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6160-6165: アートの国オランダからの便り 2020年8月27日(木)


No.1286 天国行きの優しい階段_Gentle Stairs to Heaven

本日の言葉

Humans are social creatures and taking care of each other is the very basis of our life. Tenzin Gyatso

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6160. 秋の一時帰国に向けて:石川県金沢市の兼六園

6161. 今朝方の夢

6162. 今朝方の夢の続き

6163. 「経済成長」という言葉の虚偽性

6164. 経済・企業社会の道徳的・倫理的発達段階/効率性追求と脆弱性の拡大

6165. 物理的な書物や論文がもたらしてくれる恩恵

6160. 秋の一時帰国に向けて:石川県金沢市の兼六園

時刻は午前6時を迎えた。今、空がダークブルーに変わり始めている。

昨日は起床直後から雨だったが、今日は雨が降っていない。天気予報を見ると、今日は夜から雨が降り、明日はその雨が夕方まで降り続けるようだ。

今の気温は随分と寒く、もう長袖と長ズボンを着用している。振り返ってみると、今年の夏は本当に短かった。夏がやってくるのがそもそも遅く、ずっと肌寒い春の季節が続いていて、そこから突如10日間ほど気温が上り、それが嘘のようにスッと過ぎ去っていった感じである。

昨夜、日本のアマゾンを通じて8冊ほど和書を購入した。それらはお世話になっている協働者の方の自宅に送らせていただき、日本でお会いさせていただくときに受け取らせていただけることになった。

先日50冊ほど書籍を注文したばかりであるが、届いた本から順番に食い入るように毎日本を読んでいると、それらもすぐに初読が終わるように思える。ここ最近は以前にも増して自分の関心領域が広がっているのを実感している。今週末には再度欧州のアマゾンを経由してもう10冊ほど書籍を購入する予定だ。

昨日から読み始めた貨幣の仕組みに関する書籍が秀逸であり、そのシリーズとして政治学、社会学、環境学のものもあるようなので、それらも購入したい。その他にもいくつか購入したい書籍が新たに見つかったので、それらと合わせて週末に注文をし、それをもって8月の一括注文を終える。

昨日、ある協働者の方のメールの中に、お盆休暇を使って石川県の金沢市にある兼六園に訪れた話が書かれていた。兼六園は、日本三名園の一つに数えられる庭園である——その他の2つは、岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園——。

今年の秋の一時帰国の際には、福井県に立ち寄り、その後石川県に訪問する予定である。ちょうど金沢にも滞在しようと考えていたところだったので、ぜひ兼六園に足を運びたい。

兼六園の近くには石川県立美術館と金沢21世紀美術館があり、こちらの美術館にも足を運ぶ。石川県の滞在は日程的にも余裕があると思うので、2つの美術館には別々の日に訪れようと思う。

金沢には他にも見たいと思う歴史的な建造物や博物館がいくつかある。10月の中旬は気候が良いであろうから、金沢の街を散策するにはもってこいである。きっとその頃の金沢は美しいであろう。

気がつけばもうすぐ9月であるから、秋の一時帰国の際の宿泊施設の確保をそろそろしておこう。福井と石川で訪れたい場所のリストをざっと作り、滞在日数を確定させ、落ち着けるホテルを見つけたい。

もしかしたら、旅館のような場所でもいいかもしれない。久しぶりに日本の落ち着いた和の感じを味わいたいものである。フローニンゲン:2020/8/27(木)06:25

6161. 今朝方の夢

時刻は午前6時半を迎えた。今、闇が消え、ほのかなピンク色を付けた空が広がり始めた。

本日の読書は、“Doughnut Economics: Seven Ways to Think Like a 21st-Century Economist”から始めようかと思う。こちらは一般書であるから読みやすそうであり、注記を除けば300ページ弱なので、比較的早く初読が終わるように思う。

本書を読み終えたら、明日の前野隆司先生との対談に向けて、献本していただいた8冊の書籍を全てもう一度再読したいと思う。特に自分が下線を引いた箇所や書き込みをしたところ中心に読み返しておきたい。そうすれば、明日の先生との対談はさらに実りあるものになるだろう。

その場でどのような対話がなされ、どのようなものが創発されるのかを含め、先生との対談が今から楽しみだ。

今朝方はいくつか印象に残る夢を見ていた。それらについて書き留め、明恵上人のように、夢とシンクロした日々を生きていこう。夢の中で私は、ある日本の学者の方と一緒に砂浜の上を歩いていた。その学者の方がふと、「実はこの辺りの海の一部を所有してるんだよね」と私に述べた。

海の一部を所有しているというのがどういう意味なのか尋ねたところ、文字通り、海の一部の区画の土地を所有しているようだった。その土地には希少な植物が生息しているらしく、その学者の方は誇らしげにそのことを教えてくれた。

気がつけばちょうど私の手にその植物があり、見ると色は白であり、形はサボテンのようだった。少しチクチクしそうな植物だが、どこか美しさと可愛らしさがあった。

その学者の方は、その植物には希少性があり、市場で高価で取引されていることについても教えてくれた。私は具体的にどこからどこまでがその人の持ち物としての土地なのか知りたく、それを尋ねたところ、その学者の方はよく覚えていないと笑いながら述べた。

土地の所有を証明する権利証が近くの市役所に保管されているようなので、私たちはそこに向かった。すると、その学者の方はどこかに消え、その代わりに、大学時代のサークルの先輩がそこにいた。

なぜかその土地は、先ほどの学者の方ではなく、その先輩の祖父が所有しているようであり、先輩の祖父がかつて登録手続きをこの役所で行っているようだった。先輩は祖父が提出した登録書を探し始めたが、一向にそれが見つからなかった。

先輩が市役所に残された過去のノートから祖父の筆記を探そうとしていると、その様子は全てモニターに映されていて、私はモニターを見ながら、固唾を飲んで見守っていた。ふと職員たちが働いているデスク周辺を見ると、そこにもっと古い年代のノートがあることに気づいた。

先輩の祖父は、おそらくそちらの古いノートに記述を残したのではないかと思ったので、先輩にその旨を伝えた。先輩はすぐにそちらの古いノートを確認したところ、先輩の祖父の直筆のサインを見つけた。私は少しホッとした。

すると、私の横に大学時代の同じサークルの友人がいた。友人は、その市役所でたった今、あるノートの一片の切れ端を見つけ、それを見て驚いたと言う。

何やら、「XX(友人のニックネーム)に伝えたフランス留学の嘘の話」という書き込みがなされているのを見つけたらしいのだ。私は思わず笑ってしまった。

そう言えば、大学に入りたての頃の新歓期に、その先輩とすぐに打ち解け、私はその先輩とグルになって、ちょっと友人をからかう意味を含めて、先輩と口を合わせて、先輩がフランスに留学したという話をでっち上げたのを思い出した。

私はまさか友人がいまだにその話を信じているとは思っておらず、逆にこちらがびっくりしてしまった。その先輩がフランスに留学したのは嘘だよと伝えると、私の目の前にパリ市内の大きな広場が広がった。そして、そこを歩くフランス人たちの姿が知覚され、その後、私はパリにあるフランスの名門大学であるソルボンヌ大学のキャンパス内にいて、荘厳な建物の中に入っていこうとしていた。

すると再び私の意識は市役所にあって、そこで友人に別れの挨拶をした。先輩も奥さんと一緒に過ごすために早く帰りたい様子であり、ちょうど奥さんから電話がかかって来て、仲睦まじく電話でやり取りをしていた。そこには奥さんのことを思う先輩の優しさが滲み出ていた。フローニンゲン:2020/8/27(木)06:55

6162. 今朝方の夢の続き

時刻は7時を迎えようとしている。今、小鳥たちの鳴き声が聞こえて来て、1日の始まりを祝福しているかのようだ。天気予報では今日は曇りとのことだったが、今は雲がほとんどなく、朝の柔らかい世界が目の前に広がっている。

先ほど今朝方の夢について書き留めていたが、今朝方はその他にも夢を見ていた。

夢の中で私は、おそらく日本のどこか田舎の街の海で釣りをしていた。そこは高くて大きな防波堤があり、私は防波堤の上から釣り竿を垂らしていた。

その場にいたのは私1人だったが、少し離れたところに大学時代のサークルの友人がいて、彼も釣り竿を垂らしていた。しばらくして、後ろから突然、サークルの先輩が現れた。その先輩はサークルのキャプテンを務めていた方である。

先輩は笑顔で私たちに話しかけ、先輩も釣りに来たと言う。すると、先輩の背後から物凄い勢いで走ってくる女性がいた。そしてその女性は私たちの横を勢いよく通りすぎ、先輩が「あっ!」と述べた時には、もうその女性は防波堤のてっぺんから海に向かって飛び降りていた。

その防波堤の高さは数十メートルほどあり、また防波堤の下の海には大きな岩などが転がっていて、防波堤から飛び降りるというのは自殺行為に等しかった。

先輩が「あっ!」と述べたのは、どうやら先輩はその女性のことを知っているようだったからである。勢いよく飛び降りた女性がどうなったかは、私はもう見なくても想像できたので、怖くなって防波堤の下を見ることをしなかった。代わりに先輩が様子を見たところ、その女性は即死のようだった。

そこで先輩はすぐに警察に通報した。友人と私はもうそこで釣りをするのをやめにしようかと思ったが、警察がやって来て、死体を処理してくれたらまた釣りができるかもしれないと思った。

私は死んだ女性についてあれこれ考えるのをやめにして、早く警察がやって来てくれないかと祈った。そこで夢の場面が変わった。

その次の夢の場面としてあったのが、1つ前の日記で書き留めていた場面であった。そして、そこからまた別の夢を見ていたことを思い出した。

次の夢の場面では、私はサッカー日本代表の期待の若手選手と一緒に、小さなボルダリングジムにいた。そこはジムというよりも、誰かの家の中のような感じであった。

マンションの一つの部屋の中にボルダリングの壁があるような感じであった。そこで私たちはボルダリングを楽しんでいた。

その選手は運動神経が良いだけではなく、知性が極めて高いので、ボルダリングの課題に対しても、高度な知性を発揮して向き合っているようだった。彼が早速昨日できなかったとても難しい課題に挑戦すると述べた。

彼は真剣な表情を浮かべ、深い呼吸をした後に壁に向かって走り始めた。すると、壁の上をまるで忍者のように走り抜けて、見事にゴール地点まですぐさま辿り着いた。それを見て私は思わず拍手をした。

昨日できなかった課題を一発で攻略した彼もまた笑顔を浮かべており、拍手を送る私に対してお辞儀をした。その様子を見ていた見知らぬ若い男性が、今度はその課題と同じぐらいの難易度の課題に挑戦し始めた。

するとその男性も見事に課題を一発でクリアした。その男性が取り組んだ課題の一番難しい点は、最後ゴール地点に向かう時に、手をかけられる場所がなく、足だけをかけられる場所から横っ飛びしてゴール地点を掴む必要があったことである。しかも、そのゴール地点をしっかりとホールドすることがまた難しく、強い握力が必要であった。

一方で、日本代表の若手選手が取り組んだ課題の難しさは、壁の上を忍者のように走り抜ける特殊な技術が要求されていることであった。ふと気づくと、私は高校時代の友人(HH)の家にて、彼の家の浴室にいた。

浴室にある洗濯機の横に、ボルダリングの細長い壁があり、そこにゴムでできた課題が設置されていた。どうやらそれを握ることによって、ボルダリングに必要な握力を鍛えることができるらしかった。ちょうど友人が浴室にやってきて、その使い方を教えてくれた。

次の夢の場面では、私は見慣れない建物の中にいた。いくつかの部屋があるフロアにいて、フロアの共有スペースの休憩所のようなところに私はいた。そこで偶然にも、大学時代のゼミの友人(TM)と小中学校時代の友人(MS)がいた。

ゼミの友人は大学時代に軽音楽部に所属しており、その場でギターの演奏を始めてくれた。また、小中学校時代の友人は野球部に所属していたのだが、どういうわけか突然歌を歌い始めた。

2人の友人のギターと歌声はなかなかに心地良く、しばらくそれを聞いていたいと思った。すると、どこからともなく、父方の祖母の声が聞こえてきた。祖母は優しく、もう寝る時間なので静かにしてほしいということを伝えてきた。

そのため、私たちは音楽の演奏をそこでやめにした。確かに、時刻は午後の10時に近づこうとしており、音楽をするには遅い時間だった。

そこからまた休憩スペースのテーブルに腰掛けて3人で話をしていると、中学校1年生の時の担任の先生が突然やってきた。私たちは学校にいるわけではなかったのだが、先生は、学校に持って来てはならないものを私たちが持って来ていると述べ、それをすぐに差し出せと述べた。

それはタバコのようなものであり、意識の変容を促す物質が含まれているものだった。私たちは、素直にそれを先生に差し出したが、なぜか私たちは全員監獄に送られることになった。だが私はそれに対して抵抗することなく、すぐに自分の無罪を証明できると思った。

最後の夢の場面としては、高校時代のある女性友達と話をしていたのを覚えている。彼女がカバンに何かお守りのようなものをつけていたので、それについて尋ねた。

すると、入学してすぐの頃に、登校中に何人かの男子生徒に声をかけられ、彼らがその友人に思いを伝える手紙を渡したそうなのだ。手紙と言っても立派なものではなく、メモ帳の裏に書かれたものだったそうだが、それでも彼らの思いが込められていることに変わりはないと私は感じた。

彼女は、その手紙を大切に持っていて、それを折り畳み、プラスチックのお守りケースのようなものに入れてカバンにつけているらしかった。彼女はそのエピソードを恥じらいの笑みを浮かべながらも嬉しそうに私に話してくれた。フローニンゲン:2020/8/27(木)07:31

6163. 「経済成長」という言葉の虚偽性

時刻は午後3時半を迎えようとしている。今日は季節の変わり目を象徴するように、早朝に鼻水が出ていた。今も時折鼻水が出ており、喉も少しイガイガする。身体が新たな季節への適応をしていることを感じる。

今日はここまでのところ、読みかけの経済学書1冊と新たに1冊を読み終えた。どちらの書籍からも得るものが多く、引き続き現代の経済学的思想と枠組みの歪みについて探究をしていこう。

いくつか雑多なことを考えていたので、備忘録がてら忘れずに書き留めておく。

「経済成長」という言葉の罠として、それを追い求めれば追い求めるほど、逆に経済が蝕まれていき、社会が蝕まれているのだから、「経済成長」という言葉が指す類の成長を希求することから降りるだけではなく、そもそもそうした言葉を使うことを止めるのを迫られているように思う。その代わりに、「幸福状態の拡大·持続」に類するような言葉が誕生し、そこに向かって経済活動が進んでいく必要があるのではないかと常々感じる。

2000年にパリの大学に所属する経済学部の大学生たちが、経済成長を前提とした旧態依然とした経済理論を大学で教わることに反抗し、教授人に抗議の手紙を送った出来事や、そこからしばらくして、ハーバードの学生たちが、経済成長を所与とした既存の経済理論を依然として教えている教授の授業を集団でボイコットした出来事が示唆するように、若い世代には、既存の経済学のおかしさについて直感的に何か感じていることがあるのではないかと思える。

そのようなことを考えながら、「人間的生態経済学(humanistic ecological economics)」のような経済学が台頭することについて思いを馳せていた。それは自分の造語であるが、そうした経済学を構成するであろう諸分野を学んでいこう。人類と自然、及び地球の幸福に資する経済学の実現に向けて、小さなところから探究と実践を続けていく。

アマルティア·センは、発達(開発)の主眼は、経済成長ではなく、人々の生活をより豊かにしていくことに当てるべきだと明確に述べている。仮に経済成長を取り上げるのであれば、それをGDPだけをもって捉えるというのは、明らかに観点不足だろう。

仮に経済成長を議論するのであれば、より多面的な観点でそれを捉えていく必要がある。GDPというのは1つの尺度に過ぎず、それだけをもって経済成長を議論するのはひどく限定的である。

そうした観点において、ニュースなどの中で、「経済成長を表すGDP」という形で紹介するのはどこか間違っているのではないかと思う。それは人々に誤解を生むだけではなく、経済成長というものがGDPの単なる拡大だと思い込ませてしまうことにもつながる。

もし述べるのであれば、「経済成長の1つの側面であるGDP」と紹介する方がより適切だろう。そしてそれよりも重要なことは、経済成長という言葉を聞いて、それが実現されていれば喜び、それが実現されていなければ心配がるという社会的なコンディショニング(あるいは社会的なプログラミング)から脱却することではないかと思う。

GDPの単純な増大を意味する経済成長と人々の幸福が結びついていないことは実証研究においても明らかであり、経済成長が社会や地球を蝕んでいるというデータも既に存在しているはずであるから、「経済成長が実現されている」というニュースを聞いて、むしろ人々が心配がるぐらいの状態になっていく必要があるのではないかと思う——それもまた逆向きのコンディショニングであるが——。

兎にも角にも、GDPだけで測定できるような経済成長を盲信的に希求するのは相当に馬鹿げたことであり、そこで語られている経済成長なるものが、他の領域にどのような影響を与えているのかについて少なくとも考えを巡らせるような思考力を持つ人々が増えないと、人類·社会·地球という生態系は本当に危うい状態に陥ってしまうように思えてならない。

実際のところは、その序章はすでに終わり、次の深刻な事態に進んでいるのではないかと思う。フローニンゲン:2020/8/27(木)15:40

6164. 経済・企業社会の道徳的・倫理的発達段階/効率性追求と脆弱性の拡大

時刻は午後3時半を迎えた。もう少し日記を書き、ここから少しばかり作曲実践を行おう。創作活動と読書、そして日記の執筆が調和の取れた形で相互作用的に行われている。

経済学者かつ倫理学者のジョージ·ディマーティノは、経済学は医学よりも200年ほど倫理の観点で遅れていると指摘している。その指摘を見て、過去にはアダム·スミスや現在においてはアマルティア·センのように、道徳や倫理と経済学を絡めて探究している経済学者がいることは確かだが、その絶対数は限りなく少ないことに考えを巡らせていた。

そもそも、現代医学ですら、その倫理観の発達度合いはいかほどかと考えてしまうぐらいなのだから、それよりも200年前の倫理的成熟度しかない現代の経済学はどのようなものなのかと思ってしまう。

ビジネスと経済が密接に結びついていることからすれば、企業倫理の発達度合いがどれほどかも容易に想像できてしまうし、それは想像できるだけではなくて、実際に企業社会から受け取るモノやサービスを見て、具体的な企業行動を見ていれば肌感覚を通じてその発達の程度がわかるはずである。

より成熟した倫理観や道徳観を経済·企業社会に導入する際に、はたまた彼らの活動の根底にある論理を変容させていくときに、彼らの論理をいきなり全て変えようとすることは往々にして失敗に終わるとある経済学者が指摘していたのを思い出す。

企業社会の既存の論理をいきなり剥ぎ取るようなアプローチではなく、彼らの論理を包摂しながらにしてより治癒的·変容的な論理を構築していくこと。それがより実効的かつ賢明なアプローチだろうか。

システムの効率性を上げることに躍起になると、逆にシステムは脆弱なものになるというシステム科学の教え。2008年の金融危機においては、金融システムを極度に効率化させようとしたことがシステムの脆弱性を高め、結局金融システムは崩壊した。

血液という体内システムも単にオメガ3の脂肪酸を摂取して血液をサラサラにすればいいというのではなく、必ずオメガ6の脂肪酸がもたらす凝固性も必要である。現在の金融システムは、依然として効率性を上げることに躍起になっており、それを身体の血液システムに喩えれば、血液の流動性を高めることだけに躍起になっているような状態であり、血液には固まる力も必要であることを忘れてしまうと、それは血液システムの崩壊のみならず、身体が外傷を負ったときに血液に凝固する力がなければ、身体全体の機能停止も招いてしまいかねない。

SNSの使用やインターネットの過剰利用は、ヴェブレンが提唱した「顕示的消費」を絶えず刺激し、人々をさらなる顕示的消費に駆り立てているように思える。端的には、それらは人間の低次元の欲望を刺激し続けているのだ。

SNSやインターネットの中毒者は、自らが絶えず低次元の欲望を刺激されている可能性について自覚的になる必要があるように思えるが、そもそもそうしたツールを使っている者にそうした内省力があるとは思えないという悩ましい問題がある。

内省能力の観点において、現代人は依然として少年·少女的な発達段階にあり、それを許容している社会もまた少年·少女的な発達しか実現されていないのだろう。フローニンゲン:2020/8/27(木)15:55

6165. 物理的な書物や論文がもたらしてくれる恩恵

時刻は午後7時半を迎えた。今空には少し雲があって、今日は夕日を拝むことができない。

昨日和書を8冊ほど注文し、今週末にはもう10冊ほど欧州のアマゾンから購入しようと思っているので、結局今月は70冊ほど新しい書籍を購入したことになる。書籍が溜まっていく一方だが、理由があって物理的な書籍を必ず購入するようにしている。

とりわけ日本のアマゾンから和書を購入する際には、送料を考えて、いつも日本で受け取るようにしているため、そうであれば電子書籍で読んでもいいかと思うこともあったが、書籍は物理的に所有することが自分にとってはとても望ましい。

例えば、背表紙や表紙を眺め、無数の書籍の背表紙や表紙から絵画的な知的ゲシュタルトが自分の中に出来上がっていく感覚があるのだ。また、本に囲まれて書斎の中で過ごしていると、無数の物理的な書籍から知的エネルギーを受けているような感覚がある。

そして、分野がごた混ぜのランダムな書籍の背表紙や表紙から、調和の取れた1つの高次元の知識構造がふと浮かび上がってくるような感覚になることもある。こうした現象は、電子書籍だとなかなか起きない。それはほぼ不可能なのではないかと思ってしまう。

イメージとしては、知的ゲシュタルトを1枚の絵画作品に喩えると、電子書籍を通じて書物を読むのは、絵画の一部を切り取られた形で見せられるような感覚である。そう考えると、やはり高次元の知的ゲシュタルトを作るという目的において電子書籍は不向きのように思える。

物理的な書物を所有していくことは引っ越しの際は少し大変だが、今後も継続して物理的な書物と皮膚感覚を伴った形で向き合っていく。学術機関で研究をしている時、やはり物理的に本を所蔵していない学者は皆無であったし、仮に電子的に書籍や論文を読む場合には、それらの文献はさほど重要でないものに限られていたように思う。

時々、電子データとして論文を読むことがあるが、それはやはりさっと情報を取り入れたいものだけに限っている。繰り返し読むに値する知識や叡智が内包されている論文は、今でも必ず印刷するようにしている。

研究者として、物理的な書物と論文に囲まれる形で知的エネルギーを得て、物理的な書物や論文を眺めることを通じて、新たな知的ゲシュタルトを生み出していく姿勢は絶えず持っておきたい。

今後はやはりシベリウスの家にあったような図書室が必要だろうか。そうした図書室に書物や論文を所蔵し、それらに囲まれる生活を夢想する。

物理的な文献たちは、どこか自分を見守ってくれているかのようなのだ。物理的に文献がそばにあると、ふとした時にそれらを手に取り、そこから思わぬ気づきや発見が得られることがある。

ある文献と別の文献をその場で組み合わせる形で理解を深めたり、ある文献から別の文献へと自発的に移っていくような現象も起こる。そのような偶発事象によって、自分の知的体系が少しずつ豊かなものになっている感覚がある。

今も書斎の机、本棚、ソファ、椅子の上にはたくさんの文献があり、それらを眺めると、新たなアイデアや感覚がどんどんと生まれてくる。こうした環境にいられることの有り難さを思い、今後も継続してこの環境を育んでいこう。フローニンゲン:2020/8/27(木)19:48

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