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6325-6327: 日本滞在記 2020年10月14日(水)

更新日:2020年10月17日


No.1489 まどろみの瀬戸内海_The Dozing Seto Inland Sea

本日の言葉

Why not cultivate kindness instead of committing acts which cause harm to living beings and to oneself? Chin Kung

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タイトル一覧

6325.【日本滞在記】今朝方の夢

6326.【日本滞在記】ディオニソス的人間とアポロン的人間/体験・経験・ロゴス

6327.【日本滞在記】『あの日、欲望の大地で(2008)』を見て/伝統と美の罠


6325.【日本滞在記】今朝方の夢

時刻は午前5時を迎えた。今日は実家に滞在する最後の日となる。明日からは京都に移動し、京都に4泊5日ほど滞在する。


今回実家に滞在したのは1週間ほどだったが、1週間の間は本当に寛ぐことができた。父と母がいつも私がゆっくりできるように配慮してくれていることに心から感謝をしたい。


結局昨日は、午後の3時半に広島日帰り旅行から帰って来てすぐに、父は台所に立ち、素晴らしい夕食を作ってくれた。料理の品数はいつもと同じぐらいに充実していた。今日の夕食もとても楽しみだ。


明日は京都にゆっくりと移動しようと考えていて、実家を出発するのは焦る必要がない。調べてみると、実家を13時に出発すれば、京都には16時に到着できるようだ。


明日は特にどこかに観光に出かける予定はないので、ホテルのチェックインを済ませたら、駅の中にあるオーガニックスーパーで必要なものを購入し、ホテルでゆっくりしたいと思う。


今朝方は少し印象的な夢の場面があった。ストーリー全体を覚えているわけではないのだが、場面として、私はロープウェーのような乗り物に乗っていたことを覚えている。乗り物の中には日本人が随分と多くいたが、そこにお年寄りはおらず、全員が比較的若かった。


ロープウェーが目的地に到着するかしないかのところで、突然止まった。そしてアナウンスが車内に突然流れた。アナウンスの声は女性であり、どうやら部品の不具合によって急停止することになったようだった。


だが、私はそれが単なる急停止ではなく、嫌な予感があった。端的には、ロープウェーが落ちてしまうような予感があったのである。


すると、同じ女性の声で次のアナウンスがあった。「なんとか頑張ってください」そのような声が出た瞬間に、ロープウェーはガタリと音を立てて、頂上間近からズルズルと下の方に落ちて行った。


乗客たちは皆パニックになっていたが、私と隣にいた男性だけが冷静であり、この事故は間違いなく製造会社の製造欠陥によるものだと思ってお互いに顔を見合わせた。そこで夢から覚めた。


夢から覚めた時に、こうした製造欠陥が人命に関わる極めて重大な問題であることを改めて思った。ちょうど先日見た『七つの会議(2019)』では、企業の不正が主題として扱われていたことを思い出す。


夢の中の製造欠陥も間違いなく不正であり、そこに企業人たちの倫理的腐敗を見て取った。そして、こうした倫理的退廃というのは企業社会だけに蔓延っているのではなく、他の領域においても同じであろうと思われた。


それでは、今日もいつもと同じように、早朝の創作活動として、絵画を描き、曲を作っていく。本日は実家での滞在最終日であるが、最終日も変わらずに読書を続けていく。午後には映画を見て、散歩がてら近所のユニクロに行って必要なものを購入しよう。山口県光市2020/10/14(水)05:43


6326.【日本滞在記】ディオニソス的人間とアポロン的人間/体験・経験・ロゴス


——聖なる「すべし」に従った者だけが魂の安らぎを得る——ニーチェ


時刻は午前9時半を迎えた。今日も晴天であり、朝日が瀬戸内海に降り注ぎ、海面が煌めいている。


ちょうど先ほど、母が午前中のピアノ練習を始めた。今、母の演奏を聴きながら日記を書いている。


早朝の創作活動を終えた後に、『ニーチェ みずからの時代と闘う者』を読み始め、先ほど初読を終えた。



自分の身に降りかかるいかなる暗示をも理解し、叡智を創造していくディオニソス的人間。一方で、幻想を求め、決して自らの精神で叡智を創造していくことをしないアポロン的人間について思う。


どちらの人間として日々を生きているのか。それについては各人が問うべきものだと思う。


一方で、仮にディオニソス的人間として生きることを許さない時代精神や仕組みが世の中に溢れているのであれば、それについては適切な介入が求められる。この問題についてはいつも堂々巡りをしながらも、いくつかその介入方法の道筋が見えて来ている。


「よく眠れるために、今は目覚めていよ」というニーチェの言葉を解釈するならば、「来世で平穏を獲得するために、現世で覚醒せよ」という意味になるだろうか。


現世での覚醒は、現世での平穏さも約束してくれるだろう。今の自分を取り巻く平穏さを見ると、そのように思う。


個人的な平穏さを実現させるだけではなくて、集合的な平穏さを実現させていくことがどれほど大事なことか。そしてそれがどれほど難しいことか。


個人としてそれを実現させることさえ難しいのであるから、集合規模になると尚更である。だが、それを希求し、絶えずその実現に向けて行為をなしていくことの大切さを思う。それをニーチェとシュタイナーから学ぶ。


自分にとって大切な体験は、必ず経験に昇華させるように内省すること。ロゴスは、体験を経験に昇華させていく際に大きな力を発揮する。経験として結晶化したものは、それそのものがロゴスになっていく。


そして、そのロゴスをもとに内省を継続させていくと、経験領域を肥沃なものにしていくことができる。これが体験、経験、及びロゴスの連関である。


昨日、家族で広島に日帰り旅行に出掛けた時、高速を下りてから山道を走っている時に、野生の猿と猪を立て続けに見た。かつて野生の猪を見たことはあったが、野生の猿を見るのは初めてだった。


父は昔、よく1人で釣りに行っていたから、これまで何度もそうした野生動物を目撃したそうである。野生の猿と猪を比較してみた時に、前者の方が知性が高いことに気づいた。


野生の猿が5匹ぐらいいて、車道を渡ろうとしていた。その時に、数匹の猿が先に道路を横切った。そして、1匹だけ猿が取り残される形になった。


ここで興味深かったのは、残った猿は先に渡って行った猿に盲目的についていくのではなく、きちんと自ら車を確認し、その場でいったん待機するという意思決定をしたことだ。果たしてどれくらいの現代人が自らの頭で意思決定をして日々生きているだろうか。


野生の猿の行動を見て、現代人の多くは、周りの行動に自動的に追従するような傾向があるため、多くの現代人の知性は猿以下なのかもしれないとふと思った。そのような出来事があったことを思い出す。山口県光市2020/10/14(水)09:38


6327.【日本滞在記】『あの日、欲望の大地で(2008)』を見て/伝統と美の罠


時刻は午後4時に近づこうとしている。今、父が様々な具材の数種類のピザを作ってくれている。母が練習するピアノの音色が聞こえて来る。


つい先ほど、近所のユニクロと書店に立ち寄った。ユニクロで必要なものを購入した後、隣接する書店でほぼ全てのコーナーを隅々と眺め、気になる書籍は片っ端から手に取って眺めていった。


一般書店で置かれている書籍を見ると、今の日本の世相を感じることができる。結局、葛飾北斎を特集した雑誌を1冊ほど購入して帰って来た。


明日からの4泊5日の京都旅行の最中に、どこかのタイミングで丸善に立ち寄ろうと思う。あと少しばかり購入したい書籍があり、それを大型書店で調べてみる。


今回の京都旅行では、鞍馬山と高山寺に訪れ、お隣の滋賀県にある延暦寺に足を運ぶ。宿泊先のホテルは、京都駅と目と鼻の先にあり、そこからはなんと鞍馬山や高山寺に行くよりも隣の県にある延暦寺に行く方が近いということに気づいた。


3つの場所を1日に1つずつゆっくり訪れていこうと思う。天気やその日の感覚をもとに、前日か当日にどこにいくかを最終的に決め、気ままなな旅を楽しむ。


先ほど歩いて買い物に出かける前に、『あの日、欲望の大地で(2008)』という映画を見ていた。これは、『バベル』の脚本家でもあるギジェルモ·アリアガ監督が作った作品である。


物語は、幼少時代に心に傷を負った女性の異なる時空間をもとにストーリーが進んでいき、いくつもの伏線が収束していく形で展開していく。本作品を見ながら、人間の宿命や宿業を思った。また、罪の意識と治癒、そして再出発という展開に人間の普遍性を見出すことができる。


夕暮れ時の瀬戸内海を眺めながら、伝統というのは探し求めるものであるが、結局は探し求められないものであるという西部邁先生の指摘に考えを巡らす。結局は、伝統というのはそれを探し求めようとする構えであるという指摘にも納得する。


ロイ·バスカーの考え方を応用すれば、伝統は「実在界(the real)」に存在していて、それが「現実世界(the actual)」で発揮されるかどうかは、伝統を探し求めようとする構えのあるなしに左右されるのではないかと思う。つまり、伝統に対して無関心であれば、伝統が現実世界でその力を発揮することはほとんどないのではないかということである。


伝統を持つ組織やチームにおいて、伝統がうまく発揮されないことの背後には、そうした構えの欠如が存在しているかもしれない。


私たちは美を求める時、真偽、善悪の判断が一度保留になる。それが永遠に保留されてしまうと、美の危険な側面に入り込んでしまう可能性がある。美の罠に陥った人間たちの特徴はそれだろう。


音楽は、時間の流れの動き、感情や感覚の動きであって、単なる音の集合体ではない。ある曲には、作曲家の固有の時間の流れや感情·感情感覚のある法則性、ないしは規則性が内在している。


そして、聴き手のそれと合致することによって、音楽の美的体験が生じる。そのようなことを考えていると、入浴の時間が迫って来た。今夜が家族と一緒に楽しむ最後の晩餐となる。山口県光市2020/10/14(水)16:05

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