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5866-5868: アートの国オランダからの便り 2020年5月30日(土)


No.525 炎鳥_A Flame Bird

本日の言葉

Possessing much won’t necessarily make one satisfied; possessing little won’t necessarily make one want. Sheng-Yen

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本日生まれた12曲

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タイトル一覧

5866. 今朝方の夢

5867. 生涯最後の日に捧げる感謝の祈りに向かって

5868. 発達を阻害する断片化の意識と多様な探究領域と実践領域を持つことの大切さ

5866. 今朝方の夢

時刻は午前4時半を迎えた。辺りはゆっくりと明るくなり始めている。朝日を拝むのはもう少し先になりそうだが、空の色がゆっくりと変わっていく。

今朝は午前4時前に起床し、その時にはもう小鳥たちが鳴き声を上げ始めていた。今も数羽の小鳥たちが1日の始まりを祝福するかのような鳴き声を上げている。

昨日、無事にアテネ行きのフライトの予約を変更した。それを受けてホテルにも連絡し、ホテルからの返信を待っているところだ。

今回ばかりはアテネに行くことが実現されて欲しいと思う。7月末のアテネはかなり暑いことが予想されるが、何かの導きによってその時期にアテネに行くことになったのだと思う。

それでは、今朝方の夢を振り返り、少々絵を描いたら、早朝の作曲実践に取り掛かりたい。今日の午後には少し時間を取って、「一瞬一生の会」のための音声ファイルを作成したいと思う。昨日も音声ファイルを作っていたのだが、今日は参加者の皆さんが書いてくださっているリフレクションジャーナルを読んで、それをもとにいくつか音声ファイルを作成していこうと思う。

今朝方の夢。夢の中で私は、トロッコのような乗り物に乗って洞窟内を移動していた。乗り物の進み方を見ていると、どうやら洞窟を下っているようだった。洞窟の高さが低かったので、トロッコに乗っている最中は、天井に頭がぶつからないようにかがむ必要のある箇所があった。

私の後ろには、小中高時代の親友(NK)が座っていて、後ろを振り返って、時々彼に話しかけていた。私の前には小中学校時代の2人の友人(AQ & KM)がいて、2人の座るスペースが窮屈そうだったので、私は後ろの友人とそのまた後ろにいる友人にお願いをして、スペースを空けてもらうようにした。

トロッコが目的地に到着すると、そこには学校の教室のような場所があった。気がつくと、私はその教室の中にいて、それは実際に通っていた小学校の教室だった。しかも、6年生の時に使っていた教室だった。

教室では授業が行われており、6年生の時の担任の先生が授業を行なっていた。それは算数の授業のようだったが、授業の進み方があまりにも遅く、そして問題があまりにも簡単すぎたため、私は家に帰って1人で勉強しようと思った。

クラスの全員は、先生の話に熱心に耳を傾けており、彼らの姿は従順すぎるように思えた。そこで私は、さりげなく反抗的な態度を先生に取るかのように、「ではこのへんで帰ります」と述べて教室を後にしようとした。すると先生は、私が帰ることを必死に止めようとしたが、私の意思は固かったので、もう靴箱まで降りて行き、気がつけば靴を履いていた。そこではもう先生の姿は見えず、結局授業はもう終わったようであり、何人かの友人たちも教室から靴箱にやってきた。

そこから私は小学校5年生の時に使っていた教室の前を通りながら校門に向かっていたところ、1人の女性友達(MH)に声を掛けられ、彼女の兄はプライドが高いらしく、兄と話をするときはあまり兄をからかわないで欲しいと言われた。私は彼女の兄にそのような態度を取ったことはなく、人を笑わせる時にはいつも自虐的な形で行なっていることを彼女に伝えると、少し心配した表情を浮かべながらも、どこか納得しているようだった。そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、母から電話がかかってきて、電話を受けると、何やら銀行から請求書が届いたとのことだった。大学のOB·OG会の会費がうまく払い落とされなかったようだった。金額は9000円を少し超えるほどのものだった。

母から電話がかかってきた時には取り込み中だったので、あとで詳細にはついてはテキストメッセージを送ってもらうことにした。そこで夢の場面が変わり、最後の夢の場面では、小学校6年生の時にお世話になっていた担任の先生が再び現れ、そしてもう1人、中学校時代にお世話になっていた女性の数学の先生が現れた。

私の体はまたトロッコの上にあって、前後には何人もの友人がいた。まずは数学の先生が授業を受け持つことになっていたらしく、トロッコの先頭に立って、口頭で授業をし始めた。その授業の内容についても簡単に思われたので、退屈そうにしていると、それでは中学校の数学の範囲を超えて、高校数学のIAを先取りする形で学ぼうという提案を先生は行った。

私はそれでも退屈に思えてしまい、トロッコが早く目的地に到着することを祈っていると、小中学校時代の女性友達(AS)が数学の問題で苦戦しているようだったので、彼女の手助けをすることにした。無事に問題を解き終えると、先生のところに解答用紙を持って行った。

先生は、友人の彼女の容姿を可愛いと褒めながら、それでいて時に大人の表情を見せるというようなことを述べていた。その言葉を聞くとすぐに、私の体はまた学校の教室にあって、そこでは社会の問題を解いていた。

歴史か何かの問題であり、それもまたあまり面白いものではなく、後ろの席に座っていた友人(HY)に問題と解答用紙を渡し、彼がどれくらい解けるのかを見てみようと思った。すると意外にも順調に解答用紙を埋めており、嬉しい驚きがあった。

今朝方はそのような夢を見ていた。そういえば実際には、飛行場を訪れる場面が先にあり、そこで小型の飛行機が旋回する姿を眺め、眺めているはずの飛行機の中にいつの間にか自分がいて、その飛行機がセキュリティーチェックのような機械をくぐって、洞窟内に入って行ったことを思い出した。フローニンゲン:2020/5/30(土)05:19

5867. 生涯最後の日に捧げる感謝の祈りに向かって

時刻は午前5時半を過ぎた。今、ゆっくりと朝日が昇り始め、赤レンガの家々の屋根に朝日が照り始めている。

よく笑い、よく感動し、感動の涙をよく流す日々。そんな日々を私は毎日送っている。

昨日も何気ないことで笑い、あるテーマについて考えていると感動の涙を流してしまった。後者については、仮に人生を締め括るにあたって無人島で生活することになり、仮に数冊ほど書物を持っていけるのであれば何を持っていくのかについて考えていた際に起こったことである。

人生の終焉に向かっていく過程の中で寄り添っていたいと思う書物はいくつもあるが、私はそこに自らが綴った日記が存在していれば、どれだけ素晴らしいことかと思った。

昼には波の音を聞きながら、30年前のある日の日記を読みながら大いに笑い、夜には焚き火の音を聞き、満天の星空を眺めながら50年前のある日の日記を読んで涙を流すような形で、自らの人生を振り返り、仮に人生の中でどのようなことがあったとしても、綴られた日記を読んで、改めて自分の人生について感謝をしながら生涯を閉じていくこと。

自分の人生全体を絶対的な肯定感を持って全てを受け入れ、全てに感謝の念を持って生涯をゆっくりと閉じていくこと。おそらく自分はそうした形で生涯を閉じようとしているがために、今このようにして毎日日記を綴っているのだと思う。

仮に無人島に行かなかったとしても、生涯を閉じる際には、この人生を通じて綴ってきた自分の日記を読み返すに違いない。

自分の人生が、良縁と幸運によって彩られていたということ。人生の最後には、それを改めて感じ、大きな感謝の念を持ってあちらの世界に行く自分がいるように思える。

あちらの世界には何も持っていくことができないと思っていたが、感謝の念であれば持っていけるのかもしれない。そのようなことを考える。

今日もまた、見えないところで働いている良縁と幸運の恩恵に授かりながら、自らのライフワークに取り組んでいく。北欧に近い辺境のこの街で、誰にも気づかれない形で、それでいて1人粛々と自分の取り組みを小さく前に進めていく。

小川の流れのように優しげで、緩やかな人生。小川の如し人生のある1日を今日も生きていく。今日という1日は、生涯最後の日に捧げる大きな感謝の祈りにつながっている。フローニンゲン:2020/5/30(土)05:59

5868. 発達を阻害する断片化の意識と多様な探究領域と実践領域を持つことの大切さ

時刻は午後7時を迎えた。振り返ってみれば、今日もまた穏やかな1日だった。本日は土曜日であることが、なお一層のこと平穏さをもたらしていたのだと思う。

昨日嬉しいことに、窓辺に嬉しい訪問者があった。窓ガラスに何かがぶつかる音が聞こえたので、そちらを見てみると、小丸っちょいスズメが窓際にやってきて、こちらを見ていた。思わず目が合い、スズメはしばらくそこにいた。そんな光景があった。

これからの季節においては、窓際にスズメがやってくることが増えるだろう。それはこの地での生活における夏の風物詩である。

今日もいくつか雑多なことを考えていたのだが、1つには哲学者のヨルゲン·ハーバマスの指摘に関するものがある。ハーバマスは、社会の発達を阻害しているのは、誤った意識であるというよりも、断片化した意識であると指摘している。

この点については、ちょうど先日に協働者の方々とオンラインミーティングでも話題に上がった分断的な世界観の話とも多分につながってくる。実際のところは、断片化した意識というのは、社会の発達を阻害するだけではなく、個人の発達を阻害するものである。発達の原理に差異化と統合化というものがあることを考えれば、それは明らかである。

個人がそうした断片化された意識を乗り越えていく際に、改めて複数の探究領域や実践領域を持つことが鍵を握るのではないかということも考えていた。本日初めて芽生えた考えとしては、能力や知性がより高度な次元に発達していく際に、次元の飛躍をもたらすのは、バグやアウトサイダー的な要素の存在なのではないかというものだった。

発達とはそもそも突然変異的な現象であるとも言えるため、単に均質·同質なものが組み合わさってもより高度な段階特性は芽生えず、一つ次元が上がるためには、バグやアウトサイダーといった異質な存在が必要なのではないかと考えていたのである。

端的には、内面空間において、バグやアウトサイダーを排除するような均質主義·同質主義(あるいは潔癖主義)の発想を持っているのであれば、差異を持つ異質な存在が既存の存在と出会う機会が失われてしまうのではないだろうか。また、既存の存在と異質な存在が単に出会うだけではなく、それが絶妙な組み合わされ方をすることもまた重要なのだが、それが起きる要因やプロセスは未だ未知である。

それはひょっとすると、思わぬ偶然のもたらす産物なのかもしれない。いずれにせよ、異質なものが自分の内側に混入する機会と、それらが既存の存在と偶然の形で結びつき合うためには、やはり多様な探究領域や実践領域での活動を行っていくことが大切なのではないかと思ったのである。今日はそのようなことも考えていた。フローニンゲン:2020/5/30(土)19:29

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