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6029-6032: アートの国オランダからの便り 2020年7月20日(月)

July 22, 2020

No.1035 夕方の輝き_Evening Brightness

 

本日の言葉

To respect others is to respect ourselves. Chin Kung
 

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本日生まれた10曲

 

 

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タイトル一覧

6029. 美と善に関するミームの創出と伝承:「発達倫理」の大切さ

6030. 今朝方の夢

6031. メタファーを活用すること

6032. 発達を取り巻くメタファーを変容させること:学ぶことを愛する気持ちを育むこと

 

6029. 美と善に関するミームの創出と伝承:「発達倫理」の大切さ

 

時刻は午前6時を迎えた。もうこの時間帯はすっかり明るく、今朝は朝日が燦々と地上に降り注いでいる。朝日に照らされた赤レンガの家々も喜んでいるかのようだ。

 

今年のフローニンゲンは冷夏であり、今日の最高気温は19度、最低気温は9度とのことである。明日と明後日もほぼ全く同じ気温である。

 

一方で、明明後日から滞在するアテネは打って変わって灼熱のようである。フローニンゲンは曇りや小雨の降る日があるが、アテネはもっぱら快晴続きのようだ。最高気温は35度弱あり、最低気温も20度を超えている。

 

思い返してみれば、このような暑さの夏を経験することは本当に久しぶりなのではないかと思う。というのも、フローニンゲンに来てからは毎年涼しい夏を過ごしていたし、夏の盛りも北欧に滞在していたからだ。

 

そう考えてみると、夏らしい夏を感じたのは今から4年前に日本に1年間住んでいた時の夏なのではないかと思った。そう考えると、実に4年ぶりに夏らしさを感じることになる。

 

アテネ旅行に向けての荷物の準備は前日に行うが、旅行の日までに食べる果物や野菜についてはもう少し補充する必要があるので、明日にでも街の中心部のオーガニックスーパーに行こうと思う。そこでは、行きのスキポール空港までの列車の中で飲む瓶詰めのオーガニックコーヒーを購入することを忘れないようにする。

 

昨日は、ハワード·ガードナーが執筆した真善美に関する書籍を読んでいた。それは2読目であり、初読の際とはまた違った発見がいくつもあった。

 

読書は本当に、自分が成長を遂げていれば、毎回違うことを学ばせてくれる。そこから汲み取れるものが異なってくるし、同一テーマに対する考えもまた以前と異なったものになる。

 

再読をしながら雑多なことを考えていた。1つ目に、美と善に関するミーム(文化的遺伝子)の創出とその伝承について、2つ目に、視覚的な美と善と聴覚的な美と善について、3つ目に、「生命倫理(bioethics)」のような観点で、「発達倫理(developmental ethics)」のようなものが必要かもしれないということについて考えていた。

 

1つ目に関しては、美と善に溢れた発想や行動を文化的な遺伝子にするための取り組みと、それを浸透·継承していくことについて考えていた。2つ目に関しては、今現在自分が取り組んでいる創作活動は、視覚的·聴覚的な美の双方に関する実践であり、そこから2つの異なる感覚器官を通じた善意識というものもあるのではないかと考えていたのである。

 

3つ目については、発達に関する対話と実践を導くものとして、発達を取り巻くリテラシーには、「発達倫理」とでも呼べるような倫理的な側面を含む必要があると考えていた。どのような領域においても、「規範性(normativity)」というのは発想と行動を導くものなのだ。

 

それは発達に関する対話と実践においても同じである。自分自身の発達倫理を高め、その知見を共有するような取り組みにこれから少しずつ従事していきたいと思う。フローニンゲン:2020/7/20(月)06:30

 

6030. 今朝方の夢

 

時刻は午前6時半を迎えた。空は澄み渡っており、優しい朝日が地上に降り注いでいる。今年の夏は例年以上に過ごしやすく、とても有り難く思っている。今年の夏は、フローニンゲンで寛ぎながら、自分の取り組みに没頭していこうかと思う。

 

来月の初旬にもいつもと同じように、書籍を一括注文しようと考えているのだが、いつもよりも購入量を倍に増やしてもいいかもしれない。それぐらいに読みたい専門書が文献リストに溜まっている。

 

イギリス、オランダ、ドイツのアマゾンを比較しながら、毎月書籍を大量注文することは月初の行事となった。大量に書籍を注文するとは言え、30冊程度にしようかと思っている。

 

それらは全て学術書であるから、1冊1冊がそれなりの金額なのだが、そうした金額では決して測れないほどのものを自分にもたらしてくれる。その道に精通する学者が執筆した書籍が5千円かそこらで購入できてしまうというのは、よくよく考えてみれば、とても良心的なことなのだ。書籍の内容の講義を彼らにお願いすれば、そのような金額で収まるはずはないのだから。

 

昨日、ある方からのメールの中に、シュタイナーの経済論について言及があった。その方の意見が興味深く、仮想通貨や電子貨幣を含めた貨幣を信念エネルギーの媒体として捉え、そこに愛や叡智を注ぎ込むことは可能だという意見である。私もその発想に賛同している。

 

しかし現代社会においては残念ながら、貨幣は単なる価値の交換における物質、ないしは道具としてしか見られてないように思う。ちょうどシュタイナーの社会·経済論に関する書籍を近々購入しようと思っていたところなので、このテーマについてもまた考えを深めていきたい。

 

それでは、今朝方の夢について振り返りを行い、今日もまた自分の取り組みを前に進めていこうと思う。

 

夢の中で私は、中学校時代の部活の先輩数人と一緒に、誰かの家に宿泊していた。そこはプレハブ小屋のようであり、そこには2階はなかった。

 

数名が一緒に1階の部屋で何かについて和気藹々と話をしていた。しばらく話をしていると、プレハブ小屋の外に誰かまた別の先輩がやってきて、扉をノックしたところで夢の場面が変わった。

 

次の夢の場面では、私は実家のマンションの前にいた。しかしそのマンションは、実際に両親が住んでいるものとは違った。またそこは持ち家ではなく、なぜか賃貸であり、自分も家賃を幾分か払っていた。

 

マンションの1階で、高校時代の2人の友人と遭遇し、彼らと少し立ち話をしていた。そのうちの1人の友人が車を移動させるためにその場を離れた。残ったもう1人に私はそっと、今その場を離れていった友人の体臭のキツさについて話をした。

 

話しかけられた友人はあまりその点に自覚的ではなかったようであり、改めて彼が車を移動させることから戻ってきたら匂いを嗅いでみるとのことだった。そこから私はマンションの玄関に入り、自宅のある階に向かった。

 

すると、そのマンションには進学塾も入っていることに気づき、そう言えばこれから自分も授業に参加するのだということを思い出した。厳密には、授業前の朝のテストを受ける必要があったのである。

 

塾に到着すると、朝のテストの開始時間が迫っていた。私はいつも早く塾に来ていたようであり、このようにギリギリになって塾に来るのは初めてのことだったから、先生たちも少し驚いていた。

 

職員室で名札を受け取り、それを持って教室に向かった。あと数秒でテストが開始されるというところで無事に教室に到着し、自分の席に腰掛けた。自分の席は、教室の1番右の列の前から3番目だった。

 

まずはマークシートに名前を記入し、性別などの属性情報を鉛筆で塗りつぶしていった。そう言えば、洗った下着やタオルをスープに入れてこれまで食べていたのが、それはもう止めようと、塾に向かうまでのマンションの階段を登っている最中に思ったことを覚えている。フローニンゲン:2020/7/20(月)06:55

 

6031. メタファーを活用すること

 

時刻は午後4時を迎えた。今日は天気がとても良く、天日干しをしている椎茸たちも嬉しそうである。

 

アテネ旅行が明々後日に控えており、本日ようやく、7月の初旬に注文していた全ての書籍が届いた。今回は15冊ほど書籍を注文しており、そのうちの14冊がロイ·バスカーの思想に関するものだった。

 

バスカーの書籍に関しては既に数冊ほど初読を終えたのだが、それらに並行して既に手持ちのヨルゲン·ハーバマスの書籍なども読み進めていたので、現段階では届けられた書籍のうち、まだ半分も読めていない。それらについてはアテネ旅行から帰ってきてからゆっくりと読んでいこうと思うし、8月の初旬に一括注文する書籍たちが届くまでに初読を終えたいと考えている。

 

専門書と日々向き合う形の生活が再び始まり、それによって自分の内側で何かが動き始めたことを感じる。そしてそれは創作活動にも好影響を与え、日々の充実感の源泉にもなっている。

 

読書も食実践と同様に、どのような質のものをどれほどの量取り入れるのかが大切であり、今は無理のない形で、自分が消化吸収できる範囲の読書が実現しているので、それはとても良い傾向だ。

 

アテネ旅行中に市内の古書店に立ち寄ったり、美術館や博物館で画集や文献資料を購入するであろうから、行きに関しては薄い書籍を1冊だけ持っていくようにしたい。積読されているバスカーの書籍から1冊ほど選んで持っていこう。

 

今日は昼前から昼過ぎにかけて、「一瞬一生の会」の第3回目のクラスがあった。今日のテーマはリフレクションジャーナルについてであり、日々日記を綴っている私にとっても新しい発見や気づきがあり、改めてリフレクションジャーナルの意義と方法を見直すことになった。

 

いくつも発見事項や気づきがあったのだが、1つとして、メタファーを通じた物語の治癒と再編纂をより意識していこうかと思った。言葉の世界には限界があるが、限界の先の世界にまで足を伸ばしてくれるのがメタファーの力なのではないかと思う。

 

何か特定の対象物や現象を明示的に言葉で指し示すのではなく、それによってこぼれてしまう事柄をメタファーとして捉えていくのである。そこに意味付けや解釈のさらなる余地が生まれ、それが発達的余地と呼ばれるものにつながるのかもしれない。

 

また、理学者デイヴィッド·グローブが指摘するように、そもそもメタファーには治癒と変容の作用があることからも、日々の日記の中でメタファーを意識的に活用してみようかと思う。それを直喩や隠喩の形で行っていこう。フローニンゲン:2020/7/20(月)18:21

 

6032. 発達を取り巻くメタファーを変容させること:

学ぶことを愛する気持ちを育むこと

 

今日は天気に恵まれた1日だった。朝には朝日を拝むことができ、今この時間帯には輝く夕日を拝むことができている。

 

太陽が昇り、太陽が沈むという景色の中に有り難さが滲み出す。日常の中にある美を絶えず見出すこと。美を通じて日々を生きること。

 

そしてそうした顕現する美に対して絶えず感謝の念を持つこと。それを忘れないようにする。

 

夕方に日記を執筆しているときに、メタファーについて触れていたように思う。そこから夕食の準備をしているときにも、メタファーの大切さについて考えていた。しかし夕方とはまた違う観点からそれについて考えていた。

 

端的には、私たちが人間をどのようなメタファーで捉えるのかが、教育や人財育成のあり方や施策に大きな影響を与えるということである。現代において、私たちは人間をどのように捉えているだろうか?

 

過去には、フロイトが提唱した精神分析学においては、人間を蒸気機関車のようなメタファーとして捉えていた。そこから行動科学や認知科学が発展してからは、人間を機械のようなメタファーとして捉えてきた。

 

現在の教育や人財育成のあり方や施策は、依然としてそのようなメタファーで人間を捉えているのではないだろうか。機械のメタファーを通じて人間のいくつかの側面を説明することはできるが、それは発達科学や他の学問領域の進展からすると、随分杜撰な捉え方である。

 

カート·フィッシャーを含め、現代の発達科学者は、人間を機械のように捉えることから脱却し、生命として、あるいは1つの生態系として人間を捉えるようになってきている。1つの生命ある有機体として人間を捉えていくこと。このメタファーがさらに浸透し、そのメタファーをさらに育んでいくことが私たちに求められているように思う。

 

教育や人財育成の小手先な技術を学び、それを導入してもほとんど意味がないばかりか、それは成長や発達に害を与えてしまう。外面的なことよりも、兎にも角にも、人間を捉えるメタファーの変容が求められている時代になってきていることを感じる。

 

人間を生態系として捉えるメタファーが社会に広がり、さらに社会が一丸となってその意味付けをより豊かにしていくこと。それは今後の人間発達において極めて重要な社会課題のように思える。

 

そこからまた別のことを考えていた。現代の教育は、企業社会への徴兵制度的な側面からまだ脱却し切れていないのではないだろうか。いや、そもそも脱却する気がほとんど見られないように思える。

 

教育とは本来、将来に良い仕事に就くためにあるのだろうか?教育がその個人や社会を幸福にするためのものであり、そうした幸福の1つの実現方法として、自分が望む仕事に就くことがあると言うのであればまだ話は分かるが、現代の教育においては、どうも将来に良い仕事を就くためと言う観点があまりに強調され過ぎているように思えてならない。

 

いや、もっと厄介なのは、それは明示的に強調されているのではなく、暗黙的な認識として、つまり集合的なシャドーとしてそうした発想が横たわっていることである。

 

そもそも現代の時代特性とは、極めて複雑性が高く、将来の見通しなどままならないものである。こうした変化が激しい社会において、今ある仕事が数年先に存在しているかどうかすらわからないのに、小さな頃から10年以上もかけて将来に良い仕事に就くために教育を施すというのは馬鹿げてはいやしないだろうか。

 

数年先にどのような仕事が存在しているのかわからず、またそのときに自分がどのような仕事に従事したいのかわからないのであれば、一体どのようなことが教育に求められるだろうか?それはたくさんのことが考えられるが、少なくとも、将来において仮に新しいことを学ぶことを要求されたときにも、自ら率先して学ぶことのできる姿勢を育むことが重要なのではないだろうか。

 

言い換えれば、一生涯にわたって学び続ける姿勢を育むこと、もっと言えば、学ぶことを愛する気持ちを育むことを教育の根幹に置く必要があると思うのだ。果たして現代の教育を受けた人たちの一体どれほどが一生涯学び続け、そして学ぶことに対する愛を持っているだろうか?

 

しかもその愛とは、純粋に学ぶことを愛するという気持ちに加え、自己愛を満たすためではなく、自己と他者及び社会を慈しむ愛の精神に基づいたものである必要があるのではないかと思う。

 

学ぶことを愛し、その学びを社会に還元していくことを大切にすること。そうしたあり方がこれからの教育に求められるだろうし、そもそも時代を問わず、教育とは最初からそうあるべきものだと思うのだ。フローニンゲン:2020/7/20(月)19:30

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