Recent Posts

5832-5837: アートの国オランダからの便り 2020年5月18日(月)


No.419 朝風の上に_On a Morning Wind

本日の言葉

Do not permit the events of your daily lives to bind you, but never withdraw yourselves from them. Only by acting thus can you earn the title of “A Liberated One.” Huang Po

下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3点:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

アート・ギャラリー

本日生まれた1曲

本日生まれた曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

本日生まれた曲はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています(2020/4/26より、投稿を再開しました)。

タイトル一覧

5832. 移ろいとしての自己と移ろい性の背後にあるもの:英語学習について

5833. 物を無駄にしない心

5834. 今朝方の夢

5835. 「損害賠償」という言葉と国道のサバに関する記憶

5836. 受験の失敗に関する記憶・算数/数学に関する記憶と思い出

5837. 幼少時代の思い出の続き

5832. 移ろいとしての自己と移ろい性の背後にあるもの:英語学習について

時刻は午前4時半を迎えた。今朝の起床は午前4時前であり、そこからしばらくすると、小鳥たちが静かに鳴き声を上げ始めた。今も彼らの鳴き声は控えめであり、清澄なさえずりが辺りに響き渡っている。

この時間帯になると、空はもうダークブルーに変わり始めている。長い冬の時代においては、空がダークブルーに変わり始めるのですら午前8時を回ってからの時もあったぐらいだ。それを考えると、随分と早くなったものである。

闇の時間帯が短くなり、光の時間帯が長くなること。それは1人の人間の一生涯においても見られる現象だろう。

一生涯だけではなく、より短いスパンで、年単位や月単位でもそうした現象が見られるかもしれない。また、私たちの時代にも多分にそうした現象を見出すことができるだろう。

今は闇が長い時間なのか、それとも光が長い時間なのか。闇から抜け出す方法だけを考えるのではなく、闇がやってくるのは不可避なのだから、闇との付き合い方を私たちは学ばなければならないのではないだろうか。これまで散々と闇から逃げようとしてきた結果が今の社会に顕在化し始めている。そのようなことを思う。

先日友人のブログを見たときに、自己の存在に関する言及がなされており、それを大変興味深く読んでいた。先ほどもその点について考えていた。端的には、連続的な移ろいとしての自己というテーマであり、表象現象としての自己というテーマでもある。

有としての無、あるいは無としての有から絶えず移ろいとしての自己が立ち現れてくること。今こうして日記を書いているのもそうした移ろう現象的な自己なのかもしれない。

一方で、夢を見ない深い眠りの状態においては、そうした移ろいとしての現象なる自己すらも表象されることをやめ、有としての夢の世界にまるで同化するかのように静かにそこに存在かつ非存在している。

この「存在かつ非存在している」という点がとりわけ重要なのではないかと個人的には思う。自己は連続的な移ろいとして存在するという性質も持っていながらも、非存在している、あるいは非存在できるという性質も持っている。この点はとても興味深い。

移ろいとしての自己について考えていると、諸々の過去の思い出も移ろいとしての現象だったのだとわかり、それらの記憶を単に移ろいとして片付けてしまうと何か物寂しい感じになった。おそらくこの物寂しさの感覚が大切なのであり、1つ1つの現象には移ろい性を超えた何かがまたありそうな気がしている。

1つ1つの移ろいの背後にある何か。それらは究極的には1つのものと繋がっていて、それと自分がつながるためには、それぞれの現象を移ろいとして認識するだけではなく、それらの背後にあるものを見ようとする意思が必要なのかもしれない。物寂しさの感情は、やはりそうしたものが背後に存在していることを示唆してくれていたように思う。

また、オランダに住む別の友人を昨日読んでいたときに、英語学習に関する言及があった。英語学習に関しては私もこれまで色々なことを試し、うまくいったこととうまくいかなかったことの双方を多く経験している。

英語のどのような力を高めたいのかによって学習方法や実践方法は当然ながら変わるのだが、仮に聴く力と話す力を高めたいのであれば、個人的にはアメリカかイギリスのテレビドラマを視聴するという実践が最も効果があるように思える。

もちろん、学習というのは直接体験の度合いが高まれば高まるほど、学習効果が高まるという性質があり、効果が高い学習方法は実際に英語のネイティブスピーカーと毎日話すことだと思うが、それが難しい場合も多いであろうし、私たち1人1人は固有の意味世界と言語体系を持っているので、複数のネイティブスピーカーの発話に触れ、さらには彼らが実際に生活しているコンテクストまで体感できるという点において、テレビドラマは優れていると思う。

実はアメリカの大学院に留学していた当初は、私は英文書籍と論文ばかりを読んでおり、英語を聴く力と話す力はそれほど高まらなかった。留学を始めて随分してからそれに気づき、そこからアメリカのテレビドラマを見始めたことによって、着実に聴く力と話す力が高まってきた。

そもそもこの学習方法を採用しようと思ったのは、前職時代の中国人の女性の上司があまりにも流暢な日本語を話すので、日本に留学したことがあるのかと尋ねてみたところ、留学経験はなく、中国にいるときに日本のテレビドラマをよく見ていたと述べていたことがきっかけだった。日本語はテレビドラマから学んだとさえ言えるぐらいによく見ていたそうであり、その効果が非常に高いものであるあることに驚いたことを覚えている。

アメリカのテレビドラマは、相当な制作費をかけられて作られているものが多く、一話一話が小さな映画のようにさえ思えるぐらいのクオリティを持っているものも多い。オランダにやってきて研究生活をしているときにも、アメリカのテレビドラマのDVDやブルーレイを毎日1、2話は視聴していた。

今はAmazon Primeの会員であるから、そこからアメリカのテレビドラマを毎日1、2話は視聴し続けている。懐かしのアニメも英語で見ることなども過去に行っていたし、今でも英語で日本のアニメを見ることもある。

今はもちろん英語力を向上させるためにドラマやアニメを見ているのではなく、純粋にコンテンツとして面白いということがあり、それに加え、やはり自分の知らない世界を垣間見させてくれるという意味で、内面リアリティをより拡張させ、豊かにしていくという意味でそれらを視聴している自分がいるように思う。

いずれにせよ、アメリカ時代を振り返って思うのは、もっと早くから英語のテレビドラマを継続して見続けていたら随分と聴く力や話す力は違っていただろうということだ。フローニンゲン:2020/5/18(月)05:10

5833. 物を無駄にしない心

時刻は午前5時を迎えた。辺りは随分と明るくなってきた。小鳥たちのさえずりもより元気の良いものになった。

先ほど、昨日の夕食時に使ったサランラップが台所に置きっぱなしになっていることに気づいた。いつもは夕食後の洗い物の際に捨ててしまうのだが、それが捨てられずに残っていた。

少し静かにサランラップを見つめていたところ、もしかしたらもう一回使えるのではないかと思った。サランラップを容器にかけ、それを外して、一回使っただけで捨ててしまうのは何かもったいないように思えたのだ。

昔から物を無駄にしないという精神があり、それは特に食べ物に関しても現れている。毎日食べる野菜の切りクズは捨てずにベジブロスとして活用したり、毎日食べるバナナに関しても、それがオーガニックなものであるがゆえに、皮に付着している実の部分まで残らず食べるようにしている。

昨年実家に帰ったときに、私が皮を剥いてすぐにそれを捨てるのではなく、皮に付着した実からまずバナナを食べている姿を見かけた両親が驚いていたのを覚えている。皮に付着した実の部分にこそ食物繊維が豊富なのだと力説し、それを捨てるのはもったいないと説明したところ、父も私と同じように皮に付着した実を食べるようになり——私はそれまでは豪快に皮に付着した実に直接かじりついていたが、父からスプーンを使うと綺麗に取れることを教えてもらい、今ではスプーンを使って綺麗に実をすくっている——、母は私にその部分をくれるようになった。

その他にも両親に笑われたのは、以前まで両親はネスプレッソを使ってコーヒーを入れており、カプセルを1つ設置し、ボタンを一回押しただけで大抵の人はそのカプセルを捨ててしまうが、微量に抽出されるボタンを再度押すと、まだコーヒーが絞り出されることを私は知っており、そのような形でコーヒーを入れていると、新しい発見だと言って両親が笑いながら驚いていたのを覚えている。

そういえば幼少時代においては、オレンジを食べた後の種がもったいないように思えて、それを鉢に植え、引越しに伴って父方の祖父に預かってもらい、代わりに育ててもらっていた。なんと今でもそのオレンジの木は父の実家にある。

また、私は大の梅干し好きであり、今では食べる機会は減ったが、小さい頃にはよく梅干しを食べていた。ある日、梅干しの種の中に何かあるのではないかと思い、歯で種を砕いてみたところ、そこにも果肉のようなものがあって嬉しくそれを食べていたのを覚えている。

その記憶をもとに、昨年アボカドの種の中を調べようとして歯で砕こうとしたところ、あまりにも硬すぎてうまくいかず、さらにはアボカドの種には栄養があるとのことだったので、ベジブロスにした後の種を食べてみたところ、苦味が強く、それ以降食べるのはもうやめにしたのを覚えている。

その他にも、昨年からコーヒー豆を専門店で選び、コーヒーミルを使って自分の手で豆を挽くようにしており、コーヒーの残りカスについても脱臭剤に使ったりしていた——カップに入れたコーヒー豆を冷蔵庫の中に入れて脱臭剤にして使っていたところ、長く放置しすぎてしまい、カビが生えており、コーヒー豆にもカビが生えることを知ったのは嬉しい発見であった——。

こうした例を挙げればキリが無いが、その他に食べ物や飲み物を無駄にしないという点で言えば、昨日洗い物の際に洗剤を使う必要がないと言及していたこととも関係している事柄を思い出した。私は、例えば朝に大麦若葉のドリンクを飲んだ後やカカオドリンクを飲んだ後には、コップの内壁に付着しているものを無駄にしないために、水を少々入れ、スプーンを回してそれらを残さず飲むようにしている。

夕食時においてもそうであり、夕食時には、ジャガイモを温めてそこにチーズを入れて溶けるのを待つための容器、サツマイモを温めてそこにオリーブオイルを加えて食べるための容器、そして味噌汁用の3つの容器があり、全てのものを食べ終えたら、1つの容器に水を少々入れ、内壁の残留物を綺麗に溶かし、その水を2つ目の容器に移し、同じことをした後に3つ目の容器に移す。

その後、晴れてそれを飲み干してから洗い物を始める。その際にはもう3つの容器は随分と綺麗な状態であり、洗剤など使う必要が全くなく、さっとスポンジで水洗いすれば十分である。

その他にも、物を無駄に使わないという点においては、流石に外出後は手を洗うが、自宅にいる際には、トイレに行っても使った部分しか洗わないようにしている。雑菌がどれだけ飛散し、身体の上でどれだけ移動するのかについては調べてみないといけないかと思うが、使っていない手のひらや甲を洗う意味がよく分からず、今でも使った手の使った指しか洗わないようにしている。

台所のサランラップを静かに眺めながらそのようなことを思い出していた。フローニンゲン:2020/5/18(月)05:32

5834. 今朝方の夢

まろやかさを持った朝の空。ちぎれ雲が少々空に浮かんでいて、それが薄ピンク色に染まり始めている。

今日はいよいよ、「一瞬一生の会」の第2期が始まる。その始まりが今から楽しみであり、今回からは、こちらの方で補助録音教材という形で、成人発達理論に関して色々と話をして行こうかと思っている。

自分が読んだ論文や書籍、さらには最近の自分の実験や実体験などを交えた話をしていければと思う。今日は初回のクラスであり、それが終わると、以前お付き合いのあったグローバルコーチングさんにお声掛けいただき、今日はあるオンラインワークショップに招待していただき、それに参加することになった。

「一瞬一生の会」と時間が重なっているため、全てには参加できないが、ワークショップの途中から参加できればと思っている。今日はこうしたイベントがあり、それ以外の時間はいつもと変わらずに創作活動に打ち込んでいこうと思う。その前に、今朝方の夢について振り返っておこう。

夢の中で私は、小中学校時代の2人の男性の親友(YU & KF)と、1人の女性友達(AS)と話をしていた。いや、4人で話をする前に、まずは体育館で2人の男性の親友たちがカラオケコンテストに参加している場面があったのを思い出した。

ステージ上に2人が立ち、いざ歌を歌い始めると、また違う2人の後輩グループがステージ上に立ち、そこからまた違う2人のグループがステージに上がってきて、結局3つのグループが同時に違う曲を流して歌い始めた。正直なところ、3つの曲を同時に聴くのは難しく、彼らもまた歌いにくそうにしていた。

その後、私は女性友達に勉強を教えていた。主に数学を教えていたように思う。

彼女は高校を卒業したはずなのだが、私は彼女に高校数学を教えており、ひょっとしたら途中で学校を辞めたのかもしれないと思った。彼女の勉強に取り組む姿勢を見ていると、もう一度高校に入学して勉強しようとする意思のようなものを感じた。

勉強がひと段落すると、昼食の時間となり、4人で近くのレストランで食事をすることになった。昼食を食べ終えたら、午後から学校に行くのをやめて、どこかに遊びにいこうかと話し合った。また、後日どこかに遊びに行く計画についても話し合った。

明日は午後から学校に行くのをやめて、近くの山をハイキングするのはどうかと提案したところ、3人はそれを名案だと言い、明日はハイキングをすることにした。そのような夢を今朝方見ていた。

近日中に届くであろう夢分析の書籍を参考にしながら多角的に夢を探求して行こうと思う。また、夢が与えてくれた固有の感覚については、それを曲や絵として形にしていこうと思う。フローニンゲン:2020/5/18(月)05:51

5835. 「損害賠償」という言葉と国道のサバに関する記憶

先ほど夢について振り返り、すでに日記を少々綴っていた。その後、絵を少しばかり描いたので、作曲実践に取り掛かろうとしたところ、ふと昔の何気ない記憶が蘇ってきた。

夢を思い出してそれを書き留めるだけではなく、昔の記憶についても思い出したことがあれば、それを書ける範囲で書き留めておくことも何か意味があるのではないかと思った。

先ほど思い出した記憶というのは、私がまだ3歳の頃の記憶であった。その時はまだ吉祥寺に住んでいて、ある日母が出かけるために、江東区に住む母方の祖母が子守にやってきてくれた。

祖母が来てくれたことを私は嬉しく思ったのだが、家の扉を開けたときに祖母がいたことに驚き、冗談でそれは「無断侵入(不法侵入)」だと述べて、後々になって笑い話として、その言葉にショックを受けたということを祖母から聞いたことがある。

「江東区からわざわざ洋ちゃんの子守のために吉祥寺まで行ったのに、いきなり無断侵入と言われてビックリしたわ~」と関西弁訛りの言葉で言われたのを覚えている。

実は子守に来てもらったその日、私は祖母から「損害賠償」という言葉について教えてもらっていた。3歳の子供にふさわしい話題かどうかわからず、またどうしてそのような話題になったのか不明だが、線路への飛び降り自殺が一番不幸な死に方であるということを祖母から教えてもらった。不幸というよりも、残された家族に迷惑がかかるというようなことを教えてもらっていたように思う。

そのときに、「損害賠償」という言葉が出て来た。線路へ飛び降り自殺をした場合には、鉄道会社から家族に損害賠償が請求されるということを聞き、残された家族にも鉄道会社にも迷惑がかかるというような話が印象に残っていた。

実はそれ以上に印象に残っていることがあり、それは私の関心を大いに引いた。線路に飛び込んだ際に人体が列車に巻き込まれるという現象があるらしく、その現象に興味を持った自分がいた。それは少しばかり危ない関心であることは幼い頃の私もなんとなくわかっており、誰にも言わない形でその関心を持ち続けていた。

その後私は、小学校2年生の春に山口県に引っ越した。まさに今朝方夢に出てきた親友(YU)とある日学校から帰っていると、魚屋の前にサバが落ちていた。それを見た瞬間に、「これだ!」と私は思った。

3歳の時に祖母から列車の巻き込み現象について教えてもらい、どうしてもそれを実験して検証してみたかった私は、サバが地面に落ちている姿を見てとても喜んだのである。そのサバを使えば、擬似的に巻き込み現象の実験と検証ができると思った。

親友にその案を伝え、早速私たちは、サバを国道に置いた。その国道を走るバスを列車に見立て、そのサバを轢かせてみることによってサバがどうなるかを検証してみようと思ったのである。

遠くの方からバスがやってきたときのあの興奮。そしてバスに轢かれたサバが見事に車輪に巻き込まれた瞬間、その光景を見て、親友と私は大はしゃぎしたのを先ほどふと思い出した。

そこから私は、「損害賠償」という言葉から、さらにまた別の記憶について思い出していた。小学校4年生の時、法律を学びたくなったので父に相談したところ、それじゃあということで、近所の本屋に行って法律関係の本を買ってくれると述べた。

早速本屋に向かい、その道中、父から色々と問いを与えてもらった。まずは主要な法律分野に、「民法」「刑法」「商法」があると教えてくれ、その3つの中から小学校4年生の私が何を最初に学ぶのがいいと思うかを私に問いかけてくれた。

私は直感的に刑法から学ぶのが良さそうだと思い、それを伝えたところ、刑法の事例は小学校4年生の私でも比較的想像しやすいという点と、民法や商法は改正が多いという点を考慮すると、確かに刑法から学ぶのが良いという結論になった。そして本屋に到着し、「刑法入門」という文庫本を買ってもらったのを覚えている。

私は大学に入学するまでほとんど本を読まない人間であったこともあり、その本は印象に残っている。中学校に上がり、中学1年生の時に、朝の読書時間にその本を読んでいたのを覚えている。

私が山口県で過ごした場所は相当に長閑な場所であり、自然がとても豊かだった。その代わりに、大型の書店などはなく、進学塾などもなかった。そんな環境の中、父と同じ大学に行こうと思っていた私は、小学校4年生の時にはすでに志望大学が決まっており、中学校に上がったぐらいの時に志望大学の赤本を母にお願いして買ってもらっていたことも思い出した——記憶をより整理すると、中学校2年生の時に浮気をして、京都大学に行きたいと思い、京大の赤本もその頃に購入してもらったのを覚えている——。

私が住んでいたのが中国九州地方であったこともあってか、毎年九州大学の入試問題が新聞に掲載されており、中学生ながらも九大の入試問題を隅から隅まで眺める癖があったのを覚えている。そしていくつかの問題に正解できる自分がいて、少々嬉しくなっていたのを覚えている。新聞に掲載されたセンター試験に関しても同じことを中学生の時にしていた。そんな記憶が蘇ってきた。

それ以外にも、また別の記憶が蘇ってきた。それもまた小学校低学年の頃のものである。

山口県に引っ越した翌年ぐらいの頃だったから、あれは小学校3年生ぐらいの出来事だろうか。その時はまだ父は喫煙をしており、ある日の夜に、夕涼みがてら近所の酒屋にタバコを買いに行くのについていったことがあった。

自宅からその酒屋までは歩いてすぐの距離であった。社宅の目の前には公園があって、公園の前に差し掛かると、そこで父がふと、「公園を斜めに直線で進んでいくのと、公園の外側を回って行くのとではどちらが近いと思う?」と微笑を浮かべて尋ねてきた。

小学校3年生の私の目には、外側を回って歩く方が近いと思われたので、私はそちらの道を選び、父に公園を斜めに進んでもらうことにした。その時、歩く速度を同じにしないと比較できないからということで、お互いに歩く速さはこのくらいと約束していざ歩き始めた。

すると、私の予想とは違って、父の方が早くゴール地点に辿りついた。そこで父は、先ほどの微笑よりもより笑顔になって、「三角形の2辺の和は、他の1辺よりも長いのさ」と述べた。

その後、酒屋に向かうまでの道中、その意味について教えてもらい、「なるほど、だから公園の2辺を回った自分の方が遅かったのか」と合点したのを覚えている。

母に関する記憶については何も言及しなかったが、私は両親から直接体験と問いを通じて、随分と色々なことを教えてもらっていたのだと改めて思う。また私は、2人から何かに打ち込むことや学ぶこと、そして生きることについても言葉を介在させることなく2人の生き様から多いに感化されていたのだと気づく。

気がつけばもう朝の7時だ。これから作曲実践を始めよう。フローニンゲン:2020/5/18(月)07:18

5836. 受験の失敗に関する記憶・算数/数学に関する記憶と思い出

あまり思い出したくない記憶。そして、ふと思い出されてしまう記憶。人間の無意識にはそのような記憶が格納されている。

今、協働しているある会社さんは興味深いことをメンバーに提供していて、それは自分の家族構成から始まり、ライフヒストリーを詳細に思い出すことを通じて、今の自分がどのように形成されたかを振り返るものだ。

その会社のメンバーの方々の振り返りレポートを見て大変興味深いと思ったのだが、自分ではあまり過去の記憶について振り返らないようにしていた。しかし、今朝方にふと、夢と同様に、覚えている範囲の記憶の中で、書ける範囲のことを文字として書き出してみるというのも何か意味があるように思えた。

そうしたことから、先ほど過去の記憶について書き出していた。それがひと段落し、そこから作曲実践を始めようとして、作曲ソフトを立ち上げた時に、またしても過去の記憶が蘇ってきた。

今から作ろうとしていた曲の第一音を何にしようかと考えようとした瞬間に一連の記憶が蘇ってきた。

私は幼少時代、迷路を書くことが大好きであり、よく没頭してノートに迷路を書いていた。書いた迷路を自分で解くわけでもなく、また友達に見せて解いてもらうのでもなく、ただただ迷路を書くことが好きであり、虫眼鏡を使わないと見えないほどの緻密な迷路を書くことに没頭していたのを思い出した。

そこから20年以上経って、私はニューヨークに生活拠点を置き、ニューヨーク州とニュージャージー州の進学塾で算数や数学を日英バイリンガルの子供たちに教えていた。教え子の中に、お母さんが医者の息子さんがいて、彼が私と同じように迷路を書くのが大好きのようであり、「先生、こんなのできたよ。ちょっと解いてみてよ」と彼が迷路をよく私に見せてくれていたことをふと思い出した。

彼の迷路もまた緻密であり、それは共通である一方で、彼は人に自分の迷路を解いてもらうことにも喜びを感じているようだった。迷路を書くことに没頭する人間が自分以外にもいるのだということを知ったこともその時の喜びの1つだった。

そこからまた別の記憶に向かった。先ほどの日記の中で、志望大学がすでに小学校4年生の時に決まっていて、赤本を中学生の時に買ってもらっていたことについて言及していたように思う。そこからまずは中学校の卒業式の日について思い出していた。

繰り返しになるが、私が住んでいた場所は自然豊かな田舎であり、周りの友人で大学に行こうと思っている人はそれほど多くなかった。実際に、今でも付き合いのある4人の大親友のうち、3人は大学に行っていない。

自転車で通える距離だからという理由で選んだ高校も、大学に進学しようという強い意思を持っている人はほとんどいなかった。そうした環境にいたために、大学に行くためには1人で勉強する必要があると思っていた。

中学校の卒業式の後、友達たちは記念撮影をしたり、部活の後輩たちと談笑したりと盛り上がっていたが、私は卒業式が終わって、最後のクラスルームが終わった後、記念撮影など1枚も取らず、誰とも口を聞かないですぐに自宅に戻った。

私は別に学校のみんなと仲が悪かったわけではなく、むしろ私たちの学年はとても仲が良く、私がサンフランシスコで生活をするようになってからは、同窓会を開くようになったぐらいである。そうした関係性でありながらも、卒業式後は私は誰とも話をせずに一刻も早く自宅に帰り、自室に向かった。

そこで私が開いたのは、数研出版のチャート式IAだった。近くに本屋さえないようなこうした田舎にいるのだから、仮に大学に行きたいのであれば自分で勉強するしかないと思っていた私は、卒業式の直後から、チャート式の数学の問題に取り掛かっていたのである。そのような記憶がまず思い出された。

その後、そうした意思を持って勉強を続けていた私は、高校に入ってからの成績は良かったことも思い出した。あまり書きたくはないのだが、事実として書き留めておくと、高校に入ってから、高校1年生の秋以降の全国模試で偏差値が70を下回ることはなかったように思う。特に数学の成績が良かったのだが、高校1年生のある時、一度数学で偏差値が70を下回る時があり、母に結果を伝えたことがあった。

これは過去に何回か、そして昨年も母に聞いた話なのだが、これまで数学で偏差値が70を下回ることがなかった私に対して、成績表を見た母が思わず、「どうしたの?」という言葉を述べた。私はその時の記憶がないのだが、母はその言葉を述べた後に、私の顔が青ざめたのを見たそうであり、そこからもう2度と勉強のことで何も言わないようにしようと誓ったそうだ。そのエピソードを昨年も聞いた。

中学校の時に赤本を購入し、中学校卒業後から1人で勉強を真剣に始めた私は、高校に入ってからの全国模試で安定的に成績を取れるようになり、高校2年生の時には、もう大学入試の準備は終わったと思った。だが私は、一度受験に失敗している。

今でも鮮明に覚えているが、あれだけ得意だった数学に関して、受験に際して志望校の入試問題に1問も完答することができなかったのである。その予兆としては、高校3年生の半ばから模試の成績に陰りが見えていた。

というのも、高校2年生の時に入試の準備をもう終えたと思った私は、田舎の書店を廻り、有斐閣出版が出版している「別冊ジュリスト判例百選」などを購入し、司法試験の勉強を始め、そちらの勉強に時間を割いていたために、成績が落ちてしまったのだ。

それが影響して元々好きではなかったマークシート形式のセンター試験でも良い点数が取れず、二次試験に関しては数学が0完に終わるという結果だった。翌年、自らの意思で日本で随一の厳しさを持つ全寮制の予備校に入り、そこで男80人ぐらいと一緒に軍隊的な生活を送った。私は人生の中で、学びの面白さに目覚めた体験が2度ほどあり、それはアメリカの大学院に留学した時の体験とその予備校での体験だった。

気がつけばまだ作曲実践をしておらず、もう時刻は午前8時を回ったので、今後また予備校時代の記憶が蘇ってきたらそれについても書き留めておこうと思う。おそらく今でもまだ母校を含め、難関大学の数学の入試問題を毎年解こうとする自分がいるのは、純粋に数学が好きだからということもありながらも、同時に数学を通じて得たトラウマのようなものがあるからなのかもしれないと思う。

さてここで筆を置き、作曲実践を始めようと思ったところで、数学に関してはもう少し書き留めておいた方がいいように思った。

私は30歳を過ぎてから、理系の科学者になる道を進むことにした。知性の発達を応用数学を活用して研究しようと思ったのは、先日言及したカート·フィッシャー教授やポール·ヴァン·ギアート教授の仕事に触れたことによることが大きい。

応用数学、とりわけダイナミックシステム理論を活用した研究のメッカであったオランダのフローニンゲン大学にどうしても行きたいと思った私は、アメリカでの生活をいったん切り上げて、フローニンゲン大学に行くための準備を日本で始めた。

結論から述べると、私はフローニンゲン大学に3回出願して、3回目でようやく入学許可を得た。日本の大学院入試と異なり、筆記試験などはないのだが、フローニンゲン大学で行いたい研究が理系のものであったから、数学と統計学の前提知識がないとダメであり、2度の不合格はそれが原因だった。

その後私は、日本にいながらにして、ジョンズ·ホプキンズ大学の医学部が提供するオンラインコースに参加し、そこで統計学のコースを終了した。また、フローニンゲン大学のキャンパス訪問を兼ねて、その前にイギリスのケンブリッジ大学に行き、そこで統計解析専門のRというプログラミング言語の集中トレーニングに参加し、ジョンズ·ホプキンズ大学のコースの証明書と、ケンブリッジ大学のコースの証明書を持ってフローニンゲン大学のアドミッションオフィスに行き、これならもう事前知識として大丈夫かと確認をした。

その後、後にお世話になるルート·ハータイ教授とも面談をし、アドミッションの方と三者で面談をその場で行ってもらうことにし、その段階で暫定的な入学許可を得た。2度の不合格通知をもらう前に、最初から現地に行っておけば良かったと思ったものである。

そういえば、同様のことをジョン·エフ·ケネディ大学に出願する際にも行っていた。あの時は私はまだ会社員だったが、夏の休暇を利用してキャンパスを訪れ、そこで学科長と一対一で面談をしてもらうことによって、入学許可を得ることになった。

そうだった。一応今の話の主軸には数学があったのだった。今はもう直接的に数学を使って発達研究をしているわけではないが、数学的な発想は作曲実践の中にも活きている。

手元には、数学を活用して作曲をしたヤニス·クセナキスの作曲方法に関する書籍や、幾何学的な観点から作曲について取り上げている書籍などもあり、作曲においても数学的な関心が見られることに気づく。そのようなことを思いながら、私が先ほど書こうとしていたのは、自分の数学的な知性の発達プロセスについてだった。

高校時代の数学の成績や、その後大学では金融工学で数学を活用したり、さらにその後は発達研究で数学を活用することになったのだが、自分の数学的な知性の発達はとても遅かったように思う。ここでも少しエピソードが思い出された。

中学校に入ってから数学の成績は悪くはなかったが、自分の中では、数学の抽象的な世界に馴染みが持てず、数学よりも英語の方が得意だと思っていて、自分の中では数学はむしろあまり得意ではないと思っていたほどだった。その観点からすると、私は数学の知性の発達は遅かったように思う。ここで少し不思議なのは、より具体的な世界を扱う算数に関しては小学校の頃大好きであり、そして得意だった。

今でも覚えているが、小学校2年生の時に、百マス計算のタイムを競うようなことが行われており、私がその学校に引っ越してくる前までは一番計算が早かった算盤を習っている友人が、私の計算があまりにも早いことに驚いたということを後日笑い話として聞いた。

その時に彼は家に帰ってからお母さんに、「東京から転校して来た彼は計算が早くてびっくりしたんだけど、彼曰く、東京では普通だったんだって。東京とここではレベルが全然違うね」と述べたそうだ。そんな微笑ましいエピソードがある中で、また算数関係で思い出したエピソードがある。

このエピソードについては過去数年の間に何回か思い出すことがある。小学校4年生の時、どこかの連休を活用して家族旅行に出掛けた。父が有給を活用したのか、家族旅行の最終日はもう学校が始まる日であったが、せっかくなのでということで、私は学校を休んで旅行に出掛けた。

小学校の時にお世話になった先生の名前は今でも全員覚えていて、今の自分の人格形成に大きな影響を与えてくれたと思っている。4年生の時にお世話になっていたのは、非常に厳しい女性の先生だった。

旅行から学校に戻ってきた初日、私は学校を休んで旅行に出掛けたなどと一言も述べていないのだが、旅先で足を運んだ陶器屋さんかどこかで、母が商品の金額を多く払い過ぎてしまったようであり、私たちは山口県からやって来たことを伝えていたので、その店の方が親切にもあの手この手で私が通っている学校を突き止めてくれたようだった。

学校があるはずなのに学校に行っていない子供がいて、彼は山口県の小学校に通っているようだということで、教育委員か何かに連絡して、私の居場所を突き止めてくれ、多く払った代金を後日家に送ってくれた。

連休後に学校に戻って来た初日、普段と変わりなく授業が行われた。私も連休前と何も変わらず授業を受けていたのだが、学校が終わっていざ下校しようとした時に、先生に呼び止められ、先生と少し言葉を交わした。

先生:「加藤君、休んだ日の宿題、今ここでやってから帰りなさい」

:「いや、家でやって来ますよ」

先生:「ダメよ。病気で学校を休んだわけじゃないんでしょ?連絡があったのよ。旅行で学校を休んだんでしょ」

:「別に休みたくて休んだわけじゃないですよ。それに、その算数の宿題、みんなであれば1時間ぐらいで終わるものなんですよね?だったら、僕なら1分で終わりますよ」

先生:「だったら1分でやってから帰りなさい」

そのようなやりとりがあった後、先生も私もお互いに譲らず、お互いに興奮気味であったが、一応私は先生の言うことに従って居残りをすることにした。先生には強がって述べたが、算盤も習っていない私はどういうわけか、本当に他の生徒たちよりも計算が5倍から10倍ぐらい早く、宿題など家に帰ってすぐにできると思っていた。それを先生もわかっていたようだが、先生はどうしても学校に残って昨日の分の宿題をするようにと命じた。

正直なところ、私は早く家に帰って友達と遊びたかったので、かなりムクれて席に着き、いやいや算数の宿題に取り掛かった。日暮れの時間が近づいて来ていたのか、印象として教室の窓から見えた空が夕日に染められていたように記憶している。

結局、どれくらいの時間がかかって宿題を終えたのかわからないが、宿題をしている最中、先生は机で自分の仕事に取り掛かっていた。それは、私たちの宿題の様子を見ていたり、私たちが書いた日記を読んでくれていたのだと思う。

このエピソードを思い出すたびに、私は両親と先生に感謝をする。まずは、学校を休んででも旅行に連れていき、旅でしか得られない体験をさせてくれた両親に対する感謝である。

そう言えば、このエピソードとそれに伴う感謝の念は、昨年一時帰国して実家に帰った際に両親に伝えていたように思う。両親への感謝の念に加えて、なんと言っても先生に対する感謝の念を覚えずにはいられない。

正直なところ、当時の私にとってみれば、居残りを命じた先生は憎たらしく思えたが、今になって思うと、自分には他の仕事がたくさんある中で、1人の生徒を残して宿題の面倒を見ることなどできるだろうか。

私もアメリカの最後の1年間では教師の仕事と研究員としての仕事を掛け持ちしていたのだが、先生と同じような立場にあったら、果たして一緒に残って勉強を見ていたかと問われると、答えに窮する。

先生はきっと私のことを親身に思って一緒に居残りをしてくれていたのだろう。自分が宿題をぶつくさ文句を言いながらやっている最中も、黙って他の生徒の宿題を確認したり、生徒の日記を読んでコメントを付していた先生の姿が蘇る。先生が自分に注いでくれた愛情が今ならわかる気がする。フローニンゲン:2020/5/18(月)08:55

5837. 幼少時代の思い出の続き

今日は少し不思議な日だ。早朝の4時前に起床し、もう時刻は午前9時を迎えようとしているのだが、まだ日記を綴ろうとしている自分がいる。

今朝はうっすらとした雲がフローニンゲン上空を覆っていて、日中は気温が20度近くにまで達するようだが、今は肌寒い。今日から月曜日ということだが、フローニンゲンらしく、休日と変わらない長閑さがある。

当地において、もうコロナは随分と落ち着いており、この分だと来月のアテネ旅行は無事に行えそうだ。もう航空会社からフライトのキャンセルの連絡はないだろう。

コロナの一件で外出が自粛され、多くの人の生活習慣は変わったという話を聞くが、ふと私は、この9年間の欧米生活において、人々がコロナによって自宅に篭っていたのと同じような生活をずっと続けていたことに気づいた。

自分の時間を多く持ち、自宅で探究活動に従事することを、この9年間異国の地で1人ずっと行っている。正直なところ、コロナの前と後でほとんど生活は変わっていない。そのようなことを思いながら、またしても幼少時代のことを思い出していた。

先ほど、幼少期に迷路を書くことに没頭していたと述べたが、迷路は脳内の神経回路の投影であり、緻密な迷路を書けば書くほどに、自分の脳内回路が発達していたのではないかとふと思った。その科学的な根拠は定かではないが、迷路を書くことの効果には何かしらのものがあり、また先ほどの日記で言及した私と同じく迷路を書いていた教え子のように、迷路を書くことに没頭する子供には何か共通したものがあるのかもしれないと思う。このあたりについても今度調査をしてみようと思う。

今日はまだ日記しか書いていない。起床から5時間が経とうとしているが、それまでに行ったことと言えば、ヨガと座禅瞑想、そして日記の執筆と絵を少々描いただけである。肝心の作曲実践はまだしていない。

今日は無性に言葉が形になろうとする日なのかもしれない。そこからふと、これまでに何回か言及したことのある、小学校2年生の時に爆発的に日記を書いたあの日のことが思い出された。

私が住んでいた地域には珍しく、ある日、1学年下にブラジル人の転校生がやって来て、日本語が全く喋れない彼と友人とで遊んだ出来事がある。

ブラジル人の彼は、私たちにかまって欲しいという気持ちがありながらも、少々喧嘩っ早い気性を持っており、彼と喧嘩をしてしまう出来事があった。その時のエピソードを、喧嘩に至る発端から情景描写までを、およそ30日分の日記のページを使って一気に書き上げたあの時の執筆体験を思い出した。

自分の内側には形になることを待っているものが無限に存在していて、それを何か爆発的な力によって外に形象化させていくということは、あの時もそうであろうし、今もそのような特性が見られる。

今はもっぱら、内側で形を待つものを言葉だけではなく、音や絵としても表現している。言葉だけでは表現しきれなくなるという臨界点に達したがゆえに、作曲実践と絵画の創作が自分のもとに降って来たようにさえ思える。

幼少時代の不可解なエピソード。あれも私が小学校2年生の時のことだった。

山口県への転校を済ませていたから、5月以降のことだろうか。いや、本当に転校直後のことだったかもしれない。その時にちょうどJリーグが開幕したのである。開幕戦をテレビで観戦していたのを今でも覚えている。

東京から山口県に転校した初日、聴き慣れない山口弁を話す子供たちに囲まれ、さらには登校の際に、足のふくらはぎがやたらと発達している子供たちを見て驚いたのを覚えている。東京の学校では私服だったので、制服を着ることにもすごい違和感があった。

今でも覚えているが、母と一緒に制服を選びに行った時、幼いながらも、制服と合わせてかぶる冬用の帽子が戦争時代の子供たちの格好のように思われ、とても嫌だったのを覚えている。また、登校用の靴も指定されており、その靴が白いトイレのスリッパのように見えてしまい、そんなものを履いて学校に行くのかと少々不安に思ったのを覚えている。

そうした不安も一気に解消したのは、学校に到着した初日に、元気一杯に話しかけて来てくれた優しい友人たちの存在だった。あの日の光景が今でも鮮明に忘れられずに残っている。

そこから私は、近所に住むクラスメートの友人と登下校をするようになり、まずは山口弁が話せるようになる必要があると思って、彼からそれを教わった。いくつか特徴的な単語を覚え、語尾の感覚を早々と覚えた後は、より速やかに学校に溶け込んでいけたように思う。

山口県の長閑な環境で過ごせたことは私にとっての大きな財産となっており、転校に関して苦労したことはほとんどなく、上述の制服と靴に関すること以外は何も不満はなかった。

ただ一点、これも母と時々懐かしく笑いながら思い出すのだが、私が山口県に引っ越した初年度の社宅では、テレビ朝日が映らなかった。そこで私は、好きだったアニメが見られなくて泣いたことがあった。山口県に来たことを呪ったのは、その時だけだったように思う。

母は私が、「ドラえも~ん」と泣きながら叫び、ドラえもんが見られないことを嘆いていたと言う。私の記憶では、ドラえもんではなく、クレヨンしんちゃんが見られないことに対して泣いていたように思うが、母は「テレ朝が見られなかったのだからドラえもんよ」と譲らない。

調べてみると、クレヨンしんちゃんもテレ朝で放映されていたから、やはり私の記憶の方が正しいように思えるが、確かに「ドラえも~ん」と泣きながら叫んでいたような記憶がないでもない。3階の社宅の窓から目の前の公園が見えて、十分泣き終えた後に、ドラえもんが夕日を浴びながら公園に佇んでいるような哀愁的感覚があったのを覚えている。

不可解なエピソード。そうであった。それについて書き留めておこうとしていたのであった。

後1時間ほどで協働者の有馬充美さんとの「一瞬一生の会」の第2期が始まる。その準備もあるので、取り急ぎ、当初書こうとしていた事柄に戻ろう。

Jリーグ開幕のエピソードについて書こうとしていたのであった。Jリーグが開幕してすぐの頃、ニッセイかどこかの生命保険会社から、Jリーグの選手名鑑が送られて来た。それは立派な書籍というよりも、冊子のようなものだった。

Jリーグが開幕した時に私の中で違和感があったのは、なぜ周りの友達たちは知らないサッカー選手たちがプレーしている姿を見て楽しんでいるのだろうかというものだった。当時の私は、選手たちを詳しく知って初めて面白くサッカーが観戦できると考えており、その選手名鑑が届けられたことを大変喜んだのを覚えている。

そこから私が行ったのは、朝5時ぐらいに起き、学校にいく前に、選手名鑑に記載されている全選手の名前、生年月日、身長体重、出身高校を全部覚えることだった。登校前の時間だけではなく、学校から帰って来てもそのようなことを行っていたように思う。

なぜかそのような記憶がふと蘇って来た。その時の没頭感覚というのは今の日々の活動への取り組み姿勢と瓜二つである。

時刻はもう午前10時を迎えたので、そろそろ日記の執筆以外のことに取り掛かろうと思う。フローニンゲン:2020/5/18(月)09:57

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

© 2013 All rights reserved by Yohei Kato

 

免責事項:当サイトを利用したウェブサイトの閲覧や情報収集については、情報がユーザーの需要に適合するものか否か、情報の保存や複製その他ユーザーによる任意の利用方法により必要な法的権利を有しているか否か、著作権、秘密保持、名誉毀損、品位保持および輸出に関する法規その他法令上の義務に従うことなど、ユーザーご自身の責任において行っていただきますようお願いいたします。

 

当サイトの御利用につき、何らかのトラブルや損失・損害等につきましては一切責任を問わないものとします。当サイトが紹介しているウェブサイトやソフトウェアの合法性、正確性、道徳性、最新性、適切性、著作権の許諾や有無など、その内容については一切の保証を致しかねます。当サイトからリンクやバナーなどによって他のサイトに移動された場合、移動先サイトで提供される情報、サービス等について一切の責任を負いません。当サイト内には、他の著作物から引用し、文章を作成している記事がございます。万が一、著作権に抵触する場合にはお知らせください。速やかに対処させていただきます。