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6122-6124: アートの国オランダからの便り 2020年8月17日(月)


No.1221 夏の霊魂_The Soul of Summer

本日の言葉

When humour and spaciousness are really present, meditation arises effortlessly. Sogyal Rinpoche

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6122. 病理的・未熟な愛/隠れたカリキュラム/ミンコフスキーの時空間モデルとシンクロニシティ

6123. 今朝方の夢

6124. アウラとヌミノーゼの喪失

6122. 病理的・未熟な愛/隠れたカリキュラム/

ミンコフスキーの時空間モデルとシンクロニシティ

時刻は午前5時を迎えた。今朝の気象は午前4時半であり、目覚めてみると、深夜に雨が降っていたことがわかった。そのおかげか朝は涼しく、今の気温は18度ほどである。

昨日の天気予報では、深夜から今日は夕方までずっと雨のはずだったのだが、この時期の天気は変わりやすいのか、今は雨が降っていない。それどころか、昼まで雨が降らないとのことである。

昨日の日記でも書き留めていたように、今の私は雨を望んでいる。地表を冷まし、完全に秋に移行するための儀式としての雨を欲している。今日の正午過ぎから雷が伴う雨が降るようだが、できれば激しく降って欲しいと思う。

秋の入り口に入ったこともあり、今週1週間のフローニンゲンはもう随分と涼しい。最高気温は25度を下回り、21度や22度の日もあるぐらいだ。最低気温に関しては15度前後である。

これから秋の始まりを味わい、秋の深まりを堪能していこう。1つ1つの季節の中でそれを味わうこと。それは人生を深めていく上で大切だ。

病理的な愛、未熟な愛が引き起こすグローバル規模での様々な悲劇。現代の愛は戦争を無くすどころか、自民族中心主義的かつ利己的なものであり、そうした愛が戦争の引き金になっているという事実。そうした事実に目を向けていた。

トーマス·ホッブスはかつて、私たちが犯してしまいがちな認識上の過ちは、善いことを私たちが望むことだと取り違え、悪いことを私たちの欲求を満たさないものだと取り違えてしまうことである、と述べている。善悪の混同というよりも、そもそも善の中で取り違えが起きており、悪の中で取り違えが起きがちなのだ。

昨日もその他に雑多なことを考えていた。認識したものを形にして伝えていくことの責任ついて考えていた。それは「認識的共有責任」とでも言えるだろうか。

ロバート·キーガンの言葉で言えば、物質消費的な文化が私たちに投げかけてくる「隠れた(隠された)カリキュラム」に気づくこと。多くの人がマスメディア·SNS·ニュースの背後にあるそうした隠れたカリキュラムに対してあまりに無自覚なのは、昨日読んだ群衆心理学の観点から色々と説明ができそうだ。

隠れたカリキュラムに自覚的になり、それによって引き起こされている心身のコンディショニングから脱却していくこと。それは発達の大切な側面であり、逆に言えばそれが実現されなければ発達はなしえない。

最後に、ここのところやたらと身辺でシンクロニシティが起こっていることについて、ミンコフスキーの時空間モデルにおいては、2点を結ぶ距離がゼロの経路を常に見つけることができるということから、2人の人間の間でシンクロニシティが物理的距離を超えて起こることについて説明できるだろう。

私たちの意識は絶えず、時空を超えた何らかの移動が可能なのだ。移動のみならず、おそらく時空間を超えた次元において交流も可能なのだろう。特に、目には見えないエネルギーにはそうしたことが可能であり、絶えず情報伝達と交流がそこで起こっているのだろう。フローニンゲン:2020/8/17(月)05:30

6123. 今朝方の夢

時刻は午前5時半を迎えた。今、空がダークブルーに変わり始めている。その様子を眺めると、今はまだそれほど雲が多くないのかもしれない。

そこから天気が変わっていく様子を眺めることや、正午過ぎに雷が伴う雨が降る姿を眺められることを楽しみにしている。

それでは今朝方の夢について振り返り、そこから創作活動と読書に取り掛かろう。今日は午前11時から、「一瞬一生の会」の第4回のクラスがある。早いもので、毎月開催されている全6回のクラスも残りわずかとなった。来月からは第3期の募集も開始され、そこからの自分自身の新たな学びにも期待する。

夢の中で私は、どこか会議室のような場所にいた。そこで、フローニンゲン大学時代のドイツ人の友人のジェレミーと話をしていた。

彼と私は協働者のようであり、その場ではジェレミーがクライアント企業に対してサービスの説明をしていた。その説明を受けて私は、彼の説明は少し誤解を与えてしまうように思えた。

そのため、ジェレミーが説明を終えた後に、彼を廊下に呼び出し、そこでその件について話をした。私の口調は決して強くなかったのだが、ジェレミーは少し落ち込んでいるようだった。

そんなジェレミーの姿を見て、彼の上司が心配して私たちの話に加わって来た。そこで私は、自分がジェレミーのことをどれだけ高く評価しているのかについてまずは話した。

実際に、彼と出会った瞬間に、彼の能力と誠実さに感銘を受け、それ以降、彼の能力と誠実さを高く評価していたのだ。それを伝えると、ジェレミーも彼の上司も表情が少し柔らかくなり、そこからまた私の指摘を聞いてくれた。

次の夢の場面では、私はレクチャールームの最前列に座っていた。白人の比較的小柄な若い女性がレクチャーを英語で行っていた。

その講師が質問を受け付けた瞬間に、私は真っ先に挙手をして質問をした。私の質問は、ある状況を説明する形容詞群が、1人称的な感覚を引き起こすものと2人称的な感覚を引き起こすという区別があることについて尋ねたものだった。

その差異について質問したところ、講師はその質問を理解できていないようだった。私が再度質問をよりわかりやすく説明したところ、後ろの方に座っていた白人の女性がその意図を汲み取ってくれたようだった。

自分の中では別にそれほど難しい質問をしたわけではないと思ったのだが、講師の彼女にとってはそれが難しかったようだった。

最後の夢の場面では、私は大きなデパートのエレベーターの前に立っていた。そこで下の階に行くエレベーターがやって来るのを待っていた。

自分が今いる階の1つ上の階でエレベーターが止まったので、私は階段で降りた方が早いのではないかと思った。私の横には数人ほどの客がいて、彼らがエレベーターを使うのと、私が階段を使うのとではどちらが早いのかを比較してみようと思った。階段で下の階に到着した時、彼らの方が少しばかり早く到着しており、私は思わず笑った。

その階のフロアをぶらぶらと歩いていると、目の前に2人の若い日本人男性がいた。何やら、彼らは800万円ほどする腕時計の購入を迷っているとのことだった。

そのうちの1人が、時計を購入して写真や動画を撮り、その後すぐに時計を売却すれば利益が出るかもしれないというようなことを述べていた。それを聞いて、確かにインスタやYoutubeを活用し、元の時計をある程度の値段で売却することができれば、十分に利益が出るだろうと私も思った。フローニンゲン:2020/8/17(月)05:51

6124. アウラとヌミノーゼの喪失

時刻は午後7時半を迎えようとしている。このところは天気予報が裏切られてばかりであり、今日は結局この時間帯まで雨が降らなかった。一体どうなっているのだろうか?

明日は午前中に雨マークが付いているが、この分だとそれもまた怪しい。一応雨が降らなくても数日前から秋の入り口に入ったことにより、涼しくなって来たことは喜ぶべきことである。

自分の言葉は絶えず自分自身を作り、そして新たな自己はまた新たな言葉として姿を現す。言葉はまだこの瞬間には誕生していない自己とつながり、新たな言葉は新たな自己をもたらしながらにして、さらにその先の自己を呼び込んでいく。

今日は朝昼晩と3回に分けて、ホルクハイマーの思想について解説した書物“Max Horkheimer and the Foundations of the Frankfurt School (2011)”を読み進めた。今日は午前4時半に起きたこともあり、読書にも十分な時間を充てることができた。

本書の中身を確認すると、初読を終えたのは今から約2年前のことだったようだ。今日は1日をかけて最初から最後まで再読を行った。

ホルクハイマーの批判理論からも得ることが大きく、今後も彼の思想を継続的に探究していこうと思う。彼の思想に関する書籍をいくつかまた文献購入リストに入れた。

「多くの人に共有された幻想はリアリティになってしまう」というエーリッヒ·フロムの指摘に付いて考える。まさにそれは今のコロナ下の状況において、形を変えて種々の幻想が1つのリアリティを形成しているように思える。

幻想の幻想性を暴き、それを指摘すること。それもまた批判理論の果たす1つ大切な役割である。

ホルクハイマーの書籍を読む中で、ドイツの思想家のヴァルター·ベンヤミンの仕事に遭遇した。ベンヤミンは、傑出した芸術作品を前にした時、人は畏怖や崇敬の念を覚えるとして、その感覚を「アウラ」と述べた。

そう言えば、ベンヤミンのこの言葉とすでにどこかで出会っており、過去の日記の中で、「アウラの喪失」という点について書き留めていたように思う。

アウラというのは、ドイツの哲学者·神学者であるルドルフ·オットーの「ヌミノーゼ」という言葉に近しいものがあるだろう。聖なるもの、そして畏敬の念をどこか喪失してしまっている現代社会。

本来、芸術がそうした感覚を私たちにもたらしてくれるはずだが、芸術までもが画一的·消費的な文化に組み込まれることによって、そうした感覚を引き起こす力が弱体化してしまっているように思える。

芸術の持つ本来の力は、その超越的な力によって、幻想の幻想性を暴くことにも力を貸してくれるはずなのだが、そうした本来の力が弱まっているこの問題に対して、どこから手をつけていけばいいのだろうか。それを考える日々が続きそうである。フローニンゲン:2020/8/17(月)19:37

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