No.644 無意識の枝_Branches of Unconsciousness
本日の言葉
With the Doctrine as an island, as a refuge. With no other doctrine as a refuge. Digha-Nikaya
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タイトル一覧
5893. 前進と今朝方の夢
5894. 和歌の詩情と日本人性
5893. 前進と今朝方の夢
今日も新たな1日が新たな自己と共にやってきた。日々が新しく、日々新たな何かと出会う形で人生が進んでいく。今日もそのような1日になるだろう。
時刻はまもなく午前6時を迎えようとしている。まだ朝日は昇っていないが、辺りはすでに明るい。小鳥たちの静かなさえずりが聞こえてきて、1日の始まりを祝している。
昨日、ある画家の方とお話をさせていただくことによって、人生がまた未だかつて見ないところに静かに動き始めているように感じる。いろいろな縁が重なり合い、それを通じて進行していく人生。
最近は、人生の本質が裸体のようになって目の前に現れているかのように知覚される。そうしたものが知覚されたからと言って、私にできることはとてもシンプルなことだ。
縁と運に感謝の念を捧げ、平穏な心で日々を生きていくこと。そうした生き方をこれからも続けていく。
今朝方の夢について振り返り、今日もまた自分の取り組みに励んでいこう。とにかく、ゆっくりと前に進んでいくこと。
前に進む主体である自己が、その進みがわからないくらいにゆっくりと進めていたのであれば、それは本当の意味での前進になる。人は自分が前に進んでいるのかを気にしがちだが、仮に前に進めていることを実感できたのであれば、それはひょっとすると、そこには自己との間に何か大きな溝のような差分が生じていると言えるかもしれない。
そうした大きな差分ではなく、私は自分でも認識できないような僅かな差分を通じて前進していく。まさに、差そのものを生み出すものに身を委ね、永遠に差分を生成する運動そのものと同一化するのだ。
そうした同一化が起これば、日々の前進に気づくことはできないだろうが、私はそれが前身の本質なのではないかと思う。振り返ってみたときに、そこに大きな変化を見出す際には、それまで自分が歩いていたことすら気づいていないことが多いのではないだろうか。歩くことそのものと、非二元的に自己一致させる中で毎日を生きていこう。
そういえば、夢について振り返ろうとしていたのであった。夢の中で私は、小中学校時代を過ごした町にいた。ちょうど住宅地の中を歩いている最中であり、小さな坂道を下って歩いていた。
すると後ろから、高校時代に知り合った友人と誰か別の友人が、自転車で二人乗りをしてやってきた。彼らは私に声をかけたが、どこかに向かって急いでいるらしく、あまり話をすることとができずに彼らは去っていった。
あるラーメン屋の前を通ろうとしたときに、ラーメン屋から高校時代の友人が現れた。彼は野球部に所属していて、体格も良かった。そんな彼は意外にラーメン屋の格好が似合っていた。
彼ともその場で挨拶を交わした程度であり、彼は仕事終わりのために疲れているのか、すぐに自宅に戻って休憩をしたそうにしていた。彼と別れると、突然大雨が降ってきた。
見る見るうちに水溜りができてきて、道の場所によっては足を取られてしまいそうなぐらい水溜りが深くなっていた。そこから私は走り始め、水溜りに足を取られないように、縁石の上を進むことにした。
ようやく自宅が見えてきたのだが、そこは小中高時代の友人の一軒家がある場所であり、彼の家がある場所がいつの間にか我が家になっていた。駆け込むようにして玄関に向かうと、ちょうど父が玄関を開けて何か一仕事しており、父は私にタオルを渡してくれた。
今朝方はそのような夢を見ていた。それともう1つ、数日前に私にメールをしてくださったある知人の方が夢に出てきていたことを思い出した。
その方は成人発達理論に造詣が深く、その方が作った資料をレビューする依頼を私は受け、資料を眺めていた。その後、その方とお会いして、色々と意見交換をしていた。
その場所は日本ではなく、ヨーロッパのどこかの街だった。その街は決して都会ではなく、むしろ片田舎の街であった。
私はその方に、カート·フィッシャー教授の追悼論文集を読むことを勧めようとしたのだが、そのときに私の口の中には大きな甘い食べ物が入っていて、それが溶けるまでなかなか言葉を発しにくかった。それが溶けて、きちんとお勧めの書籍の名前が言えたところで、その方はインテグラル理論に関するある団体について教えてくれた。
その団体についてはもう何年も前から知っていたが、その方が改めて、タイ仏教か何かの面白いレクチャーが動画に上がっていると教えてくれたので、その場にあったスクリーンにウェブサイトを投影し、最初の動画を一緒に見た。そのような夢も印象に残っている。フローニンゲン:2020/6/10(水)06:22
5894. 和歌の詩情と日本人性
時刻は午後7時を迎えた。つい今し方夕食を摂り終え、再び書斎に戻ってきた。
今日は曇りがちの1日であり、今も雲が空を覆っていて、今日は夕日を拝むことができない。その代わりに、小鳥たちはいつものように鳴き声を上げている。
心を落ち着けて彼らの鳴き声に耳を傾けると、心がスッと癒されていく。小鳥たちの鳴き声は、自分の意識状態や脳波とシンクロする何かがあるようだ。
夕方に街の中心部のオーガニックスーパーに買い物に出かけた。今日は肌寒かったので、長ズボンを履きながら軽くジョギングをしてスーパーに向かった。
今日は久しぶりにスーパーの店員のメイに会い、彼女と少し立ち話をした。どうやら彼女もランニングを習慣にしていたようなのだが、少し膝を痛めてしまったようであり、ここ最近は走ることができていないそうだ。その代わりに、引き続きギターの練習には日々取り組んでいるとのことであった。
以前、大学に通って歴史を学びたいと述べていた点についても尋ねてみると、今もその道を考えているとのことだった。メイと言葉を交わした後に、スーパーを去り、帰りはゆっくりと歩いて帰った。
街の中心部に今度Watamiがオープンするらしく、今は開店に向けて工事をしていた。そのような発見に加えて、今日は道ゆく途中に咲いている草花を妙に観察していた。
名前のわからない草花を見ては、しばしその場に立ち止まり、彼らの美しさを眺めていた。ここからまた気温が上がってくると、新たに咲き誇る草花があるに違いない。それが今から楽しみだ。
街に出かける時は、こうしてその場に立ち止まって草花を眺める心の余裕を絶えず持ちたいものである。
午前中にふと、日本人としての自分の根幹に根付く和歌の詩情を涵養し、和歌のような曲を毎日作っていくことについて考えていた。自分の中にある日本人性をまた改めて見つめ直す時期に差し掛かっているかのように思える。
そこには和歌の詩情とも呼べるべきものがあり、簡潔ながらもそこに美を凝集するような何かである。これからもそれを大切にし、より一層育んでいきたいと思う。
それでは今日はこれから、明日の作曲実践に向けて準備をし、その後、絵を少々描きたい。その前に少しばかり読書をしてもいいかもしれない。
前野先生と古武術の研究家である甲野善紀先生との対談本を今日から読み進めていて、それが非常に面白い。無意識について実に示唆に富んだ対談がなされていて、得ることがとても多いのだ。
明日に初読が終わるであろうから、今後折を見て繰り返し読み返し、得られたことを自分の体験に紐づけてまた何か文章を書き留めておきたい。フローニンゲン:2020/6/10(水)19:12