No.1311 空の門番_A Guardian of the Sky
本日の言葉
I know not of any other single thing so conducive to great loss as the untamed mind. Anguttara Nikaya
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本日生まれた10曲
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タイトル一覧
6176. 今週末の予定と今日の読書
6177. 今朝方の夢
6178. 種々の余裕と慈悲心/経済合理性に侵された教育
6179. 消費煽動型のマーケティングと空虚な自己について
6176. 今週末の予定と今日の読書
時刻は午前5時を迎えた。この時間帯はまだ辺りは真っ暗であり、とても静かだ。小鳥たちが遠方でかすかに鳴いているのが聞こえるぐらいで、その他には物音は聞こえない。
今日は1日を通して曇りがちのようだが、雨が降らないのは何よりだ。一方で、気温は17度までしか上がらず、最低気温はもう8度である。明日も同様に最低気温は8度だ。本当に肌寒くなったものである。
今日はまだ8月なのだが、実際に今この瞬間は、長袖長ズボンといった格好をしており、冬の時代を過ごす格好と同じである。唯一違うのはヒーターをつけていないことだけだ。
ひょっとすると、来月末ぐらいからはもうヒーターをつけ始める必要があるかもしれない。それぐらいに肌寒い。
いよいよ今週末には、ハーグから友人がフローニンゲンに遊びにやってくる。土曜日の天気を確認したところ、小雨マークがついているが、友人がやってくる昼以降は天気がもつようなので何よりだ。
Groninger Forum内のレストランの中にオーガニックなものはなさそうなので、ランチは別の場所で摂るのが良いかもしれない。例えば、街の中心部から少し離れたRÅ SALATBARというレストランはこれまで注目をしていたオーガニックレストランであり、ここの食材は100%オーガニックであり、種々のボウル類はどれも美味しそうなのだ。
ランチはここで摂り、その後Groninger Forumかどこかのカフェに行ってそこでゆっくり話すのがいいかもしれない。カフェに関しても、レストランの近くに行きつけのオーガニックカフェがあり、そこだとゆっくり話ができそうだ。
Groninger Forum内にもカフェはあるが、レストランと同様に、眺めや雰囲気は良いかもしれないが、オーガニックなものではないかもしれないので、今のところGroninger Forumを使うことはなさそうだ。とはいえ、一応外観ぐらいは見学したい。
今日は日曜日だが、いつもと同じような形で日々の取り組みを前に進めていこう。いや、今日はなんと月曜日であった。
創作活動と読書。それらを中心にして自分の取り組みをゆっくりと深めていく。今日の読書は、“Prosperity without Growth: Foundations for the Economy of Tomorrow”から始める。
昨夜の段階で、中身をパラパラと眺めたところ、本書は比較的早く読み終わることができそうなので、初読が済んだら、今度はルドルフ·シュタイナーが経済社会思想を展開している"Toward a Threefold Society: Basic Issues of the Social Question”を読もうと思う。
昨日、本書に関しても中身をパラパラと眺めていた。すると、シュタイナーは随分と多くの書籍を通じて経済社会思想を紹介していたことを改めて知り、先日の一括注文の際には購入していなかった書籍については、また別の機会に購入しようと思った。
それはおそらくこの冬かそれ以降になるかと思われる。結局今月は、75冊ほどの書籍を購入したので、それらをこれからゆっくりと読み進めていこう。フローニンゲン:2020/8/31(月)05:32
6177. 今朝方の夢
時刻は午前5時半を迎えた。先ほど一つ前の日記を書き終えたときに、今日は日曜日ではなく、月曜日であることに気づき、途中の記述を少し編集した。今日は月曜日だったのだ。
今日は午後に、街の中心部のオーガニックスーパーと近所のスーパーの2軒をはしごして、買い物に出かけようと思う。今週の金曜日の午後には、半年に一度の歯科検診がある。
実は昨日予約を入れたのだが、いつもは直前だと予約が一杯なのに対して、今回はコロナの影響を受けてか、予約ががら空きであった。今週の金曜日の午後3時に検診を受け、その足で街の中心部のオーガニックコーヒー専門店で、コーヒー豆を2種類ほど購入しようと思う。
コーヒーの暖かさが滲みる季節となった。この店に立ち寄った後、ABN AMRO銀行に行き、なぜかiPad Proでうまくオンラインバンキングの登録ができないので、その問題の解決を依頼する。
それでは今朝方の夢について振り返り、その後に絵を描いて作曲実践に移って行くといういつもの流れに乗っていこう。
夢の中で私は、新幹線に乗っていた。それは地元から東京に向かうものだった。
新幹線にはそれほど人は乗っていなかったが、私の近くにはちょうど小中学校時代の友人が2人座っていた。2人は通路を挟んで反対側の座席の窓際に座っていて、通路側の席には2人のボストンバッグのようなものを置いていた。
私は2人に声をかけ、一方の友人は女性であり、ボストンバッグを上の棚に上げるのが大変かと思ったので、私がそれを棚に上げた。それに対して友人は感謝の言葉を述べた。
ついでなのでもう1つのボストンバッグも棚に上げようとしたら、後ろから私に声を掛けてくる人がいた。振り向くと、そこにはまた別の友人(NI)がいて、どうやらそのボストンバッグは窓側に座っているもう1人の男性の友人のものではなく、その女性友達のものだったようだ。
彼女はそのボストンバッグを足元に置き、その席に座った。そこから3人と一緒に話をしていると、母方の祖母が通路にやってきた。
どうやら私は大学受験を控えているらしく、受験に関しては本命の国立大学しか考えていなかったが、祖母は練習がてらある私立大学も受験してみてはどうかと私に勧めてきた。確かにそれは練習がてらいいかもしれないと思い、また気分転換にもなるだろうと思ったので、その大学を受験してみることにした。
そこで祖母にお礼を伝え、祖母と握手をしようとしたら、祖母の手が離れていき、どこかに消えてしまった。
そこからはその私立大学の受験について考えていた。そこは名門の私立大学であり、これまで対策など全くしていなかったので、とりあえず過去問を見てみようと思った。すると、偶然にも、近くに座っていた2人の白人男性がその大学の過去問集を持っていることに気づき、驚いた。
ちょうど、もう1人小中高時代の親友(HO)が現れ、彼もその大学を受験したいと思っていたようなので、彼と一緒にその2人の外国人に声を掛け、過去問を見せてもらうことにした。早速私は数学の問題を見た。
その大学は私立の文系には珍しく、数学を試験科目にしていて、それでいて難易度もなかなかのものだというのは知っていたので、まずはどれくらいのレベル感なのかを確かめた。もちろん入試なので満点を取れるはずはないと思っていたが、問題を見ると、対策することなしに問題が解けそうだという直感があった。
試しにちょっと問題を解いてみようと思い、その場で友人と何問か問題を解いてみることにした。するとどうやら、自分が受け取った過去問集は比較的新しく出版されたものなのだが、親友が受け取ったのは随分と古い過去問集だということがわかった。そうしたこともあり、一緒に同じ過去問集の問題を解くことにした。
受験の日までまだ時間があるので、これからは毎日学校の放課後にどこかの教室で過去問を解き、教室の黒板を使って自分が解説をしながら理解を一緒に深めていこうと親友と約束した。
次の夢の場面では、私はどこかの国の街の倉庫のような場所にいた。そこには私以外にもう2人ほど友人がいて、さらには小さな外国人の男の子もいた。どうやら私たちは、その男の子を何者かから守ろうとしているらしかった。
その倉庫のような建物は2階建てになっていて、私たちは2階の窓から外の様子を見ていた。すると、2人の外国人の警察官が下にやっきたのが見えて、私たちを助けに来てくれたのだと思って安心した。
私たちはあらかじめシャッターを開けておき、警察が入ってこれるようにした。2人の警察官はシャッターをくぐって、私たちがいる2階の方に上がってきた。
すると1人の警察官が、「騒がないでくれよ」と述べ、その言葉と同時に、持っていたライフル銃で私たちが守ろうとしていた小さな子供を撃った。その後、矢継ぎ早に私たち全員を撃った。
ところが私は偶然にも友人の背後にいて、友人を貫いた銃弾が私の右の腹の部分にぶつかったのだが、痛みは全くなかった。しかし私はそのまま地面に倒れ込んだ。
地面に倒れ込んだ時に、もしかしたら自分は助かるかもしれないと思い、地面で息を潜めてじっとしていることにした。フローニンゲン:2020/8/31(月)06:04
6178. 種々の余裕と慈悲心/経済合理性に侵された教育
時刻は午前11時半に近づきつつある。空には雲が少しばかりあるが、晴れている。
つい今し方ふと、調べる余裕、考える余裕、行動する余裕、自分の内側を感じる余裕、そうした諸々の余裕があることに改めて感謝の念を持った。
確かに、そうした余裕を持たせるための種々の工夫と物理的·経済的環境の整備をこの数年行ってきたわけなのだが、それが知らず知らずうまく機能していて、いつの間にかそれらの余裕の中で生きていることに気づいた。
勉強し、考え、そしてアクションしていく余裕。そうした余裕に加えて、その瞬間の1つ1つの体験を味わう余裕があることには絶えず感謝しよう。
以前にも一度思い出したことがあるのだが、午前中にふと、サンフランシスコに住んでいた時のある思い出が蘇ってきた。
サンフランシスコ市内のピア39から大学時代のゼミの友人とサイクリングに出かけ、ゴールデンゲートブリッジを渡ったところで、私があまりの寒さに震えていると、比較的若いアメリカ人の女性が駐車場の車から降りてきて、私にジャケットをくれたことを思い出した。
ジャケットを貸してくれたのではなく、文字通り、それを私にくれたのである。そのジャケットは引越しに伴ってもう自分の手元にはないが、その女性の慈悲心は今でも自分の心の中にある。あのような優しさを自分は他者に行動を持って示すことができるのだろうかと考えていた。
今、書斎の窓を閉め、冬と同じ出で立ちで過ごしているのだが、そうした寒さも相まって、あの時の記憶がふと蘇ったのだろうか。余裕に関する上述の感謝の念だけではなく、絶えず慈悲心を持ち、慈悲心が体現された言動を日々行っていくこと。それはまだまだ意識しなければできないことかもしれないが、いつかそれが無意識的に行えるようになるだろう。
今日はこれまでのところ、早朝の計画通りに2冊の書籍を読み終えた。正午を迎える前に2冊の書籍を読み終えている姿を見ると、読書がとても捗ったことがわかる。
今日は午後に、「一瞬一生の会」のための補助音声教材を作ったり、夕方近くには街の中心部に買い物に行く。そうしたこともあり、今日の読書はいったんこの辺にして、あとは夕食後に少しばかり行うことにする。
一旦経済学書から離れ、今日の夜と明日にかけての読書は再び美学に戻る。そして、明後日からは再び経済学に戻ろう。美学と経済学の往復をするような形で読書が進んでいる様子もまた興味深い。それは美学と経済学を統合する道の始まりを意味しているのだろうか。
ここで詳述はしないが、シュタイナーは教育を経済的な影響から完全に独立させる形で無償提供することを提唱していた。教育の無償化は、ノルウェーやフィンランドで実現されている。
それらの国々では、大学まで無償であるから、その徹底ぶりは目を見張るものがある。一方、教育が有償である日本の教育は、そもそも最初から経済合理性に絡めとられているのではないかと思ってしまう。
しかもここでいう経済合理性というのは、人々の可能性を引き出し、社会的幸福を実現するようなものではなく、むしろそれとは逆向きに働くような歪んだ合理性のことを指している。教育に経済的な事柄が入り込む余地があり、それが悪事をなすというのではなく、最初から経済的なものが混入しているのだ。それは思想的にも制度的にもである。
日本よりも悲惨なのはアメリカであり、アメリカにおけるシュタイナー学校の学費は桁外れに高く、一部の裕福な人しか通うことができない。アメリカにおいてはシュタイナー教育までもが消費物質的な対象に成り果てていて——それはもうブランド品の購入と変わらないのではないか——、仮にそこで素晴らしい教育がなされていようとも、その根幹は経済合理性で毒されているように思える。
そしてそれは、アメリカのシュタイナー教育だけではなく、アメリカの教育の土台全体を蝕んでいる。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2020/8/31(月)11:37
6179. 消費煽動型のマーケティングと空虚な自己について
時刻は午後7時半を迎えようとしている。今、フローニンゲン上空には穏やかな夕日が浮かんでいる。涼しげなそよ風が吹いていて、今日の穏やかさを物語っている。
今日の夕方に街の中心部に出かけた時、ジョギングをするという都合上半袖半ズボンで外に出かけたのだが、随分と肌寒かった。次回以降はもう少し暖かい格好をして出かけた方がいいように思った。仮にスポーツのできるような半袖の格好であったとしても、インナーを1枚着た方がいいように思った。
今日は早朝の計画通りに、“Prosperity without Growth: Foundations for the Economy of Tomorrow”と”Toward a Threefold Society: Basic Issues of the Social Question”の2冊の初読を終えた。前者の書籍の著者が、脱成長型経済において政府や規制当局が果たす役割として、私たちの欲望を刺激するマーケティングを規制することを1つとして挙げていた。これはとても重要に思える。
物理的な空間も、ヴァーチャルの空間も、私たちの脳や無意識に強く影響するような消費煽動型のマーケティングが溢れているのは明らかである。そうした消費煽動型のマーケティングは、先日言及した音響兵器としての悪音の蔓延と同じぐらいに害悪であるように思えてならない。
そのような観点で今日も街の中心部に出かけてみたのだが、やはり諸々のマーケティングに溢れていることに気づく。世の中はもうマーケティング空間と括った方がいいようなぐらいに、消費を煽るようなシンボルで溢れている。
心理学者のフィリップ·クッシュマンが提唱した「空虚な自己」について考える。空虚な自己は、絶え間ない欲求に浸されていて、食べ物や消費財を絶えず追い求める。そうした行動によって、空虚な自分の空虚さを埋めようとするが、その空虚さに終わりはない。
自己に内在する煩悩や欲求と、外的なマーケティングが組み合わせることによって、空虚な自己はどこまでも空虚になっていく。
明日の午後にでも、この秋の一時帰国のフライトの変更が可能かどうか電話をしてみようと思う。可能であれば、同じ日付か、あるいはそれよりも出発は前でもいいので、コードシェア便間でのフライトの変更が可能かを問い合わせてみる。
ここからはまた音楽理論や作曲理論の基礎を学んでいこうということも思った。基礎の土台をより堅牢なものにしていきながら、その土台の上に自分なりのものをどんどんと積み上げていく。それは思想的かつ技術的なものである。
土台を堅牢なものにしていくことの大切さを強調する必要はないかもしれないが、自分にとってはそれを肝に銘じておきたい。基礎的な知識や技術をいかに自由自在に使いこなせるようになるか。まずはそれを最優先にしていこう。フローニンゲン:2020/8/31(月)19:37