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5960-5963: アートの国オランダからの便り 2020年7月5日(日)

July 7, 2020

No.896 曇り空の形而上学_Metaphysics of a Cloudy Sky

 

本日の言葉

The faults of others are easy to see; our own are difficult to see. Gautama Buddha
 

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本日生まれた9曲

 

 

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タイトル一覧

5960. ニューヨークを舞台にした今朝方の夢

5961. フランクフルト学派と批判理論:オットー・ラスキー博士との縁がもたらしたもの

5962. 同様の体験と問題意識を持った人々:断絶の時代を乗り越えて

5963. キャロル・ギリガンの言葉より:知ること・実践すること・在ること

 

5960. ニューヨークを舞台にした今朝方の夢

 

時刻は午前5時半を迎えた。今朝もまた起床した時には小雨が降っていたが、今は小雨が止んでいる。空は薄い雨雲で覆われているが、そよ風は優しい。

 

平穏な雰囲気が日曜日の朝の世界に広がっている。毎日が充実感と幸福感の中で過ぎていき、本当に毎週毎週が過ぎ去っていくのが早い。いや、おそらく時は過ぎ去っていくものではなく、自分の中に堆積していくものなのだと思う。人間というのは時間的重みを含んだ存在なのだ。

 

内的成長を遂げていくというのは、時の重みを引き受けることなのかもしれない。時を引き受け、時を自分の内側に堆積させることができた時、成長という現象が起きる。そのようなことを考えさせてくれる朝だ。

 

今日も1日を通して創作活動と読書に従事していく。ここ最近は再び読書にも時間を充て始め、一時期意図的に活字の世界から離れていたことが自分の中に渇きないしは飢えの状態を生み出していた。

 

読書に関するファスティングをしばらく行っていたような感覚が自分の内側にあり、ファスティングを終えた今、ここからまた読書に打ち込もうとする自分がいる。ファスティングを行った分、読書に対する渇きと飢えは激しく、書物を通じて取り入れたものは自分の内側に深く浸透していくことだろう。

 

ファスティング後の回復食と同様に、情報次元のファスティングを行った後には、どのような書物を読むかが大切である。それについては心配はない。今読み進めている書物はいずれも傑出しており、それらはことごとく自分を形成し、自分を深めてくれる養分になるだろう。ロイ·バスカー、ヨルゲン·ハーバマス、アーネスト·ベッカー、エーリッヒ·フロム、テオドール·アドルノなどの思想家の書籍をここからしばらく読んでいく。

 

それでは今朝方の夢を振り返り、その後、本日の創作活動に入りたい。夢の中で私は、小中高時代から付き合いのある親友(SI)と一緒にテレビゲームをしようとしていた。

 

私たちは旅館かどこかに宿泊しているようであり、広い座敷部屋に置かれたテレビを前にして座っていた。今からやろうとしているのは推理もののゲームであり、有名な日本のアニメが元になっているものだった。

 

その部屋には複数のテレビが置かれていて、他のテレビでも同じゲームが行われていた。他の人たちの迷惑にならないようにと、私は親友に、テレビにイヤホンを挿して音が漏れないようにしてゲームをしようと提案した。

 

彼はすぐに快諾をしてくれたので、私がイヤホンをテレビの端子に差し込むと、私のイヤホンからは音が聞こえて来ているのだが、友人のイヤホンからは音が聞こえてこないようだった。何度やってもうまく音が聞こえてこないようだったし、そもそもイヤホンの配線が短いため、テレビ画面に近づいてゲームをする必要などもあったので、いっそのことイヤホンを差さずにゲームをしようということになった。そこで夢の場面が変わった。

 

次の夢の場面では、私はニューヨークのある施設の中にいた。厳密には、その施設のトイレの中にいた。そこで何をしていたかというと、中国人の若くて小柄な女性と一緒に、人身売買の犯人をおびき寄せて警察に捕まえさせるということを行っていた。

 

その中国人の女性は、人身売買の斡旋業者を装い、犯人と電話でコンタクトを取った。実際には、犯人から電話がかかって来て、その電話にうまく対応するのが彼女の役割だった。

 

犯人から電話がかかって来た時、私の携帯でも犯人とやり取りができるようになっており、私は思わず声を出してしまって、犯人と会話をしようとしてしまった。彼女との事前の約束では、犯人とのやり取りは全て彼女に任せることになっていたことを一瞬忘れてしまっているようだった。

 

ある意味条件反射的に声を出してしまったのだが、犯人は女性が電話に出ることを事前に知っていたようであり、私が声を発しても、それを雑音だと認識したのか、何も疑われずに済んだ。そこからは、中国人の彼女がうまく犯人を誘導していった。

 

犯人はまんまと彼女の誘導に乗り、そこからすぐに警察に捕まった。犯人が警察に捕まったことを知った私たちは大いに喜び、彼女と握手をして私はその場を後にした。

 

施設の外に出ると、そこは雑踏のニューヨークであった。通りにはゴミが散乱しており、通りには少し異様な匂いが漂っていた。

 

通りを歩き始めたところで、突然私の身体は近くの建物内のトイレに瞬間移動していた。トイレの個室に入ろうとすると、目を付けていた個室に小柄なアメリカ人男性が入ってしまったので、その個室の横に入った。

 

すると、ここはアメリカなのに個室のスペースがやたらと狭くて驚いた。一応便器も床も綺麗だったのだが、その狭さに違和感があったので、結局何もせずに個室を出ようと思った。そこで夢の場面が変わった。

 

今朝はその他にも夢を見ていた。ここ最近知り合った知人が東京の港区に住んでいることを偶然知り、今度日本に一時帰国して東京に滞在することがあれば、その方の住んでいる近くに滞在してもいいかもしれないと思った。そうすれば、お互いにすぐに会えると思ったのである。私はその方に何か贈り物をしていたようであり、それに対するお礼のメッセージが携帯に届いていた。フローニンゲン:2020/7/5(日)06:15

 

5961. フランクフルト学派と批判理論:

オットー・ラスキー博士との縁がもたらしたもの

 

今日は朝から小雨が降っていて、今は少し雨脚が強くなっている。今日も気温がめっきり下がり、室内では真冬の時と同じ格好をして過ごしている。今日は靴下も履いているほどだ。

 

昨日、インドのある大学が提供している社会学のオンライン講義で面白いものを見つけた。ちょうど今の私は、ロイ·バスカーやヨルゲン·ハーバマスの思想体系に関心を持っていて、その講義ではハーバマスの理論が扱われていた。

 

それを聞きながらふと、私が過去に師事していたオットー·ラスキー博士がどういう意味で「弁証法思考」という言葉を使っていたのかが明瞭になったのである。端的には、これまで私が気づいていなかった弁証法的思考の側面を見出したと言っていいかもしれない。

 

ハーバマスは現在91歳であり、ラスキー博士は84歳と年が近く、2人ともテオドール·アドルノとマックス·ホルクハイマーに師事をしており、フランクフルト学派の第2世代に該当する。ラスキー博士のもとで学んでいた時には、発達心理学をラスキー博士から学ぶことで手一杯であったため、ラスキー博士が時々言及するフランクフルト学派の思想にまで探究の手が回らなかった。

 

先ほどインドのその大学が提供するオンライン講義を聞いていた時に、フランクフルト学派が提唱した批判理論(critical theory)というものが実に弁証法的な理論体系だと思ったのである。それまでの社会学は基本的に、社会を動かすメカニズムや法則を客観的に記述することのみに注力していた。つまり、そこに規範的(normative)な側面はなく、社会はどのようにあるべきか、社会の正義や幸福をどのように実現させていくべきかなどの議論は基本的になかったのである。

 

その問題を指摘し、社会学の客観的側面と規範的側面という対極を行き来する形で理論的·実践的探究を志したのが批判理論なのだということに気づいたのである。そこから私は、改めてこの批判理論を深く学びたいと思った。

 

本棚にはアドルノやホルハイマーの書籍が何冊かあるのだが、これまではあまり深くそれらの書籍を読んでいなかった。何よりも、自分自身が社会の規範的な側面に分け入って思想的な探究をするというような段階に至っていなかったと言った方が正確かもしれない。

 

それが今、実践霊性学や実践美学の探究を始めたことに現れているように、この現実世界の課題と真摯に対峙し、実践的な思想的探究を行い始めている自分がいる。批判理論を学ぶ時期がようやく自分に訪れたのだと知る。

 

アテネ旅行までに届く14冊のロイ·バスカー関連の書籍もそうした時期の訪れを伝えている。手持ちのハーバマスの書籍に飽き足らず、来月はさらに何冊かハーバマスの書籍を購入しようと思う。フローニンゲン:2020/7/5(日)10:46

 

5962. 同様の体験と問題意識を持った人々:断絶の時代を乗り越えて

 

時刻は昼の12時半を迎え、朝から降っていた雨がひと段落した。天気予報を見ると、ここからはもう雨が降らないらしい。

 

今日の午前中は、いつものように創作活動と読書を往復していた。ここのところはこの往復運動がより良い関係になっており、お互いがお互いに良い影響を与えていることを実感する。この往復運動の中にいると、いつの間にか1日が終わりに近づいているという感じなのだ。

 

午前中の読書においては、引き続きルーマニアの社会心理学者セルジュ·モスコヴィッシの“The Age of the Crowd: A Historical Treatise on Mass Psychology(1985)”を読み進めたり、ハーバマスやマルクーゼの書籍をパラパラと眺めていた。

 

そのような形で読書を進めていると、自分が共鳴する思想家や芸術家にはある共通点があることに気づいた。彼らの生い立ちや活動の背景にあるコンテクストを眺めてみると、彼らは人生のどこかで——多くの場合には幼少期や青年期の頃——、社会的な阻害、ないしは虐げられた体験をしているということだった。

 

そして彼らは、そうした体験を個人的な憤りに留めるのではなく、社会の風潮や制度的な歪みに対する憤りとして、それを是正することに尽力する形で自らの思想を育んだり、芸術作品の創作に邁進する共通点があることに気づいたのである。端的には、彼らは社会が課した抑圧的な体験をもとに、社会的正義や公平さ、さらには社会的な幸福の実現へ向けて自らの活動に専心したという特徴がある。

 

そうした彼らの共通点と自分自身を自ずから重ねてしまう自分がいる。おそらく彼らと共通する体験と問題意識があるからこそ、今の自分は日々の探究や実践を行っているのだろう。

 

そのようなことを考えた後に、大企業が支配的な力を持つ金融資本主義が席巻するこの現代社会の中においては、人間の商品化は生まれた時から始まっているのではないかと思った。いや下手をすると、生まれる前から始まっていると言えるかもしれない——例:出生前の胎児の教育など——。

 

大企業を中心に据えた大規模な商品とサービスの流通とそれに付随する大規模な広告宣伝によって、人は生まれながらにして商品化の道を歩んでいるのではないかと思われるような現状が見えてくる。このテーマについて考えていると、ハーバマスが提起していた物質の生成と意味の生成が分断されてしまった現代社会についても考えを巡らさざるを得ない。

 

私たちはいつの間にか、物質と意味を分離させ、物質は物質として形骸化の道を辿り、意味は意味として形骸化の道を辿っているように思えてならない。つまり、物質はそれが大量に生産されることによって、ますます物質的な価値を希薄化させ、意味の領域に関しては、意味が物質世界に還元される·吸引されることによって、意味の世界がより貧弱なものになって来てしまっているのではないかということだ。

 

ふと、書斎の机の上に置かれているカレンダーに目を向けた。このカレンダーは1つの物質なのだが、本来はそこに文化的な意味が内包されていたはずである。ところがそれは今やもう、文化的に豊かなものを伝える機能を喪失し、単に日付を伝える存在に成り下がってしまっている。ここにも物質と意味の断絶化を見ることができる。

 

現代という時代は本当に分断の時代なのだと思う。これまで自分が探究してきた成人発達理論やインテグラル理論、そして現在の最大の関心事項である実践霊性学や実践美学は、そうした断絶を乗り越えるために活用されていく必要がある。フローニンゲン:2020/7/5(日)12:57

 

5963. キャロル・ギリガンの言葉より:知ること・実践すること・在ること

 

時刻は午後7時半に近づいて来ている。今日は小雨が断続的に降る1日であったが、夕方のこの時間帯は雨が止み、西の空には夕日が見える。明日も午前中には雨が降るようだが、夕方からは天気が回復するようなので、それを見計って近所のスーパーに買い物に行こうかと思う。

 

午後に仮眠を取っている最中に見たビジョンの断片を覚えている。ビジョンの中で私は、前職時代に部署は異なるがお世話になっていた方が運転する車の中にいた。

 

その方は、新車を購入したらしく、車内は綺麗であり、新車の香りが漂ってくるかのようだった。私たちがどこに向かっているのかわらかなかったが、道は一本道であり、通りの両脇にはポプラの木が植えられていて、木々の葉からは木漏れ日が漏れていた。

 

その方はその道に慣れているらしく、手放し運転をしていたのだが、もし何かが道路に突然飛び出して来たら大丈夫なのだろうかと心配になっていたことを覚えている。そのようなビジョンを見た後に、午後からの活動に取り掛かり始めた。

 

ここのところは自分の関心領域に関連した哲学書を読むことが多く、そこでふと、発達心理学者のキャロル·ギリガンの言葉を思い出した。ギリガンはかつて博士課程の教え子に対して、「どんな探究領域·実践領域も突き詰めていけば、必ず哲学的な領域に触れる」という類の言葉かけをしていたそうだ。それは至言である。今の私も、人間発達や芸術に関して、様々な領域の哲学思想を学びながらその理解を深め、この社会に関与していく実践の道を見出そうとしている。

 

知ること、実践すること、在ること。それらの繋がりについて改めて考えている。

 

本日偶然知ったのだが、ヘブライ語においては、knowingとdoingに違いがないとのことだった。知ることも1つの実践であることに他ならず、そこには言行一致の精神を示唆するものがあるように思える。さらには、何か行動をしなければ本当に知ることなどできないはしないことも示しているように思えてくる。

 

知ることは実践することであり、実践することは知ることだ。それは実践領域に対して新たなことを知ることだけを意味しているのではなく、実践をする自己及び自己を取り巻く社会を知ることも意味している。そして新たに開示された自己と社会の側面をもとに、再び実践に従事していく。そのような円環運動を見る。

 

また、知ることと実践することは在ることを変えていく。実践をし、認識が変われば、存在も変わるのだ。ここにもまた認識論と存在論の相互依存的な関係を見て取ることができる。

 

知ることと実践することは在ることを変え、在ることが変われば知ることと実践が変わっていく。とても面白い関係がここにある。

 

こうした新たな認識が生まれたのも、今この瞬間に書くという実践をしたからであって、書くという実践を通じて新たな認識世界が開かれ、その認識世界に自己を新たに置いたからなのだろう——存在がそこに導かれたという感覚の方が正確か——。

 

夕方の静かな世界を眺めながら、平穏な心で今日を締めくくることができそうだ。フローニンゲン:2020/7/5(日)19:35

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