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6132-6135: アートの国オランダからの便り 2020年8月20日(木)


No.1240 秋の訪れ_Coming Autumn

本日の言葉

As for all of the sufferings of beings, I take them all on as my own. As for all of the happiness of the present life, I take it all and transfer it to all beings. Hsuan Hua

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6132. カードが届いて:異邦人性とマイノリティー性

6133. 今朝方の夢

6134. ハーグに住む友人の日記を読んで

6135. 日常性の再考:遠心分離的な生き方と求心的な生き方

6132. カードが届いて:異邦人性とマイノリティー性

時刻は午後6時に近づこうとしている。今、空がゆっくりとダークブルーに変わり始めている。通りの街灯が静かに輝く姿を見つめている。

今この瞬間の気温は21度と少しばかり肌寒く、ここから午前9時に向けて20度まで下がり、そこから気温が上がっていくようだ。今日の最高気温は28度のことであるから、日中は暖かさを感じられるだろう。

今日は午前中に小雨が降るようであり、午後からは天気が回復する。昨日、クレジットカードとプライオリティーパスが日本より無事に到着した。ひとまずクレジットカードを入手できたので、近々街の中心部の革製品専門店に足を運び、財布を購入したい。

ちょうど今日は午後から天気が回復するようなので、今日の午後にでも散歩がてら財布を購入しに行ってもいいかもしれない。一方で、財布を持って外に出かける機会がほとんどないことを考えると、来週でもいいように思える。

近所のスーパーにいく時はいつも、銀行のデビットカードをビニール袋にくるめ、それをポケットに入れて持っていくだけである。財布を使うのは髪を切りに行ったり、街から離れるような外出をする時ぐらいだ。

今日は午後に、昨日に引き続いて音声ファイルの作成をしたいと考えていたこともあり、財布の購入はやはり来週に回そう。天気予報を見ると、来週はもう完全に秋の気候になっている。

今日と明日は気温が27度を超えるが、明後日からはもう軒並み最高気温が20度前後となり、最低気温は10度を少し超えるぐらいなので、それはもう秋の気温である。財布の購入は来週の晴れた日にしようと思う。

一方で、クレジットカードの到着をもって、今週末に書籍の一括注文をしようと思う。今のところ、今月は30冊ほど目星の書籍を購入しようと思っている。それらの書籍については今後言及することもあるだろうから、実際に購入した際には、どのような書籍を購入したのかのリストを書き留めておこう。

そう言えばアテネ旅行の際に、自分がそれほど異邦人性を感じなかったことについて昨日思い出していた。異邦人かつマイノリティーである生活を8年間ほど続けてきたことによって、その状態が自分の中で日常になっているようだ。

また私は、自分のそうした異邦人性やマイノリティー性を大切にしたいと思っているようなのだ。なぜなら、人は誰しも本質的には固有な存在であり、それゆえにマイノリティー性を絶えず内包していて、それがこの世界に多様性をもたらすからである。

画一化を強いる社会の力に対抗する意味でも、自身のマイノリティー性を大切にし、それを育んでいきたいとすら思う。一方で、マイノリティーを排斥するような運動や圧力に対しては、然るべき関与をしていきたいと思う。

自己の中にある異邦人性やマイノリティー性について考えていると、自分は一度誰でもない者(nobody)から何者(somebody)かになり、今の自分は再び誰でもない者に向かって歩いているのではないかと思った。

何者かであろうとすること、そこに固執することから解放され、何者でもない者として自己に安住し始めている自分がいる。ここからゆっくりと、何者でもないものへ向かっていくプロセスがさらに進行していくだろう。フローニンゲン:2020/8/20(木)06:08

6133. 今朝方の夢

時刻が午前6時を迎えたところで、少しばかり小雨が降り始めた。天気予報によると、今から2時間ぐらい小雨が降り続けるようだ。

一昨日と昨日は、記憶に残るような夢を見ていなかったが、今朝方は記憶に残る夢を見ていた。それらについて書き留め、今日もまた午前中の創作活動と読書に励んでいきたい。

夢の中で私は、元サッカー日本代表の2人の選手と一緒にサッカーグラウンドにいて、そこで変わった遊びを一緒に行っていた。その遊びとは、コーナーキックのライン上の中間にボールを置き、そこからゴールと並行に体を向けてボールを蹴って、遠いサイドネットに入れる遊びである。遠いサイドネットにボールを入れるためにはかなりの技術が要求された。

まず最初に、2人のうち、若い方の選手が先行してボールを蹴った。うまくゴールに入ったと思ったら、手前側のサイドネットだった。それは成功にならず、その選手は笑いながらも悔しそうにしていた。

今度は、歴代の日本代表でも傑出してキックの技術の高かった選手が蹴ったところ、見事に遠い方のサイドネットにボールが転がっていった。それを見て、やはりさすがだと思った。

今度は自分の番がやってきて、いざボールを蹴ろうとしたところで夢の場面が変わった。実際のところは、2人の選手と和気藹々といろいろな話をグラウンド上で行っていたように思う。年配の選手の方からは、今度家族ぐるみで食事でもどうかと誘われたのを覚えている。

次の夢の場面では、私はフットサルコートの上にいた。大学時代のフットサルサークルの仲間やフットサル以外で知り合った大学の友人たちと一緒にフットサルを行うことになっていた。

対戦相手には小中高時代の友人たちが多くいて、彼らのプレースタイルを知っている私としてはとてもやりやすく思えた。ひょっとしたらそれと同じことを相手も思っていたのかもしれない。

試合前に円陣を組もうとしてコートに向かったところ、こちらのチームはなぜか全員が水色の服を着ていた。とても統一感があっていいと思ったが、そこに小中高時代の友人(HY)がこちらのチームに加わることになり、彼は赤い服を着ていたので、せっかくの統一感が崩れると思ったが、彼はゴールキーパーだったので、1人だけ違う色の服を着ていることは逆に好都合であった。

そこから円陣を組んでいざ試合が始まった。試合開始直後から、お互いに点を取り合うことになった。正直なところ、メンバーの技術からしてみたら、こちらの方が上手いメンバーが揃っていて、試合は一方的なものになるのではないかと予想していたので、その予想が裏切られる形となった。だが、拮抗している方が試合としては面白かったので、私はその状況を楽しむことにした。

相手のゴールキーパーは小柄でキーパーの技術が高くない友人(YU)だったので、自分はどこでもボールを受けたらとにかくシュートを打つことにしていた。それが功を奏して、結構得点が入った。

得点は比較的簡単に入るが、一方で失点も多いことがやはり気になり、守備に関して、マンツーマンでいくのかゾーンでいくのかをチームのリーダーである元プロフットサル選手の人に聞いたところ、「マンツーマンとゾーンのミックス版でいこう」と言われて、逆にどうやって守ったらいいのかわからなかった。今朝方はそのような夢を見ていた。

上記2つの夢以外にも、その他にもう1つ重要な場面があったように思う。そこでは日本人女性と話をしていたことを覚えている。その話は意外とお互いにとって大切なことだったように思う。フローニンゲン:2020/8/20(木)06:29

6134. ハーグに住む友人の日記を読んで

時刻は午前8時を迎えようとしている。今、フローニンゲン上空の空は曇っていて、肌寒い。先ほど小雨がぱらついていたが、今はそれが止んだ。

1時間弱前に洗濯機を回しており、この日記を書き終えるぐらいがちょうど洗濯機が止まる頃かと思う。

フローニンゲンはめっきり涼しくなり、昨夜はもう寝室の窓を開けて寝れないほどになった。おそらく窓を開けて寝れないことはないのだが、窓を開けて寝てしまうと体が冷えてしまうと思ったのだ。短い夏が終わり、これから秋が徐々に深まっていくことについて思いを馳せる。

そんな中、いつものように早朝の味噌汁を飲みながら、ハーグに住む友人の日記を読んでいた。友人は、先日アテネでの財布の紛失の際に私を助けてくれた恩人である。恩人でもある彼女の日記はいつも面白い。

日記の中に友人の洞察や内なる声が含まれている点においての面白さもあり、同時に自分とは異なる人間の異なる人生模様が描かれている点も面白い。また、同じオランダで生活していながらも、オランダの気候に対する受け止め方が違っていたり、それによって生活スタイルが異なっていることがわかって面白い。

フローニンゲンも、ハーグに負けじと7日間ぐらい猛暑日が続いていた。そんな中でも私は即座に暑さに適応し、普段と全く変わらないリズムと質で自分の取り組みを続けていた。

一方、ハーグに住む友人の日記を読むと、どうやら随分と暑さに参っている様子が伝わってきた。笑っては不謹慎なのだが、友人が随分と「ぐったり、ぐっしょり、ぐっちょり」している様子が文体から伝わってきて、思わず笑顔になってしまった。

今回の夏の体験を経て、個人的には32度と33度の間にある明確な体感上の違いを掴み、33度を超えると、確かに暑くて参りそうになるのはわかる。その点にはとても共感する。

しかしながら、33度を超えても、その外部の状態に速やかに内的感覚や身体機能が適応するような形で、そのような高温の状態であっても普段と変わらずに私は生活を送っていた。

先日の日記で書き留めていたように、結局今年の夏が終わった後に倉庫にしまっていた扇風機の存在に気づき、夏の置き土産として残った部屋の熱を逃すために扇風機を使っただけであった。部屋にクーラーもなく、扇風機もないので、当然ながら窓を開けて暑さを凌いでいたのだが、オランダの家の窓には網戸がないので、窓を全開にしてしまうと虫や小鳥が入ってきてしまう。そうしたことから、窓を開けるのは最小限であった。

それではどのように暑さをやり過ごしていたかというと、下の下着だけは着用していたが、上は全裸であった。端的には、服を着ることそのものを疑い、そして裸でいることがもたらすちょっとした違和感が社会文化的に構築されたものであることに気づき、それらの違和感から解放される形で7日間は裸で過ごすことが多かった。

上半身裸になることを躊躇う人もいるかもしれないが、その躊躇いの所在がどこかを突き止めることがなければ、真の解放はもたらされないだろうということを考えていた。数日前にも、「一瞬一生の会」の音声ファイルの中で、私はこの1年間ぐらい、石鹸やシャンプーを用いて体や髪を洗っていないことについて言及していた。

その中で、「仮に友人が惰性で足を石鹸で洗っていたら、ひどく憂う」ということを述べていたことを思い出した。足を洗わなければならないという思い込みや、足を洗わなければ臭くなってしまうという思い込みを検証することの大切さを説明し、そもそも足を洗わなければ足が臭くなってしまう生活習慣そのものがおかしいのではないか?ということも述べていたように思う。

足が汚れたから足を洗うというのは、シングルループアプローチのように対処療法的であり、足が汚れてしまう真の要因は何なのかを考えることによって足が汚れなくすることがダブルループ的なアプローチである、ということを含め、「足を惰性で洗う人を心配してしまい、そうした人には真の解放はもたらされないであろう」ということを45分ほど1人で説明していた。

足を洗うというのはとても卑近な例だが、重要なことは悪き習慣からの脱却であり、自分の習慣が自らを制限するような社会文化的に構築されたものでないかどうかの検証をすることが大切だということを伝えようとしていた。

人は無意識的に、社会や文化から刷り込まれた行動を習慣にしてしまうのだ。足を石鹸で洗うということもまた文化的な産物であり、例えば江戸時代においては、石鹸などで足を洗うことなどなかったであろう。今の私と同じように、体の汚れは全て浴槽に浸かる形で落としていたはずだ。そのようなことを考えながら友人の日記を読んでいた。

暑さを凌ぐための工夫は様々あるだろうが、1つには単純に服を着ないというものがあるだろう。そして、身体を冷ましてくれるような食材、とりわけ水分豊富な夏野菜や夏の果物を摂取するというのもあるだろう。

正直なところ、自分の内側の芯の部分に確固とした生活リズムの軸が構築されていれば、外部環境がどのように変化しても、軸がそうした変化に速やかに適応してくれるように思う。根っ子としての軸を持つことができれば、外部環境の変化は根っこを脅かすものではなく、単に葉を揺らすだけのものに過ぎないことが見えてくるし、それが実感される。

友人はこの猛暑の期間、自宅から外には出ず、家でゆっくりとしたり、寝て暑さを凌いでいるということを書いていた。そこでふと、そう言えば、友人は寒さがあまり好きではなく、冬の時期は特に家から外に出ないということを書いていたことを思い出した。

オランダは冬が長く、春と秋も夏と同じぐらいに短い。春の陽気として少し暖かくなったなと思ったら、そこからいきなり夏がやってきて、すぐにその夏もどこかに行き、秋がやってくる。秋がやってきたと思ったら、そこからはすぐにジャケットやコートが必要な時期がやってくる。

そのようなことを考えていると、来月の初旬に友人がフローニンゲンにやって来てくれることがどれほど有り難いことかわかった。それは滅多ないことなのだ。

ここでも少し笑みを浮かべながら、冬においては自宅の外に出ず、夏においても自宅の外に出ないのであれば、一体友人はいつ外に出ているのだろうか?と思ったのである。冬眠だけではなく、夏眠をしていた友人が、この短い秋のある日にフローニンゲンに足を運んでくれること。それは滅多にないことなのだ。

私がアテネで窮地にいるときに、その友人は私を救ってくれ、そのときに私は、「神様、仏様、OO(友人の名前)様」と読んでお礼を伝えた。そんな友人も見方を変えれば、滅多に姿を見ることのできないネッシーのような存在であると思ってしまい、来月フローニンゲンの駅に迎えにいくときに友人の姿を見つけたら、「あっ、長き眠りから覚めたネッシーだ!」と心の中で思ってしまうに違いない。フローニンゲン:2020/8/20(木)08:31

6135. 日常性の再考:遠心分離的な生き方と求心的な生き方

時刻は午後7時半を迎えた。今、優しい夕日が西の空に見える。すっかり秋を感じさせてくれる1日を今日もまた充実した形で過ごしていた。

今日の読書について言えば、“The Good Society and the Inner World: Psychoanalysis, Politics and Culture”に加えて、“Hegel, Heidegger, and Man-Made Mass Death”の再読もした。明日からはしばらく美学書を読もうかと思う。

ちょうど一昨日に引っ張り出して来た美学書の中から、明日はまず“Aesthetics: An Introduction to the Philosophy of Art”から取り掛かろう。ちょうど今週末に書籍の一括注文を考えていて、その際にも美学関係の書籍を購入する。それらの書籍が届く前に、一通り手持ちの美学書を読み進めていく。

ちょうど先ほど夕食を摂り終え、今は少し体温が上がっているようだ。いつも食事の後には体温の上昇を感じる。

今日の午前中、トイレの室内の温度に反応して自動で暖房がつき始めていることに気づいた。つい先日まで猛暑日であったことを考えると、それは信じられない。そもそもまだ8月なのだ。トイレに勝手に暖房が入るようになったことを見ると、本当に秋がやって来たことを実感する。

今日もまた雑多なことを考えていた。1つには、全てを幻想と片付けてしまうこともまた、ある種の還元主義的発想であるというものだ。それは極端な観念主義であり、実在論的な観点が欠落しているばかりか、「全ては幻想である」という発想そのものもまた幻想であるという主張がそこに内包されていることにも気づけていないという認識上の罠もある。

そのようなことを考えていた後に、ハイデガーが述べていたことに考えが向かった。ハイデガーが述べるように、自己の存在が日常性を通じて実感されるものであれば、日常性が脅かされるというのは自己の存在を脅かされることに他ならず、それは実存的な危機や病理をもたらす恐れがあるのではないか。そして、昨今に始まったわけではないが、日常が脅かされる異常な事態で溢れる現代社会の状況について考えを巡らせないわけにはいかなかった。

また、「日常の有り難みを感じる」というのは、ひょっとすると、それを述べる人はそれまで日常から乖離して生活を営んでいたことを暗に示しているのではないだろうか。そうした感覚が得られることは肯定的に捉えられがちだが、日常性を絶えず感じられていなかったという異常な事態に着目するべきなのではないかと思う。

日常が日常として絶えず今ここにないから、ふとした時に日常を感じ、その有り難さを感じるという奇妙な現象が起きている。

遠心分離してしまっている自己。言葉が自己という中心点から離れ、遠心分離的な言葉が散乱していることについても考えていた。リルケが述べる「賢明な軌跡」というのは、絶えず求心的な形でこの瞬間を生きていくあり方のように思える。

自己が中心点から離れず、全てはその中心点を起点にして回っているという感覚。流れに身を任せて生きるというのは、決して自己が中心から離れる形での遠心分離的な形ではなく、それは絶えず求心的な形でなされるものなのではないだろうか。そうでなければ、自己は自己と分離してしまい、自己は世界と分離してしまう。フローニンゲン:2020/8/20(木)19:47

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