仕事をしていることが気になっていたようだった。確かに、会話の直前まで仕事に没頭していて、会話の最中においても仕事を引きずっているような感覚があった。その点に関して2人謝り、そこからは会話を楽しんだ。


会話が終わると、私たちはその部屋から出ていくことにした。ちょっとトイレに立ち寄りたかったので、部屋を出て左手にあるトイレに入った。


トイレの扉を開けると、そこには汚物で汚れた便器があった。便器には綺麗なカバーがかけられていたのだが、それも汚物で汚れていた。


直感的に、小さな子供がトイレを汚してしまったのだと思った。私は自分の体に汚物が付着しないように、慎重に用を足し始めた。


ゆっくりと用を足していることもあって、辺りを観察する時間があり、タオルの方を見ると、そこにも汚物が付着していた。正直なところ、とても気持ち悪い感覚が私の中にあり、ゆっくりと用を足しながらも早く外に出たいと思った。


しかしながら、十分に水分補給をしていたためか、やたらと用が長い。それを心配してか、友人が扉のガラス越しに声を掛けてきた。


彼もまたトイレに入りたいらしかったが、私はトイレが汚れていることは伝えず、用を足すことに集中した。一向に用を足し終える気配がなかったことに痺れを切らしてか、友人は強引にトイレの中に入ってきた。すると友人は、すぐに汚物の存在に気づき、ギョッとしたような表情を浮かべた。


私は扉のガラスに背を向けて用を足していて、彼は外側の窓に背を向ける形で用を足し始めた。私たちは対面で用を足しながら、そこでもまた会話をしていた。今朝方はそのような夢を見ていた。


汚物に関するシーンはとても印象に残っている。夢の中で汚物を見るというのは何を象徴しているのだろうか?汚物を掃除する気持ちは全くなく、むしろ誰かがそれをやるであろうから気にしないような振りをしている自分がいたことは間違いない。


仮に汚物が自分のシャドーを表しているとしたら、今の自分にはまだ自分で向き合いたくないシャドーがあり、それを見ることを他人任せにしているということだろうか。はたまた、自分で取り組みたくない仕事が現実世界の中にあって、それを他人に任せたいということを示唆しているのだろうか。


どちらも可能性としてはなくはない。また、その他の可能性もあるかもしれない。フローニンゲン2020/11/25(水)04:23

6432. 穏やかな夕日を眺めながら

時刻は午後3時を迎えた。今、とても柔らかな夕日がフローニンゲン上空に浮かんでいる。


つい先ほど買い物から帰って来た。まず街の中心部にあるコーヒー屋に立ち寄り、オーガニックのコーヒー豆を2種類ほど購入した。1つはまだ試したことのない豆の種類であり、毎回少しずつ新しい豆を試して、色々と開拓を進めている。


ジョギングを兼ねてコーヒー屋に向かったのだが、気温はめっきり低くなっていて、走っても汗が出ることはもはやなかった。今週末からは寒さの1つ次元が1つ変わる。ギアが1つ変わったかのように、冬が深まっていく。


コーヒー屋に訪れた後には、街の中心部のオーガニックスーパーであるEkoplazaを訪れた。店に入ると、気さくな店員のメイが声を掛けてくれた。


今日は残念ながら椎茸がなかったので、代わりにマッシュルームを購入した。このように、時折食材を変えてみることも大事かと思う。いつもオーガニックのジャガイモは近所のスーパーで購入することにしており、結局今日は近所のスーパーに立ち寄ることをせず、明日にしようと思ったので、その代わりにサツマイモを1本ほど購入した。


以前はサツマイモを毎日食べていたが、ここのところはご無沙汰であり、久しぶりに蒸したサツマイモを今夜は味わおう。その他には、予定通りに、有機玄米味噌、有機豆乳、オーガニックのゴマペーストを購入した。


自宅に戻ってくる道はいつもと同じ道だったのだが、夕日を眺めながら石畳の道を歩いているとふと、目の前の景色が新鮮に見えた。そして、なんとも言えない詩情のようなものが湧き上がり、その感情が感謝の念に変わっていった。


日常の景色が新鮮に見えたのは、そもそも世界が季節の進行と共に変化しているということもあるだろうが、ここ最近映画を毎日数多く見ることによって、世界を見る目が変わっていっていることもあるだろう。


映画は、日常を新たな目で見ることを促してくれるきっかけの役目を果たしてくれている。日々幸福感を感じられることと、日々変化を感じられることは密接に関係しているように思え、映画によって認識の枠組みが揺さぶられ、それによって日常が新たに見えるというのであれば、映画は変化を捉えさせてくれる力を私たちに授けてくれる点において、幸福の触媒とも言えるかもしれない。


そのようなことを考えながら歩いていると、いつの間にか自宅の近辺まで戻って来ていた。すると、自転車に乗った少しばかり年配の女性が家の前で止まり、私がふと振り返ると、笑顔で挨拶をして来てくれた。


オランダでは見ず知らずの他人であっても、目が合えば挨拶を交わすことが多い。その年配の女性の笑顔が印象的であり、挨拶を交わせたことが、少しばかり自分の心を温めてくれた。


自宅に戻って3階の自分の部屋に向かっている最中に、上の階に住むイェルに遭遇した。イェルはインターン先の職場の人と電話をしている最中のようであり、簡単に挨拶だけしようと思ったが、ちょうど電話が終わったようだったので、そこで少し立ち話をした。


イェルは隣町のフリースランドからやって来て、フローニンゲンにあるマーケティングの会社で職を得るために数ヶ月前からインターンをしている。このようなご時世であるから、なかなか職を得ることも厳しいらしいが、なんとかインターンをこなし、近々職を得られるかどうかの報告があるようだ。イェルはとても好青年のため、彼には無事に仕事を得て欲しいと思う。


今、穏やかな夕日を眺めながら、平穏な満ち引きを繰り返す心の波の動きを感じている。フローニンゲン2020/11/25(水)15:27


6433. 泡沫の如し宝のような流れとしての人生


時刻は午後8時を迎えようとしている。今、フィンランドの作曲家たちのピアノ曲が収められたオムニバス楽曲を聴いている。


いずれの音色もとても心に沁み渡る。北欧に近いこの街で暮らしていることが、その感動をより豊かなものにしてくれているのだろうか。


今から数時間前に、赤紫色の素晴らしい夕暮れ空を見た。あの赤紫色をなんと表現したらいいだろうか。そして、それが移りゆくあの姿をなんと表現したらいいだろうか。


夕暮れ空もまた1つの生命のように呼吸をし、生きているのである。あのように美しく輝く夕暮れ空は、この季節の特権的な光景であり、自然からの大切な贈り物である。そうした贈り物を享受していた瞬間瞬間もまたこの人生における贈り物なのだ。


桜。もう9年も桜を見ていない。そのようなことをふと思った。


先ほど、昨日見た『北の零年』と今朝方に見た『北のカナリアたち』に続く「北の三部作」最終章を飾る『北の桜守(2017)』という映画を見た。


満月の下に咲き誇る桜のなんと美しいことか。果たして自分はあのように美しい桜を再び見ることができるのだろうか。もう2度と見れないかもしれない。仮に見れたとしても、それは残りの人生においてあと1、2回ほどなのではないかと思う。


自分はもう桜の咲いていない土地で生きていくことを宿命づけられているのだと思う。だが、心の中では常に桜が自分の中にある。しかも、いつでも満開に咲いた桜を見ることができるのだ。


現在第3期を迎えた「一瞬一生の会」のある参加者の方が、リフレクションジャーナルの中で『グレート·ブルー(1988)』という作品について言及していた。今朝は真っ先にその作品を見た。


この作品は、愛と友情、そして叙情に満ちた素晴らしい作品だった。見事な映像美から物語が始まり、音楽も洒落ていて、全体を通して透明感のある作品だった。


イルカとの触れ合いや戯れのシーンは大いに心が癒され、フランス人の主人公のジャックとイタリア人のエンゾとの間で育まれていた友情には思わず胸が熱くなった。


今日は午前中に2時間弱のオンラインミーティングがあり、午後には小一時間ほど買い物に出かけていたのだが、それでも映画は6本ほど見ることができた。


明日は特に何も予定がないので、大いに映画鑑賞をし、大いに作曲実践に励んでいこう。映画鑑賞によって涵養された自己は作曲にも肯定的な影響を与えている。


今日も感謝の念を持って1日を終えることができる。何か大きな変化や刺激に満ちた毎日ではないが、小さな変化と小さな刺激に満たされた日々を過ごしている。こうした日々を積み重ねていくのが自分の人生である。


一歩一歩の積み重ね。積み重ねていく塵が山にならなくても、自分は人生最後の日であっても塵を積み重ねる。それが自分の人生であり、自分の生き方である。


日々は宝のような塵なのかもしれない。日々は塵であり、宝であるし、宝であり、塵なのだ。


日々は泡沫の如し宝のような流れなのだ。今流れているピアノ曲のメロディーは、泡沫の如し宝の流れとして流れていく。


日々の一瞬一瞬の時間は、そうした泡沫の如し宝のメロディーだったのだ。そして人生という総体もまたそうしたメロディーなのだ。


自分の人生に固有のメロディーが自分の元から離れていくとき、それはきっと誰かの人生のメロディーになる。人間は太古からそのように生きてきて、今もそのように生きているのではないだろうか。少なくとも、自分の中には過去に生きてきた人々のメロディーが脈々と流れ続けている。フローニンゲン2020/11/25(水)20:16

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