top of page

6014-6020: アートの国オランダからの便り 2020年7月17日(金)


No.1001 規範性を求める音_Sounds Seeking for Normativity

本日の言葉

How happy are friends when there’s critical need; how happy are tastes that are easily pleased; how happy is merit on reaching life’s end; how happy, all suffering to finally transcend. Dhammapada

下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(9点:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた10曲

本日生まれた曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

本日生まれた曲はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

6014. フローニンゲンとアテネの気温差:読書と創作活動

6015. 憤りを感じさせる今朝方の夢

6016. シャドーに関する規範的な議論と実践の必要性〜無意識という生態系

6017. 倫理学・道徳学・価値論を通じた霊性探究:今朝方の夢の続き

6018. ジャン·ゲブサーの書籍と悪に関する書籍:規範的対話の必要性

6019. 今というこの瞬間を人生の最後の瞬間と同じように生きること

6020. 霊性の物質化の進行と本日届いた書籍について

6014. フローニンゲンとアテネの気温差:読書と創作活動

時刻は午前6時半を迎えた。今朝は少し雲があるが、目覚めの瞬間には朝焼けが見えた。

今年は冷夏ということもあり、とても肌寒い日が続く。明日は少し気温が上がるようだが、それでも24度までしか気温が上がらず、涼しさを感じられるほどである。

来週の木曜日からアテネ旅行が始まり、その時のフローニンゲンとアテネとの気温差はかなりある。フローニンゲンのその日の最高気温は20度、最低気温は12度と、それでも直前の数日よりも暖かいのだが、アテネは最高気温34度、最低気温24度とのことである。やはりフローニンゲンの最高気温がアテネの最低気温に満たないような気温差だ。

気温への適応に関してはすぐに行えるだろうが、一応それくらいの気温差があることを覚悟しておこう。持っていく衣類に関してもアテネの気候に合わせたものにしていく。

昨夜、iPad Proで現在使っている絵画創作アプリが自動でアップデートされており、背景として使える紙の材質の種類が増えていて喜んだ。これでまた少し新たな気持ちで絵を描いていくことができるだろう。

引き続き、内的感覚が形になるがままに任せる形で筆を動かしていこう。これを継続させていく過程の中で、内的感覚の成長と技術の成長が緩やかに進んでいき、絵の表現がまた変わっていく可能性もある。それは多分に未知なのだが、それがまた楽しみである。

昨夜はその他にも曲の原型モデルを作っていた。予定通り2曲ほど原型モデルを作ったのだが、夜もまた少し読書をしたいため、原型モデルの制作は1曲分で良いかと思った。その代わりに、毎日1曲は新しい原型モデルを作っていく。

それによって、作曲に関しても日々新たな気持ちで取り組める度合いが増すだろう。ゆっくりとでいいので、毎日1曲原型モデルを作っていこう。

夜の読書に関しては、ロイ·バスカーの生涯をインタビュー形式で振り返る書籍を読み終えた。今後もまた折を見て本書を読み返すだろう。

今日からは、またバスカーの書籍を読み進めていくのだが、その中でもバスカーの主著の1つである“Dialectic: The Pulse of Freedom”に取り掛かる。本書は各方面で引用されており、私が以前師事していたオットー·ラスキー博士もよく自身の論文の中で引用していた。

本書は400ページほどあり、文字も大きくないため、本日中に初読を終えることができるか分からないが、午前、午後、夜の3回に分けて、できるだけ読み進めていきたい。

バスカーは様々な概念を提唱しており、それらの意味と関係を掴むのは最初のうちは苦労するのだが、本書にはそれらの意味と関係を示す図が豊富に掲載されているので、まずはそれらの図から読み解いていくのもいいかもしれない。昨夜中身をパラパラと眺めながらそのようなことを思った。

読書によってマインドが刺激と啓発を受けており、創作活動と相乗効果を発揮していることに気づく。ここ最近のように、読書と創作活動をうまく並行して実践していく日々を今後も過ごしていこう。フローニンゲン:2020/7/17(金)06:48

6015. 憤りを感じさせる今朝方の夢

時刻はゆっくりと午前7時に向かっている。今日は1日を通して曇りのようだが、雨が降らないので幸いである。また雲に関しても、現時点では分厚い雲ではなく、うっすらとした雲のため、太陽の光が少し地上に透き通ってきている。

夕方に近所のスーパーに買い物に行き、もうオーガニックのサツマイモが入荷されないとのことだったので、今日からはオーガニックのブロッコリーを購入することにする。それを茹でたものを野菜と椎茸入りの味噌汁に入れる。

今朝方もいくつか印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、日本のどこかの街のセミナー会場にいた。そこで長らく付き合いのある知人の方とセミナーを一緒に開催していた。

その方と私は壇上に準備されていた椅子に腰掛けており、対話形式でセミナーを進めていた。会場には成人発達理論やインテグラル理論に関心のある方が集まっており、中でも教育関係者が多い印象を受けた。

対話があるところまで進んだ時に、知人の方が会場全体に1つの提案を行った。それは今度、有志を募って書籍を出版しようというものだった。お互いの知見を持ち寄って書籍を出版することに私も意義を感じた。

ところが、ある学校に勤める教師の方が、「うちの学校の校長がそうした活動に対していい顔をしないんです」と述べた。それに対して知人の方がその方に質問をしてみると、何やらその学校の校長は、先生たちが課外活動に勤しみ、本業が疎かになることを嫌がっているらしかった。

またその校長は、「人件費がかからないのであれば大丈夫です」というようなことを述べたらしかった。それを聞いて私は、校長の視野の狭さと発想の貧困さに憤りを覚えた。

先生方は自発的に学習と実践をしようとしているのに、その情熱をへし折るような考え方を持っている校長に呆れてしまったのである。私はその学校の先生に、「今の話は冗談ですよね?」と述べた。

すると、「いえ、うちの校長はそのような人間です」という返答が返ってきた。それに対して私はさらに、「そのような馬鹿なことを述べる人間が校長など務まるはずはないでしょうし、逆に、そのような馬鹿を校長にしてしまうほど未熟な学校なのでしょうか?また、そのような馬鹿が平然と存在していられるほどに教育界は未熟であり、そうした馬鹿が校長として敬意を表される未熟な社会に私たちは生きているのでしょうか?」と述べた。

すると、知人を含め、会場中は静まりかえった。そこから私の体はその校長と喧嘩がしたくてウズウズし始め、「実は私は喧嘩っ早いので、もしそんな馬鹿が本当に校長で、彼がこの場にいたら、一言言葉を交わした後に殴り合いをしたいと思います。おそらくお互いに殴り合えば、それによって関係性を深めることができると思うんです」と述べた。

するとその場はますます静まり返っていた。そこでいったん目覚めた。

この夢は久しぶりに自分の攻撃性を示すものだったように思う。さらには、自分の中にある、社会に対する憤りや問題意識のようなものが色濃く現れているようにも思える。

まさに昨夜ロイ·バスカーやザカリー·スタインといった哲学者たちの根幹にある、彼らの仕事を支えてきたシャドーの話ともつながる。その夢から目覚めた時、時刻は深夜だった。

その校長の馬鹿さ加減にまだ感情的なチャージがあり、ぶつぶつと独り言を述べ、大きな呆れ笑いをした後に、再び夢の世界に戻って行った。フローニンゲン:2020/7/17(金)07:07

6016. シャドーに関する規範的な議論と実践の必要性〜無意識という生態系

つい今し方書き留めた夢に関して、私は視野が狭く、発想が貧困な人に対して憤りを感じるわけでは決してない。何よりも、自分を含め、人は誰しも各人固有の発達段階を通じて生きており、それは私たちの視野や発想を縛るものであるため、差異があって当然なのだ。

私が憤りを感じるのは、視野が狭く、発想が貧困な人が階層的な社会システムの中で影響力のある立場に立ち、彼らの影響力が他の人の自由と可能性を制限する場合に大きな憤りを感じるようなのだ。夢の中で自分が極度に攻撃的になり、殴りかかったり、殺しにかかったりするのはそうした人間たちに対してである。

夢の中では確かに、対象は人間の姿をしているが、それはひょっとすると、この現代社会の風潮や仕組みなのかもしれないと思った。端的には、私は現代の歪んだ風潮や仕組みに対して大きな憤りを感じており、それが人のシンボルとして夢の中に現れているのではないかと思ったのである。

最近読み進めているロイ·バスカー、ヨルゲン·ハーバマス、ザカリー·スタインと同じように、この社会の人間が制約から解放され、彼らの可能性が解放されることを強く願う自分がいるようだ。

夢の中の私は、社会の歪みがシンボル化された個人に対してまずは言葉で攻撃をし、その後身体を通じて攻撃を行う。それは1つのパターンのようだ。ここでも現代の課題に対して知的に取り組もうとするのではなく、肉体を通じて体当たりする形で課題と向き合っていこうとする自分の姿を見る。

夢はボディとマインドを超えて、ソウルやスピリットの領域とも関わるものであることを考えると、心身だけではなく、魂や精神を通じて、すなわち自分という人間の全存在をかけて現代の課題に取り組もうとしている姿をここに見る。

あとは、夢の中の自分がもう少し成熟し、冷静になることが必要なのだろうか。あるいは、あれくらい喧嘩腰のエネルギーを持っておいた方がいいのだろうか。

かつて映画監督のデイヴィッド·リンチが自分の活動の根源には深いシャドーがあることをわかっていて、そのシャドーを治癒することを極度に嫌がった話を思い出す。リンチがシャドーワークを行い、仮にそれが治癒されてしまったら、彼の独自性が滲み出すことはなく、社会の闇を照らし出すような一連の作品は生まれてこなかっただろう。

そのようなことを考えてみると、シャドーに関しても治癒されるべきものと、治癒しないままに自分の中で大切に保持しておくべきものがあるように思えてくる。後者に関しては、それは創造性の源になるようなものであり、社会を変革していく際のバイタリティーを生み出すものだと思われる。

シャドーに無自覚なことは危険だが、一方で全てのシャドーを治癒すべき対象だとみなすのも危険なのではないだろうか。シャドーにも様々な種類が存在しており、シャドーに対する理解と語彙が貧困な場合には、全てのシャドーを一緒くたに扱ってしまい、それら全てを治癒するような方向に向かってしまう。

私たちの腸には善玉菌と悪玉菌が絶えずいて、それらが調和を生み出しながら1つの生態系を作っている。シャドーに関しても同じなのではないだろうか。

ゴールデンシャドーとダークシャドーが私たちの無意識の世界にいて、ダークシャドーを全て解消しようとするのは、無意識の生態系を崩しかねないのではないだろうか。私たちの社会や惑星が多様性によって支えられているのと同じく、無意識も多様なシャドーの調和によって生態系が維持されているのではないかと思う。

シャドーの取り扱いについては慎重な議論と実践が必要であり、いかなるシャドーが治癒されるべきなのかに関しては、規範的な議論と実践が不可欠である。フローニンゲン:2020/7/17(金)07:27

6017. 倫理学・道徳学・価値論を通じた霊性探究:今朝方の夢の続き

時刻は午前7時半を迎えた。今日は金曜日であるから、いつものように洗濯を始め、先ほど洗濯機を回した。その際にふと、先ほどの日記について思い返していた。

1つ前の日記では、シャドーの取り扱いに関する規範的な議論と実践の必要性について書き留めていたが、それは霊性に関する議論と実践においても全く同じであると思った。

現代において霊性の取り扱いが歪んだものとなり、それをうまく育むことができないのは、このあたりに問題があるのではないかと思ったのである。とりわけ今の私は霊性と美に関心があり、おそらくはどちらの領域に関しても規範性は大事になってくるだろうと思われるが、とりわけ霊性に関しては、倫理学(ethics)·道徳学(moral philosophy)や価値論(axiology)の観点から探究を進めていこうと思う。

倫理学や道徳学については少しばかり書籍が手元にあるため、後者の価値論に関する書籍を求めるべく、“axiology”で検索をかけてみたところ、いくつか興味深い書籍を見つけたので、また来月以降に購入する予定の文献リストに加えた(“The Essentials of Formal Axiology,” “The Structure of Value: Foundations of Scientific Axiology,” “Five Lectures on Formal Axiology,” “Radical Axiology: A First Philosophy of Values"の4冊)。

今朝の夢が思わぬ形で探究の後押しになった。今後は、規範性という観点を大きな軸として探究と実践を進めていこう。

それでは朝の創作活動に入る前に、夢の続きについて書き留めておきたい。夢の中で私は、日本とどこかの外国が混じり合ったような国にいて、列車に乗っていた。その列車は日本製のものだった。

どうやら私は何者かに追われているようであり、列車から脱出する必要があった。そのため、最後尾の車両に行き、ドアを開け、タイミングを見計らって線路に飛び降りた。そのタイミングを見計らうことがなかなか難しく、反対車線から列車がこないどうかを確認したり、近くに通過駅があってそのプラットホームにぶつからないかどうかなどを確認していた。

無事に線路に飛び降りることができた私は、すぐに線路から離れ、道路に出た。すると、鼻歌を歌いながら自転車を漕いでいる警察官に、線路から出てくるところを目撃されてしまい、まずいと思った。そこから私は空を飛び、急いでその場から離れた。

しばらく空を飛んでいると、眼下に懐かしい場所が見えた。そこは、幼少時代に三鷹に住んでいた時に通っていた学校と自宅との間にあった公園があった。

公園のフェンス脇には小学校低学年の子供が通れるぐらいの細い道があり、そこは学校の行き来において近道の役割を果たしていた。私は地上に降り立ち、その道を通ってみようと思った。

すると突然、その道が見る見るうちに大きくなり、まるで山が切り開かれて道ができるかのように巨大なものになった。裸の山道の脇に、木がポツリポツリと植えられていて、幼少期に通った公園の脇の細い道とは似ても似つかないものになった。

その山道を登っていくと、見晴らしの良い場所に出た。そこから町全体を一望できたのだが、その町は馴染みのないものだった。

すると、後方に人の気配を感じ、先ほど列車の中で自分を追いかけていた人物がまたしても自分を追っているのかと思った。その人物の姿を確認することはできなかったが、とにかくすぐにその場から逃げようと思った。

すると、私の体はその山とどこかの建物が混ざったような場所にいた。より具体的には、両脇には山道が広がっているのだが、そこは教室か会議室かのような場所だったのである。

私はその部屋の窓際にいき、高い壁をよじ登った。そしてそこから再び空に飛び立ち、山から町の方向に向かって滑空して行った。

次の夢の場面では、私はイタリアのどこかの街のスーパーにいた。そのスーパーにはスペインで活躍するあるサッカー選手とその奥さんと一緒に買い物に出かけていた。

早速店内で今日の夕食の素材を選んでいると、イタリア人の店員の中年男性に声を掛けられた。彼は私たち全員独身かと尋ね、それに対して私は、2人は結婚していると述べた。

するとその男性は笑みを浮かべながらも少し残念そうにしており、どうやらその男性はそのサッカー選手の奥さんの美貌に惹かれていたようだった。

今朝方はその他にも、大学時代にお世話になっていた経済学部のある教授が夢の中に出ていた。その先生の授業を受け、授業が終わった後に少しばかり談笑していたのを覚えている。フローニンゲン:2020/7/17(金)08:08

6018. ジャン·ゲブサーの書籍と悪に関する書籍:規範的対話の必要性

時刻は午後3時半を迎えた。この日記を書き終えたら、近所のスーパーに買い物に出かけようと思う。

今日は1日中曇りかと思っていたら、午前中には随分と晴れ間が広がっていた。今も完全な曇りではなく、うっすらと太陽の光が地上に差している。

午前中に、ジャン·ゲブサーの主著“The Ever-Present Origin”が郵便受けに届いていた。この名著については10年以上も前に知っていたのだが、まだ読んだことがなかった。言い方を変えれば、まだそれを読む内的必然性がなかったのである。

それが先日ふとしたきっかけで本書と再会し、オハイオ大学出版からかなり安く出版されていることに気づき、イギリスの書店に注文していた。届けられた書籍の中身を早速眺めてみたところ、とても細かい字で600ページほどあることに気づき、全てを読み通すのには時間がかかるかと思った。

またそもそも、全てを読み通す必要はなく、自分の関心のある章だけ読み進めていく方が賢明かもしれない。具体的には、ゲブサーは本書の中で人間の意識の進化と音楽や絵画と絡めて論じている章は必ず読もう。また、意識の発達と時間に関する章、魂と精神の歴史に関する章、意識の発達と倫理に関する章なども読んでいく。

人間や社会の発達、そして霊性や美をどのように扱い、どのように扱うべきなのかに対する関心が高まる。それらを扱っていく際に、倫理·道徳·価値の観点は不可欠である。そうした観点が扱われていないから、現代社会において人間や社会の発達、及び霊性や美を育む議論や実践が危ういものになっているのではないかと思う。

倫理·道徳·価値の観点に加えて、悪についても関心があり、それはシャドーとも密接に関わったものである。悪に関していくつか良書を見つけ、取り急ぎ来月には“Philosophy of Evil”を購入しようと思う。

規範性や悪に関する観点が欠落した議論や実践では、真に人間の解放と可能性を開くことが実現され得ない。そうした観点から探究をより一層深めていこう。

来月にハーバマスの書籍を一括注文する前に、手持ちの書籍を改めて読もうと思う。何冊かあるうちで、背表紙のタイトルを見て関心を引いたのは、“Communication and the Evolution of Society”と“Moral Consciousness and Communicative Action”である。それらは、コミュニケーションと規範性について探究するにはうってつけの書籍かと思う。

先日の日記で書き留めたように、規範性に関する対話という観点と、規範性をもとにした対話という観点があり、それらの観点が含まれた対話実践が現代社会でますます求められているように思う。規範性なき対話は、私たちをどこにも導かない。

現代社会には茶飲み話はもうたくさんある。必要なのは、真に人間と社会に解放をもたらし、その可能性を開くような規範的対話なのだと思う。フローニンゲン:2020/7/17(金)15:37

6019. 今というこの瞬間を人生の最後の瞬間と同じように生きること

時刻は午後7時を迎えた。今、穏やかな雰囲気を発している夕方の空に夕焼けが見える。空には雲が多いが、それでも夕日の輝きを拝むことができるのは、なぜかとても安堵する。

夕食の準備をしながら、自己は関係性の産物であるということについて考えていた。人と人、人とモノ、人と自然の関係性の希薄さが進行する現代社会において——あるいは、人がモノへの執着と依存を高めるような現代社会において——、私たちはもう一度この点を思い出す必要があるのではないだろうか。

関係性の質を豊かにすることは、人生の質を豊かにする。日々、関係性を豊かにすることへの意識を高めることはできないか?あるいは、そもそも自分を取り巻いている豊かな関係性に感謝の念を持って絶えず自覚的になれないだろうか?そのような問いを改めて自分に投げかけていた。

そこから私は、自分はこの人生の最後の瞬間をどのように過ごしたいと思っているのかを考えてみた。この問いへの回答は、人生の最後の瞬間だけではなく、そっくりそのまま今という連続的な瞬間瞬間においても大切にするべき生き方だ思ったのだ。

いったい何人の人が、人生の最後の最後の瞬間にカネを稼ぎたいと思うだろうか?いったい何人の人が、人生の最後の最後の瞬間に人に妬み恨みの混じった非難をしたいと思うだろうか?いったい何人の人が、人生の最後の最後の瞬間に人に対して不親切に行動したいと思うだろうか?もし人生の最後の最後の瞬間にそれらをしたくないのであれば、なぜ今この瞬間にそれらをするのを止めないのだろうか?

自分はきっと、この人生の最後の瞬間を最愛の人たちと一緒に過ごすに違いない。それができなかったとしても、そのように過ごしたいと思うに違いない。

最愛の人たちが物理的に近くにいなくても、彼らのことを思ってあの世に旅立つに違いない。そうであれば、今この瞬間もそのように生きるのが当然ではないだろうか。

また、日々関わる他者を最愛の人たちの中に含めることはできないだろうかと考えていた。そうすれば、日々の瞬間瞬間におけるコミュニケーションは、最後の瞬間と同質のものになり得るのではないかと思ったのだ。

単純に今この瞬間を生きるのではなく、今というこの瞬間を人生の最後の瞬間と同じように生きること。そうした生き方にはまだまだ程遠いが、それこそが充実感と幸福感に満たされた生き方なのではないかと思う。フローニンゲン:2020/7/17(金)19:29

6020. 霊性の物質化の進行と本日届いた書籍について

今日は午前中にロイ·バスカーの主張“Dialectic: The Pulse of Freedom”の初読を終えた。隅々まで読み通したわけではなく、今の自分が大切だと思うテーマだけを読み進めていった。そうでもしなければ、バスカーの哲学書を読み進めていくことはできない。

手持ちの他のバスカーの書籍に関しても、今その瞬間の自分が大いに関心を持っているテーマについて読み進めていく。そのように読書を進めていくことが、真に実りある知識の獲得につながり、真に自分の思考を深めてくれる学習になる。

夕方から、チョギャム·トゥルンパの“The Sacred Path of the Warrior, Cutting Through Spiritual Materialism, and The Myth of Freedom”を読み始めた。この書籍については以前にも言及したことがある。

端的には、トゥルンパは、人々が霊性に関する種々の実践を通じて、自らの霊性を育んでいるのではなく、自らの自我中心性を強めてしまっているという罠について警鐘を鳴らしている。霊性の実践を自我中心性の強化のために活用してしまう傾向に対して、トゥルンパは「霊性の物質化」という言葉を当てている。

そもそも自我は、いかようなものも全て自分の保全のためにずる賢く活用するという特性がある。霊性に関する種々の実践もそのような形で利用されてしまうのだ。

自我のそうした特性に加えて、個人のシャドーや社会のシャドーの問題も絡めると、霊性の物質化の問題は根が深く、対処が難しい。規範的側面を考慮に入れた実践霊性学は、この問題に対して光を与えるべきものである必要がある。

夕方、到着を待ちに待った書籍がイギリスより届けられた。届けられたのは、“Desire in Chromatic Harmony: A Psychodynamic Exploration of Fin de Siècle Tonality”という書籍である。

本書はオックスフォード大学出版から先月末に出版されたばかりの本であり、予約注文していた音楽理論書である。本書は、ハーモニー空間を通じて、半音階進行が聞き手にどのような心理効果を与えるのかについて解説している。分析の観点として、ショーペンハウアー、フロイト、ラカン、リオタール、ドゥルーズらの思想を参照している点が興味深い。

本書にはもちろん譜例が掲載されているので、理論的説明を読みながら、自分でそれらの譜例を作曲ソフト上に再現して、その譜例が持つ心理的効果について確かめたいと思う。

現在、哲学書を大量に読み進めており、それらの読書の合間合間に、音楽関係の書籍を読み進めたいと思う。読書による刺激と啓発を得ながら、明日からもまた充実した1日を過ごしていこう。フローニンゲン:2020/7/17(金)19:47

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page