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5989-5997: アートの国オランダからの便り 2020年7月12日(日)

July 14, 2020

No.955 拡張する音の世界_The Expanding World of Sounds

 

本日の言葉

This doctrine is profound, hard to see, difficult to understand, calm, sublime, not within the sphere of logic, subtle, to be understood by the wise. Majjhima-Nikaya
 

下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(12点:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

アート・ギャラリー

 

本日生まれた10曲

 

 

本日生まれた曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

本日生まれた曲はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

 

タイトル一覧

5989. 永遠を求めようとする衝動と自己保存の衝動:今朝方の夢

5990. 人間と自然の共存について

5991. 9年間のコロナ生活とこれから

5992. 全ての「存在者」に居場所を与えること:俯瞰的·包摂的な新しい物語の協働創出

5993. 中土井遼さんとの対談を振り返って:2つの変容的なあり方の統合に向けて

5994. スイス旅行と秋の対談講演会に向けて:「不在化」と「なること」

5995. 最も「効率的」かつ「早い」成長·発達の方法

5996. 努力なしの最大効率(effortless maximal efficiency)

5997. 「悪書は良書を駆逐する」:「マインドフル」ではなく「マインドレス」というあり方

 

5989. 永遠を求めようとする衝動と自己保存の衝動:今朝方の夢

 

時刻は午前5時に近づこうとしている。ここ最近は午前5時あたりまで寝ていることが多かったが、今朝は4時に起床した。

 

外の気温が8度ほどであるためか、寝室との気温差があり、窓に水滴が付着していた。幸いにも今日は1日を通して晴れとのことだが、とても肌寒い1日であることに変わりはないだろう。再来週末のアテネ旅行までこのように肌寒い日が続き、アテネに到着したときに、その気温差に驚きそうである。

 

先ほどふと、人間が永遠を求めようとする衝動と自己保存の衝動について考えていた。私たちは無制約に成長·発達を遂げていくわけではなく、仮に次の発達段階に到達したとしても、必ず新たな制約条件を受け、固有の限界を持つ。

 

人間は永遠を求め、無限大の大きさを求めようとする衝動がありながらも、仮に無制約に自己が肥大化してしまうと、今度はその大きさに絶えられなくなってしまう。それを防ぐために自己保存の衝動が働き、固有の制約が生まれるのかもしれないと考えていた。

 

一方、現代社会の多くの国々は金融資本主義に立脚しており——そうではない国においても、金融資本主義の影響に大なり小なり晒されており——、金融というのは改めて恐ろしいものであると思った。そこでは無限拡大が無意識的に信奉されており、実際に金融の力を借りれば、カネは無制限に膨張してしまう力を持つ。

 

当然ながら、各種の制度として、無限に膨張することを防ぐ仕組みはあるが、根底にあるのはやはり無限に成長拡大しようとする発想である。そうした発想に立脚した社会の中で生きる私たちは、社会が無限成長に向かおうとする衝動と、個として永遠に向かおうとする衝動にえてして絡め取られやすい危険性を絶えず抱えている。

 

社会が無限成長に向かおうとする衝動が、個としての永遠に向かおうとする衝動を刺激し、そして個人のそうした衝動が社会の無限成長欲求を刺激している。そのような形で、お互いの衝動がフィードバックループになっており、両者はますます巨大なものになっていく。

 

この力が強いが故に、それに対抗する形で個人の中で自己保存の衝動、つまり自己防衛的な衝動がより強く発揮されることによって、個人としても社会としても何かおかしなことになっているのではないだろうか。そのようなことを先ほど考えていた。

 

まずは、兎にも角にも、そうした衝動が個人と社会の内側に根付いているということに自覚的になること。そして、それらの衝動が発揮されている場面に遭遇したら、その際にも気づきの意識を当てること。そうした自覚的なあり方に基づいて、個人と社会の変容について考えていくこと。そうしたことが課せられているような気がする。

 

今朝方はあまり印象に残る夢を見ていなかった。覚えていることがあるとすれば、夢の中に、幼少期に見ていたアニメのキャラクターが登場したことぐらいだろうか。

 

舞台は他の惑星であり、そこで主人公とその仲間が、ある巨大な敵と対峙していた。敵は兄弟であり、2人の敵とその部下のような敵がいて、合計3人ほどの敵だった。

 

最初、主人公と敵たちは冷静な形で話し合っていた。当然ながらお互いにその後に戦闘になることを知っていながらも、いきなり戦いを始めるのではなく、少しばかり準備運動がてらの会話がそこでなされていた。

 

そのときに、主人公のキャラクターが敵の部下が用いていた銃の性質を読み取り、手から不思議な力を発揮して、その銃を変形させた。そして、その銃を切り刻んでしまったのである。

 

すると、新たにもう1人の部下が現れて、主人公に向けて銃を発射した。それに対して主人公は瞬間移動して、見事に銃の玉を避けた。そこからは敵の部下を地上に置き、主人公の仲間と敵の兄弟がそれぞれ一対一で空中戦を始めた。そのような夢だった。フローニンゲン:2020/7/12(日)05:14

 

5990. 人間と自然の共存について

 

時刻は午前5時を迎えた。今、ようやく辺りが明るくなってきた。遠くの空は薄くピンクがかっている。空には少しばかり雲があるが、今日は朝日を拝むことができそうだ。

 

本日もまた、ロイ·バスカーの書籍を読み進めていこう。昨日から読み始めた“The Philosophy of MetaReality: Creativity, Love and Freedom”は、大いに自分を啓発してくれている。

 

昨日の日記でも書き留めた通り、本書は今後自分が実践霊性学を探究するときの核となる文献の1つになるだろう。科学哲学の研究から出発したバスカーが、晩年になって霊性学に目覚めたことは大変興味深く、そこに大きな共感の念を持つ。

 

本書は350ページを超える分量を持つが、霊性に関しては土地勘があるため、バスカーの固有の言葉の意味さえ掴んでいけば、さほど難しいことはない。そうしたことから、本日中に初読が終わるだろう。

 

もし本日の早めに初読が終われば、そのままバスカーの他の書籍に移るのではなく、いったんハーバマスの書籍を読もうかと思う。その際には、ハーバマスの主著の1つである“Knowledge and Human Interests”に取りかかりたい。

 

すでにハーバマスの書籍は何冊か手元にあるが、改めて調べてみると、読みたい書籍がその他にも数多くあることに気づき、来月はハーバマスの書籍を中心にして書籍を一括注文する。9月は、アーネスト·ベッカーの書籍でまだ手元にないものや、スロベニアの哲学者スラヴォイ·ジジェクの書籍を数多く購入しようと思っている。

 

昨日、バスカーの書籍の中でジジェクの言葉が引用されていた。それは大変興味深いものであり、ジジェクは、「ニューエイジャーたちは、私たちは自然との繋がりを失っていると説く。だが私はそれは違うと思う。私たちはまだ「十分に」自然とのつながりを失っておらず、私たちは自然と私たち自身を一度脱自然化するべきなのだ」というような意味のことを述べていた。

 

ジジェクの言葉を発達理論の観点から補うならば、ニューエイジャー達の発想はまだ自己と自然を十分に分化させることができておらず、彼らは未分化状態が生み出す人間と自然の癒着を通じて生きているのではないかという問題意識を挙げることができるかもしれない。

 

バスカーの言葉を用いれば、メタリアリティの次元において、つまり非二元の次元においては、確かに自然も私たちも同一なのだが、そうした認識に至る前にまずは人間と自然の差異を認める必要がある。自然は人間を超えた存在であるという側面は確かにあるはずであり、人間と自然を未分化の状態で同一視してしまうことは諸々の危険性がある。

 

発達心理学者のハインツ·ワーナーが提唱した発達の原理である「差異化」と「統合化」という発想がやはりここでも重要になってくる。つまり、人間と自然を未分化の状態から差異化し、分化を通った上での統合化を果たした上で、人間と自然の深い共存が実現されるのではないかと思う。

 

上記の発言を含め、やはりジジェクの発想や観点は面白いので、9月には彼の書籍で気になるものは全て購入しようと思う。フローニンゲン:2020/7/12(日)05:28

 

5991. 9年間のコロナ生活とこれから

 

——見たものは、見たと言え——石原吉郎

 

時刻は午前6時半に近づいてきている。今、本当に美しい朝日を拝むことができている。

 

ここ数日間は雨が降りがちな日が続いていたので、早朝に朝日を拝むことが難しかった。今日は一転して、晴れ間が広がっており、今は朝日が燦々と地上に降り注いでいる。

 

そよ風のない無風の世界の中に、ひんやりとして心地良い世界が佇んでいる。そっと耳を澄ませてみると、小鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。

 

今日は朝日が照っているから、小鳥たちもさぞ気持ちの良いことだろう。彼らがあのように美しい鳴き声を上げる気持ちがよくわかる。

 

かつて本居宣長が一時的に書物から離れていたのと同じように、しばらく私も書物を読むことから意図的に離れていたが、ここ最近再び書に戻ってきた。書から離れようと思ったときにも内的サインがあり、書に戻ろうと思ったときにも内的促しがあった。

 

書から離れている期間は、日記の執筆、作曲実践、絵画の創作といった活動に1日15時間ほど充てていたように思う。今はそれらの活動にに充てる時間を抑え、読書にも数時間ほど時間を取っている。

 

現在はもっぱらイギリスの哲学者ロイ·バスカーとドイツの哲学者ヨルゲン·ハーバマスの書籍を読み進めている。その他にも改めて再読しようと思っている思想家たちの書籍が書斎の机の上に置かれている。

 

先日までは群衆心理学の書籍を読み進めていたが、ここからはバスカーの批判的実在論、ハーバマスやアドルノそしてホルクハイマーが提唱した批判理論、そして様々な思想家がどのように美を捉えていたのかについて美学的な探究を進めていく。それらは全て、実践霊性学と実践美学と紐づけた形で探究を進めていく。

 

先ほどふと、欧米でのこれまでの8年間の生活と、途中に1年間ほど日本にいた期間を合わせると、実質9年間ほどコロナ生活をしていたことに気づく。私は、コロナの前と後でほとんど生活の仕方が変わっていない。

 

とりわけ、物理的に人と接触することを極力避けてきたということはもちろんのこと、文字通りのソーシャルディスタンスを図ってこれまで生きてきた。それによって自己と社会を対象化させ、そうすることでしか得られなかったであろう様々な気づきを得てきたように思う。

 

それらは自己と社会の双方に関する気づきであり、そのような形で得られた気づきを言葉の形にすること、さらには音楽や絵の形にして他者に共有していくことが自分の役割の1つなのだろうと改めて思う。

 

先日、ハーグに住む友人が欧州永住権に関する日記を執筆していた。その記事を読み、自分もオランダ永住権と欧州永住権の申請ができるまで後少しだということに気づいた。

 

この地での生活は極めて平穏であり、落ち着いた心で自分の取り組みに邁進していく上で、この地は最適の場所である。理想としては、オランダに加えて、フィンランドかどこかの北欧諸国にもう1つ居住場所を確保したいと思っている。

 

今この瞬間も小鳥たちの鳴き声が聞こえてきているが、今よりももっと自然を感じられるような場所で生活をしたいと思う。いずれにせよ、残りの人生においても、精神的·実存的に必要なソーシャルディスタンスを取り続けた生き方をしていきたいと思う。そうした生き方を通じて得られた気づきを言葉·音·絵の形にし、共有し続けていく。フローニンゲン:2020/7/12(日)06:37

 

5992. 全ての「存在者」に居場所を与えること:

俯瞰的·包摂的な新しい物語の協働創出

 

時刻は午前8時半を迎えようとしている。今、優しいそよ風が書斎の前の世界をゆっくりと歩いている。

 

今日もまた非常に肌寒いのだが、空は晴れ渡り、優しい朝日が地上に降り注いでいる。今朝は午前4時に起床し、すでに4曲ほど短い曲を作り、4つほど絵を描いていた。そして、日記に関してもすでにいくつか執筆していた。

 

日記の量が最近また少し増えているのは、明らかに読書のおかげだろう。読書が知的な刺激となり、それに促される形で自分の考えというものが内面から外に押し出されてくる。

 

産まれようとしてきたそれらの言葉に絶えず形を与えること。それはとても大事なことである。その点と関係することについて先ほど少し考えていた。

 

一昨日の中土井遼さんとの対談の際に、存在論の観点から全ての存在にふさわしい居場所を確保することについて話をしていたのだが、「全ての存在」という言葉が、何か人を指すものと誤解してしまった参加者の方もいたのではないかと改めて思う。その言葉が意味しているのは、人はもちろんのこと、他の生命を含め、さらには概念や社会課題に対する解決策等々のものが含まれる。

 

文字通り、物質的·非物質的なものを問わず、全ての存在である。そしてさらには、存在者というのは何も今この瞬間に存在しているものだけを指しているわけではない。それは、今この瞬間に顕現していないものも指す。つまり、生命·非生命、物質·非物質、現存在·未来存在(及び過去存在)を含め、それらの全てを総称して「存在者」という言葉を用いていたのである。

 

日々自分が行っている言葉·音·絵を通じた創作活動も、実践霊性学や実践美学の探究も実践も、いまだ居場所のない存在者へ居場所を提供する行為であり、とりわけ今この瞬間に現れていないものを在らしめるという「不在の不在化(absenting absence)」の行いなのだ。

 

新たな言葉や概念もれっきとした存在者の1つであることを考えると、この日記の執筆というのはまさに存在者に居場所を与えるという行為なのだろう。そして言葉にならない存在者を音や絵の形にし、彼らが躍動するための場所を提供するのがアーティストの1つの大切な役割なのだろう。秋に一時帰国した際に、あるアーティストの方と対談講演をさせていただくことになっているので、この話題に触れることがあるかもしれない。

 

また、現代社会に対して新たな物語を提示することや、既存の物語に欠けている点を指摘することも、社会実践的な不在の不在化である。この点についても少しばかり考えていた。

 

新たな物語の提示や、既存の物語で盲点になっていることを指摘することは、その物語の住人にとってみれば、大きな揺さぶりとして知覚されるのかもしれない。その揺さぶりの程度を考える必要があるのだが、今回のコロナの騒動に対する各国の対策を見ていると、早急にかつ大きく動いた国々がコロナの被害を最小限にしている姿を見ると、成長発達の原理原則である「発達はゆっくりな方がいい」という考え方に基づいて緩やかに物語を変容させていくという道もある一方で、大きく物語を変容させていく必要性もやはり感じる。

 

物語が崩壊してから物語を紡ぎ出すことは手遅れだと思われる。いつも人間は、喫緊の課題と評して、課題が喫緊のものにならないと動き出すことができないが、地球規模で問題の複雑性と難易度が上がっている状況を見ると、近いうちに「喫緊の課題」という言葉がなくなってしまうのではないかと思うのだ。もしかしたら次の大きな課題によって人類もろとも地球ごと命が絶たれてしまうかもしれないのだから。

 

そうならないために、現在私たちの社会を取り巻く物語を冷静に見つめ直し、それに取って代わるより俯瞰的·包摂的な新しい物語を協働して紡ぎ出していくことが大切になるはずだ。フローニンゲン:2020/7/12(日)08:47

 

5993. 中土井遼さんとの対談を振り返って:2つの変容的なあり方の統合に向けて

 

時刻は午前10時半を迎えた。日曜日の朝の世界はとても優しい。

 

先ほど、改めて先日の中土井遼さんとの対談を振り返っていた。対談内容を振り返っていたというよりも、中土井さんのあの場でのあり方を振り返っていたのである。

 

当日の対談では、あり方(way of being)の話にも触れた。その中で、私が1つ中土井さんから大いに学ばせていただいたのは、「保留する(suspending)」というあり方だった。

 

えてして私は人との対話や何か1人で説明をする際に、既存の認識の枠組みやこれまでの体験に基づいて話をしてしまいがちなのだが——それは自然なことであり、自分の専門性や体験に基づいて話をすることが重要な場面はもちろん多々ある——、こうしたあり方では新たな学びや新たな自己に向かっていくことが難しいのではないかと思ったのである。

 

端的には、自己を学びや変容に開いていくためには、中土井さんが対話の中で行っていたような、既存の自分から湧き上がってくるものを保留し、それをいったん脇に置いておくというようなあり方が必要だと思ったのである。すると驚いた偶然として、ロイ·バスカーも全く同じことを述べていたのである。

 

昨日より、バスカーの“The Philosophy of MetaReality: Creativity, Love and Freedom”という書籍を読み進めており、これは単なる哲学書ではなく、実践霊性学の優れたテキストでもある。得るものが非常に多い書籍なのだが、つい先ほど読んでいた文章の中に上記と関係する事柄が書かれていたのである。

 

バスカーは、「私たちは既存の思考を通じて学ぶのではなく、既存の思考を保留する形で学ぶ」という趣旨のことを述べており、これは中土井さんが体現しておられたあり方と多分に重なる。こうしたあり方は、バスカーの言葉を借りれば「変容的なあり方(transformative way of being)」と言えるかもしれない。

 

こうしたあり方はこれから強く意識していこうと思う。これまでの私は、いつも即興的に話をすることによって、それが既存の自分の認識の枠組みや体験に強く立脚したものであったとしても、自己の最奥部から自然と生み出されるそうした即興的なものが自己の枠組みを内側から押し広げていくのではないかという考えに基づいたあり方をしていたように思う。

 

こうしたあり方も、おそらく変容的なあり方の1つだと思うが、即興的に生まれてくるものをあえて保留し、即興的なあり方では生み出され得ないものが現れてくるのを待つというあり方もできたらと思う。ここではまさに、発達の原理である「待つ」という姿勢が関与している。

 

そうしたこれまでの自分にないあり方を、これまでの自分のあり方の対極に位置付けると、2つのあり方を統合する道として、即興的でありながらも待つということ、あるいは即興的に待つということを自ずから行えればと思う。

 

こうした2つの変容的なあり方を統合したあり方を持ってして自己と社会の探求を続けていけば、自己の可能性を絶えず開きながらにして、新たな方法で社会に関与していくことが可能になるような気がする。フローニンゲン:2020/7/12(日)10:47

 

5994. スイス旅行と秋の対談講演会に向けて:「不在化」と「なること」

 

気がつけばアテネ旅行が再来週に迫り、日本への一時帰国の日もあと3ヶ月ほどだ。アテネと日本への旅行の間に、もう1つばかり旅行を入れようかどうか迷っている。

 

それはスイスのアスコナとドルナッハに訪れるものである。前者に関して言えば、アスコナの地はかつて、一流の学者を集めた「エラノス会議」が開催されていた場所でもある。

 

この会議は、先日に読み進めていた『聖なるもの』の著者であるルドルフ·オットーの呼びかけのもとに開催されたものであり、この会議にはカール·ユング、ジョゼフ·キャンベル、マーティン·ブーバーなどが参加しており、日本からは井筒俊彦先生や鈴木大拙、そして河合隼雄らが参加している。

 

アスコナに行くのは、実践霊性学に関心を持った今の自分にしてみれば、何か必然のようにも思える。特にこの地で何を見ようとか、何をしようということはないのだが、単に人間の霊性を真摯に探究した者たちが一堂に会した場所に行き、目には見えない形で今もそこに残っているであろう何かに触れ、それを感じたいと思っている。

 

そしてドルナッハについては過去に何度も言及しているように、ルドルフ·シュタイナーの思想を探究できる精神自由科学大学がそこにあり、いつかここで学びを得る機会があるような予感がしているので、下見がてら足を運んでみようと思っている。こうしたスイスの旅を9月の初旬に入れるかどうかを現在考えている。この9月にそれが実現しなかったとしても、それはどこかのタイミングで必ず実現するだろう。

 

今この瞬間に内在しているのだが、まだそれが不在として存在しているがゆえに、私たちは不在の不在化を通じてそれになれるのだという気づき。言い換えれば、不在化(absenting)というのは、なること(becoming)なのだ。

 

それは個人だけに当てはまるものではなく、この社会にも当てはまる。いまだ出現しない社会というのは、すでにこの社会の中に内在しており、それは内在しているのだが、不在の状態なのだ。それを「内在的不在」と呼んでもいいかもしれない。

 

そうした内在的不在のものを不在化させることによって、つまりそれを在らしめることによって、今の社会は出現する社会になる。バスカーが指摘するように、不在というのは変化にとって不可欠なものであって、変化を起こす際に、不在の不在化は必須のものとなる。

 

この点に合わせて、学習というのは内在化させることなのだという気づきを改めて持った。学習とは、学習内容を内在化(internalization)させ、それを体現(embodiment)することなのだ。

 

秋の東京での対談講演会と大阪でのセミナーに向けて、これから日々ミクロな成長を積み重ねていき、メソな変容を迎えた上で当日を迎えたい。対談者の方への質問の観点が変化し、深化することを願い、さらには自分自身の内側から出る言葉もこれまでとは違ったものになればと思う。フローニンゲン:2020/7/12(日)11:08

 

5995. 最も「効率的」かつ「早い」成長·発達の方法

 

時刻は午後3時半を迎えた。先ほどまで日光浴をしながら読書をしていた。

 

読書をする前に、いつものように少しばかり仮眠を取っていた。ビジョンが立ち現れ始めたところで、仮眠の知らせを告げる音楽が鳴り始めた。そのビジョンはどこか水を想起させるような感覚質とイメージを持っていたように思う。

 

午前中に引き続き、午後にもバスカーの書籍を読んでおり、とりわけ愛の現象学の章を読み進めていた。その章の中で、人間の成長·発達に関する鋭い指摘があった。それは、いかに「効率的に」かつ「早く」成長·発達を実現するのかに関するバスカーの考えを表明したものだった。

 

私自身、「どうやったら早く成長·発達できるのか?」というのはよく聞かれる質問であり、その際には諸々の観点からそれに対して答えるようにしている。それらについてはここで1つ1つ取り上げることをせず、バスカーの考え方が興味深いものだったので、彼の考えに補足する形で自分の考えを書き留めておきたい。

 

いかに効率的にかつ早く成長·発達を実現するのかについて、バスカーは端的に、「絶えず自分であること」あるいは「絶えず存在の基底(自己及び全存在の基底、すなわち非二元の基盤)に佇んでいること」を挙げる。この明快な指摘に驚いき、同時にひどく同意した。

 

そうなのだ、人はいつも成長·発達を効率良く実現させようとする際に、自分から離れていくのだ。そこでことごとくなされる実践は、自分から離れた形でなされるか、自分から離れていくような類のものばかりなのだ。

 

このバスカーの指摘は秀逸だと思う。この指摘に対してどのような反応を示すかによって、それは私たちに様々なことを教えてくれるだろう。

 

仮にこの指摘を当然のことだと思い、同意するのであれば、その人は自分自身として生きることができているのだろう。一方で、この指摘に難色を示したり、理解できないのであれば、それは自分自身ではない何者かとして絶えず生きていることを示しているのだろう。端的に言えば、自己を自分自身で疎外させる形で、自分ではない者として自らの人生の日々を過ごしているということである。

 

バスカーは上述の考え方に補足するように、物理学のエネルギーの例を用いながら、エネルギーを浪費せず、それでいて最大のエネルギー効率で成長·発達の道を歩むというのは、絶えず自己の基底に触れた形で自分自身であり続けることであると説明している。

 

自己の基底という安全基地を起点にして、絶えず自分であるがゆえに、自分の成長·発達の速度と寸分違わぬ形で進めること。それは確かに最大のエネルギー効率を発揮するだろう。

 

それに対して人々はなんと多くのことを画策して、自分の成長·発達速度とは異なる速度で進むもうとすることか。そして、あれこれと画策して、どれほどまでに自分自身から離れていくような実践に乗り出していることか。

 

成長·発達において真っ先に学ぶこと·教えることというのは、絶えず自分自身である方法なのだろう。そして、絶えず自分であろうとすることすら手放すことがまたさらに重要なことである。“trying to be”ではなく、“being being”であることが重要なのだ。

 

花は咲こうと思って咲いているのではない。花はただ咲いているのである。

 

自分であろうとする意思が混入しない形でただあること。ただあり続けること。それが成長·発達においてどれだけ重要なことか。

 

その一方で、注意しなければならないのは、この社会はどれほど私たちに対して自分以外の何者かであらせようとするかだ。種々の標準化·画一化で運営されるこの社会は、絶えず私たちに標準化·画一化された何者かにならせようと仕向けてくる。

 

それは時に明示的ではあるが、多分に暗示的であり、その時には目には見えないバイオパワーのようなものがそこに働いている。そうした権力的力に自覚的になること。そして絶えず自分自身であり続けること。

 

おそらくそれが、最も効率的な成長·発達の道なのではないかと思う。そしてそれは、古代中国の高僧南泉の「平常心。それこそが道(タオ)である」という言葉に繋がる考え方である。フローニンゲン:2020/7/12(日)15:54

 

5996. 努力なしの最大効率(effortless maximal efficiency)

 

時刻は午後7時を迎えた。今日の起床は午前4時であり、そこから今の時間まで、非常に充実していた。

 

日曜日をこのように過ごすことができたことに感謝したい。こうした感謝の念は、次の日の充実感につながっていく。

 

途絶えることのない感謝の念を持って生きること。それが充実した毎日を生きることの秘訣なのかもしれない。

 

気持ちは何かを引き寄せる。感謝の念が充実感を引き寄せ、それがまた幸福感を引き寄せる。感情に秘められた力を実感する。

 

夕方、青空という無限のキャンバスに、白い絵筆で描かれたような飛行機雲が描かれていた。それを見ながら、世界が少しずつ平穏さを取り戻しているように感じた。そうではない場所もきっとあるだろう。そうした場所に平穏が一刻も早く訪れるようにと願う。

 

今日はこれまでのところ、10曲ほど短い曲を作り、絵に関しては8枚ほど描いた。本日の日記の執筆量は多く、これで8つ目の記事となる。それらに加えて、今日は「一瞬一生の会」の補助音声教材として音声ファイルもいくつか作成していた。

 

作ることだけがここにあり、そこに自分がある。絶え間ない創作を通じて、自己を新たに創出していく日々。

 

自分の内側から言葉·音·絵としての形が生み出されれば生み出されるほどに、自己が新たに創出されていく。創作活動と自己変容は足並みを揃えて起こるものらしい。2つの原理を考えれば、そこに共通性が見出されるのだから、それは当然のことかもしれない。

 

活動する思想家、あるいは実践する思想家の仕事に触れる形で毎日が過ぎていく。彼らの書物から得ることは多く、それを肥やしにしながら自らの探究と実践が深まっていく。

 

今日はこれからロイ·バスカーの書籍の続きに取り掛かろう。昨日から取り掛かり始めた書籍の初読をなんとか今日中に終わらせることができるかもしれない。仮にそれができなかったとしても、焦ることなく明日に回そう。

 

先ほどの日記で書き留めていたように、焦って前に進む必要はないのだ。焦りは自己分離から生まれる。

 

自分が自分であり、自己と完全に一致していたら、焦りなど生まれようがないのだ。焦りとは、自分の内側を流れる固有の時間感覚から逸脱している場合に生じるものである。

 

バスカーの書籍の中で、ヨガのある教えについて言及されていた。それは、「努力なしの最大効率(effortless maximal efficiency)」と呼ばれる考え方だ。

 

私自身ヨガの実践者であるにもかかわらず、この発想を完全に忘れてしまっていた。自己の基底につながり、絶えず自分であり続ければ、そこには何も努力はいらない。そうした時に最大の効率性が発揮される。

 

そこには無理も努力もなく、有機的かつ自然な効率性がそこにあり、それが最大の効率性を発揮してくれる。人間や社会の発達というのも、努力なしの最大効率を通じて本来実現されていくべきだろう。

 

そこに焦りはないのだ。自己の深い部分で自己と一致し続けていくこと。そうしたあり方を意識して、明日からまた日々を過ごしていこう。フローニンゲン:2020/7/12(日)19:29

 

5997. 「悪書は良書を駆逐する」:

「マインドフル」ではなく「マインドレス」というあり方

 

時刻は午後8時半を迎えようとしている。外はまだ明るく、今年は冷夏であるが、日照時間はまだまだ長い。

 

つい先ほど、ロイ·バスカーの書籍“The Philosophy of MetaReality: Creativity, Love and Freedom”の初読を終えた。こちらの書籍から得るものは本当に多く、本書は実践霊性学の重要な文献の1つになるだろう。

 

今夜まだ時間があったら、就寝前に絵を描く前に、ヨルゲン·ハーバマスの“Knowledge and Human Interests”の初読を始めたい。彼らのように、本当の仕事をした人たちの仕事に触れることができる有り難さを思う。

 

そこから自分自身の仕事について考えを巡らせる。自分はまだ何も仕事を始めていない。今はその準備の期間である。この準備の期間がどれだけ続くのかわからないが、学習に次ぐ学習、実践に次ぐ実践を、誰も見ていないところで毎日愚直に続けていく。

 

今年の秋に一時帰国する際には、いつものように日本を様々な観点から観察しようと思っている。これはこの8年間の欧米生活の中で、毎年日本に一時帰国する時に定点観測的に行ってきたものであり、時系列データとしては年単位なので数は少ないが、その分大きな傾向を捕まえることができる。とりわけ、日本の大型書店に立ち寄ってみて、今どのような本が読まれているのかに着目してみることは毎年行なっていることの1つである。

 

良識のある著者と出版社が日本に存在することは確かだが、彼らよりも大きな勢力を占めているのは、その逆の人たちなのではないかと思ってしまう。以前の日記で書き留めたように、食事を通して身体に何を取り入れるのかと同じぐらいに、読書を通して精神に何を取り入れるかが大事になる。

 

その時に、昨今の出版物の中で勢力を占めているのは、「知的発癌性物質」あるいは「知的添加物」とでも呼べるようなものが多分に含まれている書籍なのではないかと思ってしまう。「悪貨は良貨を駆逐する」ならぬ「悪書は良書を駆逐する」というような状況が静かに進行していることを憂う。

 

その他にも、諸々の形の悪が社会に蔓延しているように映ることにも問題意識がある。こうした問題意識に照らし合わせる形で、ハーバマスの批判理論を探究し、実践美学と実践霊性学の社会的な適用を模索していこう。

 

午前中にバスカーの書籍を読んでいる時に、「マインドフル」だけではなくて、むしろ「マインドレス」な実践をすることも大切なのではないかということを思った。この気づきは、バスカーでいうところの「存在の基底(非二元の沃野)」に触れる、ないしは留まり続ける方法から得られたものである。

 

マインドを完全に満たす方向ではなくて、完全に空っぽにして、ただ今その瞬間に佇むようなあり方。それはもう実践と呼べるようなものではなく、1つのあり方である。

 

マインドをフルにする際に不純物を入れるぐらいなら、いっそのことマインドレスにしたらどうかと思ったのである。創作活動に没頭している時の自分の状態を観察してみると、マインドフルの状態ではなく、対象との深い一体感を通じたマインドレスの状態であることに気づく。

 

それはまさに没入体験とでも呼べるようなものであり、バスカーも存在の基底に触れるためには、言語的な思考を手放す必要があると述べており、その実現を後押しするものとして創作活動が挙げられるように思う。

 

私たちのマインドは、そもそもマインドをかき回すような形でマインドを満たそうとする習性が備わっており、マインドに溢れ出てくるそれら全てに自覚的になることはなかなか容易ではなく、それによって結局マインドが忙殺されては意味がないように思える。

 

また、そもそも気づきの意識で芽生える気づきというのは、多分に言語的な思考が媒介しているため、それではますます存在の基底に触れにくくなってしまう。それであれば、いっそのことマインドフルになろうとする衝動を手放し、言語的な思考を介在させない形で、没頭·没入体験を通じて、マインドレスの状態を味わうのはどうかと考えたのである。

 

実際に、マインドフルネスとは逆の方向のマインドレスを志向する実践技法(例:マントラ瞑想——マントラは言葉ではあるが、それを唱えることは言語的な思考でマインド満たすことを目指しておらず、往々にして意味のわからない言葉を唱えることで言語的な思考を限界まで抑制することが目的になっている——、やズィクルなど)が存在するのは確かである。

 

マインドレスの実践は、自らを実験対象として検証していこう。作曲の際には、音を並べる際には言語的な思考が介在することが多いが、並べられた音が自分の美的感覚に合致するかの検証の際には、言語的な思考がほとんど介在しない。

 

一方、絵画の創作においては、初めから終わりまでのほとんどのプロセスにおいて、言語的な思考が介在していないことが興味深い。ほとんど無の境地で、筆の赴くままに絵を描いている自己がいる。

 

自らを対象にして実験·観察·検証を重ねることによって、マインドフルとマインドレスの対極を統合する形で、また1つ次元の異なるあり方が生まれて来ればと思う。フローニンゲン:2020/7/12(日)20:45

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