No.1025 部分的リアリティに咲く花_A Flower in Demi-Reality
本日の言葉
Happiness requires acceptance of others, simplicity of heart, wonder of spirit. Dugpa Rimpoce
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本日生まれた10曲
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タイトル一覧
6025. アテネ旅行に向けた食事調整
6026. 多様性の尊重や「べき論」と規範性
6027. 物質消費的対象ではない創作活動と読書に向けて:今朝方の夢
6028. 死と霊性:集合のシャドーワークの大切さ
6025. アテネ旅行に向けた食事調整
時刻は午前5時半を迎えた。昨日と同様に、今朝は5時前に起床し、目覚めた時刻は4:44だった。こうした形で同じ数字が全て揃うと気持ち良さがある。
今、外の世界は無風であり、辺りは少し明るい。日の出の時間が少し遅くなったことを実感する。
保存してあったサツマイモを全て食べ終えたので、昨日の夕食からオーガニックのブロッコリーを味噌汁に入れ始めた。茹でたブロッコリーを半分ほど味噌汁に入れ、残りの半分はチーズと和えたジャガイモに入れて食べてみたところ、どちらも共に美味しかった。また、サツマイモを食べていた時よりも消化吸収が良いように感じ、ここからはブロッコリーを積極的に取り入れていこうと思う。
早いもので、4日後からアテネ旅行が始まる。コロナで随分と世界が混乱していたこともあり、まだ旅が始まるという実感がない。
アムステルダムのスキポール空港の様子や、アテネの様子など、実際に行ってみないとわからないことがたくさんある。どちらも共に少しずつ以前の状態に戻りつつあるようだが、実際に今の状態をこの目で確かめて来ようと思う。
ギリシャ政府は、コロナ対策を当初からうまく行っており、ギリシャはヨーロッパ諸国の中でもコロナの被害は最小の部類に入る。一方で、オランダは被害の大きい部類に入る。
オランダは警戒国に入っているようなので、ギリシャに入国する際には、まだ検査が必要かもしれない。それでも日本のように空港近くに2週間隔離されるということはなく、その場で出る検査結果がどのようなものであっても、適切な対処が個人に課せられる。検査の時間がどれくらいかかるかわからないが、今回は昼の便でアテネに向かうため、夕方過ぎにはホテルに到着できるだろうと期待する。
木曜日からのアテネ旅行に向けて、ここからは食糧に関して新たに購入することを控え、今あるものを分けて食べようと思う。今あるジャガイモをうまく配分することによって、今日を含めた4日間の夕食にしよう。
計算をしてみると、当日までにリンゴが2つ、玉ねぎが2つ不足しそうなので、いつもはそれらの袋詰めを購入するのだが、今回は街の中心部のEkoPlazaでそれぞれを単品で購入しよう。また、当日の朝に飲む瓶詰めのオーガニックコーヒーも合わせて購入しておきたい。
オランダもオーガニック食品店が充実しているが、アテネはそれ以上の印象がある。市内の各地にオーガニック食品店があり、今回ホテルを選ぶ際にも、良さそうなオーガニック食品店が近くにあることを条件にした。アテネ市内に到着する時間がまだ夕方であるから、ホテルに到着後、近場を散策するがてら、最寄りのオーガニック食品店に足を運ぼうと思う。
私は毎回旅から帰ってくるタイミングでファスティングを行っている。前回の旅が半年前だったということもあり、ファスティングは半年ほどご無沙汰だ。ちょうど自分の中でも、そろそろファスティングを行うタイミングにあると感じていたので、今回アテネから帰ってきたら、飲み物だけのファスティングを数日間ほど行おうと思う。
それは長いものである必要はなく、3日から5日間ほど固形物を摂取することをやめ、回復期を合わせると6日から10日ほどのものになるだろうか。今回のアテネ旅行は、旅の後のファスティングをする楽しみも含めて、色々と充実したものになる予感がする。フローニンゲン:2020/7/19(日)05:52
6026. 多様性の尊重や「べき論」と規範性
昨日、多様性の観点から分離と統合について考えていた。多様性を尊重することは、社会のお題目として昨今唱えられているが、真に多様性を尊重し、そこから何か行動につなげていくことは意外と難しく、現状においてそれが成功しているとはあまり思えない。
そこでは、単に多様性を尊重するという姿勢や発想だけがあり、多様性という無法地帯を作るような働きかけが行われ、結果として様々な人たちの分離が起こっているように思える。多様性を認め、多様な人間を包摂していくというのは聞こえがいいが、この社会には生得的に社会悪を行うことに何の抵抗も感じないサイコパスやソシオパスの人間などもいることを考えると、全ての人間を何でもかんでも包摂すればいいという発想は危険なものに映る。
その際にはやはり、どのような人間をどのように包摂していくべきなのかという規範的な考え方が重要になり、それについて対話をするための公共空間と実際の対話は不可避に要求される。
多様性を包摂することが社会の変容やイノベーションを生み出すことにつながるためには、そうした規範的な枠組みと対話をするための公共空間及び実際の対話、そしてそこからの協創が求められる。そのようなことを考えており、ちょうど今日から読み始める、ヨルゲン·ハーバマスの“Moral Consciousness and Communicative Action”にはそのあたりの論点についてヒントなることがたくさんあるだろう。
また、昨日ふと、元ハーバード大学教育大学院教授のハワード·ガードナーが執筆した“Truth, Beauty, and Goodness Reframed”という書籍を本棚から取り出しており、本書は現代社会における真善美について議論している。とりわけ善に関するガードナーの思想を参照しながら、今自分が関心を持っている様々なテーマについてあれこれ考えを深めていきたい。
規範性の伴う議論を単なる「べき論」で終わらせてしまうのではなく、そのべき論を実行に移すための具体案を考え、それを遂行していくところまでが自分が考えている規範性のある行動であり、ハーバマスの「コミュニケーション的行動(communicative action)」という言葉にもそうした意味が込められているのではないかと思う。
この社会には、べき論だけを語る評論家のような人間はたくさんいるが、そもそも彼らが高い規範性に基づいてべき論を展開しているかというとそうではないケースが多いように思える。そもそも、高い規範性を備えていれば、それが単なるべき論で終わるはずはなく、規範性を遂行するという具体的なアクションが伴うはずである。そうした人こそが、高い規範性を備えた人だと言えるのではないだろうか。
さらに言えば、べき論を具体的なアクションにまでつなげていくためには、高い規範意識だけではなく、規範性を発揮する領域固有の土地勘、つまり知識と経験も必要になってくるだろう。高い規範意識と土地勘の双方が掛け合わさってはじめて、その土地において向かうべき具体的な方向性を示すことが可能になり、実際にそちらに向かっていくための適切なアクションを遂行することにつながっていくのだと思う。
真善美の関心が高まる中で西洋哲学が生まれたアテネの地に足を運ぶことには何か意味があるように思えてくる。3月末ではなくて、このタイミングでアテネに足を運ぶことになった必然性のようなものをひしひしと感じる。フローニンゲン:2020/7/19(日)06:10
6027. 物質消費的対象ではない創作活動と読書に向けて:今朝方の夢
時刻は午前6時を迎えた。外は先ほどよりも明るくなったが、空には薄い雲がかかっていて、今日は輝く朝日を見ることはできそうにない。夜までは曇りがちな天気になるらしく、夜には小雨がぱらつくそうだ。
それでは今日も、夢の振り返りを行ったら、創作活動と読書の行き来をしたいと思う。ここ最近は、本当に両者がうまく相互作用をする形で実践されており、とてもいい流れにあるように思う。
創作活動一辺倒では、創作に必要な内的成長が促されなかったり、創作に必要な刺激が乏しくなってしまう。一方で、読書だけだと、言語の分節化機能による言語束縛を受け、知覚世界の可能性を最大限に引き出すことができなくなってしまう。そうしたことから、非言語と言語を行き来する今の実践は、自己を深める上でとても良いものになっている気がする。
ただし、チョギャム·トゥルンパの言葉を借りれば、「霊性の物質化」と近しいことが行われていないかについての注意が必要だ。つまり、自我の特性に囚われる形で、単に自己を深めることを目的にしてそうした取り組みに従事していないかに対する注意が必要だということである。
さらに言い換えれば、創作活動や読書が、自我を肥大化させることにつながっていないかに対する注意が必要だということである。幸いにも、創作活動も読書も、自我を肥大化させる方向ではなく、むしろ自我を限りなく縮小させる方向に向かって行われており、自己を深めるというのは、自我の束縛による解放も意味されている。
そうした観点において、創作活動や読書が物質消費的対象になっていないことは確かであるが、この点については絶えず注意を払っておこう。トゥルンパが指摘するように、私たちの自我はとにかく狡猾であり、ちょっとでも気を抜くと、全ての対象を自己の保存と満足のために消費利用しようとするからである。
今朝方の夢。夢の中で私は、日本だが見慣れない街にいた。その街はそこそこ発展しており、私は住宅地にいた。
住宅地の一角に父方の祖母の家があり、私はそこを訪れた。家の中に入ると、知らない人たちが何人かいて、何かに関する話し合いが行われていた。
話し合いの雰囲気は悪いものでは決してなかったが、みんな静かに話をしていた。話し合いが行われている部屋の横の畳部屋には、サッカー界で今でも活躍する伝説的な選手がいて、その方から奥さんとの出会いについて話を聞いていたように思う。
しばらくして私は祖母の家を後にすることにした。玄関先で祖母に別れの挨拶を述べた後、私はバス停に向かった。
途中で比較的大きな道に出て、時間を短縮させようと思って車道を横切ろうとすると、軽自動車が向こうからやってきた。だが幸いにも、その軽自動車はゆっくりと走っていたので、問題なく車道を渡れた。
すると、パトカーがやってきて、それは赤信号で止まった。赤いライトを点滅させているそのパトカーから、警官が声を発しており、どうやら右折に関して指示を出しているようだった。
パトカーが止まっている道路と垂直関係にある他の道路において、2車線のうち片方の車線しか右折ができないようなのだが、それを守らない車があるため、そうした車に対して注意をしているようだった。
そこから私は、バス停まで早歩きで向かい始めた。ふと自分の手元を見ると、両手にはそれぞれカバンを持っており、それらは結構重かった。どうやら本が入っているようだった。
重たいカバンを持ちながらバス停に向かっていくと、バス停には長蛇の列ができていた。私はバスに乗って空港に行き、そこから飛行機に乗って移動する必要があったので、少しでも早く空港に到着したかった。そのため、早く列に並ぼうと思い、ここでもバス停の目の前の車道を横切ることにした。
すると、列の途中あたりに小中高時代の親友(SI)がいることに気づき、彼に話しかける形で列に入れてもらった。するとそこで2人の身体が瞬間移動した。
親友と私は、どこかのセミナールームのような場所にいた。そこで友人が、15人ぐらいの哲学者の名前をある順番に沿って読み上げるというゲームをし始めた。
そのゲームをより具体的に説明すると、15人の哲学者の名前をある順番に沿って読み上げながら、1人1人の哲学者の名前が書かれた札を専用のボックスの中に順番通りに置いていくというものだった。
どのような規則性で哲学者の名前の順番が決定されているのかはわからず、どちらかというと記憶力を試すようなゲームなのかと少し思った。私は友人を見守る役を務めており、友人が1人の哲学者の名前を読み上げるたびに、札をボックス内に置いていく役割を務めていた。
ゲームが始まってみると、友人は順調に名前を読み上げていった。このゲームのもう1つの特徴としては、最初に、ある規則性に沿って後ろから前に向かって名前を読み上げていく必要があり、最初に戻ってきたら、再びそこから最後の哲学者に向かって名前を読み上げていくというルールがあった。
最後から最初に向かい、最初から最後に向かって順番通りに哲学者の名前を読み上げることができたらゲームの成功となる。友人は12人の哲学者の名前をそれほど詰まらずに名前を読み上げていった。しかし、そこからピタリと止まった。
次に待っていたのはカントであり、その次はフッサールだったのだが、それらの哲学者はあまりにも有名であり、私はまさか友人がそこで詰まるとは思ってもいなかった。もうそこでゲームオーバーかと思ったが、私は友人にぜひこのゲームをクリアしてほしいと思ったので、箱の後ろから小声でヒントを出した。
すると、友人はそこからカントとフッサールを思い出し、最後の哲学者の名前を言うことができたら、前半部分はクリアだった。私の中では、一度最後から最初に向かって名前を読み上げることができたら、後半の逆に遡っていくことに関してはそれほど難しいことではないのではないかと思っていた。
いよいよ最後の哲学者のところまでやってきたのだが、その哲学者はロシア人のとてもマイナーな人物であり、私もその人物の名前をその時まで知らなかった。残念ながら友人もその人物の名前を思い出すことができず、ゲームオーバーになった。
ゲームオーバーになった後、友人は悔しげな表情を浮かべて、最後の哲学者の名前を教えてくれと私に述べた。そこで私は、札に書かれたそのロシア人哲学者の名前を読み上げようとしたのだが、何と発音したらいいのかわからず、とても辿々しくその人物の名前を何回か読み上げた。フローニンゲン:2020/7/19(日)06:46
6028. 死と霊性:集合のシャドーワークの大切さ
時刻は午後7時を迎えた。今、日曜日がゆっくりと終わりに向かっている。
毎日のことではあるが、今日も幸いにも充実感と幸福感に溢れる1日だった。明日からは新たな週を迎え、来週の木曜日からはアテネ旅行が始まる。
来週は旅行の前に3件ほどオンラインーミーティングがあり、月火水のそれぞれに1つずつミーティングが入っている。それらはどれも異なる協働プロジェクトであり、それらの仕事を終えてから旅行を開始できることは有り難い。
午後、霊性の涵養に関する重要性について、死と絡めて考えていた。私たちにとって、人生最後の瞬間の最も重要な体験として死がある。
死をどのように受け止め、それをどのように体験するのかに関して、霊性は密接に関係している。これは自分自身の死についてもそうであるが、愛する動物や家族が亡くなった時にも自身の霊性の成熟度合いは、そうした出来事に対する意味付けと受け止め方に大きな影響を与えるがゆえにとても大切なように思える。
グリーフセラピーやスピリチャルケアというのは、単に認知や感情に関与していくものではなく、それらは霊性に深く関係したものなのだと思う。
私たちには見えていない形で、日常には死が溢れている。毎日世界の至る所で新たな生命が誕生しているのと同じぐらいに、毎日世界の至る所で生命は死を迎えている。
霊性の発達は、こうした日常にある死という現象に対する感性·感覚を変えていく。霊性が涵養されていなければ、日常に溢れる死は他人事として見做されてしまい、身近な人が亡くなった場合においては、その意味付けと受け止め方に困惑し、精神的な危機を経験しかねない。また。自身が死に近いていく際にも、大きな実存的危機を経験しかねない。
死というのは誰しも平等に経験するものであり、また死は日常の至る所に溢れているものであるがゆえに、霊性学というのはこの人生を生きていく上で不可欠のものであり、また実践的なものである必要があることに改めて気づかされる。
それ以外にも、夕方には、集合のシャドーを捉えることの大切さについて考えていた。ここは見落とされがちのように思うのだが、個人の変容にシャドーワークが必要なのと同じく、チーム·組織·業界·社会の変容にもシャドワークが不可欠なのである。
様々な集合次元におけるシャドーが何かを特定し、それを治癒していく必要性についてここ最近は考えることが多い。個人のシャドーも対象化が難しいが、集合のシャドーもそれが大きな規模で暗黙的に共有されている、ないしは暗黙的に働いているものであるがゆえに対象化が難しい。
集合規模のシャドーワークをする上では、フランクフルト学派(第1·第2世代)の批判理論や、来月から読み進めていこうとしているスロベニアの哲学者スラヴォイ·ジジェクの発想が参考になるだろう。
実践霊性学や実践美学について探究と実践をしていこうと思っている背景には、霊性や美というものに対する社会の意識が希薄であり、それらが社会のシャドーのような存在になってしまっていることが挙げられる。
そうした観点から、集合規模でのシャドーを対象化し、それを治癒していく試みと、実践霊性学や実践美学の探究と実践は足並みを揃えたものだということがわかる。フローニンゲン:2020/7/19(日)19:32