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5854-5856: アートの国オランダからの便り 2020年5月25日(月)


No.475 思い出の緩やかな渦_A Slow Vortex of Memories

本日の言葉

To live life fully means to take care of your life day by day, moment to moment, right here, right now. Dainin Katagiri

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本日生まれた11曲

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タイトル一覧

5854. 今朝方の夢

5855. 発達現象に関する科学的な議論と規範的な議論の峻別と統合及び標準化アセスメントの危険性

5856. 「能力のフラットランド化」が進行する現代社会で求められる能力とは

5854. 今朝方の夢

時刻は午前6時を迎えた。平穏さに満ち溢れた週末が終わり、本日から新たな週を踏まえた。月曜日を迎えた今日も、土日と変わらずとても平穏である。

近くではスズメたちが可愛らしい鳴き声を上げており、遠くではハトが鳴いている。今、黄金色の朝日が赤レンガの家々の屋根を照らし始めた。

爽やかなそよ風が新緑の葉を揺れ動かしており、そよ風が新緑の木々に挨拶をしているかのようだ。そしてそよ風に揺れる新緑の木々は、私に対して挨拶をしてくれているかのようである。

今朝方もまた少々夢を見ていた。夢の振り返りをした後に、いつものように創作活動を開始しいていこう。今日は昼の2時からオンラインミーティングがあり、それ以外の時間は全て創作活動に捧げよう。

夢の中で私は、スイスのドルナッハにいた。その街にはシュタイナーの思想を探究できる精神自由科学大学という教育機関があり、私はそこにいた。大学の周りは緑豊かであり、自然の力を大いに感じることができる。

その日もワークショップ形式のクラスがあり、それに参加しようと思って大学に到着すると、大学の入り口近くで見慣れた顔を見た。そこには、小中高時代の女性友達(KF)がいたのである。

彼女がそこにいることに最初私は驚いたが、話を聞いてみると、彼女もシュタイナーの思想を含め、霊性学に関心があるようだった。彼女もこれから一緒に同じクラスに参加するようだったが、話を聞くと、この大学で教えられている霊性学の考え方の一部に疑問を持っているとのことだった。実は私も彼女の指摘する点について疑問に思っていたこともあり、さらに彼女の話を伺うことにした。

その後、大学のキャンパス内を散歩し、クラスに到着し、女性の教授に挨拶をしたところで夢の場面が変わった。次の夢の場面では、敬愛するある画家の方が登場していた。

その方はテレビの取材をいくつか受けており、ある取材が終わったところで少し話す機会を得た。その方は神社にいて、神社の中でまずは少し話をした。

その日はお互いにあまり時間がなかったので、後日また2人で話をさせていただく約束をした。すると、その方は多忙であるにもかかわらず、とても親切に、私がいる場所まで来てくれると笑顔で述べた。だが私はさすがにそれは恐縮だと思い、こちらから出向くという旨を伝えた。

今度2人でゆっくりと話ができることを楽しみに、その方とその場で別れた。今朝方はそのような夢を見ていた。どちらの夢も覚えているシーンとしては少ないが、感覚として残っているものが多くある。

とりわけ後者の夢に関しては、嬉しさの感情と幸せの感情が混じり合ったなんとも言えない感覚があったのを覚えている。フローニンゲン:2020/5/25(月)06:20

5855. 発達現象に関する科学的な議論と規範的な議論の峻別と統合及び標準化

アセスメントの危険性

爽やかなそよ風が吹いている。空にはうっすらとした雲がかかっているが、幾分晴れ間も見える。午後になればもっと天気が良くなるだろう。

先ほど、少しばかり雑多なことを考えていた。1つには、人間発達というものを私たちがいかに取り扱っていくのかに関することである。

数年前までの私は、発達科学の研究に集中しており、発達科学者であるがゆえに、科学的な発見事項と規範的な事項を区別する形で取り扱っていた。つまりは、発達とはいかなるものであるかを科学的に明らかにするスタンスと、発達とはどうあるべきであるかという規範的なスタンスを分けるべきだと考えていたのである。

しかしながら、最近になってそうしたあり方は単なる分離的な発想に基づくものであり、必要なことは双方の峻別からの統合的な議論なのではないかと思ったのである。

巷では、発達現象に対して盲目的ないしは無意識的に価値的な意味合いを付与する傾向が蔓延している。例えば、発達は高ければ高いほど良いというような考え方である。

まさにここでは、科学的な事柄と規範的な事柄が混ぜこぜになっており、両者が未分化の状態なのだ。それがゆえに発達を歪めてしまうような実践が行われたり、浅薄な議論がなされたりする。

私たちが発達現象に価値的な意味合いを付与してしまうのはある意味不可避であり、それは規範的な精神を持つ人間存在にとっては内在的な性向であるために——人間は事実に対して価値を付与し、その価値を起点にした物語を紡ぎ出してしまう不可避の性向があり(言い換えると、人間は意味のみだけではなく、価値を付与することを宿命づけられた生き物だと言えるかもしれない)、社会もまたそうした性向を持って回っているのだ——、発達現象に価値的な意味合いを付与することを制御するのではなく、その意味付けの方法そのもの及びその物語をより緻密なものにしていく必要があるのではないだろうか。

つまり、発達現象に価値を付与することが悪いことなのではなく、いかなる価値をいかような意味合いで付与するのかが重要であり、そしてそれが個人や社会にもたらす帰結まで念頭に入れた上で、発達現象に付与する意味付けの幅と深さをより豊かなものにしていく必要があるのではないかということである。

端的には、発達現象に関する科学的な意味と規範的な意味を峻別しながらも、それでいて双方を統合的に語っていく必要があるということである。どちらか一方だけを語るというのでは不十分なのだ——峻別するだけで不十分なのは、例えば発達現象に関する様々な科学的真実が明らかになった時に、それでは私たちは一体どうしたらいいのだろうという問いに対して、議論と実践を実りあるものにしていけないからである——。

まさに統合的な視野と発想を持って、科学的事実(発達とは何であるか)と規範的価値(発達とはどうあるべきか)の区別と統合を図っていくことが私たちに求められることだろう。決してどちらか一方を優先させるのでもなく、両者を分離させるだけで終わらせるのではなく、双方にまつわる意味付けと物語を豊かなものにしていく必要がある。

もう1つ考えていた雑多なこととしては、カート·フィッシャー教授が果たした功績に思いを巡らせていたときに、「心(知性)は機械である」というメタファーではなく、「心(知性)は生態系である」というメタファーとして認識することの大切さと標準化されたアセスメントについて考えていた。

発達理論に基づくアセスメントを導入する前には、上述の通り、発達に関する科学的な議論と規範的な議論を十分に行い、さらにはアセスメントが持つ教育的かつ処方的な効果まで十分に議論しなければならない。それが最低限要求される事柄だと思うのだが、そうした議論がなされたとしても、私たちはまだ注意しなければならないことがある。

それは、発達測定というものが標準化の産物であるということだ。それは、多様な発達プロセスの中に共通の発達パターンを見出すことによって一つの物差しとして生み出される。ここに思わぬ落とし穴がある。

まさにそれは、多様性の中に潜む普遍性を見い出しているという優れた側面があるが、それを大規模な形で多様な人間に適用することは大きな問題を内包している。

それがまさに、私たちの心や知性を標準化してしまう危険性があるという問題である。例えば、ある1つの極めて優れたアセスメントが世に送り出された時、私たちの社会はいかように振る舞うことが予想されるだろうか。

おそらく、企業や学校、そして親などは、こぞってそのアセスメントで測定される知性領域(能力領域)の開発に躍起になることが容易に想像される。それが押し進められると人間はどのようになるだろうか。

おそらくは、私たちが本来持つ知性や能力の多様性は損なわれ、そのアセスメントを通して光が当てられた知性や能力だけが発達するという実に奇妙な人間、すなわち知性的·能力的に偏りのある奇形種の人間が生み出されてしまう危険性がある。

今回のコロナの1件でも、一極集中型の都市の脆弱性は明るみに出されているが、私たち個人の知性や能力においても同じである。標準化されたアセスメントの導入は、本来多様性の確保された生態系としての知性を単一なものにしてしまう危険性があり、それは個人を超えて、集合的な意味合いにおいても知性を単一なものにしてしまう危険性がある。

個人及び集合的規模での知性の生態系が崩壊してしまうことを防ぐためには、仮に極めて優れた標準化アセスメントが開発されたとしても、そのアセスメントが内包している危険性を深く理解し、その運用に関する議論を絶えず緻密なものにしていくように尽力する必要があるだろう。

そして何よりも、人間発達に関する社会の物語を大きく変容させ、より豊かなものにしていく必要がある。今の物語はあまりに貧弱なものなのだから。フローニンゲン:2020/5/25(月)11:23

5856. 「能力のフラットランド化」が進行する現代社会で求められる能力とは

時刻は午後7時を迎えた。今、燦然と輝く夕日がフローニンゲンの街を照らしている。小鳥たちは今もまだ鳴き声を上げており、1日の終わりを祝福しているかのようだ。

今日は早朝に、人間発達に関していくつか考え事を書き留めていたように思う。その後もそれらの論点に付随することを色々と考えていた。備忘録がてら、それらについて書き留めておこうと思う。

今回のコロナの一件で明らかになったように、私たちは置かれている生存状況が変化に晒されると、それに応じて人間要件も変わる。そしてそれは不可避的であり、突発的でもある。

このような状況に突如として晒されうるのが人間社会の不可避的な特性であれば、私たちはこのような時代においてどのような能力を少なくとも持っておくべきなのだろうか。

巷では、個別具体的なある特定の能力を伸ばすことがあたかもこの現代社会で生きていく上で必須のように喧伝しているが、それらの能力を冷静になって眺めてみると、果たして今回のような生存状況に関わるような社会情勢下で必須の能力なのかと疑ってしまいたくなる。

また派手な形で、あたかも普遍的に通用するかのように宣伝されるスキル——例えば「21世紀に求められるスキル」と宣伝される類のもの——というのも、全く未知の生存状況や社会状況に突発的に巻き込まれうるこの現代社会で必須のスキルなのかは疑わしい。

端的に言えば、私たちが発揮する能力や涵養すべき能力というのも、社会的なコンテクストの変化に応じて変わるものである。様々な業界や領域で声高に叫ばれている必須のスキルと呼ばれるものも、それは決して不変的なものではないはずであるし、本質的には社会のコンテクストの変化によって変動するものなのだという当たり前のことを私たちはもう一度確認しておく必要があるだろう。おそらくそうした態度が欠落しているがゆえに、何か万能薬的な1つの能力だけを躍起に伸ばそうとしてしまうのではないかと思う。

今朝方に書き留めていたように、確かに能力開発においては、1つの能力に時間やエネルギーを割くことはその能力を伸ばす上では重要なことなのだが、最初から設定の誤った能力に時間やエネルギーを割いてしまうというのは不幸である。残念ながら、実際にこの世の中で起こっているのはそうしたことのように思える。

つまり、多くの人たちはそもそも、この現代社会で生きていく上で真に大切な能力とはかけ離れた能力を伸ばしているのではないかということである。明日に何が起こるかわからない社会の中で、そして絶えず変化するこの社会の中で必要だと言えそうな能力にはどのようなものがあるかを考えていた。

確かに、それを個別具体的に挙げればキリがないかもしれない。もし仮に、社会的なコンテクストの変化が激しいこの現代社会において重要な能力を挙げるとするならば、絶えず変化する社会コンテクストの種類と性質を察知し、考察し、そのコンテクスト下で浮上する問題を解決に導く能力がどのようなものなのかを見極め、そしてそれを自ら伸ばしていける能力なのではないかと思う。

さらには、社会的に構築された物語の歪みに気づき、それを是正していく試みに乗り出していける力も必須のものなのではないかと思う。端的に言えば、巷で叫ばれている開発するべき能力というのは、そもそもそうした能力が必要だと叫ばれる前提条件や社会コンテクスト——ある特定の能力が能力だと定義される際には、そしてそれが議論の焦点になる際には、特定のコンテクストが必ず存在している——には一切焦点が当てられない形で開発が進められる。

それらの個別具体的な能力は、確かに個別具体的な問題や課題に取り組む際には不可欠なものなのだが、そもそもそうした能力が必要となる前提条件や社会コンテクストに対する洞察が欠けている場合には、ひとたびその前提条件や社会コンテクストが変化した場合には、全く使い物にならない能力になってしまう危険性を持っている。

そうしたことを考えながら、また別の表現で言えば、上記の能力は、人間要件にせよ、能力要件にせよ、社会コンテクストにせよ、それらを取り巻く既存の物語を読み解く力だと言えるかもしれない。そしてそうした物語を読解する力を超えて、今回のような生存状況が脅かされる現代社会においては、そして今後の社会においては、既存の物語の特性や構造を把握するだけではなく、その物語の根本的な歪みを発見し、それを是正していく力、端的には物語を再構築していくことのできる力が求められていると言えるかもしれない。

個別具体的な形のあるような脳力や知性を求める風潮というは、「能力・知性のフラットランド化」あるいは「人間要件のフラットランド化」とでも呼べるのではないだろうか。こうしたフラットランド化現象に抗う意味でも、そしてそれを改善していく上でも、あえて上述のような形のない能力の涵養に向けた取り組みをしていく必要があるように思える。

繰り返しになるが、このような現代社会において、その能力が求められる前提条件や社会コンテクストに関する議論なしに、具体的にある個別具体的な能力だけを伸ばそうとするのはとても危険である。

一流の研究者が行った発達研究の成果や精密に設計されたアセスメントがある特定の能力の重要性を説いていたとしても、その能力だけを社会全体が躍起に伸ばそうとするのは、知性という生態系の観点からも危険であり、そもそもそうした発達研究やアセスメントがある特定の前提条件に立脚した上で生み出されたものなのだから、そうした研究成果やアセスメントが指示する能力だけを伸ばすことが随分と馬鹿げた試みであることもわかる。

優れたアセスメントや教育手法があったとしても、それを大規模な形で導入していくことは、人間存在を画一化させ、矮小化させる。もう現代人は随分と画一化され、矮小化された存在に成り下がっていることに気づく必要があるのではないだろうか。フローニンゲン:2020/5/25(月)19:42

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