No.326 希望の力_Power of Hope
本日の言葉
Contemplate all sentient beings, since all wish for happiness and reject suffering. Gendun Drup
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タイトル一覧
5811. 今朝方の印象的な夢:おどろおどろしい無意識の世界と大学入試
5812. 今朝方の夢の続き
5813. 悪行の導引と人間社会
5811. 今朝方の印象的な夢:おどろおどろしい無意識の世界と大学入試
時刻は午前6時を迎えた。穏やかな土曜日の早朝世界が目の前に広がっている。
朝日はまだ赤レンガの家々に反射していないが、辺りはすでに明るい。青空を気持ち良さそうに飛ぶ鳥たちの姿が見える。
昨日に引き続き、今日も気温が高く、日中は20度を越すようだ。明後日からは、再び最高気温が10度ほど、最低気温が5度前後の日が続く。
今日はいくつか印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、巨大な洞窟のような地下世界にいた。その世界の中を飛んでいる自分がいて、その世界の中は暗いのだが、目を凝らせば何とか遠くのものが見えた。
端的には、その世界はどこかおどろおどろしい感じがあった。飛行中の高度調整が難しく、一度地下世界の底まで沈み込んでしまう瞬間があり、底には無数の骸骨やしかばねが転がっていた。そうしたおどろおどろしいものがその世界の底に転がっている一方で、その洞窟のような世界を取り囲む壁には壁画や宗教画が描かれていた。それらはどれも尋常ではないほどの大きさであった。
そのような場面があったのを覚えている。起床後、この夢について振り返っていると、それは自分の無意識、ひいては人間の無意識全般の姿なのかもしれないと思った。
私たちの無意識の奥底には、おどろおどろしいものが存在していて、それと同時に、文化的なものや宗教的な何かが横たわっているのだと思ったのである。最初の夢は、私に大きな印象を与えた。
次の夢の場面では、私は大学の図書館にいた。雰囲気からすると、日本で卒業した大学の図書館のようだった。
実際の大学図書館にはないが、夢の中のその図書館の1階は書店になっていて、そこで書籍を吟味していると、小中学校時代の女性友達(KK)に出会った。彼女の他にも2人ほど女性がいたが、よく顔を確認することができなかった。本を選んでいる私に彼女は声をかけてきた。
どうやら彼女は、大学の4年生の時にインターンをすることを考えているらしかった。しかし、あと少し大学に通って単位を取る必要があるようであり、インターンの勤務時間と授業が重なりそうであり、その点を懸念していた。インターンも学業も中途半端になってしまい、果ては大学を卒業できないことになってしまうのではなないかということを心配しているようだった。
彼女に対して私は、インターンはあまり勧められないと伝えた。大学に在学中はとにかく大学の勉強、あるいは自分が探究したいことを勉強していく方が望ましいのではないかと伝えた。
それに加えて、そもそもインターンで行えることや垣間見えることなど微々たるものであり、それは社会に出たら否が応でも学ぶことであると伝えた。端的には、インターンはちょっとしたスタートダッシュにすぎず、しかもそのスタートダッシュは微々たるものであり、どうせ社会に出たら同じようなところから始まるのだから、特権として与えられている学生時代をそのようなことに使うのはもったいないと伝えたのである。
すると、私たちの横に、高校時代にお世話になっていた小柄な女性の先生が立っていた。先生は微笑みながら私たちの話を聞いており、先生の表情から先生が言わんとすることが察せられ、私は友人の彼女に対して少しばかり強く自分の考えを述べすぎたように思われた。そのため、話の最後に、「これは自分の考えだけど」と付け加えたところで彼女と別れた。そこからまた私は、書籍の吟味を書店で行い始めた。
次の夢の場面では、私は旅館の畳部屋にいた。そこはどうやら大学入試の会場のようだった。
私の手元には、東京大学の数学の入試問題が4題ほどあった。試験時間は十分なものであり、比較的余裕を持って解けるのではないかと思った。
いざ問題に取り組んでみると、私の左隣に若い女性がいて、彼女も入試を受けているようだった。その他にもあと2人ほど人がいて、どうやら私たちは4人で協力して問題を解いているようだった。
さらにこの試験が変わっているのは、持ち込みが可能であることだった。実際のところは、事前に入試問題が知らされており、その解答を準備してきて良い形になっていた。
隣の女性は第2問に苦戦しているようであり、彼女は解法アプローチとして場合の数の考え方とネットワーク理論を活用しているようだった。特に後者の理論は応用数学の分野のため、そうした考え方を入試問題に適用する必要はないと思われた。そこで私は、自分の解法を彼女に共有した。そちらの方がシンプルにかつ正確に問題が解けると思ったからである。
気がつくと、残り2人の男性はもうその場にいなかった。彼女も残りの問題については最後まで解答する必要がないと思ったらしく、その場を後にしようとしていた。
彼女の目論見としては、部分点狙いで、2問完答プラスアルファで十分に合格するとのことであった。その場に1人残った私は、引き続き全ての問題を最後まで解こうとした。どうしても答えまで辿り着けない問題があり、私は3問完答プラスアルファほどになった。
すると、今度は私の目の前に、一橋大学の数学の問題が5題ほど現れた。先ほどの東大の問題は、基礎的な事柄を尋ねるよく練られた良問が揃っているように思えた。基礎が本当にわかっていたら、初手も速やかに思いつき、問題を解き切ることはそれほど難しくないと思われた。
一方の一橋大学の問題は、取っ掛かりが非常に難しいものが多く、初手を選ぶのに苦戦している自分がいた。問題選択に関しても、微積分が絡む得意の関数の問題から始めるのか、それとも力技で数え上げていくことが可能な場合が多い確率の問題から着手するのか、そのあたりも悩んでいた。
先ほどの東大の問題は、幾分誘導が付いており、親切に思えた。一方で、一橋の問題は、誘導が一切なく、一見すると不親切のように思えたが、むしろ問題の簡潔さが美しく思えた。それはどこか禅的な美しさがあった。
いずれにせよ、どちらの大学も、とりわけ文系であれば数学の出来が合否を分けると言っても過言ではないので、私は最後まで粘って問題を解き続けていた。そこで夢の場面が変わった。
この夢のように、私は時々大学受験に関する夢を見ることがある。そして今でもふとしたときに、大学の入試問題を見て、それを解くことがある。
興味深いことに、当時は難しく感じられていた英語や国語の問題がとても簡単に思える自分がいる一方で、世界史の論述に関しては知識が抜け落ちているためにとても難しく感じられ、数学についても最後まで答えを出せるようなものがほとんどなくなっていることに気づく。
先日も、2020年の難関大学の数学に関してはほぼ全ての問題に目を通した。するとやはり、解法は思いつくものが多いのだが、計算力が落ちているのか、最後まで答えに辿り着けなさそうな問題が多かった。
このように毎年入試問題を見ていると、日本の大学が求める人材要件は今も昔も対して変わっていないことが窺われ、アメリカと同様に、凡夫の世界に執着するためのゲームが相変わらず行われていることに気づく。
入試問題の解法がいくら思い付こうが、自己を凡夫の世界から解放させなければ全く意味がないのにと思ってしまう。こうした仕組みが依然として存在しているがゆえに、その仕組みによって調教された知性しか持たないエリートが世界を蝕むという現象が生まれているのだろう。フローニンゲン:2020/5/9(土)06:43
5812. 今朝方の夢の続き
時刻はゆっくりと午前7時に向かっている。この落ち着き。そして平穏さ。フローニンゲンの街を形容するにはそれらの言葉がふさわしい。
また今の季節は本当に過ごしやすい。先日にひょんなことから、昨年の夏の時期に行われていたオンラインゼミナールの音声ファイルをいくつか改めて聞いていた。
すると、8月の半ばに録音したものがあり、そこで私はフローニンゲンの気温について言及しており、8月半ばでも気温が20度前半の日があるとのことであり、大変過ごしやすいと述べていた。確かに、夏は数日ほどものすごく暑い日があるのだが、そうであったとしてもオランダの一般家庭にはクーラーなどなく、カーテンを閉めて窓を開けていれば何とかなってしまう。今年もそうした夏がやってくるだろう。
フローニンゲンでの生活も気がつけば5年目に入る。毎年夏の感じ方、そして夏から学ばされることは異なり、それを見ていると、自分自身が絶えず変化しているのだと気づく。自分自身が変化を続けていれば、気づくことや学ぶことは必然的に変わってくるのである。長い冬を通り抜けた新たな自分は、きっとこの夏をまた新鮮な気持ちと在り方で過ごすことになるだろう。
絶え間なく変化する自己と、絶えず新鮮な気持ちで過ごす日々。自分の人生はそのような形で緩やかに進行していく。気がつけば朝日が昇っていたように、気がつけば満月が消えていたように。
今朝方の夢について先ほど振り返っていた。随分と多くのことを書き留めていたように思うが、夢にはまだ続きがある。それらについても書き留めておきたい。そしてそこから、夜の9時半まで創作活動に励んでいく。
仮に実際に手を動かして創作物を作っていなかったとしても、その他の時間も絶えず創作に関することを考えているように思えるため、トータルすれば、やはり毎日15時間ほどは創作活動に従事していると言えるかもしれない。それでいて全く疲れることはなく、むしろ自分が活き活きしてくるのがわかる。
自己というのは創造的な生き物であり、本質的に絶え間ない産出活動に従事しているのだから、内側で形になることを待っているものを形にしていくことで自己の存在基底が喜びに震えるというのは当然のことかもしれない。
そうであった。夢の続きを振り返ろうとしているのであった。
聞こえてくる小鳥たちの鳴き声によって瞑想的な意識状態になる。その状態の中で夢を振り返っていこう。
いや、その前に今一口飲んだ大麦若葉の味について書き留めておこう。これは街の中心部のオーガニックスーパーで売られているものである。
瓶詰めにされているこの大麦若葉を先日に切らしたので、数日前にそれを購入した。すると、以前と全く同じ商品なのだが、味がより香ばしくなっていることに気づいたのである。より深い味わいになっており、それは好ましい変化だった。
私は普段、有機栽培かバイオダイナミクス農法で作られたものしか摂取しないのだが、それらの栽培方法で作られているものは味や栄養の観点から素晴らしいだけではなく、日によって大きさや形などが変わることも面白いと思っている。
バナナ、リンゴ、トマト、ジャガイモ、サツマイモなどは毎回表情が違う。季節によって大きさが随分異なることもある。冬には肥大したリンゴやトマトを見ることも多く、それらを見るたびに、ノルウェーのベルゲンのホテルで偶然見たディスカバリーチャンネルの北極特集が思い出され、寒さの厳しい地域で育てられた生物のたくましさを思う。
果たして自分は北欧に近いこの場所で4年間生活することを通じてたくましくなったのだろうかと考える。自己という存在を編む糸がより密なものになったことは間違い無いだろう。以前よりも糸が張り詰められ、その強度も増し、それでいて全体としての織物には柔らかさがある。そのようなイメージが思い浮かぶ。
何の話をしていたかというと、大麦若葉の味である。そう、それは以前のものよりも香ばしくなっていて、味が変わっていたのだ。こうした微細な変化に気づけることの大切さを昨日も考えていた。
就寝時間を15分早めてその変化に気づけないような鈍感な内的感覚はいかほどかと考えていた。その他にも、生活上、実践上、学習上の諸変数を特定し、変数の種類·量·質を変化させたことによっていかような変化が生み出されたのかに気づけないほどの鈍感な感覚ではダメだと改めて思ったのである。そのようなことを昨夜考えていた。そこからの夢である。
夢の続き。夢の中で私は、ある知人の方と食事の約束をしていた。場所は東京の都心部であり、待ち合わせ場所の店はオフィス街ではなく、雰囲気の良い下町にあった。
待ち合わせ時間は午後8時半と少々遅いが、そこは初めていく場所だったので迷ってはいけないと思い、早めに到着するようにした。すると、8時15分に店に到着することができた。
すると、知人の方はもうその場にいて、挨拶をすると、どうも機嫌が悪そうだった。するとその方は、怒りを押し殺した表情の中、口を開いた。
知人:「加藤さんは待ち合わせがある時にはいつもこれくらいの時間に来られるのですか?」
私:「早すぎましたか?すいません」
知人:「いえ、8時半に約束したのだから、30分前の8時に来るのが常識でしょう」
知人はそのように述べた。私はてっきり早く来すぎたことをその方は怒っているのかと思ったら、むしろ逆のようだった。5分前集合ならまだしも、30分前集合など聞いたことがなく、随分と理不尽な怒りをぶつけられたものだと思った。
その方は依然として不機嫌そうであり、そのような状態で一緒に飯を食べても飯が不味くなるだけだと思い、私は嫌気がさして、今日の食事を丁重にお断りしてその場を後にした。
次の夢の場面は、そこから続いているものだった。私は東京駅近辺にいて、空を飛んでいた。
ある会社に行って講演会かセミナーをする予定になっているようであり、その場所に向かおうとしていた。すると気づけば自分はある大学にいた。それは母校のような雰囲気を持っている。緑豊かな場所に校舎があって、校舎の裏の通りを歩いていた。
すると、現在協働中のある方が現れ、その方と一緒にこれから大学で講演をすることになっていることを知った。大学の裏道をその方と歩いていると、後ろから誰かの独り言が聞こえた。振り返ると、そこには台湾人の中年の男性教授がいた。
その教授は手元のカメラをいじりながら英語でぶつくさと何かを述べていた。「どうかしたのですか?」と私は英語で話しかけたところ、その教授はにっこりと笑みを浮かべ、ちょっとカメラの調子がおかしいと述べた。
するとすぐに調子が戻ったようであり、試しに目の前の公園で遊んでいる子供たちを写真に撮ってみようとその教授が述べた。どうやらうまく撮れたようであり、カメラが元に戻ってその教授はさらにご機嫌のようだった。
するとその教授は、懐かしさを醸し出す日本の童歌を口ずさみ始めた。私も協働者の知人も、それはどこかで聞いたことのある歌であり、懐かしく感じていた。
どうやらその教授は、母か祖母が日本人らしく、日本のルーツがあるようだった。教授が童歌を口ずさむのを聞きながら、大学の講堂内に入り、エスカレーターに乗った。その時に、私もその歌を口ずさみ、なんとかその曲の名前を思い出そうとするもなかなかそれができなかった。知人の方も同じことをしてみるものの、曲の名前を思い出すことが難しかった。
すると、エスカレーターの後ろに立っていたその台湾人の教授が続きの箇所を全て歌い上げ、私たちは歌詞すらもおぼつかなかったので、彼のその記憶力に感服した。
エスカレーターを降りると、台湾人の教授も知人もいなくなっていた。見ると、そこはレストラン街であった。
ちょうど昼食時であり、講演までまだ時間があったので、どこかレストランにでも入るかと思った。新鮮な野菜や魚で有名なバイキング形式のレストランが目に入ったので、そこに入ると、大学時代のゼミの友人(TA)と偶然出会った。
私は水だけ注文し、彼はかなりいろいろなものを取っていた。レジの店員はペットボトルの水のバーコードをスキャンすると、ちょっと待っていてくださいと述べてどこかに行ってしまった。
彼を待つ間に、友人と話を始めた。自分が肉を食べることをやめてしばらく経つということを伝えると、彼はどこか不思議そうな表情を浮かべていた。あるいは、それは信じられないというような表情を浮かべていた。
肉を食べないことによって、心身が浄化され、自分のエネルギーが溢れかえっていることを彼に伝えると、彼はいきなり恐怖について話をし始めた。人間は恐怖を感じるから生きていけるのだというような話だった。
それに対して私は、恐怖というのは自分の認識が生み出す産物であって、それによって自己を制限してしまうのはどうかと述べた。そのような主張をすると、彼はだんまりしてしまった。
そのような会話をしていても、店員はまだレジに帰ってこなかった。もう支払いを済ませたのになぜ待つ必要があるのかと疑問に思っていたところ、別の店員がレジにやってきて、さらに安い水が近くの店にあり、それを取りに行ってくれているとのことだった。もうしばらくレジで待っていると、静かに夢から覚めた。フローニンゲン:2020/5/9(土)07:36
5813. 悪行の導引と人間社会
時刻は午後7時を迎えた。つい今し方夕食を摂り終えた。
穏やかな夕日の光がフローニンゲンの街に降り注いでいる。土曜日が静かに始まり、そしてこのように静かに終わりに近づいていく。
今日は午後に、久しぶりに映画を見た。少しばかり古いが、『マイノリティ·リポート』という映画を見た。
この作品から考えさせられることは多く、高度に発達した技術の活用とそのジレンマに関する論点について特に考えさせられることがあった。それは人間の発達を商品化する問題や、発達測定を社会的に活用することに関する問題も提起している。それらについては追々文章を書き留めておこうと思う。
それらの論点以外にも、人間はつくづく絶えずバグを内側に抱え、そしてバグを絶えず生み出す存在なのだということについても考えていた。人間の中に潜むバグを全て取り除くことはできない。仮にそれが一時的にできたとしても、再び自然発生的にバグが生じる。
それは心の中の隙のようなものであり、それと人間が根源的に持つ欲求や心の闇と相まって、人は過ちを犯す可能性を絶えず内包している。いかなる人間も魔が刺しうるということ。心の中には魔が常に存在しているのだ。
自分の中に悪魔がいるということを認識しているということは、暴走を防ぐ最低限の手段になりうるが、人は本当にいとも簡単に暴走するような生き物だと思っておいた方がいいように思う。そのような現象は後を絶たず、自分に引き付けてそうした現象を考えてみた時に、果たしてどれくらいの人が魔が刺さないと言えるだろうか。
おそらくそのようなことを言える人はゼロであろう。仮にそのようなことが言える人がいたとしても、魔が刺さない人間などゼロであろう。
私たちは心の中に、そして社会の中に絶えずバグを生み出し続ける性質を持っている。そうしたバグは悪の通り道となる。それは悪行の導引となり、それが消え去ることは決してない。
人間の中にはもちろん善性が存在しており、善行をなすことができるのは否定できない。だが私たち人間社会は皮肉なことに、諸々の複雑な技術を発達させすぎてしまい、ひとたび悪が暴走し始めるともはや手がつけられないものになっている。
人間社会の運命はどうなってしまうのだろうか。それについてこのところ考えてみることが多くなった。考えざるを得ない何かが自分の中にあるようなのだ。明日もまたこの問題に考えを巡らせるかもしれない。フローニンゲン:2020/5/9(土)19:27