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5952-5955: アートの国オランダからの便り 2020年7月3日(金)

No.871 空の禅_Zen of the Sky

本日の言葉

Every morning, our first thought should be a wish to devote the day to the good of all living beings. Dilgo Khyentse Rinpoche

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5952. 今朝方の夢

5953. 実践霊性学と実践美学の書籍の出版に向けて

5954. 社会科学に潜む別種の「フラットランド化」:「発達は一概に善ではない」という主張に留まることの問題

5955. 認識論的・存在論的な意味での変容と解放をもたらす芸術作品

5952. 今朝方の夢

時刻は午前6時を迎えた。ここ数日間は、起床直後の空は雲に覆われていて、朝日を拝むことができなかったが、今日は朝日を拝むことができている。

今、黄金色に輝く朝日が赤レンガの家々に降り注いでいる。その光はとても優しく、温かそうでもあり、小鳥たちや街路樹が喜んでいるかのようだ。

今日もまた肌寒い気温なのだが、ここから1週間も気温が高くなる様子は一切見られず、今年は本当に冷夏のようだ。そう言えば、直近の冬が暖かく感じ、極端なマイナスの世界になる日がほとんどなかったように思う。暖冬の後には冷夏がやってくるのだろうか。暖冬であれば冬が過ごしやすく、冷夏であれば夏が過ごしやすいため、私としてはその方が有り難い。

今日は午後に、街の中心部のオーガニックスーパーに立ち寄り、必要なものを購入しよう。それでは、今朝方の夢について早速振り返りたい。

夢の中で私は、父と会話をしていた。会話の流れで、どういうわけか一緒にテレビゲームをしようという話になった。厳密には、父がプレーするのを私が横で見守り、必要な時に助言をするという形でゲームをしようということになったのである。

そのゲームはとても懐かしく、マリオブラザーズのようなゲームだった。ゲームの進行過程においては、立体感のあまりない形で進んでいくのだが、ボスと対戦するときだけ3Dになり、格闘ゲームのような形になった。

最初父はキャラクターの操作に慣れておらず、思わず笑ってしまうような形で、キャラクターが3回ほど死んでしまった。1回目は最初に現れた小さなノコノコのような敵に体当たりしてしまって死に、2回目はノコノコを踏もうと思ってジャンプしたのはいいものの、着地地点を誤り、ノコノコの目の前に着地してしまい、ノコノコにぶつかってしまい死亡した。3回目は、最初のノコノコを倒した後に、勢いよく再びジャンプをして、大きな溝を越えようとしたのだが、そこでも距離感を間違えてしまい、勢いよく溝の中に落ちていってしまった。

そのような微笑ましい事柄が3回連続続いたのだが、そこから父は徐々に操作に慣れていった。そして驚くべきことに、ゲーム開始からわずか2時間で、最後のボスを倒したのである。

しかも私は、ゲームの難易度を最大に設定しており、ボスはどれもすこぶる強かった。それであるにもかかわらず、まさかそんなに早くゲームをクリアするとは思ってもみなかった。

そのような短時間でゲームをクリアした父に対して誇らしく思っていたところ、前職時代の先輩の男女が2人その場に現れた。2人に何をしているのかと尋ねられたので、ちょうど今あるゲームを父がクリアしたところだと伝えた。

2人もそのゲームについて知っていたようであり、敵の強さを最大にして、初めてそのゲームをプレーしたにもかかわらず、2時間でクリアしたことを2人も驚いていたようだった。父のスマホにはボスを倒した時の写真やクリアした瞬間の写真などが収められており、父は嬉しそうにそれらの写真を2人に見せ始めた。

その時の父はとてもラフな格好をしていて、2人の先輩たちはこれから仕事のようであり、身なりがしっかりしていたので、格好が対照的であった。父の写真を見ている最中に、女性の先輩の方が、チラッと父のお腹を見た。父のお腹はTシャツ越しに膨らんでいて、それをその先輩は見たようだった。

その後、そう言えば私もこれからオフィスで仕事があると思い出し、そこで父と別れ、2人の先輩と一緒にオフィスのフロアに向かった。オフィスの1階でエレベーターを待ち、それが到着して中に乗り、目的階のボタンを押そうと思ったら、それが見当たらなかった。エレベーターは、3階まではそれぞれの階で止まり、そこからいくつかの階が飛んでいて、次に止まり始めるのは7階からだった。

オフィスは5階にあるため、3階まで行ってそこから階段を使おうと思った。すると、2人の先輩は最初から階段を使っていくと言い始め、結局エレベーターを使ったのは私だけだった。

3階で到着し、そこから階段を使って上の階に登り始めると、4階の踊り場で、オフィスで隣に座っている女性の先輩と遭遇した。その方とはどうやら昨日口論をしていたらしいのだが、私はすっかりそのことを忘れていて、いつもと同じように挨拶をした。

するとその先輩は、昨日の出来事を綺麗さっぱり忘れている私に驚き、逆にそれはとても清々しいと笑って挨拶を返してくれた。この件でまた関係性が深まり、後でまた席に戻って話をしようということになり、その場はそこで別れた。

オフィスに到着すると、部屋の奥の方の一角がとても賑やかだった。見ると、先ほどの2人の先輩がワインを飲みながら仕事をしているようであり、ほろ酔い加減で仕事を進めていた。その姿はとても微笑ましかったが、他の方々はかなり真剣な表情で仕事に向かっていたので、その点だけは心配だった。

いざ自分の席に着こうとすると、私の席の向かいには本棚がずらりと並べてあって、本棚の目の前の通路で同期が電話をしていた。彼は私よりも幾分年上であり、イギリス圏の大学院を卒業していた。その彼がイギリス英語で他国のオフィスのメンバーと会話をしている姿を見た。

私は席につき、いざ仕事を始めようとしたが、特にその日は仕事がなかったので、経済誌でも読もうかと思って、足元にあったビニールに包まれた未開封の経済誌を手に取った。ビニールの封を開け、経済誌を取り出していざ読もうと思ったら、先ほどの2人の先輩が私のところにやってきて、昨日提出した数学の問題の解答について質問をしてきた。

女性の先輩は、私の計算と文字の緻密さに驚いているようだった。一方、男性の先輩も私の解答のアプローチは正しそうだと認めながらも、変数の値の範囲に少し不備があるのではないかと指摘してきた。それを受けて再度解答を眺めてみると、確かに変数の値の範囲をもう少しきちんと場合分けする必要があると思い、すぐに修正する旨を伝えた。

今朝方はその他にも、小中学校時代の親友(YU)が現れ、彼と車を運転しながらどこかに向かっている夢があった。入り組んだ山道を車で走っており、注意しながらハンドルを握っていたことを覚えている。実際には、運転していたのは私でも彼でもなく、別の誰かであり、私は運転しているその人物の心身と同一化する形で車を操作していた。フローニンゲン:2020/7/3(金)06:45

5953. 実践霊性学と実践美学の書籍の出版に向けて

時刻は午前7時にゆっくりと近づいている。今朝は肌寒く、長ズボンと分厚い長袖を着て午前中を過ごすことにした。

昨夜ふと、自分の中で新しい探究が始まっており、それに伴っていくつか伝えたい事柄が芽生えてきているので、近く新しい書籍を執筆してみようかと思った。それは実践霊性学と実践美学に関する書籍であり、分かりやすさを重視した実用書を想定している。

どのような趣旨の書籍なのか、どのような形式の書籍なのかを含めて、色々とアイデアが出てきたので、それをワードに書き留めていた。どこかのタイミングで、そのメモをもとに企画書を書いてみようかと思う。

新しい書籍の執筆に向けての意思が芽生えたところで、ふとソファに積み上げられている書籍の山を眺めた時、美学書のコーナーに目が行った。興味深いタイトルの書籍を手に取って眺めてみると、それらはフローニンゲンの街の古書店ISISで今から2年前に購入した書籍のようだった。

購入した日付を見ると、それはアムステルダムで開催されたジャン·ピアジェ学会に参加する前のようだった。私はこの学会で研究成果を発表したことを1つの区切りとして学術機関に所属することから離れた。そうした行動を促す新たな関心の芽生えはすでにその学会の前からあったということがわかる。

手持ちの数冊の美学書を改めて読み進めていこうと思う。また来月には、私が師事をしていたオットー·ラスキー博士の師匠でもあったテオドール·アドルノが美学について論じた“Aesthetics”と“Aesthetic Theory”を購入し、ラスキー博士が論文の中でよく言及していたハーバート·マルクーゼが執筆した“The Aesthetic Dimension: Toward a Critique of Marxist Aesthetics”という美学書も購入したい。

その他にも、ロイ·バスカーが提唱した批判的実在論をもとにした興味深い美学書“The Space that Separates: A Realist Theory of Art (Routledge Studies in Critical Realism)”というものを見つけ、アドルノの美学について解説した“Adorno's Aesthetic Theory: The Redemption of Illusion”、“The Fleeting Promise of Art: Adorno's Aesthetic Theory Revisited”、“Adorno and Art: Aesthetic Theory Contra Critical Theory”の3冊と合わせて購入したい。

それと美学に関する議論の全体像を知りたいため、分量としては多いが、網羅的な“Aesthetics: A Comprehensive Anthology”という書籍も購入する。それらの書籍に合わせてアーネスト·ベッカーの書籍を5冊ほど、経済·社会に関するシュタイナーの思想を扱った書籍を4冊ほど購入しようかと思う。9月には、スロベニアの哲学者スラヴォイ·ジジェクの書籍を何冊か購入しようと考えており、今後の読書のリストはさらに続く。

昨日改めて、読書というのはやはりマインドにとっての刺激と養分をもたらすと思った。もちろん摂取のし過ぎは食べ物と同様に負の影響を与えうるが、適度な読書は滋養をもたらす。

読書を通じて、自分のマインド及びあり方を慈しみながら養っていこう。そのようなことを昨夜改めて思って就寝をした。フローニンゲン:2020/7/3(金)07:08

5954. 社会科学に潜む別種の「フラットランド化」:「発達は一概に善ではない」 という主張に留まることの問題

時刻は午前11時を迎えたが、依然として肌寒い。今日は厚手の長袖に長ズボンを履いて過ごしている。先ほど、昨日考えていたテーマに対してまた少し考えていた。

イギリスの哲学者デイヴィッド·ヒュームは、「である(is)」から「べきである(ought)」を導き出すことはできないと述べたが、それではそもそも「べきである」という主張はどこから来るのだろうか?ということについて考えていた。

自宅の目の前の通りには美しい花々が咲いていて、それらを見て私は「あれらの花々は美しい(Those flowers are beautiful)」と思った。そして、「私はあれらの花々を大切にするべきだ(I ought to value or protect them)」という思いが芽生えた。

そこから、私たちは何かしらの「である」ことからしか「べきである」という主張を導き出すことはできないのではないだろうかと思ったのである——「である」の中には、「あれらの花々には生命がある(Those flowers have life)」という「is」以外の一般動詞形で表現される事実も含まれる——。

そうした疑問と同様の問題意識を哲学者のロイ·バスカーも持ち合わせており、バスカーはまさにヒュームのそうした発想を否定する形で、「説明的批判(explanatory critique)」という方法を用いて、「である」から「べきである」を導く道を見出していった。この方法は、発達科学の発見事項に留まらず、霊性学や美学に関する事柄にも適用することが可能であろうし、適用するべきだと思う。そうでなければ、科学的な発見事実が実践につながっていかず、両者が分断されたままになってしまう。

ヒュームの事実と価値を分けるべきだという主張は、どこかデカルト的な二分法的思考のようにも見えてくる。バスカーが指摘するように、とりわけ社会科学の対象は内在的に価値負荷的(value-laden)であるという点を見落としてはならない。

社会科学の価値負荷的な特性を見逃してしまうと、例えば、Aという人間が何者かによって殺された場合において、本来は「Aは殺された」と述べるべきところを「Aは息をすることを止めた(あるいは心臓を停止させた)」というような形で記述されることに留まり、殺人に対して、法律学(刑法)、心理学、社会学といった社会科学の観点から議論する余地が喪失してしまい、生物学的な観点からしか議論ができなくなってしまう。

端的には、社会科学から「べきである」という観点を奪ってしまうことは、別種の「フラットランド化」なのではないかという問題意識がある。とりわけ発達理論は、人間や社会の健全な発達を実現することを目指し、解放をもたらすことを希求しているものであるから、尚更そうしたフラットランド化現象を乗り越えていく必要があるだろう。発見事項から規範的要素を汲み取ること及び作り出していくことを怠れば、健全な発達や解放をもたらす実践を導くことなどできない。

発達理論のコミュニティーの一部の中では、科学的な発見事実と価値を分けるべきであり、発見事実に対して価値的評価を下してはならないという風潮が見られる。これは、発見事実と価値をごた混ぜにするコミュニティーの中に蔓延している発想(例:「発達は善である」という発想)よりも成熟していることは確かであり、事実と価値を分けるべきなのだが、そこで議論をやめてはならない(例:「発達は一概に善ではない」という主張をするだけで終わってしまう発想)。重要なことは、事実と価値の対話であり、発見事実からいかような価値や評価を下すことが求められるのかを議論しなければ、何らの救いも解放も私たちにもたらされないだろう。

発達理論が私たちにもたらしてくれる叡智を実践につなげていくためには、「発達は善である」という短絡的な発想を超え、「発達は一概には善ではなく、事実と価値を分けるべきである」というべき論をさらに対象化させ、それを乗り越える形で、より高次元のべき論を模索していくことが要求されるだろう。

そして、新たな形で生み出されたべき論が、どのような世界観や価値観に立脚して生み出されたものなのか、それを生み出す社会文化的なコンテクストを含めて、絶えず自覚的であるという姿勢が求められる。そのようなことを考えてみると、発達について議論するというのは、絶えず内省的(reflective)であり続ける必要があり、同時にそうした内省に耐え続けるという意味で「内省的耐性(reflective patience)」のようなものが求められるように思う。自らの思考を他者や社会に無防備に委ね、自律的思考ができなくなっている現代人にとっては、こうした耐性を獲得することは容易でないのは確かだが。フローニンゲン:2020/7/3(金)11:20

5955. 認識論的・存在論的な意味での変容と解放をもたらす芸術作品

時刻は午後7時を迎えた。今はうっすらとした雲が空を覆っている。そのため夕日を拝むことはできないが、穏やかさは継続して漂っている。

夕食を作っている最中にふと、私たちの存在を超越した対象を取り扱う芸術作品は、認識論的にも存在論的にも意義があるのではないかと思った。認識論の観点として、そうした芸術作品は私たちの認識を拡張するという点に意義がある。その作品が存在していなければ気付けなかった認識世界や事柄があれば、まさにその点に認識論的な意義がある。

また、存在論の観点として、私たちの存在を超越した対象を取り扱う芸術作品は、そうした存在者に居場所を与えることによって、私たち自身も自己の居場所を確保·再確認しうるという点に意義がある。言い換えれば、そもそもそうした作品のおかげで、気付けなかった存在者に存在場所を与え、それが自分の存在に適切な場所を与え直したり、今自分がいる場所とは違う場所を提供しうるという点に存在論的な意義があるとふと思った。

超越的な存在を取り上げた芸術作品を通じて、そうした対象を認識することはその存在の居場所を把握することにもつながる。そのようなことを考えていると、さらにふと、何かを認識するというのはその存在を把握するということであり、そもそもその存在が存在している居場所があるということがさらなる前提として存在していることに気づいた。

端的には、そもそも認識に先立つ形でその存在が存在しているということから、存在論は認識論に先立っていると言えるかもしれない。これはまさに、バスカーの「存在論は認識論を決定付ける」という主張の1つの意味に近いものなのかもしれない。

午後に、現在開催中の「一瞬一生の会」の受講者の方々が執筆しているリフレクションジャーナルを読み進めていた。いつも私は皆さんのジャーナルから色々なことを学ばせてもらっており、そこから新しい知識や観点を得て、自分の思考を深める機会をいただいている。

本日読んでいたジャーナルの中で、「改心」と「回心」の違いに関する記事が興味深かった。日本語では通常「改心」という漢字がよく用いられるが、キリスト教では新約聖書のギリシャ語「メタノイア」に対して「回心」という漢字を当てることによって、そこに特別な意味合いを込めようとしているとのことだった。

前者の「改心」というのは、悪事や間違いに対して心を改めることを意味している。一方、後者の「回心」は、宗教体験の意味が含まれており、神との関係を通して本来の在り方へと転回するという意味があるそうだ。この記述を見たときになるほどと思った。

上述の話と関連づければ、自己を超えた存在を取り上げる芸術作品を通じて、そうした存在に思いを馳せ、それらと自分との関係性を内省することで、自己が本来の在り方に転回していくことにつながるのではないかと思った。そこには自己発見があるだろう。そうした自己発見は、多分に変容的であり、多分に解放的だろう。

そうしたことから、超越的な存在者を取り上げる芸術作品には、変容的な作用や解放的な作用が内包されており、それらの作用は認識論的かつ存在論的なものなのだと思う。フローニンゲン:2020/7/3(金)19:20

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