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5979-5983: アートの国オランダからの便り 2020年7月10日(金)


No.938 滲む感謝の念_A Seeping Feeling of Gratitude

本日の言葉

If you have time to be mindful, you have time to meditate. Ajahn Chah

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5979. 文明による抑圧とバイオパワーによる規定

5980. 本日の中土井遼さんとの対談によって紐解いていただいたもの

5981. 夕日の祝福を浴びて

5982. アテネ旅行と日本旅行に持参する書籍の検討

5983. イギリスから届けられた書籍:包容的な発達のあり方〜2018年の国際ジャン·ピアジェ学会での出来事

5979. 文明による抑圧とバイオパワーによる規定

時刻は午前6時半を迎えた。先ほどまで小雨が降っていたが、今はいったん雨が止んだ。今日は午前中いっぱい雨が降り、午後になると少し晴れ間が見えるようである。今日もまた肌寒さは変わらず、暖かい格好をして過ごそうと思う。

今日は昼前から、楽しみにしていたオンライン対談のイベントがある。先ほど申し込み状況を確認してみたところ、定員の300名に達しており、随分と多くの方に参加していただけるのだなと嬉しく思った。

対談相手を務めてくださる中土井僚さんとの対話は盛り上がるであろうことが予想されるが、どのような内容の話になるかは全く予想できない。予想できることと予想できないことが同居していることがまた、今日の対談の楽しみを押し上げている。

対談の開始まであと5時間ほどあり、それまでの時間はいつものように創作活動に充てたいと思う。直前には少しばかり心を落ち着けるような実戦でもしようかと思う。

ここ数日間は印象に残る夢を見ていたのだが、今朝方の夢はほとんど何も覚えていない。無意識の世界が随分と静かだった印象だ。

昨日もいつものように読書を行っていて、そこから得るものが多く、無意識にまたがる思考空間の中で整理が必要だと思っていて、いつもと同じように夢を見るかと思っていたのだが、そうではなかった。

寝る直前に、本日の対談に対する興奮があったことは確かであり、今日の対談がどのような方向で、そしてどのようなことが対話を通じて紡ぎ出されていくのかを非常に楽しみにしている自分がいた。そうした興奮によって、ひょっとしたら夢を見ることがなかったのかもしれない。

昨日は改めてフロイトの思想に触れていた。フロイトの洞察として見逃すことができないのは、人間の文明そのものが私たちの本能を本質的に抑圧しているというものである。この点については、ミシェル·フーコーが提唱した「バイオパワー(生権力)」という概念と合わせて色々と考えていた。

私たちの文明社会には、至る所で様々な形を伴ってバイオパワーが働いており、それは外部から私たちの行動や発想を規定する。それは物理的身体の次元で行動を規定することもあり、同時に、目には見えない精神の次元で私たちの発想を規定する。

フロイトの考え方と合わせて考えれば、それらは単に私たちの行動や発想を制限するだけではなく、感情を含め、私たちの行動や発想を抑圧するものとして働きうる。日々の自分の行動や発想を、目には見えないどのようなバイオパワーが規定しているのかということに自覚的になる必要がある。

そして、それらのバイオパワーが仮に私たちの自由を歪め、私たちの可能性を制限する形で働いているのであれば、そうしたバイオパワーを変容させていく取り組みに従事していくべきであろう。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2020/7/10(金)06:52

5980. 本日の中土井遼さんとの対談によって紐解いていただいたもの

つい先ほど、近所のスーパーから帰ってきた。その時に、気分転換として、いや内側に留まり続けているの1つの体験を味わうために、少しばかり近くの運河沿いをジョギングしていた。

買い物にいく前まで行っていたのは、アントレプレナーファクトリーさんの後援のもとに行わせていただいた、知人の中土井遼さんとの対談であった。この対談が自分にもたらしてくれたもの、気づかせてくれたものはあまりにも多く、ここで全てを書き切ることはできない。またそうしてしまうことで何か大切なものがこぼれ落ちてしまうような感覚もある。

対談の冒頭で中土井さんがおっしゃっていた、「何かが紐解かれていく場になれば」という言葉の通りのことが自分の中で起きた。今回、Zoomでの対談は自分にとって初めての体験であり、オンラインでの対談そのものも振り返れば3年前に一度行わせていただいたことがあるぐらいだ。そうしたことから、自分にとっても未知の体験をさせていただく場を与えていただいたことに本当に感謝している。

参加者の皆さんのコメントや質問を改めて眺めてみると、本日の対談の中で、私の説明不足の箇所が多々あったことに気づく。私は、分断化·矮小化されてしまった物語の蔓延について問題意識を持っており、何も真を司る領域の実践や物質的なものを蔑ろにしているわけではない。

真の領域を司る物質そのもの及び客観的に目に見える形での種々の実践や取り組みを大切にしつつ、そうした真の領域にある存在をより深く認めることや実践をさらに深めていくことを行っていくのと同時に、「忘れてしまった」さらには「忘れさせられてしまった」善や美の領域にも認識の光を当て、それらの領域の実践に乗り出していく必要があるのではないかという問題意識を持っていた。

私が善や美の領域に光を当て、その領域を通じた実践をすることの大切さを伝えさせていただいた後に、対談相手の中土井さんから、「それらは自分を晒さざるを得ない感覚がありますね」という非常に洞察の深いコメントをいただいた。これに加えて、参加者のある方からのコメントにおいて、それでは善や美に関する具体的な実践をどのように始めればいいのか?という問いをいただいた。

これは秀逸な問いであり、それこそが今の私の最大の関心事項だと言っていいかもしれない。中土井さんがご指摘してくださったように、これまで学習捨象·実践捨象の領域であった善や美の実践を始めることを唐突に提案しても、それは実効性に乏しいだろう。

おそらくそれは、海に一度も入ったことのない人に対して——さらには、これまで海の存在を知らなかった人に対して——、いきなり海に飛び込めと言っているようなものである。私はそこで、哲学者のヨルゲン·ハーバマスが提唱した「公共空間(public sphere)」というものを私たちの社会の中に確立させていくことが先決なのではないかと考えている。

言い換えるならば、いきなり善や美の領域に人々を投げ込むのではなく、善的·美的公共空間の確立を優先して行う必要があるのではないかということである。もちろんそれは、引き続き真の領域の探究と実践を継続していく中で行っていくものであり、確かにそれは課題レベルが高いものかもしれない。

ここで仮に善や美の領域だけに着目してしまうこともまた、別種の視野狭窄である。中土井さんが挙げてくださった例で言えば、自然災害の場において、善や美を議論する前に、そもそも物質的な支援を最優先させる必要があることは間違いない。

ここで仮に、善や美だけに着目してしまい、例えば「信じれば救われる」という発想だけを提示するというのは、未熟な内面主義者や似非スピリチャリストの発想だと思う。そうした発想ではなくて、真の領域に立脚した支援を行いながらも、それを善や美の領域を考慮に入れながら行っていく必要があるのではないかという問題意識を持っている。

例えば、被災地に物資を単に提供するのではなく、それは必ず善や美の領域を絡めた形で行えるはずであり、そうした真善美のどれも蔑ろにしない形の行動を行っていくことが大切なのではないだろうか。

そうしたことを考えながら、それでは善的·美的公共空間というものが何なのかについて改めて考えてみると、それはこれまで忘れていた·忘れさせられていた善や美に関するテーマやトピックについて、今の自分の立ち位置から安心して対話をすることができる物理的かつ精神的な対話空間として私は捉えている。前者は対話を提供する物理的な場所として顕現し、後者は対話を支えながらにしてそれを育む風土として顕現するだろう。

今自分が最大の関心を持っている探究·実践領域というのは実践美学(+実践倫理学)·実践霊性学とでも呼べるようなものであり、前者は美学者の今道友信先生の思想やハーバマス及びイギリスの哲学者ロイ·バスカーの思想を汲み取りながら、後者については本日の対談の中やコメントの中にあったように、クリシュナムルティ、シュタイナー、鈴木大拙などの思想を汲み取ったものになるだろうと思われる。

これまで探究していた成人発達理論・発達科学、そしてインテグラル理論を超えて含む形で、それらの新たな領域の探究と実践を開始し、真善美のどの領域も蔑ろにしない公共空間の創出に向けた取り組みをしていこうと思う。

本日の中土井さんとの対話は、ここからまた自分が新たな探究·実践領域に乗り出していくことの後押しをしてくださったものであり、それに対する感謝の念と、同時に、本日ご参加いただいた数多くの方からのコメントや質問による刺激と啓発に大変感謝している。フローニンゲン:2020/7/10(金)15:39

【追記】

実はこれまで一度もしたことがなかったのだが、私は何かに促されるかのように、そして導かれるように、今回のオンライン対談イベントに両親を招待していた。

対談の最中に、両親の姿がちらりと目に入り、深い安心感のようなものを感じた。また、父と母が交代交代に抱きかかえていた愛犬の姿を見た時に、そこに愛犬の命の温もりのようなものを感じた。

日本とオランダで遠く離れていても、そしてオンライン空間を隔てたものであったとしても、命ある存在者に流れる固有の温もりと固有の基底価値(ground value)を改めて実感し、それらを大切にしていくことの重要性を改めて思った。

5981. 夕日の祝福を浴びて

時刻は午後6時を迎えた。今、何かを祝福するような夕日の輝きが、燦々とフローニンゲンの街に降り注いでいる。

ここ数日間は天気が悪く、夕日を拝むことはできなかったこともあり、夕日の存在の有り難さを感じる。フローニンゲンの街を吹き抜けるそよ風はとても優しい。

その優しい風に運ばれて、数羽の鳥たちが大空を遊飛している。私もあの鳥たちのようにこの世界を遊飛しているように感じる。

中土井さんとの対談を終えて、もう4時間ぐらいになるだろうか。いまだその余韻が自分の内側に漂っている。

こうした余韻を味わう心の余裕、そして時間的なゆとりがあることそのものに感謝をする必要があるだろう。この余韻はきっと自らの肥やしとなり、何らかの形となっていつか姿を現すだろう。

今日は中土井さんとの対談に向けて、対談前には一切何も食べなかった。消化にエネルギーを使いたくなかったため、心身を整える上で朝も昼も何も口にしていなかった。

いつもは午前中にリンゴを1つ食べ、昼時にはバナナ1本とバイオダイナミクス農法で作られた4種類の麦のフレークに豆乳をかけたものを少々食べる。今日はそれらを食べずして対談に向かい、先ほど夕食を早めに摂ったのだが、結果として1日ほどのファスティングを行っていたことになる。

これまで毎月、欧州を中心として世界のどこかに旅行に出かけていたが、コロナの一件で、この半年間はどこにも旅行に行くことができていなかった。気がつけば半年である。

ちょうど半年前の年末年始に、マルタ共和国とミラノを訪れた。再来週の木曜日には、ようやくアテネ旅行が実現する。

本来であれば3月末に行く予定だったアテネも、過去4回ほどフライトがキャンセルになり、今ようやくコロナが落ち着き、今月末にやっとのことでアテネ旅行が実現する。

今年は冷夏のようであり、フローニンゲンはすこぶる寒く、昨日はヒーターをつけようと思うほどだったのだが、打って変わってアテネは灼熱の暑さのようである。とは言え、湿度は高くないそうであり、感覚としては以前住んでいた南カリフォルニアのアーバインの夏のような気候かと思われる。

今回のアテネ旅行をきっかけにして、この半年間で自分の内側に堆積していたもの、そしてその期間にわたって発酵したものが何か思わぬ形で結晶化されるかもしれない。アテネに足を踏み入れることを通じて、何か降りてくるものがあるかもしれないという予感がする。

また、何も降りてこないかもしれないという予感もある。仮に何も降りてこなったことしても、アテネでの体験はきっと未来に何かしらの形で結晶化されて現れるだろう。

未知なるものに向かうプロセス、いや未知なるものが向こうからやってくるプロセス。それが私たちの内面の成熟過程である。

本日の対談の冒頭に出てきたように、私たちの内側には未知の多大な可能性が内蔵されており、日々を水の如くたたずみながら懸命に生きることを通じて、あとはそれが開かれていくのを見守ればいいのである。それは消極的な待つという形ではなく、究極的に積極的な待つという形でなされるものである。

待つことは向かうこと。向かうことは待つことなのだ。フローニンゲン:2020/7/10(金)18:20

5982. アテネ旅行と日本旅行に持参する書籍の検討

今、夕日の祝福を全存在的に浴びている。時刻は午後7時半を迎えた。

本日中に、哲学者のロイ·バスカーの書籍が2冊ほどイギリスから届く。メールによれば、後1時間以内に配達されるそうなので、到着が今から楽しみだ。

明日から、思想探究においてはバスカーとハーバマスの書籍に取り掛かり、作曲理論の学習としては、20世紀のハーモニーの理論を学習したいため、“Twentieth-Century Harmony (1961)”に取り掛かろうと思う。

本日、ハーモニーに関する非常に優れた書籍“Contemporary Harmony (1966)をようやく参考にし終えた。再来週末から始まるアテネ旅行の際に、何の書籍を持っていこうか悩むところである。

アテネでも古本屋に立ち寄る予定であり、また美術館や博物館でいくつか芸術関係の文献を購入するであろうことを考えると、行きに関しては持って行くとしても何か1冊程度の書籍に留めたい。その際には音楽関係ではなく、バスカーの哲学書のうちの何かを持っていくことを今のところ考えている。アテネ旅行までに合計で14冊ほどバスカーの書籍が届くので、アテネの旅にふさわしい1冊を選んでそれを持参する。

この秋に日本に一時帰国する際に、作曲理論書を持参するかはわからないが、仮に持参するのであれば、帰りに和書をオランダに持って帰りたいため、オランダから持っていくものとしては薄い作曲理論書にしようと思う。チャイコフスキーが執筆したハーモニーに関するものか、ショーンバーグが執筆した理論書が適当だろうか。

いっそのこと、日本への行きは何も書籍を持って行かなくてもいいかもしれない。毎年、日本からオランダに持って帰る書籍が随分と多いためである。

昨年は、神保町の音楽関係の書籍で定評のある古賀書店さんで大量に楽譜を購入し、それらの全てをオランダに持って帰ることができず、毎日ピアノ演奏を熱心に行っている母に預かってもらうことにしていた。今回はその一部を持って帰れればと思うし、また日本で購入する予定の和書も持って帰りたいので、日本への行きに関しては本当に1冊程度の書籍を持参することにとどめるか、全く持って帰られなくてもいいぐらいだ。そのあたりはまた直前になって判断しよう。

当面は、アテネ旅行に向けた準備である。今のところ、足を運びたい場所をざっとリストアップしている程度であり、8泊9日の旅のうち、いつどこを巡るのかについては全く決めていない。

いつも現地についてから色々と旅程を修正するのだが、一応仮の日程として、来週あたりにいつどこを訪れるかの目安を立てておこう。フローニンゲンとは対照的に、アテネの気温は非常に高いようだが、それはそれで夏を感じさせてくれることだろう。フローニンゲン:2020/7/10(金)19:47

5983. イギリスから届けられた書籍:包容的な発達のあり方〜

2018年の国際ジャン·ピアジェ学会での出来事

つい先ほどの日記の中で、イギリスからの書籍の到着が待ち遠しいということを述べていたところ、その日記を書き終えて数分後に自宅の呼び鈴がなった。

呼び鈴の音によって自分の内側の感覚が乱されることが嫌なため、普段私は呼び鈴が鳴らないように設定している。今日は事前に郵便物の配達の時間がわかっていたので、呼び鈴をオンにしていた。

呼び鈴が鳴り、1階に降りてみると、配達を担当してくれた中年男性が笑顔で荷物を渡してくれた。イギリスから届いたのは、ロイ·バスカーの思想に関する4冊の書籍——(1)“Critical Realism: Essential Readings (Critical Realism: Interventions)"(2)“Enlightened Common Sense (Ontological Explorations)”(3)“The Philosophy of MetaReality (Classical Texts in Critical Realism Routledge Critical Realism)”(4)“The Order of Natural Necessity: A Kind of Introduction to Critical Realism”——と、霊性の物質化の問題についてチョギャム·トゥルンパが指摘した書籍“Cutting Through Spiritual Materialism”が届けられた。

早速中身をパラパラとめくってみたところ、新品の書籍のなんとも言えない良い香りが漂ってきた。その香りを味わいながら、1冊1冊に、いつもながら書籍が届けられた日付を記入していった。

残り10冊の書籍はまた後日届くため、とりあえず明日からは“The Philosophy of MetaReality (Classical Texts in Critical Realism Routledge Critical Realism)”を読み進めていこうと思う。そしてアテネ旅行には、分量と読みやすさからして、“The Order of Natural Necessity: A Kind of Introduction to Critical Realism”を持参するのが良さそうだ。こちらであれば、アテネ旅行の期間に、2回か3回繰り返して読めそうであり、それによってバスカーの思想の基礎を固めることができそうだ。

今日は午後に仮眠を取っていなかったので、夜はいつもより早めに就寝しようと思う。午後9時頃から就寝準備を始め、そのまますぐに眠りにつきたい。

そのようなことを考えていると、今から2年前にふと自分にやってきた、何かが終わりを告げた瞬間の体験について思い出した。あれは、真の領域を通じて人間発達を探究することに終わりを告げた瞬間だった。

今から2年前の春に、アムステルダムで開催された国際ジャン·ピアジェ学会に私は参加していた。そこで研究発表をする幸運な機会を得て、学会発表をちょうど真ん中の日に行った。

学会が開催される前に、アムステルダムに足を運ぶのが久しぶりだったので、学会会場の近くのホテルに私は前泊した。学会の前日に、2年振りにゴッホ美術館を訪れ、何冊かの画集を購入した。

その学会には、世界の名だたる研究者たちが参加しており、これまで論文や書籍を通じてでしか知り得なかった学者たちと直接会って話を聞いたり、意見交換をする機会を得た。それはそれでとても貴重な体験だったのだが、学会発表の前日あたりから、自分の心はもうどこか別のところにあるような気がしていた。

実際に、学会発表の日には、もう他の研究者の発表を聞くことに関心を持っておらず、会場の一角で、私はゴッホの画集を釘付けになって眺めていた。そして、学会の最後の日には、もう発表を聞きに行くことをせず、私はフローニンゲン自宅に真っ先に帰り、自宅に到着するや否や作曲実践をしていた。

その時の体験を先ほど振り返っていた。あの時の私は、自分の中で何かが終わりを告げた音を聞いていたように思う。それは物理的な音ではなく、多分に心理的な音だったと言っていいような気がする。

あの時の私は、それをちゃんと聞きとめていた。自分が今いるところから別のところに移行する瞬間に立ち合い、移行の瞬間を体験し、最後までそれを見届けた。

それは発達上の1つの通過儀礼だったのかもしれない。仮にあの瞬間を見届けることなく、急いで通り過ぎようとしていたら、今の私はまだ真の領域で、真のレンズをかけたままで人間発達を探究していたかもしれない。

その時の私は殻を破ろうとしたわけではなく、気付いたら自分はもう殻から抜け出ていたのである。自分という存在はもう剥け出ていたのだ。剥けた後に剥けたことを知った自分がいたのである。それは発達の1つの要諦であるように思える。

なんとなれば人は、発達後の自分の姿に思いを馳せがちだが、それは夢想のようなものなのではないだろうか。発達後の自分はもう今この瞬間の自分の中にいるのだ。

耐えること。未知なものに耐えること。それは否定的な意味ではなく、そうした耐性こそが発達的包容力なのではないだろうか。そうした包容力を獲得しないままに発達を焦ること、急かすことは、分断化する世界の流れに汲みするということを意味するのではないだろうか。

発達のプロセス上、耐えながらにしてそこにあり続けるということ以上に、積極的な行動はあるのだろうか。殻が破れようとするその瞬間までそこにとどまり、その全過程と殻が破れる瞬間まで見届けること。それ以上に包容的な発達のあり方を私は知らない。フローニンゲン:2020/7/10(金)20:22

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