No.884 曇り空の向こうの太陽_The Sun Beyond a Cloudy Sky
本日の言葉
Patience and tolerance should not be considered a sign of weakness and surrender, but rather a sign of strength, the strength that comes from the inner firmness. Tenzin Gyatso
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本日生まれた9曲
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タイトル一覧
5956. 今朝方の夢
5957.「忘れたことと忘れさせられたこと 」:社会実践性を希求する実践霊性学・実践美学・成人発達理論・インテグラル理論
5958. コロナの蔓延をきっかけに群衆化を強める現代人
5959. 「意識」という言葉より:アートの治癒的·変容的·解放的·コミュニケーション的側面の探究
5956. 今朝方の夢
時刻は午前7時を迎えた。今朝は起床した瞬間から雨音が聞こえて来た。今もこの時間帯には小雨が降っており、外はとても肌寒い。
天気予報を見ると、今日から3日間は小雨が伴う日が続く。気温に関しても、ここからの1週間は、最高気温が18度ほどの日が続き、まだまだ寒さを感じる日々を過ごすことになるだろう。
実際に今は冬の時期と同じ格好をして室内で過ごしている。かろうじて靴下を履く必要がないぐらいだろうか。
今朝方は少しばかり調べ物をしていた。1つには哲学者のロイ·バスカーの批判的実在論に関するものであり、もう一つはSQ (spiritual intelligence)に関するものだ。とりわけ後者については、改めて関連書籍を読んでおこうと思い、8月に購入する予定の文献リストに3冊ほどSQ関連の書籍を加えておいた。
ここからしばらくは、批判的実在論の理解を深めるためにバスカーの書籍を読み、批判理論についての理解を深めるためにハーバマスの書籍を読んでいこうと思う。それ以外にも、実践美学に関しては今道先生の書籍を、実践霊性学に関しては上述のSQの書籍やシュタイナーの書籍を読み進めていこうと思う。
それでは今朝方の夢を振り返り、本日の活動に入っていきたい。今日は創作活動や読書だけではなく、「一瞬一生の会」の発展学習教材として音声ファイルをいくつか作っていこうと思う。
夢の中で私は、地元の国道沿いの山道を歩いていた。隣には2人の友人(NK & HY)がいて、彼らと話をしながら山道を上っていた。
1人の友人(NK)がバイクを押しながら山道を上っていて、話の話題はそのバイクのことになった。それは結構な値段のバイクらしく、1つ1つの部品にこだわりがあるそうだ。
そこで私は、そのバイクに乗ってみたいという思いが湧いて来たのと、歩いてこの山道を上ることが大変になってきたので、友人にバイクを貸してほしいとお願いした。それは高価なバイクだったから、友人も一瞬戸惑っていたようだったが、結局バイクを貸してくれることになった。
ところが私は考えを改め、やはりバイクには乗らず、引き続き歩いてこの山道を上っていくことにした。そこで夢の場面が変わった。
次の夢の場面では、私は芝でできたサッカーグラウンドの上にいた。その芝が人工芝なのか天然芝なのかはわからないが、サッカーに適した環境であることは間違いなかった。
そこで私は、今でも活躍する日本人の天才的なサッカー選手と一緒にボールを蹴っていた。その選手はとても温厚で、性格が良いことでも知られていて、私に対してもとても優しかった。
しばらくパス交換をした後に、私はその選手から教わったトラップの仕方やパスの仕方を友人にも教えようと思った。すると、私の体は小学生ぐらいの時のものになり、周りを見ると、小学校6年生の時のクラスメートがたくさんいた。どうやらこれから体育の授業が始まるようであり、そこではサッカーをすることになっているようだった。
クラスメートは3つのチームに分かれており、私は同じチームの女子たちにトラップの仕方を教えることにした。彼女たちは、ボールを止める際にボールに向かって行ってしまう傾向があり、それだと逆にボールを弾いてしまうので、トラップの基本はボールに乗っている力と同じ向きに足を少し引くようなイメージでボールを止めることだと伝え、それを実演してみせることにした。
すると、彼女たちは徐々にうまくボールを止めることができるようになってきた。そこからしばらく練習を続けていると、自然と夢の場面が変わった。
今朝はその他にも夢を見ていたような気がする。このように毎日夢について思い返していると、夢から学ばされることや考えさせられることが多々ある。また、夢の振り返りは紛れもなく自己発見と精神の治癒と変容につながっていることを実感する。
ちょうど数日前から見始めたアメリカのテレビドラマ“Falling Water”は夢を題材にしている。そこでは1つの同じ夢を複数人が共有して見ているという設定になっており、このテーマは以前に私も考えていたことであり、大変興味深く視聴を続けている。
自分の夢を誰かと共有している可能性や、誰かが自分の夢を見ている可能性、また自分が実は誰かの夢の世界の中にいる可能性など、夢に関する関心は尽きない。フローニンゲン:2020/7/4(土)07:28
5957.「忘れたことと忘れさせられたこと 」:社会実践性を希求する実践霊性学・ 実践美学・成人発達理論・インテグラル理論
今、時刻は正午に向かっている。今朝は小雨が降ったり止んだりを繰り返していて、今は小雨が病んでいる。今朝はとりわけ気温が低く、今も引き続き暖かい格好をして、温かいコーヒーを飲んでいる。
午前中にふと、評論家の江藤淳の書籍の中に、「忘れたことと忘れさせられたこと 」というものがあることを知った。この書籍のタイトルから、色々と考えさせられることがあった。
1つとして、今の私の関心事項である霊性や美に関して、現代人はそれらを忘れてしまったという側面があるのと同時に、現代社会の風潮や仕組みによって「忘れさせられてしまった」という側面もあるのではないだろうか、という考えが浮かんだ。
そもそも、霊性や美というものが存在していることに気づき、それらに対する理解を育みながら、自分自身の霊性や美というものを涵養していくことは大事なのだが、それらがそれまでなぜ見えなかったのかという問題意識を持つことと同時に、ひょっとしたらそれらが見えなくさせられてしまっていた可能性はないかを考えてみることが重要のように思える。
とりわけ現代社会に蔓延する風潮や仕組みは、霊性や美というものを抑圧・隠蔽する傾向にあり、むしろそれらを抑圧・隠蔽することによって自身の風潮や仕組みを肥大化させているようにすら思える。現代の風潮や仕組みによって抑圧・隠蔽されてしまっているものの中にある価値を再度見直すことに加えて、そうした抑圧・隠蔽を働く現代の病理を見つめていく慧眼のようなものを持つことが私たちに要求されているのではないだろうか。
成人発達理論にせよ、インテグラル理論せよ、それは私たちの認識世界を開くという認識論的な価値があるのと同時に、これまで見過ごしていたものたちの存在を認め、それらに存在場所を与えるという存在論的な価値もある。
それらの理論を学ぶことを通じて、社会の盲点になっている事柄を見抜き、それが内包する価値を検証していくような姿勢を育んでいくことは大切だろう。そして、それまで存在が忘れ去られてしまっていた存在を見つめることを通して、そうした存在を抑圧・隠蔽し、疎外させるこの現代社会の風潮や仕組みを吟味していくことが、社会をより良き方向に発達させていくことに不可欠なように思える。
そのように考えてみると、成人発達理論やインテグラル理論というのは、極めて社会実践的な理論であり、もしそうした役割を骨抜きにする形でそれらを学習するのであれば、それらの理論の真価を捉え損ねているように思える。
それらの理論を通じて単に自閉的に自己理解だけを深めることは、ある意味自我の肥大化を促すことであり、ピアジェが述べたように、発達の本質とは自我中心性の縮小なのであるから、それらの理論が本来目指すべきものから逸脱していることを示唆している。
今、私が探究を進めている実践霊性学や実践美学というものも、そこにあえて私が「実践」という言葉を付したのも——後者は美学者の今道友信先生の言葉だが——、霊性学や美学というものを社会の課題に紐付け、現代において忘れてしまっている、あるいは忘れさせられてしまっている人間本質の霊性や美というものを、社会実践的な形で再発見し、それらを育む道を提示していきたいという自分の問題意識があるからなのだろう。
これまでの自分が専門にしてきた成人発達理論やインテグラル理論というものに対しても、そうした問題意識に根ざした形で探究と実践をこれからも続けていきたい。フローニンゲン:2020/7/4(土)11:54
5958. コロナの蔓延をきっかけに群衆化を強める現代人
時刻はまもなく正午を迎える。正午前に、もう1つだけ日記を書き留めておこうと思う。
午前中に評論家の江藤淳について調べていたところ、まだ彼の著作の中で読んでいないものがたくさんあり、この秋に日本に一時帰国した際には何冊か彼の著作を読んでみようと思った。
文体について彼が書いた書籍の中で、「私たちの行動は一種の言葉であり、文体は書き表された行動の軌跡である」という言葉が残されていて、とても興味深く思った。
以前より、文体にはその人の人柄だけではなく、その人の思想や生き様が滲み出ると感じていたのだが、文体が行動の軌跡であるという観点は私にはなかった。自分自身の内側の声を聞き、それをもとにした言葉を紡ぎ出すことそのものが新しい価値の創造であるという認識を持ち、それは1つの立派な行動であり、実践なのだということを思った。
ここ数日間は、ロイ·バスカーの思想に触れた専門書や論文を読み進めることに並行して、ルーマニアの社会心理学者セルジュ·モスコヴィッシの“The Age of the Crowd: A Historical Treatise on Mass Psychology(1985)”という書籍を読み進めている。こちらの書籍は400ページ近くに及ぶ大著なのだが、群衆心理学を探究する上で必読の書籍だと思う。
この書籍の中では、群衆心理学の領域を切り開いたフランスの心理学者かつ社会学者グスタフ·ル·ボンの仕事が何度も引用されている。ル·ボンの指摘の中で、コロナが蔓延する現代社会の人々の姿を考察する上で重要なものがいくつもある。
思うに、今回のコロナの一件は、人々を別種の群衆に変えてしまったのではないかという考えが芽生える。あるいは、群衆性をより強めた形で群衆化したという見方もできるかもしれない。
ル·ボンの指摘の中で、個人は群衆の一部になった時、個人として発揮できていた内省能力や思考能力を発揮することがうまくできなくなり、より原始的かつ感情レベルで思考や行動をするというものがある。これは、発達心理学者のカート·フィッシャーが述べる、私たちの知性の文脈(コンテクスト)依存性の話とも繋がる。
今回のコロナの一件は、地球規模で私たちを取り巻く生存状況のコンテクストを変えてしまい、それが引き金となって、別種の群衆化、あるいは群集性の強化がなされ、多くの人たちが感情や欲求レベルの次元で思考や行動をするように方向づけられているように思えてしまう。
この秋に日本に一時帰国することになっているのだが、毎年定点観測的に日本の状況を見ていると、人々の群衆化が進み、人間の機械化ないしはゾンビ化が進行しているような不穏な動きを肌で感じる。
ル·ボンは、「群衆というのは、意識的人格を喪失し、彼らを支配する者や社会の提言に盲目的であり、まるで暗示を掛けられたかのように行動するような集合体である」という類の定義をしているのだが、今回のコロナの一件で、こうした群衆化の問題がより浮き彫りになって来ているのではないかと思うのは私だけだろうか。フローニンゲン:2020/7/4(土)12:16
5959. 「意識」という言葉より:アートの治癒的·変容的·解放的·コミュニケーション的側面の探究
時刻は午後7時を迎えた。今再び小雨が降り始めた。
今日は1日を通してすごぶる寒く、室内では冬の時期と同じ格好をして過ごしていた。今日から1週間は同じような気温になるようであり、寒さ対策をしようと思う。
先ほどふと、「意識」の「識」という文字に着目していた。そこには「言」と「音」という文字を見出すことができる。そこからふと、私たちの意識というのは言葉と音を本質にしているのではないかと思ったのである。
そうした考えが芽生えてみると、いろいろなことに気づく。意識と密接に関わった心身の不調は、内的な言葉と音の不調と関係しており、意識の発達は内的な言葉と音の発達と関係している。そのような仮説的な考えが芽生え、このテーマについてはここからしばらく温めておこうと思った。
時期が来れば、このテーマに関して新たな洞察がやって来るだろう。そうした思わぬ洞察がやって来るためには、寝かせることと待つことが大切だ。
夕方に、改めてヨルゲン·ハーバマスの仕事を辿ってみようと思った。今月から来月にかけてはロイ·バスカーの仕事を集中的に辿り、翌月以降からは手持ちのハーバマスの書籍を読み返すと共に、新たな書籍を数冊ほど購入する予定である。
1つハーバマスの観点で興味深いのは、芸術と社会および社会実践を紐づけた発想を持っている点である。ハーバマスは、そうした実践を表す言葉として、「コミュニケーション的美学(communicative aesthetics)」というものを提唱している。これは今道友信先生が提唱した実践美学と関連するものがあるかもしれない。そうした観点において、ハーバマスの美学思想にも探究の幅を広げていこうと思う。
アートが持つ治癒的(therapeutic)·変容的(transformative)·解放的(emancipative)·コミュニケーション的(communicative)側面に焦点を当てた探究をしていく。このテーマは、いつか博士論文のような形で考えをまとめたいぐらいだ。ハーバマスの実践的な美学思想の探究に加えて、久しぶりにデューイが芸術思想についてまとめた“Art as Experience (1934)”を再度読み返そうと思う。
今日はこれから、あと一曲ほど曲を作ろう。小雨の降る外の景色を眺めながら、内側に湧いて来た内的感覚を曲の形にする。
創作活動に伴う喜びと苦悩について、ちょうど先日友人が興味深いブログを書いていた。新たなものを生み出すことができたというある種の全能感と、納得のいくものを作ることができないという不能感の双方が創作過程に存在していることを指摘した記事だった。
こうした対極的な感情を揺れ動きながら創作に励むことは、発達プロセスを歩むことに他ならないと改めて思わされたのである。つまり創作活動においては、自己を肥大化させる方向性と自我の中心性を縮小させるという対極的な動きが伴っているということである。
創作活動の中に自己を発達させる変容的な作用があるというのは、このあたりに要因があるのではないかと思った次第である。上述のように、アートの持つ変容作用は注目をしている観点の1つであるため、引き続き創作活動を継続していきながら探究を進めていく。フローニンゲン:2020/7/4(土)19:34