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6422-6424: アートの国オランダからの便り 2020年11月22日(日)


No.1574 時の遊戯_Play of Time

本日の言葉

He who is capable of hitting the mark without either a bow or an arrow, only he is master in the highest sense of the word. Eugen Herrigel


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本日生まれた8曲

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タイトル一覧

6422. 今朝方の夢

6423. 8本ほど映画を見て

6424. 今朝方の夢をふと思い出して/本日見たその他の映画について


6422. 今朝方の夢


時刻は午前7時を迎えた。日曜日の朝が静かに始まり、静けさの中に今佇んでいる。

今日はどうやら雨は降らないようであり、晴れ間が顔を覗かせるようなので何よりだ。世界は今、コロナの第3波で再び不穏な雰囲気を醸し出しているが、この街は穏やかさを保っている。

天気予報を見ると、来週末からはいよいよ最低気温が1度になるとのことである。それは冬本番が始まることを物語っている。

考えてみれば、もうすぐ12月なのだから、当たり前といえば当たり前かもしれない。ちょうど昨日から、書斎のヒーターをつけるようになり、確かに寒くなってきたことは確かである。

今朝方もまた夢を見ていた。深夜に1度目が覚め、そこからまた2度寝して、再び夢の世界に戻って行った。最初に目が覚めた時までに見ていた夢は、もうほとんど記憶に残っていない。感覚として、中立的な感情のまま進行していくような夢だったように思う。

見知らぬ女性が登場しており、その女性と会話をしていたことを覚えている。1度目が覚めて再び参入した夢の世界においては、少しばかり感情的な揺さぶりがあったように思う。そこではオランダ人の見知らぬ女性と話をしており、彼女との会話が感情を揺さぶったのではなく、彼女との会話が終わった後、どこかに向かっている最中、あるいはどこかに到着してからの出来事に感情を揺さぶられたことを覚えている。

昨夜の夢は総じて形を把握しにくいものだった。昨夜は映画を7本見て、就寝ギリギリまで音声ファイルを作成しており、そうしたことが夢の世界に何かしらの影響を与えたのかもしれない。

今日もまた積極的に映画を見ていきたい。映画への肯定的な渇望感に突き動かされる形で日々映画を見ている。

1つ1つの作品から感じること、学ぶことがたくさんあり、感覚の新たなドアが開かれていることを実感する。今日もまた未知の世界へ誘ってくれる映画を楽しもうと思う。今日はどのような作品との出会いがあるだろうか。フローニンゲン2020/11/22(日)07:30


6423. 8本ほど映画を見て


時刻は午後7時半を迎えた。つい先ほど夕食を摂り終え、今、ゆっくりと今日の充実感を味わっている。振り返ってみると、今日は結局、合計で8本ほど映画を見た。昨日は7本見て、昨日の段階で、8本であれば無理のない範囲だと仮説を立てており、感覚としてまさにそれが正しいことが今日実証された。

映画を8本1日に見ても見過ぎたという感覚はなく、1つ1つの映画から学んだことや得られた感覚を十分に消化吸収することができる量だということがわかったのである。明日からは新たな週を迎え、オンラインミーティングが入っている日もあるので、そうした日には7本や8本映画を見ることが難しいこともあるだろうが、今のところ最大では8本までなら咀嚼可能な量だということを体験を通じて理解することができた。

今朝最初に見た映画は『unknown アンノウン(2006)』という作品であり、古びた倉庫に閉じ込められた全員が、目を覚ましてみると、ガスによって全員記憶喪失になっていたという面白い設定から物語が始まる。自分が誰かわからないという状態の中から、少しずつ記憶を取り戻していく形で物語が進行していき、鏡を見て記憶の一部を思い出すシーンが印象に残っている。

鏡は映画ではよく出てくる物であり、鏡は自己の内側を映し出し、自分が何者なのかを思い出させてくれたり、内省する役割を果たすのだということが改めてわかる。

ある登場人物が、「記憶で本当の自分が決まるんじゃない」という言葉を述べていた。私たちは過去の記憶に縛られて生きている生き物だが、それが時に、あるいは往々にして現在の自分の限界を定めてしまっている。自らを縛る記憶から解放されることの大切さを思う。

現代社会で生活をしていると、隣人が一体何者なのかということは実はわかっていないことが多い。というよりも、ほとんど何もわかっていないというのが実情だろう。仮に何かわかっていたとしても、それが実は成り済ましや偽りの可能性があり、さらにはある真実の断片であるということを考えると、私たちは本当に近所に住む人間のことなどわかっていないのだ。

それを実感させてくれること、かつそうした隣人への無知さがもたらす危険性について考えさせてくれる映画として、以前に黒沢清監督による『クリーピー 偽りの隣人(2016年)』を見て、今日は『グッド·ネイバー(2016)』と『隣人は静かに笑う(1998)』を見た。どちらも非常に興味深い作品だった。

私たちは、正体不明の隣人を信頼する形で生活を成り立たせている。しかし、そうした正体不明の人間が何をしでかすかはわからず、また仮に隣人を知ろうと思っても、結局ある個人は他人から知り得ない部分というものを必ず持ち合わせているのだ。

前後するが、正体不明な人間が行う悪事に関しては『隣人は静かに笑う(1998)』という映画で描かれており、仮に隣人を知ろうと思ってあれこれ尽くしても、結局重要なことは何もわからないということは『グッド·ネイバー(2016)の中で見事に描かれている。

隣人を信頼しようと思ってもうまくいかず、信頼しようという努力がなければ隣人が何をしでかすかわからないという、信頼に関して八方塞がりな状態の中で現代人は生きているということが見えてくる。ここからますます信頼が揺らいでくると、私たちの社会はどのようになってしまうのだろうかと危惧する。

その他にも今日はまだまだ映画を見ていたが、もう1つだけ取り上げるとするならば、少し古いが『透明人間(1933)』という作品が印象に残っている。本作品は、第二次世界大戦前の古い映画だが、意外と見応えがあった。

透明人間を作るというのは実験の副産物であったが、似たような危険性のある実験は今も世界各国で行われ続けているはずだ。そのようなことを思いながら、「透明人間」というのは、現代におけるアイデンティティを喪失した人間や、自らが誰かを定義することが難しい社会から阻害された人間たちを象徴しているのかもしれないと思った。また、自分が透明な存在に感じられるというのは、猟奇的な殺人犯に時折見られる自己認識であることについても考えていた。フローニンゲン2020/11/22(日)19:57


6424. 今朝方の夢をふと思い出して/本日見たその他の映画について


ゆっくりと進行していく時間。そして、日々ゆっくりと着実に深まっていく自己。

時刻は午後8時に迫ってきている。この時間帯になって今朝方の夢の断片を思い出した。エレベーターに乗り込む夢の場面があったのをふと思い出したのである。

その場には10人ぐらいの人たちがいて、その中には何人かの知人がいた。そして、著名なある日本人の投資家もいた。

エレベーターは程なくして下から到着し、私たちはそこから下に向かった。エレベーターに乗り込む際に、75kgを超えた体重の人たちが多くいることに気づき、自分が乗ると重量オーバーの警報ブザーがなるのではないかと思った。そこで私は、次のエレベーターを待つことにして、知人を含めて、6人ぐらいを先に行かせた。

するとすぐに次のエレベーターがやってきて、残りの人たちと一緒にエレベーターに乗り込んだ。私たちは全員、1階に向かいたかったので、1階の押しボタンを私が押した。

すると、エレベーターのドアが閉まり、下に向かって動き出した。ふとエレベーターの重量制限の表示を見ると、先ほどの私の判断は正しかったと思った。さっきのエレベーターに乗った人たちの体重を合計し、そこに自分の体重を加えると、やはりオーバーになってしまうことがわかったのである。

私はその計算の正しさに思わず笑ってしまい、笑みが溢れたところで夢の場面が変わった。そのような場面があったことを思い出す。

夕方に見た映画の中に『ギヴァー 記憶を注ぐ者(2014)』という作品がある。誰も過去の記憶を持つことなく、全てが管理された社会という設定は、今後の人間社会を思わせる。

物語の中の社会において、全ての差異を抹消し、それによって一見すると、争いも差別もなく人々が幸せそうに暮らしているが、それは欺瞞であり、私たちの世界は差異があるからこそ美しく、それによって進化していくという側面もあることを改めて考えさせられる。

この作品は、記憶を受け継いでいくことの大切さとその困難さについても考えを巡らせる契機を与えてくれ、人々は協働して記憶を受け継いでいく必要があることを実感させてくれる。記憶は人を苦しめる力がありながらも、同時に生きる力を与えてくれるものでもある。記憶の持つそうした両義性を改めて思う。

主人公に記憶を引き渡す役割を果たした人物が、「信念とは彼方を見ることだ。彼方を見ることは、風を感じることに似ている」という言葉を述べていた。この言葉は詩的な表現としてとても印象に残っている。この言葉が意味すること。それを自分なりに考えている。

今日は洋画を6本、邦画を2本見ていたのだが、つい先ほどまで見ていたのは邦画の『空中庭園(2005)』という作品だ。この作品では、「家族問では秘密をつくらない」というルールが定められていて、実際にはそれぞれに秘密を抱えている家族が崩壊と再生を体験する姿を描いている。

息子の家庭教師として家族にやってきたミーナという存在は、家族を混乱に陥れる異質な存在としてのシンボルだったのだろう。別の表現で言えば、境界を超えさせ、非日常に導く存在としての役割が付与されていたことが見えてくる。

物語の冒頭で、なんでも包み隠さずに家族全員が話をしている場面が描かれていて、その会話の異様さがとても新鮮な感じがした。逆に言えば、真実を打ち明けることが異様に思えるほどに現代の家族は欺瞞で満ちているということを示しているように思えたのである。

あるいはそもそも、人は必ず秘密を持つ存在であるからこそ、なんでも明らかに語ることが異様に映ったのかもしれない。現代の家族だけではなく、結局人間は、そもそも欺瞞に満ちた存在なのかもしれない。フローニンゲン2020/11/22(日)20:15

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