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5934-5937: アートの国オランダからの便り 2020年6月27日(土)


No.812 根源の甘み_Sweetness of the Source

本日の言葉

Thoughts come and go, come and go. You must not attach yourselves to this coming and going. Seung Sahn

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タイトル一覧

5934. 実践霊性学・インドの修行者サドゥ・感情や観念の沸騰

5935. 秋の講演会と一時帰国に向けて

5936. 今朝方の印象的な夢

5937. 現代の不穏なリズムと自己に固有のリズム

5934. 実践霊性学・インドの修行者サドゥ・感情や観念の沸騰

今朝方はゆったりと午前5時に起床した。起床した私の目に飛び込んできたのは、赤紫色に輝く朝焼けだった。その美しさに思わず息を呑み、しばらく寝室の窓から朝焼けを眺めていた。

5時半を迎えた今も朝焼けの名残を残しているが、少々雨雲が見える。雨雲が見えながらにして朝日が照っているという不思議な状態だ。

天気予報を確認すると、今から数時間後に雷を伴う雨が降り始めるようだ。雰囲気からして、その時の雨は激しそうである。

今朝方にふと、「実践霊性学」なるものについて考えていた。倫理学や美学を実践と関連づけて、実践倫理学や実践美学として探究をしていくこと。どちらも共に敬愛する今道友信先生が提唱していたものであり、現在の関心の幾らかはそれらの実践学問に向かっている。

そしてもう1つ自分が関心を持っているのが、実践霊性学とでも呼べるものだ。こちらについては、今朝方ふと言葉が降ってきたものであり、自分が勝手に名付けたものに過ぎない。だが、霊性というものを単に学術的に考察していくだけではなく、それを日々の生活に活かし、実践的な形で展開させていく霊性学があっていいのではないかと思ったのである。

いや、むしろ霊性学というのは本来はそういうものであるべきなのではないかと思ったのである。自らの霊性を省み、それを育みながらにして社会に関与していく実践的な霊性学。それを自分なりに探究していこう。

昨日、ある知人の方から執筆した原稿を送ってもらった。その原稿記事が大変興味深かった。それは、生きながらにして死んでいるというインドの修行者サドゥに関するものである。

サドゥは、自由を求めるヨガの修行者であり、サドゥになるためには国に死亡届を出す必要があるとのことである。サドゥになってしまえば、サドゥになる前にどのような身分であったかは関係なく、死亡届を出した段階で、カースト制度の枠外に出るとのことである。端的には、その時点で俗世で生きていたことを手放すことになる。

そうした点に加えて、サドゥの外見もまた独特であり、体に灰を塗って真っ白にしている。それは、死者であることを意味しているらしい。そんなサドゥに会いにインドまで出かけて行った知人の記事が大変面白かった。

そもそもその方がサドゥに出会ったのは、シヴァ神に関心を持っていたことがきっかけとのことだった。シヴァ神というのは「破壊と再生」を司ることで有名である。

実は私は、今から5年前に日本で1年間ほど生活している時にお世話になっていたエネルギーワーカーの方とのセッションの際に、シヴァ神と自分は深い関係にあるというフィードバックを得ていたので、尚更関心を持って記事を読んでいた。

記事を読み進めると、シヴァ神信仰は、生の根源を讃えるということを意味しているらしく、今の自分の日々の取り組みに対する思いと根底でつながるものがあるように思えた。生の根源を讃える形で日記を執筆し、音楽を作り、絵を描くこと。そうした毎日を送っているのだ。

今回の記事がインドについて書かれたものであり、シヴァ神のみならず、実は作曲においても前々からインドには注目していた。インドには、西洋音楽に劣らないほどの音楽理論の緻密な体系があり、インド音楽の独特なメロディーやハーモニーには以前から注目していた。実際に手元にインド音楽に関する専門書が数冊ほどあることも何かの縁だろうか。

近い将来にインド訪れることがあるかもしれない。その際には、知人の記事にあったように、ガンジス川沿いにある、ヒンドゥー教の聖地「バラナシ」に足を運んでみることも選択肢に入れておこう。

サドゥの自由なあり方と生き方について考えていると、ベルグソンが述べた自由についてふと思い出した。ベルグソンは、内側に生じる感情や観念の沸騰に身を委ねることを自由の定義とした。言い換えれば、それは生命の躍動に身を委ねることだと言えるだろうか。

自分はまさにそうした形で日々を生き、感情や観念の沸騰を絶えず形として表現している。重要な点としては、ベルグソンはそうした自由というものが体現されるのは、人生における重大な出来事に遭遇した時だとしていることである。つまり、内側に溜め込まれた感情や観念が自由として爆発するのは、内的危機の体験を経てもたらされるということである。

この指摘については、自分自身でも思い当たる体験を過去に何度かしてきた。1つ知覚したビジョンとして忘れらないものがある。

オランダに来る前年に日本で生活をしていた時、ある日、地獄の業火でゴキブリのような無数の生物が焼き裂かれるビジョンを仮眠中に見た。そこで焼き裂かれていたのは自我の構成物だったように思う。

このビジョン以外にも、思い返せば、感情や観念の沸騰を示唆するような内的体験を何度もしているように思う。それらの体験について思い返しながら昨夜は就寝に向かった。フローニンゲン:2020/6/27(土)06:11

5935. 秋の講演会と一時帰国に向けて

時刻は午前6時を迎えた。遠くの空は明るいが、手前の空には薄い雨雲が見られる。まだ雨は降ってきていないが、おそらくもう少ししたら雷を伴う雨が降りそうな気配である。

今日もまた探究活動と創作活動の両方をゆっくりと進めていく。前者に関していえば、実践倫理学·実践美学·実践霊性学の3つを起点にしていく。そこに群衆心理学を捕捉的に絡めて専門書を読み進めている。

実践倫理学については、この秋に日本に一時帰国した際に、今道友信先生のエコエティカに関する書籍を購入しようと思う。それまでは手持ちの書籍を何度も繰り返し読む形で、まずは実践美学と実践霊性学の探究を進めていく。

今日は、この秋に行う対談講演会に向けての準備に力を入れたい。ちょうど明後日、対談相手を務めてくださる画家の方と話をすることになっている。

数週間前には顔合わせのオンラインミーティングを行い、今回は対談に向けた資料を作るためのインタビューミーティングとなる。そのインタビューに向けて、今日はその方が出版した書籍と画集を読み、その他にもいただいた資料に再度目を通していこうと思う。そして明日は、それらの資料をもとに、当日のインタビューをどのように進めていくのか、どのようなことを尋ねていくのかの整理をしていこうと思う。

前回のオンラインミーティングでは、お互いの関係者も含めて、様々な人がその場にいたが、今回はゆっくりとお話を聞くために、一対一の形にしてもらった。月曜日のミーティングがとても楽しみである。

この秋の一時帰国に際して、その対談講演会が1番の楽しみだと言えるかもしれない。東京での講演会の前には、福井県や石川県に旅行に行くが、それはどこか特定の場所を巡りたいというわけではなく、単に両親の加藤家のそれぞれに縁のある地であり、そうした場所に訪れることによって何か感じられるものがあるのではないかと思ったのである。

仮に具体的に何も感じられなかったとしても、自己の深層部分においては、先祖の何らかの力が自分に働きかけてくれるのではないかと思う。福井に関しては上り藤、石川に関しては下り藤を家紋にした加藤家がある。

陰陽のように、加藤家にも2つの側面があることは興味深く、ひょっとすると今回両県に足を運ぶことによって、自分の内側で、これまで未統合であった対極的なものが統合されるかもしれない。そんな期待がほのかにある。

秋の一時帰国に関して1つだけ懸念事項があるとすれば、今のところ、オランダは特別制限国に分類されており、オランダからの帰国者は空港での検査のみならず、2週間ほど空港近くのホテルに滞在することを強制され、その期間は公共交通機関を使えないとのことである。この決まりはまだ効力を発揮しており、それがいつまで続くのか不明である。

今欧州では、空港が開き始め、実際に来月末にはアテネに行けるようになった。そこまで回復し始めているのだが、日本の状況は不透明である。

現在のような決まりが緩和され、検査がより速やかに実施され、2週間缶詰にされるのではなく、観察期間という形で過ごすような流れになってほしいと思う。このあたりについても政府の今後の対応を追っていく必要がありそうだ。その対応いかんによって、日本滞在のスケジュールを変更していかなければならない。フローニンゲン:2020/6/27(土)06:29

5936. 今朝方の印象的な夢

時刻は午前7時を迎えた。今はまた晴れた空が戻って来ているが、天気予報によれば、ここから数時間後には雷を伴う雨が降り始めるようだ。現在の静けさはいっときのものなのかもしれない。

今朝方は印象に残る夢をいくつか見ていた。夢の中で私は、実家の目の前にある海岸にいた。

その日は天気が良く、太陽の姿を拝むことができたのだが、どういうわけか夢の世界は白黒のようだった。私は友人たちと一緒に海に入っていき、波打ち際で泳いでいた。

しばらくそれを楽しんだ後、一度陸に上がって休憩をした。そこから再び泳ぎに波打ち際に近寄っていくと、巨大な黒い影が海の中に見えた。

浅瀬に浮かぶその黒い影はとても不気味であり、最初私は巨大なサメかと思った。しかしよくよくそれを見てみると、大きなマンボウだった。

そのマンボウはとても可愛らしい顔をしており、ゆっくりと泳いでいた。ところが驚いたことに、マンボウが海面から顔を出し、突然宙に浮き始めたのである。

マンボウが宙に浮かぶ様子に私たちは見入っていた。マンボウはしばらく宙に浮かんでいたが、あるところで突然空を飛んで行き、再び海に着水して沖の方へと去って行った。私たちはその光景に唖然としていた。

その直後に、海面に同じような背びれを見せる大きな魚たちが現れ、それらもマンボウだったが、中にはサメも混じっているように思えた。そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、同じく実家の近くの海岸が舞台だった。海岸沿いを歩いていると、ヨットハーバーの近くに高校時代にヨット部に所属していた2人の友人と遭遇した。どうやら春に新入生が入ってくることに伴い、新歓に向けた準備をしているとのことだった。

新歓ではヨットの体験ができるとのことであり、私はそれに関心があった。自分も体験させてほしいと彼らに述べると、彼らは一瞬戸惑った表情を見せたが、快諾をしてくれた。

どのような形式でヨットに乗るのかと尋ねたら、「ツヴァイ」だと言われた。その言葉を聞いた時、私の頭には一瞬「?」マークが浮かんだが、ドイツ語のツヴァイは「2」を表すので、2人でヨットに乗る形式なのだろうと推測した。

それを体験できる日にちを尋ねたところで、大学一年生の時の第二外国語で同じクラスだった友人たちが続々と姿を現した。彼らと会うのは久しぶりであり、互いの再会を喜んだ。

せっかくなので、うちに寄って話でもしていかないかと提案したところ、彼らもそれを喜んでいた。事前に母に確認すると、何も問題ないとのことだったので、人数は多いが、そこから実家に向かうことにした。

すると私の体は別の場所に瞬間移動した。私の体は、幻想的な建物の中庭にあった。そこは中国の城のような場所であり、私はそこの中庭にいた。そしてそこで、友人たちと一緒にサッカーバレーに興じていた。

それに興じる前に、一応ルールの確認を友人にしていた。それはノーバウンドでボールを相手に返すのか、それともワンバウンドまで許容されるのかという点である。

ノーバウンドで返さないといけないとのことだったので、プレーの難易度が高いと思った。そこから何人かの友人と一緒に、和気藹々とボールのラリーが始まった。

一度私のところに取りにくいボールがやって来て、私はそれを地面に落としてしまった。どうやらこのゲームでは、2回ほど地面にボールを落としたら、その場から強制退場されるとのことだった。そうしたこともあり、そこからの私はかなり慎重にプレーを進めた。

結局私は退場することなく、最後までその場に残っていて、友人の1人がそろそろゲームを止めようと述べた時に、場面が変わった。最後の夢の場面は、1つ前の夢の場面とつながっているようだった。

先ほどサッカーバレーをしていた友人に加えて、何人かの友人たちがその場にいて、これから一緒にガーデンハウスを走り抜ける自転車レースに参加することになっていた。その控え室として、ボルダリングジムのような場所が私たちに与えられていた。扉は閉まっており、中は少々薄暗かった。

ボルダリングの壁も薄汚れていて、最初に私たちは掃除をする必要があるのではないかと思ったほどだった。実際に私たちは、近くにあった洗剤とホースを使って壁を少し綺麗にした。

そのようなことをしていると、レースの開始時間が近づいて来ており、私たちは会場に向かって出発した。会場に行くためには、一両編成の外国制の列車に乗る必要があった。

列車が到着する時間が迫っていたので、すぐにプラットホームに向かった。プラットホームと言っても特別な場所ではなく、段差も無い場所であり、単に線路に侵入しないように注意すればいいだけの場所だった。

列車の各ドアに対応する形で列になる必要があるらしく、乗客たちは各ドアに応じて一直線に並んでいた。私は左から2番目の列の板の上に並んでいた。

列の中でどこまでの乗客が列車に乗れるかは、板の切れ目でわかるようになっていた。列を待つ乗客たちの姿を眺めたところ、東欧系の人たちの姿をちらほら見た。また、家族連れも結構いた。

列に並んだのはいいものの、結局私たちは列車に乗ることをせず、走ってレース会場に向かうことにした。私はみんなとはぐれてしまい、スタート地点がわからず、昨年と同様に、今年もレースに参加できないかもしれないと焦った。去年もスタート地点が不明のまま辞退していたのである。

焦りの気持ちを持ってしばらく走っていると、綺麗な花々が植えられた庭が見えて来た。スタート地点はもうすぐそこだと思った。

その庭の中には、サンフランシスコのような入り組んだ街が含まれていた。その逆ではないことが面白く思えた。つまり、サンフランシスコのような街の中にその庭があったのではなく、その庭の中に複雑に入り組んだ街が含まれていたのである。

スタート地点を目前にして、レースが始まってしまったようだったが、このレースはリレー式であり、私は途中のコースを走ることを任されていたため、なんとかレースに参加できそうだと嬉しくなった。

サンフランシスコを象徴するような坂道が庭の中にあり、そこを大学時代のクラスメートの2人が自転車で駆け下りてくる姿は圧巻であり、それはさぞかし爽快だろうと思った。フローニンゲン:2020/6/27(土)07:41

5937. 現代の不穏なリズムと自己に固有のリズム

時刻は午後7時を迎えた。土曜日がゆっくりと終わりに向かっている。

今日は天気予報の通り、午前中と午後に2度ほど雨が降った。しかし思っていたほどの激しい雨ではなかった。

雷が伴うという予報であったが、結局雷は鳴らず、突発的に雨が少々降っただけだった。明日からは再び気温が下がるようであり、そこからは7月のフローニンゲンの平均最高気温である20度前後の気温の日が続く。

風もなく、とても穏やかな世界だ。そんな世界を眺めながら、本日考えていたことを振り返っている。

1つには、生活拠点が変われば生み出す言葉·音·絵が異なるであろうということだ。今の生活拠点はフローニンゲンだが、どこかのタイミングでまた別の土地に移り住むことになるだろう。そのときに、自分はどのような言葉·音·絵を生み出しているのだろうか。

生活拠点の変更のみならず、それは旅によってももたらされるだろう。来月末のアテネ旅行の最中には、どのような言葉·音·絵が自分の内側から湧き上がってくるのだろうか。きっとそこには、アテネ固有の何かが滲み出ているだろう。

2つ目として、私たち個人は固有のリズム的存在であるということについて考えていた。一人一人が持つ生命のリズム。それは呼吸、生命エネルギー、思考、感覚のリズムとして現れている。人が真に他者に共感する際には、リズムの共鳴現象があるのだろうか。

そこから、現代社会が不穏な方向に動いていることの背景には、集合としてのリズムの乱れがあり、そうした乱れと相まって個人のリズムの乱れがあるのだろうということについて考えていた。文明の習慣的リズムの乱れが個人のリズムを乱し、それがまた文明のリズムの乱れを引き起こしているという双方向的な因果がそこにあるように思える。

そのような状況下で私たち一人一人にできることは何であろうか。1つ目に、自らのリズムの乱れと社会のリズムの乱れに自覚的になることがあり、2つ目に、自らの固有のリズムの発見と育成をしていくことだろうか。

自分自身がリズムの乱れたこの世界の中の一人の人間として生きているという自覚。そうした自覚を持ちながら、絶えず自分のリズムとは何であるかを考え、絶えずそれを大切にしていこうと思う。フローニンゲン:2020/6/27(土)19:25