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5972-5975: アートの国オランダからの便り 2020年7月8日(水)


No.923 午後の優しさに包まれて_Embraced by Afternoon Tenderness

本日の言葉

It is the mind that thinks in one direction, regardless of subject. Takuan Sōhō

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アート・ギャラリー

本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5972. 自由と発達

5973. 今朝方の夢

5974. 新たな眼差しで胸を高鳴らせて日々を生きること

5975. 現代を覆う全象限的な盲目病の治癒に向けて

5972. 自由と発達

時刻は午前6時を迎えた。今朝も空が雲に覆われていて、朝日を拝むことができない。気温はとても低く、肌寒さを感じる。

今日は昼頃に少しばかり小雨が降るようだ。明日と明後日はほぼ1日中雨が降るようなので、昨日の段階で買い物を終えていて良かったと思う。

今日は、哲学者のザカリー·スタインの書籍を読み返そうと思う。具体的には、“Education in a Time Between Worlds: Essays on the Future of Schools, Technology, and Society (2019)”という書籍の再読を行う。

スタインは一連の仕事の中でいくつもの重要な指摘を行っているのだが、昨日はふと、自由を与えることが不健全に働きうる場合について考えていた。自由を与えられた者が将来のより大きな自由を得ることができるのかという点は非常に重要であり、仮にそうでなければ、今この瞬間の目先の自由ではなく、将来のより大きな自由に向かってその瞬間の自由を制限した方がいい場合がある。

例えば、子供に自由を与え、なんでも学んでいいと述べる形で学習の全てを子供に委ねた場合、発達段階的に子供は将来どのような形で自分の能力を発揮していくのかを見通すことができず、また社会の中で生きていく際に必要となる能力や学習項目が何なのかの判断は難しい。そうした中にあって、子供たちに今この瞬間の目先の自由を与えることが、時に彼らの将来のより大きな自由を制限する可能性があることを認識しておく必要があるだろう。

仮に子供がその瞬間の衝動的な思いから、何も学ばなくていい自由を選択させてしまうことは、彼らの将来の可能性を大きく制限してしまうことにつながりうる。実際に、アメリカでは一昔前にフリースクール運動が起こったが、そこでは子供たちに自由を与えて野放しにすることによって、結果として子供たちは学習を放棄してしまい、それが彼らの将来の自由と可能性を制限してしまった。この一例をもって、教育哲学者のジョン・デューイも放任的な自由を与えることの問題を指摘していた。

小さな例としては、算数を学びたくないからといってそれを学ぶことをしない自由を行使させた場合、足し算·引き算ができないことがこの社会の中で生きていく上では大きな足かせとなったり、往々にしてそうした計算ができないことは社会的な不利益を被ることになるだろう。

スタインも指摘するように、教育上における自由というのは、決して放任的な自由を与えることではなく、子供たちが将来より大きな自由を得られるようにするものでなければならず、そして何よりも彼らの可能性を最大限に引き出すものであるべきである。そうした自由を与えられる存在を、スタインは「教育的権威(teachery authority)」と述べている。

それは専横的·強圧的な権威ではなく、子供たちの未熟な判断能力を補完する役割を担い、彼らが将来より大きな自由を獲得し、彼らが自分の可能性を最大限に引き出すことを導いていく存在のことを指す。そうした存在がないままに、放任的な自由を与えても人は発達していかない。

仮に発達が実現されたとしても、それは往々にして自由や可能性がひどく制限された形の発達になってしまうだろう。学習や発達を健全に進めていくためには、放任的な自由ではなく、真に学習や発達を導いてくれる教育的権威の存在と彼らの支援が必要なのだということを改めて考えていた。

今日もいつものように、読書と創作活動に旺盛に取り組んでいこうと思う。それらの活動を通じて得られた事柄を何かしらの形にしていくことが自分に与えられた1つの役割であることを忘れないようにする。フローニンゲン:2020/7/8(水)06:28

5973. 今朝方の夢

時刻は午前6時半を迎えた。今、1羽の小鳥が鳴き声を上げた。

数週間前に暖かい日が続いていた時は、小鳥たちの鳴き声も元気があったのだが、ここのところは朝が寒いため、彼らの鳴き声にはあまり元気がないように思える。というよりも、ここ数日間彼らの鳴き声を聞いていなかったとすら思う。今年は冷夏であるとしみじみ思う。

それではいつものように、今朝方の夢について振り返り、その後、本日の創作活動に取り掛かりたい。夢の中で私は、過去に卒業した日本の大学にもう一度入学しようと思っていた。

随分と前にその大学を卒業していたのだが、改めて母校で学びたいことがあり、再度受験をしようと思った。自分としては随分と勉強をしたのだが、当日の英語と数学の入試問題が思ったように解けず、結局不合格になった。

その不合格を受けて、後期日程としてはなぜか東京大学を受けることにしたのだが、後期日程の難易度や倍率を考えると、東大を後期日程で受験するというのはあまり得策ではなく、そもそもその大学には学びたいものが学べるような環境はなかった。とりあえず、学校の定期テストを受けるような感覚で1週間ほど対策をし、実際の試験ではかなり点数が取れたように思えたが、案の定不合格であった。結局、私は国立大学よりも先に受けた私立の慶應大学に進学することにした。

ちょうど私はどこかの大学の講演ホールにいて、周りには以前協働していた方々が何名かいた。その方たちに大学入試の結果について報告をしたところ、第一志望にしていた大学に入学できなかったことを気にしてか、皆さんあまり何も言わず、反応に乏しかった。そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、私は小中学校時代の友人たちと一緒にテニスコートにいた。そこでは1人の親友(YU)と誰かがラリーをしていた。

私は、別の親友(HO)とコート脇で話をしながらコート上のラリーを眺めていた。すると、横にいた親友の彼が突然、幼少時代の頃に流行っていたアニメのテーマソングを歌い始めた。するとそれに続く形で、近くにいた女性友達(NI)もその歌を口ずさみ始めた。彼女の歌はとても上手く、彼女もそのアニメを見ていたのかと妙に感心した。

しばらくして、コート上でラリーをしていた親友の母がコート脇に現れた。見ると、顔立ちが少し変わっているようであり、どこかインド人女性のように見えた。

すると、親友の母が突然昔話を始め、生まれたのはインドとのことだった。インドから日本の大学に留学してきたときに、大学内でストーカー行為に遭ったらしく、学内でストーカーに後をつけられていたときに、テニスコートに逃げ込み、そこでテニス部の人たちに助けてもらったそうだった。

そのようなエピソードを聞いていると、私の横には2人の女性友達(MH & EN)がいて、今から列車に乗って、中学校に戻ろうということになった。今いるテニスコートも実際に通っていた中学校のものだと思っていたのだが、2人が急いでいるような表情を浮かべていたので、私は何も聞かずに彼女たちについていくことにした。

駅のプラットホームに到着すると、ちょうど列車がやってきた。それは寝台車のような大きな列車であり、友人の1人がもう1人の友人の定期券を預かっていたようだった。私はチケットを持っていないように思えたが、とりあえず列車に乗ることにした。

すると、私たちの目の前には、中学校時代にお世話になっていた部活の顧問の先生がいて、先生も学校に向かっているとのことだった。この時間帯の列車に乗れば、学校には余裕を持って到着できる。ところが私たちは、途中駅で少し用事があるようであり、学校に到着するのはギリギリになりそうだった。

気がつくと、私はもう学校の教室の中にいた。ちょうど先ほど列車の中で遭遇した先生の授業がこれからあるらしく、授業の開始前に私は、号令をかける役の友人に対して、声に魂を込める方法をそっと教えた。

先生が教室に到着し、彼が号令をかけた瞬間に、クラスメートたちの行動がこれまでとは異なり、号令のみならず彼らの行動にも魂が吹き込まれたようだった。それ見て先生は嬉しそうな表情を浮かべた。

先生はちょっと実験的に、わざと「正座!」と述べると、椅子の上で本当に正坐をし始める生徒たちが現れた。私はそれを見て、言葉が持つ力の大きさを改めて面白いと思った。

しかし、先生の言葉に従わない生徒たちもいたのは確かである。友人の1人(KM)は、起立することなく、椅子に座ったまま眠っていた。

彼は前の席に足を伸ばし、女子生徒の誰かが彼の足裏のツボをマッサージしているようだった。彼は気持ち良さそうに眠っていて、先生は彼が伸ばしている足の上に座ったが、彼はそれでもまだ眠り続けていた。それを見かねて先生は、彼の鼻の中に指を突っ込もうとしたが、それは少々汚いと思った。

すると、私の体は学校の野球グラウンドにあった。そこでは野球の試合が行われていて、私は生徒ながらも監督を務めていた。

これから打席に立つのは、ちょうど先ほど眠りこけていた友人だった。私は彼にバントを要求したのだが、彼はバントは得意ではないと述べた。そこで私はハッとさせられ、これまでの私は1人1人の選手の個性を無視した形で試合を進めていたのではないかと気付かされたのである。

彼が打席に立つ前に、それでは何が得意なのかを聞いたところ、彼は思いっきりバットを振ることが得意だと述べたので、それじゃあ思いっきりバットを振っていこうと彼に伝えた。自分は監督でありながら、これまで彼の得意なことが何かを見落としていたことに愕然とし、ベンチに戻って頭を抱え、思わず涙した。そして、「監督って難しい···」と呟いた。

私の両脇には野球部の友人(左にはTS、右にはYK)がいて、彼らは私をなだめてくれた。するとそこで再び私の体は瞬間移動し、学校の教室にあった。そこでは何か小テストのようなものが行われていて、私は他の生徒たちがテストに取り組むのを見守っていた。

野球部のある友人(RS)がテストの取り組んでいるときに、彼はテストで問われていたある人物(現実世界で最近知り合った知人)の下の名前の最後の漢字を間違えていた。彼はあまり勉強が得意ではなかったこともあり、半分の正答率を得たことは彼にとっても自信となったようであり、私も少しほっとした。フローニンゲン:2020/7/8(水)07:02

5974. 新たな眼差しで胸を高鳴らせて日々を生きること

時刻は気がつけば午後3時半を迎えていた。この日記を執筆したら、近所のスーパーに買い物に出かけようと思う。明日と明後日は雨のようなので、必要なものは今日購入しておこう。

先ほど、イギリスの経済地理学者のデイヴィッド·ハーヴェイの書籍"Limits to Capital (2006)”の中で興味深い指摘を見つけた。ハーヴェイは、現代の金融資本主義における問題解決の方法は、問題を根本から解決しようとしているのではなく、問題を拡散あるいは分散させるか、問題を単に別の場所に置き換える形で解決させようとする傾向にある、述べている。

まさに私たちの家庭で出されるゴミに対して、そもそも根本からゴミが出ないような仕組みを作るのではなく、出されたゴミを拡散させたり、どこか別の場所に押し付けるかのような形で問題解決に当たる傾向にあるのがこの現代社会の特徴なのだろう。ここにも、問題を生み出す構造そのものへの眼差しの欠如と、そうした眼差しを育む仕組みや支援の欠如が見られ、はたまたそうした眼差しを抑圧するような風潮や仕組みがこの現代社会に蔓延っているのではないかと思う。

午後に仮眠を取って目覚めたときに、求める愛と与える愛について考えていた。本当の与える愛というのは、与えようという意思すら芽生えない形で発揮されるものなのだろう。

愛を与えるという考えが芽生える隙もなく、愛を自発的に降り注いでいるというのが与える愛の本質にある。そのようなことを考えていた。

数日前の日記に、カート·フィッシャー教授の教え子かつ協同研究者でもあったマリー·イモーディノ=ヤング博士の研究について言及していたように思う。“We feel, therefore we learn”という言葉を引用し、学習やや発達における感情が果たす役割についてそこで述べていた。

ふとしたご縁で最近知り合ったある方に成人発達理論という学問領域があることを伝えたところ、「新しい発見にドキドキしています」というメッセージをいただいた。このメッセージを受け取ってしばらくしたときに、思わずハッとさせられた。というのも、そこには学びや成長の本質が隠されているのではないかと思ったからである。

日々私たちは、何かを学習する時や実践する時に、こうした胸が高鳴る気持ちを感じているだろうか?新しいことを学ぶ喜びや、自分や他者及びこの世界の新しい側面に気づく喜びを毎日感じているだろうか?

もしこうした感情が芽生えないのであれば、それは感情を持つという人間要件の大切な側面を失いつつあることの現れではないかと思う。またそれは、実りある学習や実践に従事していないことの現れではないかとも思う。

そのようなことを考えていると、監修させていただいた有冬典子さんの書籍『リーダーシップに出会う瞬間』の中に、「ワクワクは枠の外にある」という名言があったのを思い出した。毎日同じ枠の中にいると、こうした胸の高鳴りを感じることはできないだろう。

人間性心理学を切り開いたアブラハム·マズローの研究で、真に自己実現を果たした人の特徴の1つに、この世界を絶えず新しい眼差しで見つめ、新たな発見に喜びを見出して毎日生きることができるというものがある。

発達理論の観点からさらに意味付けをしてみると、日々新たな眼差しを獲得するというのは、毎日死と再生を十全に行い、死を経て再生が実現されることによって新しい眼が生まれてくるのではないかと思えてくる。

『モモ』の作者であるミヒャエル・エンデの父のエドガー・エンデはかつて、「夢の世界を訪れることは、死の世界の先取りである(夢を見ることは死という体験の先取りである)」という意味の言葉を残していた。日々夢の世界に足を運ぶ私たちは、本来小さな死を体験しているのである。そうしたことを考えてみると、自己実現を真に果たした人というのは、毎日十全に死に、十全に再生を遂げている人なのだろう。

与える愛を降り注ぎながら、善く·美しく生きること。そして、日々十全に死と再生を繰り返していくことが、とても大切な生き方のように思えてくる。フローニンゲン:2020/7/8(水)15:43

5975. 現代を覆う全象限的な盲目病の治癒に向けて

時刻は午後7時を迎えた。今、穏やかな夕方の世界が広がっている。

明日と明後日は雨とのことであるから、今日は夕方に近所のスーパーに買い物に出掛けた。今日はオーガニックのサツマイモ を購入しようと思っていたのだが、それがいつもある場所に置かれていなく、店員に尋ねたところ、オーガニックのサツマイモはもう入荷しないとのことだった。これまでよく売れていただけに、なぜそれがもう入荷されなくなったのかの理由は不明であり、非常に残念だ。

サツマイモの栄養素とは異なるが、今後は、以前食べていたオーガニックのブロッコリーをまた食べることにしたい。少しばかり食生活の微調整が必要であり、サツマイモがもうその店に置かれなくなったことは、食生活を少し変える必要があることを私に知らせてくれたのかもしれない。

今日もまた、アートを核に据えた実践美学と実践霊性学を通じて、現代社会が共有するナラティブを変容させていくことはできないかを考えていた。現代社会に蔓延しているひどく限定的·部分的なナラティブに何らかの関与をしていきたいという思いが日に日に強まる。

現代は多くの情報が行き交っているが、それらの情報を俯瞰的に眺めた時、インテグラル理論で言えば、それらはある特定の象限にひどく偏っているように思える。当然ながら、この世界に広がっている情報を全て集めてくれば全象限的なものになるが、私たちの意識の段階や趣向性・志向性、さらには置かれている組織や社会の文化や制度によって、実際のところ私たちが得ることになる情報はとても偏りがあり、限定的なものなのだと思う。

そうした状況が、多面的な盲目症状を引き起こしているのではないだろうか。つまり、視野が狭窄であることが、真善美の領域の全般にわたって無数の盲点を作り出しているのではないかということである。

現代を覆う全象限的な盲目病の治癒に向けての自分なりの取り組みの方向性の一端が見えてきている。それをより明確にし、それを日々実際の行動を通じて実践していこう。

今日はこれから、もう1曲ほど曲を作りたい。ここのところは、過去に作った曲の原型モデルを活用して、夕食後にも曲を作っている。

今この瞬間の自分の内側から湧き上がってくる感覚を音の形にし、それを通して自己を再度捉え直していくこと。1つの曲が生まれた前後では、もうそこにいる自分が異なる自分であるという認識。

1つの曲を生み出すことは、死と再生をもたらす。それはミクロな発達であるとも言える。

毎日少しずつ曲と絵を生み出し、毎日少しずつ日記を綴っていく。それらの自己表現的な創作活動はいずれも、小さな死と再生をもたらす発達的触媒作用がある。フローニンゲン:2020/7/8(水)19:31

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