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6128-6131: アートの国オランダからの便り 2020年8月19日(水)


No.1229 夕方の休息_An Evening Rest

本日の言葉

Nothing is permanent: the sun and the moon rise and set, the bright clear day is followed by the deep, dark night. From hour to hour, everything changes. Kalu Rinpoche

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6128. 早朝の雑記

6129. まだ見ぬForum Groningen

6130. 創作活動と瞑想の意識状態/アマルティア・センの経済思想

6131. 精神の彷徨いと狂気さ

6128. 早朝の雑記

時刻は午前5時を迎えた。昨日の午後に激しい雨が少し降ったことにより、気温がさらに下がった印象であり、今朝方起床した時には肌寒く感じた。まだ8月の下旬なのだが、やはりもう秋に入った印象だ。

今朝方の起床の感覚をもとにすると、夜に気温が10度前半の時には寝室の窓は閉めて就寝した方が良いように思った。今日は終日晴れのようであり、最高気温は26度、最低気温は13度と過ごしやすい。

明日は深夜から朝にかけて雨が降るようであり、午後には気温が28度まで上がるようなので暖かい1日となるだろう。今朝の起床は午前4時半過ぎだったのだが、起床した瞬間から腸が運動を始めていて、すぐに活動に迎えるような状態にあった。

ここ最近はサツマイモを食べることをやめて、その代わりにブロッコリーやニンジンを食べている。どうやらそちらの方が消化がいいようであり、胃腸に負担が少ないようだ。

昨夜も少しばかり考えていたこととして、就寝前にはすでに消化が落ち着いているが、夜の食事はさらにもう少しだけ軽くできそうだと思った。それはほんの少しではあるが、今日からはいつも食べている中ぐらいのジャガイモを1個ほど減らしてみようと思う。

昨日に続いて今朝方の夢もあまり覚えていない。感情的に中立的なものだった感じがある。攻撃的な夢でもなく、それでいて感動をもたらすようなものでもなかった。

場面の印象はとても薄いが、日本のどこかにいたような感覚がある。また、日本人の知人が出てきていたような記憶もあり、日本語だけを話していた感じもある。

今朝方の夢で覚えていることは、そうした感覚的なものばかりである。夢から具体性が消え、抽象性だけが残った感じである。

それにしてもこの時間帯は少しばかり冷える。半袖半ズボンだと少し寒いぐらいだ。今の気温が13度なのでそれも無理はないかもしれない。

今週末の日曜日からは最高気温が20度に満たない日も出てくる。月曜日の最低気温に至ってはもう11度ほどまで下がる。それはかなり寒そうだ。

今日もまた創作活動と読書に打ち込んでいこう。読書の際には、哲学者のアルフレッド·ノース·ホワイトヘッドが指摘しているように、読書で得られた知識が「不活性な知識」になることを避ける。絶えず現実世界への適用を意図し、既存の知識と組み合わせることで実践的な知的体系を構築していこう。

本日の読書は、まずはテオドール·アドルノの“Against Epistemology: A Metacritique”から始めたい。こちらはすでに2年前に一読をしているが、内容については対して記憶に残っていない。フッサールの現象学への建設的な批判を意図して執筆されたものだということぐらいは覚えているが、その観点や論証プロセスについてはほとんど覚えていない。

今回の読書では、それらの観点や論証プロセスをより明確にし、さらには既存の認識論への建設的な批判の論点を押さえながら、これまで読んできたロイ·バスカーの哲学思想との関係を考えていきたいと思う。

仮に再読が早めに終われば、その流れで、ミシェル·フーコーの“Madness and Civilization: A History of Insanity in the Age of Reason”の再読を行う。こちらの書籍を読むのも2年振りだ。フローニンゲン:2020/8/19(水)05:32

6129. まだ見ぬForum Groningen

時刻は午前5時半を迎えた。空がダークブルーに変わり始めたが、辺りはまだまだ暗い。それでいて気温も低い。

秋の訪れを肌身に感じる。それは自分が待ち望んでいたものなので、こうした肌寒さを感じられることを有り難く思う。寒さが自分の背筋を正し、精神的筋力をたくましいものにしてくれることを実感する。

来月の初旬にハーグの友人がフローニンゲンを訪れることになり、友人と一緒にランチを食べることにしている。それに伴って、ランチは昨年にできたForum Groningenという大型施設のレストランにするか、それとも街中のオーガニックレストランにするかを考えていた。Forum Groningenにはカフェもあるため、レストランは街中のものにしてもいいかもしれない。

Forum Groningenという施設の工事が始まったのは2012年であり、私がフローニンゲンにやってくるよりも随分と前だ。そしてこの施設が完成したのは昨年の2019年であり、工事の着手から完成まで7年の歳月を要していたことを改めて知る。

時間をかけてゆっくりと作り上げていくこと。Forum Groningenはまだ訪れたことはないのだが、来月ここに足を運ぶことによって、時間をかけて何かを作り上げていくことの大切さを改めて感じることになるだろう。

Forum Groningenは街の中心部にあって、それは高さ的にもデザイン的にも目立つ建物のはずなのだが、足を運んだことがないだけではなく、実はまだ認識したことすらない。これは笑えてしまう事実だ。

というのも、私は少なくとも週に1回は街の中心部のオーガニックスーパーに足を運んでおり、Forum Groningenは街のシンボルでもあるマルティニ塔のすぐ近くにあるので、その存在感は強いはずだからだ。

人間とは面白いもので、関心がないとそれが目に入らなくなるという性質を持っている。私にとってForum Groningenは認識上の盲点になっていて、工事の完成から1年が経つが、まだこの目でまじまじと見たことがない——私は工事が行われていたことすらも知らず、そもそもこの施設が存在することを教えてくれたのはハーグに住むその友人だった——。

この日記を書くことによって、近々街の中心部を訪れる際には、この建物を認識することになるだろう。この1件は、認識論と存在論に関わる1つのエピソードになった。

今朝方はほとんど夢を覚えていなかったが、ふと、昨日の仮眠中の体験を思い出した。いつものことではあるが、仮眠を取るためにベッドの上に仰向けになると、意識がすぐに深みに到達する。

夢を見ない深い眠りの状態、つまりコーザル意識へと移行することがとても速やかなのだ。そして、そこで深い治癒が行われていることをいつも実感する。

昨日は改めて、仮眠の効能について考えていた。自分にとっては、仮眠は瞑想以上に深い意識状態に到達させてくれる瞑想実践のようなものであり、それでいて深い治癒がなされるという効果もある。

明晰な意識をコーザルの意識状態で保っておくことはまだできないが、それを意識しておけば、いつかそうしたことが可能になるのかもしれない。今日の午後の仮眠中の体験がどのようなものか、また1つ楽しみだ。

日常の何気ない事柄が楽しみになること。それは人生を充実した形で豊かに送るためにとても大切なことだろう。フローニンゲン:2020/8/19(水)06:04

6130. 創作活動と瞑想の意識状態/アマルティア・センの経済思想

時刻は午後2時半を迎えた。今は太陽の光が照っていて、暖かさを感じる。

今朝は起床してから昼ごろまで肌寒い時間帯が続き、長ズボンを履いて過ごそうかと迷っていたぐらいだった。秋を迎えたフローニンゲンにおいて、朝夕はとても涼しくなり、日中はまだ暖かい時間がある。徐々に秋の気候に慣れていこう。

ここで少しばかり今日のこれまでの実践について振り返りたい。早朝一番の作曲実践は、曲の原型モデルを用いて、音楽パズルを解くかのように感覚的に原型モデルをもとにして曲を作っていた。

原型モデルをもとに曲を作ることは、その時の自分の感覚に合うようなパズルを解いていく楽しさがある。その時の感覚を構成する微細な要素がパズルのピースとなり、それらをうまく組み合わせると感覚の全体像となる。

そこからふと、作曲実践や絵画を描いている時には、明らかに日記を執筆している時とは異なる認知機能が働いている改めて気づいた。後者は当然ながら言語分析的な認知が働いており、前者はより純粋な認知が働いている。

どちらの認知も出発地点は意識の未分化な領域であり、そこから機能は異なれど、両者共に形を生み出すという点で分節的な機能を果たし、形を生み出していく点は共通している。また、作曲実践や絵画を描いている時は、雑念に囚われず、イメージや感覚が思いのままに任せた瞑想中の意識状態のようになることも興味深い。創作活動は、形を生み出す瞑想実践と言えるだろうか。

午前中の読書をきっかけにして、経済学者のアマルティア·センの潜在能力アプローチについて調べていた。センは能力を評価する際に、「資源を価値ある活動に変換する能力は、個人によって違う」という点を1つの要素として挙げている。

これは当たり前のことのように思えるかもしれないが、この要素はとても重要に思える。なぜなら、この評価基準に見合わない形で能力評価や教育が施され、本来個人が自分の関心や資質に合致した価値ある活動に変換していくべき資源が、社会が構築した1つの方向性や活動に振り向けられるような見えない力が絶えず存在しているからである。

例えば、現代人の多くが能力と時間という貴重な資源をカネを稼ぐ活動に疑いもなしに振り向けていることなどが挙げられる。さらには、人の厚生を評価する上で、物質的なものと非物質的なもののバランスが大切だというセンの私的にも共感する。

非物質的なものとして、美や善、さらには霊性のようなものを含め、様々なものがあるが、そうした目には見えない非物質的なものへ眼差しを向けることを経済学者のセンが強調している点は感銘を受ける。

その他にもセンは、教育の改善と国民の健康における改善は、経済成長を実現させるための経済改革に先行して実現されないければならない主張しており、これには大いに共感する。だが同時に、教育と国民の健康に資する経済改革を行うことも重要だとも思う。

単に経済成長を実現させるための経済改革ではなく、教育や国民の健康、さらには美意識·善意識、そして霊性を涵養するような経済改革を実現することができればどれほど理想的だろうか。そのようなことについてぼんやりと考え事をし、センの書籍を3冊ほど今月の文献購入リストに入れた。フローニンゲン:2020/8/19(水)14:41

6131. 精神の彷徨いと狂気さ

時刻は午後7時半に近づいてきている。今日はこの時間帯に雲が空を覆っていて、夕日が地上に降り注いでいない。遠くの空の方はかすかに晴れていて、その辺りが夕日に照らされている。

今日もまた自分の取り組みに存分に打ち込むような1日だった。今朝は午前4時半過ぎに起床したこともあり、午前中の時間を十分に活用することができ、午後も午前中と同じぐらいに集中力を持った取り組みができていた。

自分の人生を絶えず内省し、何を通じてこの世界に貢献していくのかを考えながら日々生きていれば、常に新たな学習領域や実践領域が見つかるのではないかという点について今日もまた考えていた。この10年間を振り返って、自分の学習領域や実践領域が変遷していく姿を眺めていると、それらがそうして変化してくことがとても自然に思えた。

自分が変化していれば、学習領域や実践領域が変化して然るべきだ。当然ながらそれは、過去の学習領域や実践領域を捨て去るわけではなく、まさに超えて含んでいくことが大切なのだ。

今日は、テオドール·アドルノとミシェル·フーコーの2冊の書籍の再読を終えた。明日は、“The Good Society and the Inner World: Psychoanalysis, Politics and Culture”という書籍を読み進めていく。

こちらの書籍は今回が初読となるが、巻末の参照文献リストを眺めてみたところ、ロイ·バスカーやヨルゲン·ハーバマスを含めて、ここ最近読んでいた書籍が掲載されていた。このあたりにも関心の輪のつながりと拡大を実感する。

偉大な芸術作品は、彷徨える精神に安住の空間を提供することができるかもしれない。フーコーは、不規則に彷徨う精神を狂気さの現れだとした。

現代人の精神が彷徨っているように思える現在の状況を考えてみると、今はまさに狂気な時代なのかもしれない。狂気さを癒す芸術作品の出現と普及について思いを馳せる。

昨日も、芸術作品の果たす本質的な役割の1つについて言及していたように思う。精神に安息を与え、精神が本来の動きを取り戻すことに寄与することもまた芸術作品が本来果たすべき役割の1つなのだろう。

その他にもフーコーの興味深い指摘として、「誤った学習の蓄積は、狂気に至る」というものがある。

教育と大衆化は歴然として異なる。大衆化はされているが教育はほとんどされていない現代人。

自己の内側から外側に向かって花開いていく過程の中で自発的に起こる学習の欠落とそうした学習の抑制。それが大衆化と相まって行われており、それは人々を誤った学習に仕向け、結果として現代人の精神は当てもなく彷徨い、狂気さを身に纏うことになる。

遠くの空に向かって動いていく気球を眺めながらそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2020/8/19(水)19:38

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