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6090-6093: アートの国オランダからの便り 2020年8月8日(土)


No.1142 灼熱の隙間_A Hiatus of Scorching Heat

本日の言葉

The great way is not difficult, just avoid picking and choosing. Zhaozhou Congshen

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6085. 届けられた2枚のデビットカード

6086. 建築美への関心:上の階の住人との対話から

6087. 身近にある豊かな自然:フリースランド訪問への思い

6088. 今朝方の夢

6089. 夏らしい1日を振り返って

6090. 昨日の考え事

時刻はゆっくりと午前7時半に向かいつつある。昨夜はベッドの上で少しばかり考え事をしていたためか、今朝の起床は6時半と非常にゆったりしたものだった。

土曜日の朝の穏やかな世界が今目の前に広がっている。青々とした街路樹たちが早朝の爽やかな空気を目一杯吸って呼吸をしている。

すっかり朝日が姿を見せていて、地上に光を届けてくれている。どうやら今日も気温が上がるらしく、ここから来週の水曜日までは30度前後の日が続く。

すでに昨日33度を体験しており、特に問題なく過ごすことができたので、今日から水曜日までも何も問題なく過ごすことができるだろう。むしろこの夏らしい雰囲気を満喫できるに違いない。

来週の木曜日と金曜日に小雨が降るようであり、その雨を境として気温が下がっていくという予報が出ている。それは秋の知らせのようだ。そこからは再び20度前後の日が続く。

昨日、無事に銀行のデビットカードをアクティベーションし、ハーグに住む友人に借りていたお金を返すことができた。それに加えて、前回の四半期の税金の計算に関して、お世話になっている会計士にサービス料の支払いなどを行った。

先月に家賃を自動で引き落としてもらう手続きをしたところ、早くも今月の頭に来月分の家賃が支払われていた。いつもは月の終わり頃に翌月の家賃をオンラインバンキングサービスを通じて支払っていた習慣があるので、今月はそれをしないように注意しよう。でなければ、二重に支払いをしてしまうことになる。

昨日も雑多なことを考えていた。1つとして、成人が一生涯をかけて学習と発達を実現していくには、学校教育で受けた負の影響や学習に関して形成されたシャドーを解放していく必要があるのではないかというものだ。

それほどまでに、学校という場は多くの人にとって、本来生涯に渡って継続されるべき学習や発達を阻害する要因に満ち溢れた場になってしまっているように思える。学校で得られたものをアンラーニングしなければならないということ、そして学校で刻み込まれたシャドーに対してシャドーワークをしなければならないというのは、なんという皮肉なのだろうか。

そのようなことを考えながら、教育哲学者のザカリー·スタインが述べていた「ラーニングとスクーリングは違う」ということについても考えていた。私たちはどこか特定の学校に通うことが目的になってしまっている傾向はないだろうか?また、学校での諸々の活動だけが学習だと錯覚していないだろうか?

むしろ真の学習とは、何も学校に通うことによってしか得られないものではなく、学校に通っていなくても得られるものだと思う。自分自身の体験から言えば、むしろ自己を深める真の学習は、往々にして学校の外での体験や自らの自学自習によるものの方が大きいように思えてくる。その点に、ラーニングとスクーリングの大きな違いを見る。

仮に両者が混同されたまま、学校に通うことが最大の目的になってしまい、そして学校に通った挙句、学ぶことを愛する気持ちを喪失してしまったり、慣習的な価値観や知識が埋め込まれ、諸々のシャドーを形成してしまうというのはとても皮肉な現象のように思えてくる。そのようなことを昨日考えていた。

もう1つとして、人間の姿をした神を信じるのは人間中心的な発想の現れのように思われ、一方で、人智を超えた神的な存在を否定するのもまた人間中心的な発想の現れのなのではないか、ということについても考えていた。私たちは、つくづくこうした人間中心的な発想に絡めとられてしまう。

人間を中心にして考えを進めていきたいというのは自我の防衛反応の一種なのだろうか。またそれは、社会の集合的なシャドーとも結びついているのだろうか。フローニンゲン:2020/8/8(土)07:36

6091. マルクスの重要な指摘とマインドを養生してくれる読書

時刻は午前7時半を迎えた。外気はまだそれほど高くないはずなのだが、室内の温度が上がっているように感じる。今日は風がほとんどないためか、書斎と寝室の窓を開けていても風が吹き抜けていく感じがない。

先ほどの日記に引き続き、昨日考え事をしていたことの続きを書き留めておきたい。昨日ロイ·バスカーの書籍を読む中で、マルクスが重要な指摘を行っていたことに気づいた。それは、1人1人の自由は、全ての人にとっての自由をもたらす必須の条件であるというものだ。

この指摘は、発達理論を社会変革に適用する上で非常に重要なのではないかと思う。というのも、往々にして発達理論は、優生学的な、さらにはエリート主義的な形で社会変革に適用される傾向が強いからである。

ここで述べている「社会変革」というのは大きなものだが、もちろんそこには組織変革なども含まれる。発達理論を活用してそうした変革を行う際に、ある特定の人の自由をより拡大させ、その一方で不自由や不公平を感じる人が拡大してしまうという現象をよく目にする。そこには上述のマルクスの発想が欠けているのだ。

仮に1人でもある側面において不自由さや不公平さが拡大されてしまうのであれば、その社会変革はどこかおかしいのだ。そのようなことを考えていた。

今日もまたバスカーの書籍を読んでいく。今日からは、“Enlightened Common Sense: The Philosophy of Critical Realism”を読み進めていく。本書の文字は小さいが、その分、分量も200ページほどとさほど多くはないので、今日中か、少なくとも明日には初読が終わるだろう。

昨日もバスカーの書籍を読みながら、つくづくバスカーの提唱したメタ理論としての批判的実在論は、ケン·ウィルバーが提唱したメタ理論としてのインテグラル理論と補完関係にあることを感じていた。どちらも共に個人と社会の変容に言及したメタ理論ではあるが、あえて分類するならば、ウィルバーのインテグラル理論は個人の変容に対してより強みがあり、バスカーの批判的実在論は社会の変容に対してより強みがあると言えるだろう。著者の最大の関心事項に注意を払い。一連の著作を読んでいれば、著者が最も強調している領域というのが自ずから見えてくる。

バスカーの書籍は、自分のマインドを養生してくれているということを改めて思った。そももそ、読書とは本来そうあるべきものだ。マインドを養生してくれる読書というのは文字通り、マインドを養い、生かしてくれるものだ。

バスカーの書籍で未読なものは、本日読むものを合わせると、残り3冊となった。このペースで読み進めていけば、来週中には全ての書籍に目を通し終えることができるだろう。そこからまた何度も読み返していくことによって、バスカーの思想体系を体現し、自らそれを実践で活用することを通じて、自分の思想体系の構築につなげていこうと思う。フローニンゲン:2020/8/8(土)07:54

6092. 創作活動と「不在の不在化」そして「共存在感」:今朝方の夢

今、小鳥たちの澄み渡る鳴き声が聞こえてきた。土曜日のこの穏やかな朝に、彼らはとても心地良さそうな鳴き声を上げている。街路樹の方を眺めると、枝に止まって戯れあっている小鳥たちの姿を見る。

今日もまた創作活動と読書に打ち込んでいこう。創作活動は、不在な存在が宿る基底に触れる営みであり、不在の不在化(absenting absence)を実現させる営みである。言い換えれば、創作活動とは、非二元の世界に触れ、そこに存在している多様な存在者を形にする営みなのである。

そうした考えと共に、バスカーが提唱した「共存在感(co-presence)」ということについて考えが巡る。他者との対話の瞬間において、その人は私の中にいて、私はその人の中にいるという共存在感。これを感じられることもまた、存在の基底に触れる際に起こる現象ではないかと思う。

そうした共存在感は、創作物との間にも生じる。そしてそうした感覚の中に、自己と創作物の双方が生きた形で立ち現れる。

再び書斎の窓を通じて見える青空を眺めた。青空の青空さに気づけば気づくほど、青の青さに気づくほど、自己はそれらに溶け込んでいき、それらと一体化する。非二元の意識体験とはこうした些細な形でも十分にもたらされるのだ。

というよりも、それは本来いかなる瞬間においても顕現している世界なのだから、ふと私たちが手を止めて、その瞬間の景色や行為なりに没入すればその世界に触れることができるのだ。バスカーも一連の書籍の中で同様の導きをしている。

空を通じて非二元の感覚を少しばかり味わったところで、今朝方の夢について振り返っておきたい。夢の中で私は、小中高時代の親友(SI)とグラウンドの上で話をしていた。

彼は、プロサッカーチームのユースチームからプロの2軍に昇格したとのことだった。彼はそれを少し自慢しているようであったが、彼の実力からすると、それは偶然のように思えた。そうしたこともあり、あまり奢らないようにと彼に忠告をしておいた。

するとそこで夢の場面が変わり、次の夢の場面もまた同じグラウンドの上に私は立っていた。今度は、そこで友人たちとサッカーをしていた。それは何か学校同士の試合ではなく、またクラブチーム同士の試合でもなかった。雰囲気として、高校の体育の授業で行われているゲームのように思えた。

そのゲームの中で、私は自分の役割はとにかく点を取ることだと自覚していた。そうした自覚はあったのだが、ついつい点を取ること以外にも手を出してしまい、コートの中を幅広く動いていた。

すると、ゴール前のチャンスの場面に自分がいなかったり、ゴール前でボールを受けた時には少しばかり疲弊している自分がいて、なかなか点を取ることが難しかった。

それを反省して、私は下手に下がってボールを受けることをせず、前線で張っておくことにした。すると、それが功を制し、相手のゴール前でポストプレーのようにボールを受けて、そこから反転してシュートを打つと、ようやく1点決めることができた。そこからは引き続き同様のプレーをしていこうと思ったところで夢から覚めた。フローニンゲン:2020/8/8(土)08:09

6093. 夢を書き留め、夢と共に生きた明恵上人

時刻は午後7時半を迎えた。穏やかな土曜日がゆっくりと終わりに近づいている。

今日も気温が高く、晴れた1日であったが、今は少し雲が出てきており、むしろそれが気温を下げてくれているように思う。明日からも晴れとのことだが、雲1つない晴天というわけではないようであり、部分的な雲が涼しさを与えてくれるだろう。

今日は夕方に、自分が自分自身の深い部分でつながる内側のつながり(intra-connection)と他者を含めた社会との相互的なつながり(inter-connection)について考えていた。そのどちらか片方ではなく、その双方の深度を深めていくこと。それがますます重要な社会状況になってきているように思う。

自己は自己と分断されてはならず、自己と他者及び社会は分断されてはならないのだが、今の社会の状況はそうした分断を強める方向に向かっているように感じる。内側のつながりと外側との相互的なつながりを回復させ、それらをより深いものにしていく試みに従事して行く。

午前中に、日本にいる知人の日記を読んでいると、大変興味深い人物について知った。その人物の名前は、明恵上人(みょうえしょうにん)という。

明恵は、鎌倉時代前期に活躍した華厳宗の高僧である。明恵の何に関心を示したかと言うと、彼は自分の見た夢を40年に渡って書き続けていたことである。実際に彼は、夢の日記として『夢記(ゆめのき)』という書物を残している。

明恵が夢を書き留めていたことだけに関心を持ったのではなく、明恵自身が書き留めた夢から示唆を得て、まるで夢とシンクロしながら現実世界を生きていたことに興味を持ったのである。端的には、夢と現実の二元論的区分を超えたリアリティの世界で彼は生きており、その事実に関心を持ったのだ。

彼の生き方はまさに、私自身が日々夢日記を書いて、夢と絶えずシンクロしながら生きていることとつながっており、大きな共感の念が湧いてきた。

明恵が書き残した夢はまるで生き物のような命を持っていて、絶えず彼に生き方の示唆を与え、彼の信仰心を深めて行った。夢と日常の生活が不思議なシンクロをして進んでいく現象を私も日々体験している。

明恵について調べていると、彼は京都の高山寺で長き渡って生活をしていたようだ。今年は石川県と福井県に足を運ぶ予定だが、来年の秋は京都に行ってみようかと思う。その際には、高山寺に訪れ、それと臼井霊気の始祖である臼井甕男が自身の霊力を開眼させた鞍馬山にも足を運んでみようかと思う。

今夜はどのような夢を見るだろうか。啓示的な贈り物としての夢を私は時に見る。それは「偉大な夢」と形容してもいいほどに示唆に富んでおり、自分に導きをもたらす。

夢を絶えず書き留め、絶えず夢と共に生きた明恵上人。明恵上人は自分にとってどこか他人ではないような感覚をもたらす。フローニンゲン:2020/8/8(土)19:47

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