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5968-5971: アートの国オランダからの便り 2020年7月7日(火)

July 9, 2020

No.915 就寝前の音の流れ_A Flow of Sounds Before Going to Bed

 

本日の言葉

In reflecting on our problems, we should include ourselves. Shunryu Suzuki

 

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本日生まれた11曲

 

 

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タイトル一覧

 

5968. 芸術と社会の対話的関係性の構築に向けて

5969. 今朝方の夢

5970. 学習・発達と感情的側面:発達のエルゴード性と非エルゴード性

5971. 自分の名前に導かれて:自己涵養的·社会実践的なリテラシーの未熟さ

 

 

5968. 芸術と社会の対話的関係性の構築に向けて

 

時刻は午前6時を迎えた。ここ数日間は朝日を拝むことができなかったが、今日は優しい朝日が赤レンガの家々の屋根に降り注いでいる。この光景を眺めると、心が自ずから安らいでいく。

 

今はそよ風も吹いておらず、無風の世界の中に世界がすっぽりと収まっている感じである。そのような世界を眺めていると、少しばかりそよ風が吹いた。

 

今日は昼前に小雨が少しばかり降るようだが、昼過ぎにはそれが止み、1日を通して天気が良いようだ。気温に関しては依然として低く、最高気温は17度、最低気温は9度とのことである。

 

昨日改めて7月と8月の月間天気予報を確認したところ、現在時点においては、どちらの月においても25度を超えるような日はほとんどないようだ。毎年8月には30度を越す暑い日が数日ほどあるのだが、今年はどうもそうした日がないらしい。今年は本当に冷夏である。

 

昨夜、少しばかりハーバマスの美学思想ないしは芸術論について調べていた。関心を引く論文を1つ見つけ、早速それを読み、同時に興味深い書籍を1冊ほど見つけた。その書籍は、“Habermas and Aesthetics: The Limits of Communicative Reason” というタイトルのものであり、こちらは来月の頭に書籍を一括注文する際に購入しようと思う。

 

ハーバマスの思想の中で大いに共感しているのは、芸術と社会を媒介させる思想である。とりわけ、美的な「公共圏(public sphere)」を創出し、その空間を通じて人々が対話によって芸術の力を社会に発揮していくという発想は、まさに自分がおぼろげながら持っていたものである。

 

ドイツの詩人のハインリヒ·ハイネはかつて、芸術家を知識人(単に情報的な知識を多く持っている人ではなく、叡智を持って人々を啓蒙する人)としてみなし、知識人の役割は、芸術や学問の世界に閉じられているものを多くの人に開くことであるとみなした。そしてそもそもの芸術や学問は、人々に開くための叡智を絶えず生成する必要があるということを指摘していた。

 

またハイネは、芸術や学問が生み出す意味の資源は、政治的な意思形成の資源へ転換しうるということを指摘し、知識人としての芸術家がその媒介役を果たすことができれば、開かれた叡智をもとにコミュニケーションが生まれ、公共圏が形成されていくであろうということを述べている。

 

人々同士のコミュニケーションによって成り立つ公共圏の確立は、一部の知識人による芸術の政治利用(例:ナチスが芸術音楽を宣伝利用した事例)に対する牽制役の役割を担うことにもつながるであろうから、芸術を通じた社会形成の実現の道を見出しうる。

 

ハーバマスと同様に、今の私は単に作品を解釈するような意味での美学に関心があるのではなく、社会と繋がり、社会課題の解決に向けた実践的な美学に関心がある。まだ執筆には取り掛かっていないが、近いうちに執筆したいと思っている実践霊性学と実践美学に焦点を当てた書籍は、このあたりのテーマにも触れたいと思う。フローニンゲン:2020/7/7(火)06:21

 

5969. 今朝方の夢

 

時刻はゆっくりと午前6時半に近づいている。今は再びそよ風が止み、無風の静けさが辺りに滲み出している。

 

朝日の光は優しく、フローニンゲンの街全体を撫でるようにして包み込んでいる。この街も光に祝福された街であったか。遠く離れた故郷を思い出しながら、そのようなことを思う。

 

今日も引き続き、創作活動と読書に打ち込んでいく。今、自分の中で新たな探究テーマが形成され、それに関係する書籍を大量に読み進めている。

 

それらのほとんどは思想書であり、第一線級の哲学者·思想家と対話をするような形で日々が過ぎていく。哲学者や思想家との対話は、これまでの8年間にも行ってきたことであったが、今は以前にも増して対話の量と質が増大しているように感じる。

 

今週末の金曜日にはオンライン対談があり、対談は生き物であるという性質上、その対談の中でどのような話になるか分からないが、おそらく今自分が読み進めている書籍に影響を受けたことを話すのではないかと思う。それも含めて当日の対談が楽しみであり、当日までにまだ時間があるので、引き続き書物を読み進めていこう。

 

今朝方は2つほど印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、海の家がある海岸を歩いていた。そこは実家の目の前の海のようにも見えるし、若干違うようにも見えた。いずれにせよ、私の心は平穏であり、海の広大さと心地良さを感じながら歩いていた。

 

海岸沿いに植えられた松林の一角に、カフェのようなお店を見つけた。それは一夏の期間だけそこにお店を開いているようだった。そのカフェは木でできており、外観はとてもお洒落だった。

 

早速中に入ってコーヒーか何かを注文しようと思ったところ、店の入り口には少しばかり列ができていた。それが大した列ではないことはホッとし、人気のお店なのだということがすぐにわかった。

 

店の入り口付近でぼんやりと佇んで待っていると、私に声をかけてくる女性がいた。声の方を振り返ると、若くて綺麗な外国人の女性が笑顔でそこに立っていた。

 

その女性と2、3会話を交わすと、どういうわけか、その女性は私の方に近寄ってきて、私の手を取った。彼女と私は初対面であり、まだ会話を数回ほどしか交わしてないのだが、まるで交際をしているような間柄にすぐさまなった。

 

彼女と手をつないで店に入ろうとすると、そこに大学時代のサークルの友人が2人いて、私が外国人の女性を連れて店に入ろうとしていることを少し驚いていた。店の中に入った瞬間に、その女性と私の体は店になく、欧州のどこかの国の美術館の前にいた。そこは巨大な美術館であり、パリのルーブル美術館やロンドンの大英博物館が発する雰囲気と同じものを持っていた。

 

美術館に入ろうとしたところ、彼女は私の手を振り払い、先に進んで行った。先ほどまでやたらと私の近くにいたので一体何があったのだろうと思ったが、私は特に気にせずに自分のペースで美術館を巡って行った。

 

すると、美術館のグッズショップに辿り着き、そこでお土産に何か購入しようかと思って色々と眺めていると、遠くの物陰で、前職時代のボスと先ほどの外国人の女性が日本語で話をしている声が聞こえた。どうやらボスは、何らかの目的でその女性を私のところに送り出したことを知った。

 

2人のひそひそ話に耳を傾けていると、どうやら私の実家の近くにある島で財宝や天然資源が見つかり、それを狙って、外国人の要人たちがそこに集まってきているようだった。ボスは彼らとコンタクトを取り、新たなビジネスに着手することを考えているようだった。

 

そこからもしばらく2人のやり取りは続き、やり取りが終わると、再び外国人の女性が私のところに戻ってきた。私は気づかれないようにしようとしたが、2人の会話を聞いた後、彼女に対する態度がやはり少し変わってしまったようだった。

 

そこからは一緒に美術館を巡ったが、美術館を出ようとしたときに、前職時代のボスが姿を現し、事情を説明してくれた。私はすでに事情を知っていたが、初めてそれを聞くかのように話を聞き、実家近くにあるその島について、自分が知っていることをボスに話した。そこで夢の場面が変わった。

 

次の夢の場面では、私は300人以上入る大きなセミナールームにいた。セミナールームは静かではあったが、どこか不思議な熱気があった。

 

若い女性が壇上でレクチャーをしていて、途中に突然私が指名された。この15年間、私が毎日午後に仮眠を取っていることについてシェアをして欲しいとのことだった。

 

仮眠の効能についてシェアをすると、その講師は大いに関心しており、私の話に場全体も盛り上がっていた。その後、セミナールームの一番左の列の一番後ろの席に座っているDJ風の男性が、映像を用いて何かをシェアし始めた。それに対しても会場は盛り上がった。

 

私たち2人のそれぞれは、会場から300以上の「いいね」をもらえたらしく、後方に座っていた友人がそれを教えてくれた。するとそこで私の体は、前職時代のオフィスにあった。

 

ポジションとして2つ上の女性の上司と、年次が上の女性の先輩が、私に仕事を依頼してきた。その時の私はいくつか仕事を掛け持ちしており、依頼された仕事については、インド人の同僚と一緒に取り組むことにした。

 

どういうわけか私は、やはりこの会社で働くことは自分の能力を最大限に発揮することにつながらないという考えが芽生え、休憩がてらトイレに行こうと思った。そこで夢から覚めた。フローニンゲン:2020/7/7(火)06:51

 

5970. 学習・発達と感情的側面:発達のエルゴード性と非エルゴード性

 

時刻は午後2時半を迎えた。先ほど仮眠から目覚めたのだが、仮眠中のビジョンの中で、人間の可能性についての自分の考えを誰かに話していた。その時には、ちょうどまた新しい考えが自分の中に芽生えており、それを近くにいた誰かに話して、意見をもらいたかったようなのだ。

 

今日は午前中に、過去に届けられた作曲理論の2冊の書籍がまたしてもイギリスから配達されてきた。改めて確認したが、それらはすでに持っているものと同じであり、どうしてこのようなことが起こったのかと不思議に思っていた。

 

イギリスの書店に送り返すのは面倒なので、それはいつもお世話になっている街の中心部の古書店ISISに寄付をしようかと思う。ちょうど店主のセオさんと久しぶりに話したいという思いもあるため、アテネ旅行から帰ってきてからでもまた店に足を運んでみよう。

 

ここのところは、自分の中でまたしても発達の分岐点(bifurcation point)を通り抜け、新たな関心領域への探索と関与が始まったようである。今向かっている先は、実践霊性学と実践美学であり、それらの領域に付随する形で様々なことを学んでいる。

 

発達の分岐点に到達し、そこを通り抜けていくにあたり、自分の内側にあった何か強い思いのようなものが大切だったように思う。まさに、カート·フィッシャー教授の教え子かつ協同研究者でもあったマリー·イモーディノ=ヤング博士は、発達における感情の大切さを指摘しており、“We feel, therefore we learn”という言葉を残している。その言葉はとても示唆深いように思う。

 

学習や発達において感情の側面が大切というのは当たり前といえば当たり前なのだが、それは忘れがちな側面であり、そうした側面を科学的に探究していったイモーディノ=ヤング博士の功績は大きい。

 

感情というのは、とりわけ学習や発達の潤滑油として働くだけではなく、それらの根源だと言ってもいいかもしれない。本来、豊かな感情を持つ生き物である私たちは、どこかそうした感情的な側面を忘れてしまいがちであり——先日の日記の考え方に基づけば、忘れてしまっているだけではなく、忘れさせられている——、学習や発達に必要不可欠な感情を抑圧してしまう傾向にある。感情的側面を取り戻し、感情世界を豊かにしていくことは、人間性の回復と涵養につながり、学習や発達を支える資源になる。

 

先ほど、発達のエルゴード性(ergodicity)と非エルゴード性(non-ergodicity)について考えていた。前者の例として言えば、発達の構造的な特性が順を追って紐解かれてプロセスは、一個人に当てはまるものではなく、広く集団にも当てはまるためという現象がある。一方後者は、発達現象に関して集団で発見されたことが必ずしも個人に当てはまらない現象を指す。

 

発達のマクロなプロセスはエルゴード的であったとしても、発達のミクロな軌跡は非エルゴード的なのだ。そのようなことを考えながら、フローニンゲン大学に在籍していた時の研究は、1年目においては発達の非エルゴード性に着目し、2年目においてはあえて集合の発達プロセスの中にあるエルゴード性を研究していたことを思い出した。ここでも対極を行き来している自分がいることに気づく。

 

昨夜も、発達研究ではなく、自分の過去10年間の学習や実践を俯瞰的に振り返り、そこにも対極的な動きがあることを見出していた。今、冒頭で述べたように、そうした対極的な運動がまた新しい探究·実践領域を切り開こうとしている。フローニンゲン:2020/7/7(火)14:57

 

5971. 自分の名前に導かれて:自己涵養的·社会実践的なリテラシーの未熟さ

 

時刻は午後7時を迎えた。今のフローニンゲン上空は雲に覆われていて、今日は夕日を拝むことはできない。

 

振り返ってみれば、今日もまたとても肌寒1日であったが、午後にはジョギングがてら街の中心部のオーガニックスーパーに出かけた。その帰り道にふと、ロイ·バスカーの批判的実在論とインテグラル理論に関するイメージが浮かび上がった。それは、それぞれの存在者に居場所を与え、それを通じて一枚の大きな絵を描いていくイメージだった。

 

2つのメタ理論は随分と違う内容を持っているが、そのようなイメージは共通して存在しているように思える。体を動かすと、思考の整理だけではなく、イメージの世界でも何かが整理され、1つのまとまったイメージが浮かび上がってくるようだ。

 

買い物に出かける前に、ジョン·ロールズの道徳思想に言及した書籍を読んでいた。発達というものが全ての人の幸福に資するものであるかどうかを絶えず考えること。ジョン·ロールズの道徳思想において、それと同じような道徳原則が言及されていた。

 

性別や生い立ちなどに関係なく、全ての人の立場から発達という言葉の意味を考えることができるか。ロールズが指摘するように、私たちの観点は絶えず「無知のベール」で覆われており、どこか特定の立場だけに立脚して物事を考えてしまう。

 

発達という現象について議論する際には、絶えずそれを全ての人の観点で捉えていくことが重要だろう。そのようなことを考えていると、自分の名前に「平等」の「平」という文字が当てられている意味について考え始めた。

 

今の私は、社会正義や道徳を含めた「善」にも関心を持ち始めているようなのだ。それはようやく自分の名前に含まれた意味を通じて生き始めたことを意味しているのだろうか。

 

また偶然にも、美への関心が高まっている時に、名前に「美」が付く方と知り合うことができた。善と美。これまでの真の探究が分岐点を迎え、そこから善と美という2つの道が現れた。それら2つの道を辿りながら、再び自分は1つの道に還っていくのだろう。

 

その他にも今日は、日本人の名目識字率と日本語空間の地盤沈下について考えていた。日本人は世界で有数の識字率を持っているが、それはあくまでも名目的なものであり、自己を涵養し、社会の課題と向き合うために必要なリテラシーは低いのではないかと思われる。言い換えれば、情報消費的リテラシーは高いが、自己涵養的·社会実践的なリテラシーが低いと言えるだろうか。

 

また、日本の食に関して言えば、日本は有数の農薬大国かつ食品添加物大国であり、その傾向は情報空間においても見て取れるように思う。「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉のように、毎年日本に一時帰国した際に大型書店に足を運ぶと、悪書が良書を駆逐しているような状況が進行しているように思えてしまう。もちろん、良書は引き続き存在しているのだが、悪書の存在がますますと幅を利かせているような状況が見える。

 

物理的次元においては発癌性の検証は比較的容易かもしれないが、目には見えない情報次元においては知的発癌性を検証することは難しいのかもしれない。いずれにせよ、知的発癌性物質を含むような書籍の蔓延と、自己涵養的·社会実践的なリテラシーの未成熟な状況はひどく心配になる。フローニンゲン:2020/7/7(火)19:36

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