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5803-5808: アートの国オランダからの便り 2020年5月7日(木)


No.299 光のシャワー_A Shower of Light

本日の言葉

Beauty is a heart that generates love and a mind that is open. Thich Nhat Hanh

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本日生まれた11曲

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タイトル一覧

5803. 早朝世界の美しさ:生命の流れとしての旋律と筆

5804. 生命運動としての自然な創作活動:その人を偽りなく語る表情と目

5805. この世界の外に立つこと:常人と狂人

5806. 今朝方の夢

5807. 幼き日に決定しているもの:円環かつ縁環としての人生

5808. 命の流れと命の鼓動:名付けについて

5803. 早朝世界の美しさ:生命の流れとしての旋律と筆

時刻は午前5時半を迎えた。午前5時あたりのことを思い出すと、その時には、ダークブルーの空に見事な満月が浮かんでいた。ところがこの時間帯になってしまうと、もう空が明るくなっており、満月は見えなくなってしまっている。

早朝に満月が見れることは、早起きの特権のようだ。あのような美しい満月を見れるのであれば、それは早起きをしたくなってしまう。

そうなってくると、夕食を軽めにして就寝中に消化活動にエネルギーを充てないようにすることや、就寝前に脳を十分に休めるようにしてから就寝に向かおうとすることも理解できる。それらは全て、翌日早く起きるために必要不可欠なことであり、早く起きて早朝世界の美しさを堪能し、その感覚を持ったまま1日の創作活動を始めるためなのだ。

このところは、書斎から見える景色も随分と彩り豊かになった。とりわけ、新緑の生命が持つ力強さには目を奪われる。

新緑の木々に小鳥たちが集まってきて、そこで奏でられる合唱も見事だ。それは派手さはないかもしれないが、心を深く大いにくつろがせてくれるには十分である。それは心と魂の癒しと肥やしをもたらしてくれる。

今も小鳥たちは、私に癒しと肥やしを与えてくれている。彼らは本当に1日中美しい鳴き声を上げ続けてくれているのだ。そんな彼らに感謝をし、自分にできる返礼をしていこう。

創作活動に勤しむことが間接的な返礼である。自分がこの世界に対してできることは、それしかないのだから。

新緑の木々たちは、今早朝世界に静かに佇んでいる。今朝は風がなく、彼らの佇まいは凛としている。果たして、私たち人間の佇まいはいかほどのものだろうか。そこに凛とした佇まいはあるだろうか。

一昨日の夜にふと、今から5年ほど前に1年ほど日本で生活をしていた時、父方の祖母の家に足を運んだことを思い出した。その時に祖母が、「人生が充実していることを示すいい表情をしている」と述べてくれたことを覚えている。

表情、そして眼にはその人の全てが現れる。しけたつらではなく、活き活きとした表情。死んだ魚の目ではなく、精気に満ち満ちた瑞々しい目。

ふとした時に私は、自分の表情と目を確認することがある。そこには生命力に満ちた顔と目がある。

この話から派生して、昨日は、作曲実践中に、旋律について少しばかり考え事をしていた。端的には、旋律は命の流れとして捉えることができる。そしてそれは、絵画の創作における筆の流れと似ている。

旋律も筆も、どちらも生命の流れなのだ。そうした観点で作曲と絵画の創作に取り掛かっていこう。そして絶えず、自分の生命の流れがいかなるものかについて意識を向けておこう。そうした流れそのものを育んでいくことも合わせて行っていく。

生命の流れという観点は、鑑賞の際にも保持しておこう。作曲家や画家たちがどのような生命の流れを持っていたのか。そしてそれをどのような形としてこの世界にあらしめたのか。そうした点にも関心を持っておきたい。フローニンゲン:2020/5/7(木)06:03

5804. 生命運動としての自然な創作活動:その人を偽りなく語る表情と目

今日もまた天気に恵まれるようだ。朝からウキウキとした気分になってしまう。

晴天に恵まれ、創作活動に打ち込めること。それがどれだけ有り難いことか。

毎日が充実感と幸福感の流れの中で進行していく。それは本当に水の如しである。

日々は充実感と幸福感の水流である。それそのものが水流なのだ。そしてそれはどこかに向かって流れており、自分の人生という1つの水脈は、他の水脈と重なり合っていく。そしてそれはいつか大海になるか、大海に還っていくことになるだろう。

朝日が赤レンガの家々に照り始めた。今日も始まる。今日も自らの命を感じながら創作活動に打ち込んでいく1日が始まったのである。

創作については気張る必要は全くない。今行っているような深くゆったりとした呼吸のように創作活動を進めていけばいいのである。あるいは、今ここに自分がただ静かに在るように創作活動を進めていけばいいのだ。

創作活動は何も特別なことではないのだ。それは呼吸と同じものであり、今というこの瞬間に在るのと同じなのだ。それがわかれば、創作活動を特別なものだと思うのは馬鹿げたことだということがわかる。

多くの人は、これまでの教育や社会からの働きかけによって、自らの生命の流れを形にしていく創作活動が何か特別なものだと思わされている。その結果として、自分の生命の流れに気づかず、それを形にする機会を奪われているのはとても残念なことである。

フローニンゲンの静かな早朝世界が何かを自分に語りかけてきている。その声を聞こう。そしてそれを形にしていこう。

早朝に目を瞑りながら内側の感覚に意識を当ててヨガの実践をしていると、午後の仮眠中に知覚するような色鮮やかなビジョンが少しばかり見えていた。前半においては、それは絵画的イメージとして立ち現れており、自分が絵を描いているような情景が浮かび上がっていた。その後には、昨日の仮眠と同様に、楽譜が脳内に現れ、音楽を作っていた。

創作を司る感覚が徐々に開いてきていることを実感する。また、創作の元になるものが内側から外側に向かって流れ出していることを感じる。

感覚の開放と内側の創造的根源の湧出。それが今の自分に起こっている。

日々の充実感と幸福感の根源にはそうした現象がある。そして、そこで得られた充実感と幸福感は、自分の表情と目から溢れ出している。

これまでの自分の専門性ゆえに、とりわけ発達測定という言語に注目をした活動を続けてきたがゆえに、目の前の人が何をいかように話すのか、つまり言語を用いてどのように内面世界を形作っているのかに自ずと意識が向かう傾向にあるが、私が相対した人の何をまず見るかというと表情と目である。そして、その人の存在が醸し出す雰囲気、専門用語で言えば、サトルエネルギーがどのようなものかに注目をする。

発達測定の専門家の間で言われているように、発話内容はいかようにも偽ることはできるが、発話構造は偽ることができない。その人の発達段階は、発話構造から如実に映し出されるのだ。

実はそれよりも明々白々にその人の存在を語るのが、表情と目、そしてサトルエネルギーなのだと思う。フローニンゲン:2020/5/7(木)06:20

5805. この世界の外に立つこと:常人と狂人

朝日を存分に浴びながら早朝の青空を優雅に舞う1羽の鳥がいる。書斎の窓辺に近寄って、街路樹に止まるスズメがいたのでそれを眺めていた。

スズメの口元を見ると、土色の紐の塊のようなものを口にしていた。それは重くなく、どこか軽そうだった。

枝に止まったスズメの口からそれが地面にひらひらと落ちていった。すると、スズメは飛び立ち、隣の家のニコさんの庭の餌箱の方に向かって行った。

あのスズメは何のために、あの紐の塊を口にしていたのだろうか。そこでふと、彼はきっと立派な巣を作りたかったのではないかと思った。

この季節は新たな生命が誕生する時期でもある。新しく生まれてくる命のために、立派な巣を作りたかったのではないだろうか。きっとそうかもしれない。

彼が向かった餌箱も、自分の食欲を満たすというよりも、生まれてくる新たな生命のために餌を求めたのかもしれない。

先日、近所のスーパーに向けて近くの住宅地を歩いている最中に、運河の箇所で思わず足を止めた。運河の水面で、アヒルのような鳥が巣作りをしていたのである。

ベンチには、その光景をぼんやりと眺めている男性がいた。こうした光景をここではよく目にする。

アヒルたちが巣作りを一生懸命に行っていて、それを見守りながらにしてぼんやりと眺める人々がここにいる。先ほどのスズメも、やはり巣作りに一生懸命になっているのだろう。

懸命に生きること。しかも気張らずに、自然な形で懸命に生きる姿は本当に素晴らしい。

だが私たち人間は、ただ懸命に生きるだけではダメなのかもしれない。その方向性がいかなるものであるのか、つまり懸命に生きるに値する活動がどのようなものかを見極めていく必要があるように思う。

端的には、賢明にして懸命に生きることが私たちに求められているのではないかと思う。その際に必要なことは、外に立つことである。既存の自分の認識の枠組み、社会がこしられた様々な枠組みから外に立つことが求められる。

この社会は、集団偽装的かつ集団欺瞞的な枠組みで満たされている。先ほど大麦若葉のドリンクを作っている最中にそのようなことを思った。

その時にふと、昔の記憶が蘇った。あれは中学3年生の冬のことだったと思う。

私が生活をしていたのは相当に田舎な場所であり、中学校に関しても受験という雰囲気はほとんどなかった。もちろん高校受験はあったが、地方の田舎の中学校にとって、高校受験などは運動会や文化祭ぐらいのイベントだったと認識している。

そのような場所で生活をしていながらも、隣街には進学塾があって、そこには進学校に行こうとする生徒たちが近隣の様々な学校から集まってきていた。私は自転車で通える距離の高校に行こうと思っていて、別に進学塾などに行く必要は全くなかったのだが、冬休みの1週間ほど、その塾にどのような生徒が集まっているのかが知りたくなって、母にお願いして、その塾の冬季講習だけに通わせてもらうことになった。

先ほどの日記の中で言及していた目の話を受けてか、講習会の前に面談役を務める塾の講師と三者面談をする機会があったことを思い出した。進学希望先の高校を用紙に書き、それをその講師に渡すと、「えっ、ここ?」というような表情をしていた。

その塾に集まる生徒たちは隣町の進学校に通うことを目指す人たちばかりであり、私はとにかく自転車で行ける距離にある高校にしか通うつもりはなかったので、その塾の冬季講習に参加している生徒の中で、唯一私だけが違う高校名を進学希望先に書いていた。

その講師の表情が印象に残っているだけではなく、その講師の中年男性が述べた言葉も覚えている。「君は相当にデキそうな目をしてるね···。でも本当にこの高校なのかい?」そのような言葉を掛けられたことが今でも印象に残っている。

そしてさらに印象に残っているのは、講習会の前に実力テストのようなものを受けさせられ、一応私は一番上のクラスに入れたのだが、その講師から後日、「思っていたほどには点数が良くなかったね(笑)」と言われたのを覚えている。なぜかその時の記憶が先ほど思い出された。

受験というのはつくづくオリンピックのようなものであり、特殊なトレーニングをすればそれだけその競技の力はつく。逆に言えば、そうしたトレーニングをしている者としていない者との間には、理解ができないほどの差が生まれる。

当時の私は受験用の勉強など全くしていなかったので、実力テストで点数など取れるはずはなかったのだ。このエピソードを改めて俯瞰的に眺めてみると、多くの人は大なり小なり、成人になって以降も、随分とくだらない競技ないしはゲームに従事させられていることが見えてくる。それは自己を既存の枠組み、そして社会の枠組みに押しとどまらせ、その枠組みの中で生きていくことを強制するような類のものである。

また、そうした競技やゲームは、それに従事すればするだけ、心身さらには霊性が蝕んでいき、気がつけば、誰のものとも知らぬ人生を送ることを余儀なくされることになる。

重要なことは外に立つことであり、そうした競技やゲームの外からそれを眺め、競技やゲームを生み出した構造を把握することである。そこからさらに重要なことは、懸命に生きるに値する活動を見つけ、それにひたむきに取り組み続けることである。

自分にとってみれば、受験というのは懸命に生きるに値する活動では決してなく、それをして自分の心身や霊性が喜び、育まれていくとは到底思えない。拝金主義的な他の活動全般もそうだ。

今毎日従事している創作活動はどうだろうか。確かにこの社会においては、芸術活動までもがカネや権力と結びつき、競技性やゲーム性が持ち込まれているが、自分はそのような形で創作活動に従事していない。そして今後も決してそのようにはしないだろう。

自らの生命の流れを形にし、日々生きた証を形にすることが、どうして他者と比べられるようか。どうして他者と競えようか。

自己の枠組みや社会の枠組みから超越した活動に従事し続けること。それをこれからも続けていく。

他者や社会がこしらえた不毛な競技やゲームの外に立ち、そうした活動に自らの生命時間を使わないこと。自らの生命の燃焼が、即自己の人生の軌跡となること。それをもたらす活動だけに従事すること。

この世界はなぜこうも自分の考えとは逆の方向に動いているのか。いつの時代も、その時代の枠組みから超出した人間を気狂いだと述べるが、数百年、数千年後においては、そうした人間が全くの気狂いではなかったことに気づく。その時代の狂人は後の常人であって、その時代の常人は後の時代の狂人なのだ。フローニンゲン:2020/5/7(木)07:12

5806. 今朝方の夢

時刻は午前7時を迎えた。朝日が燦々と照り始め、世界が活き活きと動き始めた。

今日は水曜日らしい。いや、木曜日だった。

コロナの影響もあってか、平日のこの時間帯は道ゆく人の数も少なく、まるで休日の朝のようだ。

この落ち着き。こうした落ち着いた環境の中で自分の取り組みを日々少しずつ前に進めていくこと。そうした生き方を今後一生涯を通じて行っていく。

振り返ってみると、日米欧の様々な場所でこれまで生活をしてきた。そうしたことを経て、自分がどのような場所で日々を生きていくのかが望ましいのかが見えてきている。

1年でアメリカに戻ろうと思ってやって来たオランダは、いつの間にか自分の永住先の1つになった。もう1つの永住先は、今のところフィンランドになるだろうか。

オランダと対置させる形でもう少し暖かい場所でもいいかと思ったが、どうも私はフィンランドに惹かれるものがあるようだ。仮にノルウェーがEU諸国であれば、ノルウェーも候補に入っていただろう。欧州永住権の都合上、ノルウェーは残念ながら今のところ永住先にはなり得そうにないが、今後この国がEUに加盟することもあるかもしれない。

ノルウェーにおいてはグリーグが、フィンランドにおいてはシベリウスがそうであったように、自然の中に居を構え、そこで日々の創作活動に励む生活をいつか送りたいと思う。そうした生活を通じて、常に利他的に生きていく。利他的な行為としての創作活動。それを常に忘れないようにする。

そう言えば、今朝方の夢についてまだ振り返っていなかった。それについて振り返り、そこから早朝の創作活動を始めていこう。

夢の中で私は、人気の少ないオフィス街を歩いていた。その日は平日の午後の時間であり、その時間であればオフィス街に人が多くいてもいいはずなのだが、どういうわけかほぼ全く人の姿を見なかった。

私の隣には2人ほど知人がいて、彼らと私を除けば、そのオフィス街には人はいなかった。しばらく歩くと、立派なビルが見えた。それはいかにも一流企業が入っていそうなビルだった。

どうやら私たちはそのビルに用事があるらしく、ビルの中に入っているみると、そのビルもひっそりとしていて、そこもやはり人の姿はなかった。

1階のエレベーターホールでエレベーターに乗り、上の階に私たちは向かおうとした。そのエレベーターはガラス張りであり、外の様子が中から見える。

目的階のボタンを押し、ドアを閉めたところで、小中高時代の女性友達(MK)が急いでエレベーターの方に駆け寄ってくる姿が見えた。しかし、すでにエレベーターは上に動き出していて、彼女は少し残念そうな表情を浮かべていた。

目的階に向かうエレベーターがなぜか途中の階で止まった。そしてドアが開き、目に飛び込んできたのは数面のフットサルコートだった。

コートの方を見ると、小中学校時代の友人たちが男女仲良くフットサルを楽しんでいた。気がつけば私はエレベーターの外にいて、自分もこれからフットサルをしたいと思ったが、今日は別件があるので、見学だけしようと思った。

友人たちは私が加わらないことを珍しがっていた。よくよくコートを見ると、確かにそこはフットサルコートなのだが、コートの上で行われていた競技はハンドボールのようだった。

しばらく友人たちがハンドボールを楽しむ姿を見たところで、夢の場面が変わった。次の夢の場面で覚えているのは、企業人として働くことの辛さを泣きながら話す30歳ぐらいの若い男性の姿が映し出されていたことだ。

そして最後の夢の場面においては、どこか小さなオフィスの一階のフロアで、そのオフィスに訪問をして来た男性の年齢を聞き間違えてしまったことである。その男性は37歳とのことだったが、私は57歳と間違えてしまい、向こうもそれを笑っていて、私も大いに笑った。

そう言えばその他にも、大雨の降る近未来型の都市にいて、水溜りを避けながら父と歩いてどこかに向かっていたのを覚えている。その都市に関する場面はもう少しあったように思う。フローニンゲン:2020/5/7(木)07:40

5807. 幼き日に決定しているもの:円環かつ縁環としての人生

そよ風と小鳥たちの鳴き声。そして朝日と自己。それらが今ここにあるべくしてただある。

自己はここにあり、世界はここにある。そして同時に、ここにはない自己と世界がここにあり続けている。

あるものがそこに在らしめられた瞬間に、そこにはそこにないものが措定される。そこにないものが何かに気づいた時、そこにあるものがわかる。

今日は枕カバーと布団カバーを洗った。先ほど洗濯機が止まり、乾燥機に入れようとしたところ、洗濯機に接続されている蛇口から水が漏れていた。蛇口の下に誰かが洗濯カゴを置いていて、そこに水が溜まっていた。今夜、不動産屋に連絡をしておこうと思う。

幼き頃に決定されていた何か。それについて先ほど考えを巡らせていた。厳密には、ある曲を作り終えた瞬間に、そこに想念が向かった。

どうやら人生には、自己と人生の方向性を決定づけるような決定的な瞬間というのがあるようだ。それはとりわけ幼少時代に存在しているような気がしている。

まるで雛鳥が目の前にいる存在を目にした瞬間にそれを親だと認識するように、人生におけるそうした決定的な瞬間は、自分の進むべき方向性を決定づける。

確かに私たちは、一生涯を通じて発達する生き物であり、生き方というものを変えていくことができる。つまり、歩む道を変えることはできるのだ。しかし、道そのものは変えることができない。

道そのものはすでにそこにあって、そうした道は多分に幼い頃の決定的な瞬間をもって決定づけられているのではないかと思う。そして、その歩む方向性というのも、多分に幼少期の決定的な瞬間において決定づけられているように思える。そう思える幼少時代のエピソードがこの数年間ふとしたときに意識に上がる。

幼少時代に決定づけられているものに対して、悲観する必要も楽観する必要もない。決定づけられているものの上に決定づけられないものが横たわっていて、決定づけられないものの下に決定づけられているものが横たわっているだけなのだから。

絶えず決定と非決定が同居した世界の中を生きているということ。決定済みの道と非決定な道を歩く中で人生が進んでいくこと。重要なことは、そうした道があるという認識であって、そうした道を自分が歩き続けているという認識だろうか。

私たちは道がなければ道の上を歩くことができない。そうした道はもう幼少時代の何かしらの体験や決定的な瞬間に決定してして、そこからまだ見ぬ道を作っていく。

白いカモメが朝日を存分に浴びて羽を輝かせながら南下して行った。そちらはアムステルダムがある方角であり、その先にはパリがある。さらにその先にはバルセロナがある。

それらの都市はいずれも過去に足を運んだ場所だ。さらに南下するとどうだろうか。さらに南下すると、まだ足を運んだことのないアルジェリアやマリ、そしてガーナなどがある。そこからさらに南下すると、もう南大西洋に行き着く。すると今度は南極に辿り着き、そこからもっと南下すると、なんと今いるフローニンゲンに戻ってくるではないか。

南下と北上は同じものだったのだ。そしてどちらも共に、結局は今いる地点に戻ってくる。そう、発達とは、そして人生とは回帰の道なのだ。

還ること。自分は日々この人生を生きながら、どこかに向かって還ろうとしているのだ。だが人間は、一生どこかに帰着することできない。帰還はない。

絶えず自分の人生の円環運動の中にいて、円を描きながら日々を生きているのだ。人生はそうした円環であるがゆえに、様々な存在者との縁があるのだろう。

どちらも共に巡っているのだ。円環かつ縁環としての人生。そして日々。

なるほど、人生とは最初から無限の円と縁で織りなすものだったのだ。1人の人間の人生が肉体の消滅後も終わりを迎えないのは、多分に縁の存在による。

今私は、思想家にせよ芸術家にせよ、すでにこの世に肉体を持たない人の仕事からいつも励ましを受けているが、彼らの人生は未だに終わっていないのだ。彼らの人生という物語は、彼らの存在を起点にして生まれた縁によってむしろ育まれ続けている。

人間は誰しも死ぬが、人生という物語は終わらないというのはそういうことなのだ。フローニンゲン:2020/5/7(木)10:04

5808. 命の流れと命の鼓動:名付けについて

——静かな眼 平和な心 その他に何の宝が世にあろう——三好達治

時刻は午後7時を迎えた。今、フローニンゲン上空に夕日が燦々と輝いている。

今日もまた夜空の星々が綺麗に見えることが期待される。夜空を見上げる際には、いつも決まって一際輝く星が目にとまる。

昨日もそれをぼんやりと眺めていた。今日もあの星が見えるだろう。それは今夜もまた命を燃焼させる形で光を自分に届けてくれるに違いない。

今から数時間ほど前に街の中心部のオーガニックスーパーに買い物に出かけた。今日もまた天気が良かったので、運河沿いに人々が集まり、日光浴を楽しんでいた。ちょっとした芝生があれば、そこにシートを敷いて寝そべっている人たちの姿も見かけた。家の外に椅子を出して読書をしている人や、談笑を楽しんでいる人たちもいた。

そういえば、こうした光景はあまり日本では見られなかったように思う。アメリカにいた時もそれほど見た記憶はない。こうした光景は、冬の時代が長い地域に固有のものなのかもしれない。

いずれにせよ、とても穏やかな春の陽気を感じることができる季節になった。それを大いに喜ぼう。

午前中に、作曲理論書を片手に曲を作っていると、ストラヴィンスキーの曲に遭遇した。その曲の一部が抜粋されていて、その抜粋の中の拍子記号の使い方が独特であることに気づいた。

実はストラヴィンスキーはこの曲以外にも、随分と変わった拍子記号を活用し、一曲の中でもころころと拍子を変えたりする傾向があることを前々から気づいていた。ひょっとすると、ストラヴィンスキーは特殊な時間感覚を持っていたのかもしれない。

拍子と意識の関係、拍子と身体感覚の関係にも注目しよう。旋律は命の流れであり、リズムは命の鼓動である。そうした観点で旋律とリズムの探究を続けていく。

今日は早朝に随分と雑多なことを日記に書き留めていたように思う。それらは全てその時の自分にとって大切なものであった。

言葉の形になることを待っているものが疼き出し、それを言葉の形にしていくことを毎日行っている。早朝の日記もその一環であった。

午後にふと、「名人」というのは、ある領域における実績によって名を上げた人のことを言うのではなく、心の中の形なきものに名付けをし、それを何らかの手段によって形にした人のことを言うのではないかとふと思った。

名のある人ではなく、名をつける人間になっていく。この世界で名前をつけられることを待っている存在者たち、すなわち言葉の形になることを待っている幾多の存在者たちに名前という言葉の形を与えること。それを明日からも行っていこう。

今夜はまだ時間がある。小鳥たちの鳴き声を聞きながら、そして夕日の光を浴びながら、明日の作曲実践に向けた準備と、絵を少々描いて就寝しよう。今日も静かな充実感に満ちた1日だった。フローニンゲン:2020/5/7(木)19:23

 
 
 

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