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5984-5988: アートの国オランダからの便り 2020年7月11日(土)


No.945 土曜日の穏やかな朝に_On a Calm Saturday Morning

本日の言葉

To deny a concept is not to embrace its opposite. Steve Hagen

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タイトル一覧

5984. 光からではなく影から出発すること:「学ぶことは自分の中で何かが変わること」

5985. 善や美を体現した社会

5986. イギリス・中国・台湾を舞台にした今朝方の夢

5987. 価値論と“primacy of self-referentiality”と自己実現

5988. 名前に帰ること:「一次元的人間」と「不在の不在化」

5984. 光からではなく影から出発すること:

「学ぶことは自分の中で何かが変わること」

時刻は午前6時をちょうど迎えたところである。今、小鳥が鳴き声を上げていて、その優しい鳴き声に耳を傾けている。

今朝は快晴とまではいかないが、空は晴れていて、朝日が雲間から見える。午後に小雨が降るようだが、それはいっときのものであり、明日と明後日は天気に恵まれる。

今、無風の土曜日の朝の世界が目の前に広がっていて、その落ち着きの中に佇んでいる。そうした中、昨日の中土井さんとの対談の余韻を再度味わっている。まだその余韻が残っていて、ひょっとすると、それは今日1日中自分の内側にあり続けるかもしれない。

300人ほどの方々にご参加いただくオンラインセミナーを初めて行い、またそもそもオンライン対談というのも3年振りぐらいのことだったので、昨日の対談は自分の中で新しい体験のように感じた。そうした新しい体験を味わい、咀嚼し、そして消化するための時間として本日を活用したい。

普段であれば、現在開催している「一瞬一生の会」の音声ファイルを土曜日に作ることが多いのだが、そちらは今日は休みにする。今日は一言も話さず、静かに時を過ごす。明日と明後日にかけて、音声ファイルをまとまった形でいくつか作成していこうと思う。

私は、いつも枕元にメモ用紙とシャーペンを置いている。就寝前や起床直後にふっと降りてくるようなアイデアや言葉があるので、それを書き留めるためにメモ用紙を置いている。

昨夜、就寝に向けて横になって少ししたところで、突然1つの言葉が降りてきた。それは、「光からではなく、影から出発すること」というものだった。

先日知り合った画家の方が、ユダヤ教においては、1日は朝からではなく夜から始まるということ、言い換えば闇から始まるということを教えてくれた。まさにそれと同じことを示唆する言葉が自分に降ってきたのである。

光から闇に向かうというよりも、闇から光に向かっていくこと。そのテーマについて考えていた時に、私が敬愛する思想家は、ことごとく闇から出発し、闇に探究の基礎を置いているということに改めて気付いた。それは自分自身の闇であり、社会の闇である。

彼らはそうした闇に飲まれるのではなく、闇から強烈な光を自身と社会に照らし出す。彼ら自身が社会から虐げられた体験や阻害された体験があり、自分の存在が社会に認められないという体験などをしている。

言い換えれば、自分の存在価値を歪める社会の風潮や仕組みに直面し、それらに対しての強烈な憤りを元にして思索活動を展開している思想家に私は関心を持つようなのだ。そして、それはきっと、自分自身がそのような体験をし、現代社会に対して同様の問題意識を持っているからなのかもしれない。

今日からは、昨日届いたロイ·バスカーの書籍を読み進めていきたい。まずは、“The Philosophy of MetaReality: Creativity, Love and Freedom”から読み進めていく。本書を読み終えたら、すかさずバスカーの他の書籍に取り掛かってもいいのだが、いったんはヨルゲン·ハーバマスの名著“Knowledge and Human Interests”に取り掛かるかもしれない。その書籍はすでに書斎の机の右隅に置いてあり、いつでも読めるようにしている。

秋の日本への一時帰国に向けて、ここからまた旺盛な読書を行っていく。来月と再来月に購入する予定の文献リストも随分と溜まってきている。ここからの旺盛な読書を通じて、自分は再びまた変わっていくだろう。

学ぶことは自分の中で何かが変わること。そのように述べたのは、一橋大学名誉教授の上原専禄先生だった。

本当の学びは、自分の内側で何かが変わり、生き方が変わるものなのだ。そうした変化をもたらす読書が日々進行している。フローニンゲン:2020/7/11(土)06:22

5985. 善や美を体現した社会

——学問の意味は生きるということを自覚的に行うことである——阿部謹也

学び、そして問う日々が続いている。それはもう何か特別なことではなくて、自分の生き方そのものになっていることにふと気付く。

学び、そして問いながら、毎日を自覚的に生きていく生き方は、一橋大学名誉教授の阿部謹也先生が述べる学問の本当の意味なのかもしれない。その意味で自分は、生きることを自覚的に行う者としての「学者」に少しずつ近づいているような気がする。

昨夜は就寝前に、善や美に関する公共空間の醸成について考えていた。昨日の中土井さんとの対談の中で、参加者の方からの質問として、「善や美を通じて生きるには具体的にどうしたらいいのですか?」というものがあった。これはとても実践的な問いであり、大切なものかと思う。

一方、私はこうした問いがそもそも生まれてきてしまうことに対して、この社会がこれまでどれだけ善や美というものを蔑ろにしてきたのかを見る。つまり、そうした問いが発せられてしまうほどに、人々は善や美を体現した行動や生き方がわからない社会の中に生きているのである。

例えば、一体何人の人が、「まばたきをするには具体的にどうしたらいいのですか?」と問うだろうか。まばたきは私たちにとってみれば、それを行うことが当たり前であって、具体的な方法を問うことになしに無意識的に常日頃行っているものである。まばたきは身体的な行為であるが、突き詰めれば、善や美を体現した生き方についても同じである。

それらがまだ当たり前のものになっていないから、人々はその具体的な方法について質問をしてしまうのである。その観点において、やはり私たちの社会は、善や美の領域を相当に抑圧してきたのだということがわかる。

いくつもの出発点がある中で、個人としては、自分に固有の善的感覚と美的感覚から出発し、日々の行動や発言の中に善や美の要素を見出し、それを少しずつ育んでいくことが大切かと思う。全ての現象は全象限的なものであるがゆえに、いかなる行動や発言にも善や美の要素を絡めることができる。むしろ本来は、それらの要素がなければならないはずなのだ。

それは忘れてしまったもの、あるいは忘れさせられてしまったものとして、もう一度自ら率先してそれらを思い出していく試みに着手していく必要があるだろう。発達とは思い出すことであるという趣旨の言葉をプラトンも残している。

善は間主観的な領域、つまりWeの領域を司るものだが、それでも個人の善意識というのは美意識と同様に、それぞれの人が固有のものを持つ。善や美に関する内的感覚を司るそうした意識は、他者から移植することは本質的に不可能なのだ。

それゆえに、抑圧されてしまった自らの善意識と美意識をもう一度見つめ直し、それを起点にして、少しでも善や美が体現された行動や発言を日々行なっていくこと。そうした小さく、それでいて意義深い実践を継続させていくことが個人にとっては大事かと思う。

一方で、社会に焦点を当てると、やはり善や美を体現した行いをすることが当たり前の社会になってほしいという思いがある。善や美を体現した行為が無意識的になされるような社会、善や美を体現した意思決定が無意識的になされるような社会、対話の中に常に善や美の要素が含まれた社会。そのような社会の実現に向けた風土と仕組み作り。それが今の自分の中の最大の関心事項·実践事項なのだと思う。フローニンゲン:2020/7/11(土)06:52

5986. イギリス・中国・台湾を舞台にした今朝方の夢

時刻は午前7時を迎えた。起床直後に見えていた空模様から変化があり、今は朝日が燦々と輝いている。こうした光景からは想像し難いが、午後からは雨が降るようなので、今こうして輝きに満ちている世界を思う存分味わおう。

今日はまだ今朝方の夢について振り返っていなかった。ここから夢の振り返りを行い、その後創作活動と読書に取り掛かっていこう。

夢の中で私は、駅のプラットホームにいた。そこはイギリスの雰囲気を醸し出していた。

私は、小中高時代の親友(HO)と一緒に、どこかに向かうために列車に乗ろうとしていた。目的地に到着する列車は、1番のプラットホームに到着することになっていた。

プラットホームに置かれた時計の針を確認すると、もう列車が到着する時間だった。そのため、私たちは急いでプラットホームに向かった。

その駅のプラットホームは数百メートルほどの短距離走を行えるぐらいの長さを持っており、一直線のそのプラットホームの端から1番プラットーホームまでは随分と距離があるように感じられた。

もう列車の姿が見えていたこともあり、私たちは大急ぎで走り出し、それでも間に合いそうになかったので、そこからはアイススケートのような形で、プラットホーム上を滑っていくことにした。すると、私だけ列車よりも遥か先まで進んでしまい、友人は列車に乗れたのだが、私は列車に乗り損ねてしまった。

列車を逃した私はしばらくプラットホームの上に佇んでいた。出発した列車の後ろ姿を眺め、再び我に返った時に、それでは歩いて目的地に行くかと思った。

1番プラットホームの端は外の世界とつながっていた。外の世界に出てみると、そこはやはりイギリスの街、特にロンドンのような雰囲気を持っていた。

遠くの方に時計塔が見えたので、そこに向かってみることにした。そこから私は宙に浮かび、突然自分の身体が別の場所に移動していた。

気がつけば、私は中国の海岸沿いの上空にいた。そこはまだ工業化が進んでおらず、どちらかというとリゾート地の雰囲気があり、その日は優しい太陽の光もあったので、空の上はとても心地良かった。

私の右手をふと見ると、私は右手に誰かの靴を持っていた。それは小学校時代に学校に指定されていたスリッパのような白い靴であり、それはとても汚かった。

名前を見ると、それは私のものではなく、なぜか高校1年生の時のクラスメートのものだった。彼とは違う小学校だったこともあり、なぜ彼の靴を持っているのかが不思議であった。

すると、その彼が私の眼下に現れ、「靴をよろしく頼むね」と言われた。私は事情がうまく掴めなかったが、彼の靴をどこかに運ぶことが自分に課せられた役割だと直感的に感じていた。そうしたこともあり、私は特に彼に質問をすることをせず、少しばかり会話をした後に、どこかに向かって飛び去っていった。しかし、彼の靴の匂いは少々きつく、それだけが厄介であり、靴を運び終えたら入念に手を洗おうと思っていた。

リゾート地を眼下に眺めながら気持ちよく飛んでいると、地上に1人ほど、自分が空を飛んでいることに気付いた人がいるように思えた。しかし、その中年男性はそれほど驚くこともなく、また視線をそらしてゆっくりと歩いて行った。

するといつの間にか、私は台湾の上空にいた。高度を下げようとしたところ、突然私の体は瞬間移動して、台湾のホテルの中にいた。そこはそこそこ立派なホテルだった。

どうやら私は、そのホテルに小中高時代の友人数名と宿泊しているようだった。テニス部に所属していた友人の2人(TK & AF)と一緒にビュフェ形式の朝食を摂るために、ホテル1階のレストランに向かった。

そこには2つのレストランがあって、どちらにするか悩んだ末に片方を選んだ。そこで私たちは遅めの朝食を摂り始め、気がつけばもう昼の時間も過ぎていて、午後2時ぐらいになっていた。

レストランから出た後に、友人がポツリと、「今から昼食を食べよう」と述べた。たった今朝食を食べ終えたところであり、しかも時間は昼食には遅すぎる時間でもあったので、私はそれはあまり良い提案ではないと思った。

しかし、もう1人の友人は、せっかく宿泊プランの中に昼食も含まれているのだから昼食も食べたいと言い始めた。それでも私は昼食を摂る気になれなかったので、2人で昼食を摂ってくれと述べ、自分は先に次の目的地に向かうと述べた。

今度の目的地は同じ台湾でも違う場所にあり、今夜からはその街のホテルに宿泊することになっていた。チェックインのために、私は自分の部屋に戻って荷物をまとめる準備をしようと思った。

ところが、ルームキーを部屋に置きっぱなしにしてしまっていたようであり、それに気付いたのはエレベーターに乗ろうとした時だった。しかし幸いにも、同じくエレベーターに乗ってきた綺麗な若い従業員の女性が、ルームキーがなくても、こちらの方で開錠しますと述べてくれた。

そう言えば、チェックインの時に、その女性に受付を担当してもらっていたので、彼女の中で自分の顔と部屋番号が一致しているようであり、特に身分証明などをしなくても、ドアを解錠してくれることになった。

エレベーターの中で私は、もう次の場所に向かうために宙に浮かんでいて、天井に頭が着くぐらいの状態だった。その時はどういうわけか高度調節ができなかったので、エレベーターのボタンを押すことができず、その従業員の女性にボタンを押してもらった。私の部屋番号は、確か「231」だった。

そう思った瞬間に、自分の体は再び瞬間移動していて、次の目的地のホテルの目の前のバス停にいた。どうやらこれからバスに乗ってどこかに移動するらしかった。

バス停に到着すると、そこには偶然ながら、中学時代のバスケ部の先輩が2人いた。何やら2人は記念撮影を熱心にしており、私の存在に気づくと、写真を撮ってくれとお願いしてきた。

ところが先輩は、自分の携帯やカメラを差し出さなかったので、私は自分のスマホを取り出し、それで数枚ほど記念撮影をした。すると先輩の1人が、バス停に向かってきた観光バスの色が気に食わないと言い始めた。

その先輩は別に怒っている様子ではなく、その口調は柔らかったが、少し皮肉が混じっているように聞こえた。そのバスは薄いラベンダー色をしており、私からしてみると、とても綺麗な色のように思えた。フローニンゲン:2020/7/11(土)07:33

【追記】

改めて夢の最後の場面を読み返すと、先輩と自分がバスの色に対して異なった反応を示していたのは、人にはそれぞれ固有の美意識が備わっていることを示唆しているように思えた。フローニンゲン:2020/7/12(日)13:29

5987. 価値論と“primacy of self-referentiality”と自己実現

時刻は午後3時半を迎えた。今、フローニンゲン上空の空は晴れていて、太陽の姿が見える。

昼前に一度、みぞれ混じりの横殴りの激しい雨が少しの時間降った。それを眺めながら、この間購入した新しいコーヒー豆で淹れたコーヒーを読んでおり、その味に思わず舌鼓を打った。

昼前に、イギリスからまた2冊の書籍が届いた。1つは"Roy Bhaskar: A Theory of Education"であり、もう1つは"From Science to Emancipation: Alienation and the Actuality of Enlightenment"である。

午後に仮眠を取っていると、不思議なビジョンと身体的知覚体験をした。前者に関して言えば、私はどこかの国のホテルの27階に向かおうとしていた。どうやらその階の部屋に宿泊しているようだった。

27階へはエレベーターを用いて移動していた。エレベーターの上昇と共に、自分の内側で何かが上昇する感覚があった。それが後者の体験であり、その時に体全体にエネルギーの渦が流れていることに気づき、体が熱くなっているのを感じた。仮眠を取っている最中の部屋の気温は低かったので、その暖かさが際立った。

今私は、「価値論(axiology)」を探究しながら、それを様々な領域の探究と結びつけようとしているのかもしれないと思った。価値論とは、価値の本質や価値と事実の関係を探究する哲学領域であり、価値判断の基準などを扱うものである。究極的には、永遠なる価値の探求やその確立に眼差しが向けられた領域であり、これは倫理学·美学·霊性学における価値の性質を探究する際にも鍵となる哲学領域かと思われる。

今日から読み始めたバスカーの書籍“The Philosophy of MetaReality: Creativity, Love and Freedom”は、これからの霊性学探究の基礎文献になりそうだとすぐに気づいた。本書は、バスカーが科学哲学の仕事から霊性探究に向かった転換点となる仕事が形になったものである。

本書を読み進めながら、バスカーはウィルバーと並ぶメタ理論の提唱者だけあって、得るものがとても多かったのだが、1つ“primacy of self-referentiality”という言葉が印象に残っている。

それが意味しているのは、私たちは知的にも、身体的にも、霊的にも、今の自分として、今の自分から、そして今の自分を通じてしかこのリアリティでアクションできないということであり、逆にそのような形でアクションができるということである。それは私たちの限界を示していながらも、無限の可能性を示しているように思う。ウィルバーの“spirit in action”の発想とつながるものが多分にある。

その他に考えていたことと言えば、自己を実現するというのは、他の誰かになるのではなく、絶えず自分になるということである。絶えず自分自身であり続け、それになり続けることが、絶え間ない自己実現なのだろう。

バスカーの言葉を借りるならば、絶えず非二元のメタリアリティに触れながら、そこから紐解かれる自分自身に絶えず一致し続けて行くことが自己実現の永遠過程なのだと思われる。

目の前の空は、絶えず同一かつ異質の空を紐解き続けている。空は空として、異質かつ同質の空がそこで紐解かれ続けている。フローニンゲン:2020/7/11(土)15:48

5988. 名前に帰ること:「一次元的人間」と「不在の不在化」

時刻は午後7時を迎えた。今、フローニンゲンの街に夕日の優しい光が降り注いでいる。いつも私はこの光景を見るたびに、心が洗われる気がする。そこには深い平穏な気持ちがある。

夕日の光。それはきっと優しさでできているのだろう。

動的に静止した空。絶えず変化する空は、究極的には静止しているとみなすこともできる。変化という静止がそこにある。

今の自分もそうした空のような存在ではないだろうか。絶えず変化しながらも、それでいてそこに留まり安らいでいる感覚。この感覚は大切だ。

今日の午前中にふと、結局最後は自分の名前に帰ってくることを思った。自分の名前の意味を改めて考えてみたときに、そこに自分の新たな役割を見出した。

真善美が洋々と満ち溢れた社会の実現。そして、平穏さが満ち溢れた社会の実現。それらの実現に向けて日々学習と実践を続けていくことが自分が授かった使命なのだろう。

敬愛する様々な実践思想家たちのように、思想的ビジョンを提示し、その実現に向けた実践の型の提案をしていくこと。しばらくは、バスカー、ハーバマス、ジジェクの認識の枠組みを借りて、彼らの目で自己と世界を眺めてみる。

バスカーの思想体系を探究するための文献はすでに14冊購入したこともあり、8月と9月に購入する予定の書籍は、それぞれハーバマスとジジェクに特化したものになるだろう。

真の世界、しかも深さの担保されていない真の限定的な世界に押し止められてしまった人間たち。ハーバート·マルクーゼの「一次元的人間」という言葉を現代のそうしたコンテクストに当てはめて解釈してみる。

フラットランドに住む、フラットランド化させられた現代人の姿は、まさに一次元的なものである。彼らの発想と行動の全てがそうした一次元的なものとして生み出されている。

善や美について語らねばならない現代の社会文化的な状況そのものを思う。善や美について語らねばならないというのは、そもそも現代社会においてそれらが決定的に欠落しているからに他ならない。

人は当たり前としてそこにあるものについては語らない。語るものは、いつも大抵不足しているものなのだ。

不足しているものを語ることは、バスカーが述べる「不在の不在化(absenting absence)」に当たるだろうか。不在のものを在らしめるためにそうした指摘を行っていくこと。指摘そのものがなかったものを在らしめることにつながるのであれば、それは極めて実践的だと言えないだろうか。

真正の思想や批判理論というのは、そうした性質を備えているのだろう。逆に言えば、そうした性質を備えていないものは思想や批判理論と言えないのではないかと思う。

思想も批判理論も絶えず実践的であるべきだ。この現代社会から欠落してしまったことを取り戻し、そしてそれを現代のコンテクストにおいて育むための実践的な思想と批判理論がますます求められているように感じる。フローニンゲン:2020/7/11(土)19:21

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