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5875-5877: アートの国オランダからの便り 2020年6月2日(火)


No.549 そよ風の命_Life of a Breeze

本日の言葉

Neither pure earth nor hell exist outside us; both exist in our hearts. Nichiren Daishonin

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本日生まれた11曲

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タイトル一覧

5875. マジョルカ島との縁:何者かに向かって

5876. 今朝方の夢

5877. 絶え間ない平常心を持って:愛と美の探求と実践の日々

5875. マジョルカ島との縁:何者かに向かって

時刻は午前6時を迎えた。今朝は見事な朝焼けを起床直後から拝むことができた。

今朝はゆったりと5時まで寝ていたのだが、目が覚めた瞬間に寝室の窓の外を見ると、そこには赤味がかった見事な朝焼け空が広がっていたのである。私は体を起こし、それをしばらく眺めていた。

昨夜は小鳥たちの鳴き声を子守唄がわりにして夢の世界に入っていった。そして朝においては、彼らの鳴き声は優しい目覚まし時計となっていた。

昨日、今年の年末年始をどこで過ごすかについて書き留めていたように思う。候補としては、スペインのマジョルカ島か、イタリアのシチリア島にしようかと書き留めていた。その後、少しばかり調べてみたところ、今年の年末年始はスペインのマジョルカ島で静かに過ごそうかと思った。

マジョルカ島は、どうやらヨーロッパのハワイと呼ばれているらしく、ヨーロッパ大陸の様々な国からこの島に観光でやってくるそうだ。特に、ドイツやイギリスから来る人が多いとのことであり、マジョルカ島の街にはドイツ語表記の看板などの案内がなされていたり、英語に関しても問題なく通じるようだ。

マジョルカ島について調べていたときに興味深いこととしては、私がこれまで注目していた芸術家たちもこの島を愛していたということだった。例えば、作曲家のショパンはマジョルカ島と関係が深く、フランス人作家のジョルジュ·サンドとこの島に長く滞在していたそうである。

昨年の春にバルセロナに訪れたときには、ジョアン·ミロの博物館に足を運んだ。そのミロもマジョルカ島に縁があり、彼の母親がマジョルカ島出身であるだけではなく、ミロ自身もこの島に定住していたそうだ。

そのような理由で、ミロの作品と彼のアトリエのある美術館がマジョルカ島にあるそうだ。そのようなことを知って、是非とも今年の年末年始にはこの島で過ごしたいと思ったのである。

気候についても申し分なく、冬は最高気温が10度を超えるほどの暖かさのようなので、随分と過ごしやすい。まさに昨年訪れたマルタ共和国のような気候である。

気候面ではシチリア島も同じようなものだが、今回はショパンやミロとの縁もあり、マジョルカ島に行ってみることにする。フローニンゲンの地方空港から直通で行けることも何かの縁だろう。

昨日、フローニンゲンの街の中心部に向かって歩いているときに、自分は何者でもないところから再出発をし、今もその歩みを歩いていることについて考えていた。

この現代社会は、私たちを虚飾された何者かにしようと促してくるが、それから離れ、再度自らの手で何者かに向かって歩みを始めたのがアメリカ時代の時だったように思う。そこから緩やかではあるが、歩みを進め、一度清々しいほどに何者でもない者になったのだが、今はまたそこから何者かに向かって歩みを進めている自分を見出すことができる。

そしてその自分は、この世界にはない居場所を自らの創造物を通じて作り始めた。今の自分は、自らの創造物によって作り出された居場所の中で、再び何者かに向かって歩みを始めている。そのようなことを感じている。

おそらくそこからまた、改めて何者でもない方向に向かっていくのかもしれない。そうした自己の成熟過程を見て取ることができる。フローニンゲン:2020/6/2(火)06:29

5876. 今朝方の夢

時刻は午前6時半を迎えようとしている。起床時と同じように、小鳥たちが澄み渡る鳴き声を上げていて、それを聞きながら落ち着いた瞑想状態になる。本当に、一日中彼らの鳴き声を聞きながら平穏な心でいられることの有り難さを思う。

明後日からは小雨が降る日が続くようだが、今日は天気がとても良く、気温も随分と上がるそうだ。今日は初夏を感じられるような1日になりそうだ。

先ほど、パソコンのソフトウェアのアップデートを待っている間に、6枚ほど絵を描いていた。いつもは早朝に、3枚から4枚ほど描くのが習慣になっているのだが、今日はすでに随分と描いた。

ここから夢について振り返り、今度は早朝の作曲実践に取り掛かっていこうと思う。作曲に関しては、毎日心底楽しみながら、その進展を確認することができているのはとても喜ばしい。

夢の中で私は、学校の教室にいた。そこは少し見慣れない教室だったが、違和感はさほどなかった。教室には机はなく、椅子だけがあり、椅子は全て教室の前側に寄せられる形で配置されていた。

小中学校時代の友人たちが椅子に腰掛けており、どうやらこれから授業があるようだった。すると、イギリス人の男性の教師がやってきて、これから英語だけを使った授業が行われることになった。私以外の友人たちは留学経験も海外生活の経験もなく、あまり英語が喋れないようであり、先生の話についていくのが難しそうであった。

その男性教師は線が細いのだが、性格は少し高圧的であり、友人たちの発音を逐一直すようなことをしていた。すると突然、その英語教師の姿が消え、そこには中学校時代にお世話になっていたバスケ部の顧問の先生がいた。

先生はなぜかサッカー部の顧問を務めており、本日行われる予定の練習試合について連絡を始めた。夢の中の私はサッカー部に所属していて、キャプテンを務めていた。

練習試合の相手の2校が急遽試合をキャンセルしたとのことであり、その代わりに、明日の夜10時から練習試合を始めることになったと先生が述べた。それを聞いた時、随分と遅い時間から試合を行うのだなと思った。

夜の9時半には就寝準備を始めている私にとって、そんな時間から試合をすると、生活のリズムが崩れてしまうと思い、私は試合には行かない旨を先生とメンバー全員に伝えた。先生は強く私を説得しようとしていたが、仮にキャプテンの座を下されようが、今後試合に一切出られなかったとしてもお構いなしに、私は自分の生活のリズムを最優先させるという強い意思があり、明日の試合には絶対に行かないと改めて強く主張した。

するとそこで、1階から私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。廊下を出て、後者の裏側の1階を見てみると、男子の声で間違いなく私の名前を呼ぶ声が聞こえてきているのだが、その人物の姿は見えなかった。

そこでまた教室に戻ると、そこは先ほどの椅子だけの教室と違い、いつもと同じように机と椅子がセットで整列された形で配置されていた。ただし教室には、高校時代のクラスメートの女性友達が1人だけいて、彼女は私の席のすぐ近くだったので、何をしているのかと声をかけた。

どうやら、私に対して何かの支払いをするために教室で待っていてくれていたらしく、携帯のような端末を取り出して、お金を送金してくれた。自分の端末に着信があり、送金を承諾する旨のボタンを押すために、パスワードを入力し、そして承諾をした。

その後、彼女はおもむろに口を開き、先ほど私の名前を呼んでいたのは、先日学校を辞めた友人だと述べた。なるほど、道理で聞き覚えのある声だと思った。

その後、小中高時代の2人の友人(FF & KM)が教室にやってきて、明日の試合に来てほしいと私を説得しにきたようだったが、私はそこでも彼らに、明日の試合には行かないと明確に述べた。そこで夢から覚めた。

赤味がかったオレンジ色に輝く朝焼けが目に飛び込んできて、起床直後の私はその美しさにしばらく目を奪われていた。フローニンゲン:2020/6/2(火)06:48

5877. 絶え間ない平常心を持って:愛と美の探求と実践の日々

時は静かに流れ、時刻は午後7時を迎えた。毎日決まってこの時間帯に日記を綴っているように思う。

夕食後のこの時間帯は、優しげな夕日がとても美しく、そよ風も爽やかである。振り返ってみれば、今日も非常に充実した1日であった。ただし1点だけ、些細なことで問題に対応する必要があったが、その問題についても解決の道筋が見えている。

今日もまた創作活動に打ち込む1日であった。創作活動を通じて、自己の内側に眠っているものや抑圧されているものと向き合い、それを感じながら形にしていくことが続いている。

それによって、治癒と変容の歩みが進んでいるのがわかる。絵と音楽を創作することは、そうした効能を持っており、それは日記とはまた違った形で行われる。

ここ最近は、ガラクタのような情報から精神的な距離を取ることが習慣となっており、そのおかげで自分の取り組みに集中できている。現代社会で生きていく際には、本当に注意しなければ、私たちの集中力はいとも簡単に削がれてしまう。

それによって、自分が本来取り組むべきライフワークに十分打ち込めなくなってしまう。それはまた、自分の人生を無為にすることにも繋がる。決してそのような形で、自分の貴重な人生の時間を無駄にはしない。絶えず落ち着いた心でいること。

禅の高僧の南泉がかつて、「平常心、それこそが道(タオ)である」と述べたように、絶えず平常心でいること。そうした状態を絶えず保とう。

ここ最近は休憩を取る際には、バランスボールで身体をほぐしたり、散歩がてら買い物に出かけたり、窓の外の景色をぼんやり眺めることが習慣になっている。それに加えて、無心で絵を描くことも休息の1つの方法になっている。

そうした休息は、脳と心の浄化をもたらし、より平穏な状態に自己をいざなってくれる。明日もまた、集中力を削ぐような情報には触れないようにし、平穏な心で自分の取り組みを前に進めていこう。

昨日に考えていたことを最後に書き留めておく。昨日は改めて、数値や客観的な指標には還元できない現象学的な内側の感覚及び体験を大切にしていこうと思った。それが人間の最後の拠り所、あるいは最後の砦のように思えるのだ。

人間が人間であることの本質は、そうした数値や客観的な指標では決して還元できない質的なものであり、感覚的なものなのだ。まさに、愛や美はそうしたものだと言えるだろう。

そうであるがゆえに、それらの探求と実践を日々行っている自分がいるのだろう。人間の究極的な拠り所を守りながらにして、さらに育んでいくこと。それが自分に与えられた1つの使命である。フローニンゲン:2020/6/2(火)19:26

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