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No.275 柔らかく降り注ぐ何か_Something that Gently Falls Down
本日の言葉
The miracle is not to walk on water. The miracle is to walk on the green Earth in the present moment, to appreciate the peace and beauty that are available now. Thich Nhat Hanh
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本日生まれた17曲
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タイトル一覧
5798. 満月の光を浴びながら:今朝方の夢
5799. 身体運動的・生理的性質を持つ表現物
5800. 祝日の微笑ましい二つの光景より
5798. 満月の光を浴びながら:今朝方の夢
時刻は午前3時半を迎えた。今朝の起床は午前3時前であり、小鳥たちが鳴き声を上げ始める前であった。実際のところは、小鳥たちはまだ泣き始めておらず、彼らが鳴き声を上げ始めるのは1時間後ぐらいだろう。
ここのところは午後9時半ごろから就寝に向けた準備をするようになり、そのおかげもあって時間としては長くなくても十分な休息を取ることができている。だらだらと寝るのではなく、密度の濃い睡眠が実現されている。
そのおかげもあってか、日中の活動がとても充実している。睡眠も他の活動と同様に、その密度が重要なのであって、決して時間の長さが大切なのではないことがわかる。
今朝方、いつもと同じように起床後のヨガの実践をしようとしたところ、ふと窓の外を眺めると、そこに満月が浮かんでいた。今もそれはフローニンゲン上空の空で輝いている。
満月が発するなんとも言えない光。実際には、太陽の光が月に反射をしているわけだが、月を媒介した光は、太陽から直接もたらされる光とはまた異なる質感を持っている。
月の光を浴びながらヨガを行い、静かな祈りの中で始まった1日。今日もまた充実した1日になるに違いない。今日は協働プロジェクト関係の仕事もないので、1日中創作活動に打ち込もうと思う。
今朝方も夢を見ていたが、今朝方の夢はそれほど記憶に残っていない。覚えていることと言えば、市民体育館かどこかでバスケをしている場面である。
そこには小中学校時代の友人たちがいて、中でも中学校時代のバスケ部のメンバーが多く、彼らとバスケを楽しんでいた。こちらのチームにいたある親友(HS)は積極的にシュートを打つものの、それがなかなか決まらずに苦戦しているようだったが、試合の最後に無事にゴールを決めたのを覚えている。
その他に覚えているものとしては、不思議な施設の中でウロウロしていたことである。その施設は学校の寮のような機能を果たしているようだった。
男子生徒と女子生徒の寮が分かれていて、私は男子生徒の寮の中をウロウロしていた。すると、小中学校時代の友人(AW)と出会い、彼が受験勉強に苦労しているという話をし始めた。
話を聞くと、センター試験の対策に追われているらしく、現状どれだけ点が取れているのかと、どのような勉強をしているのかを尋ねた。そして目標としている大学が要求しているスコアについても確認した。
彼が志望している大学は、二次試験よりもセンター試験を重視するらしく、センター試験は尚更重要のようだった。彼の現状のスコアを聞くと、確かに悲惨なものだった。得点率で言えば25%ほどであり、私は思わず、「確率的に、それは全ての問題を勘で解いても取れるような点数ではないか」と述べた。友人は苦笑いをしていたが、そうだと認めた。
そこから私は、彼にセンター試験の対策について説明をした。その後彼と別れて寮内を歩いていると、いつの間にか自分は女子寮にいることに気づいた。するとそこで小学校時代の女性友達(HK)に出会った。
彼女は中学校からは別の学校に転校したため、そこでの再会を嬉しく思った。そこでしばらく彼女と立ち話をしていた。そのような場面があったことを覚えている。
この寮に関して言えば、その他にも、寮内の生徒たちは毎日決まった時間に部屋の掃除とトイレや風呂の掃除をしているようだった。ちょうど私が寮内を歩いていた時も掃除の時間と重なり、全員が部屋の扉を開け、せっせと掃除をしていた。
見知らぬ女子生徒が室内のトイレと風呂を掃除していた姿が印象に残っている。そのような場面を経て、その他に断片的に覚えていることと言えば、おそらくその寮のある学校の体育館で、中学校時代の先輩たちと話をしていたことだ。
先輩の1人が漫画を譲ってくれるとのことであり、体育館の壇上の背後に先輩が所有している倉庫があるとのことだった。倉庫のシャッターがガラガラと上に上がっていき、見ると立派な倉庫がそこにあった。
中はとても広く、びっしりと漫画がそこに詰まっていた。そこで先輩は、私に譲ってくれる漫画を吟味し始めた。そのような夢の場面を経て目が覚めた。
それでは今日はこれから、少しばかり絵を描き、その後、早朝の作曲実践に取り掛かりたい。今朝は3時前に目覚め、心身の状態もすこぶる良いので、充実した創作活動が実現されるだろう。フローニンゲン:2020/5/5(火)03:55
5799. 身体運動的・生理的性質を持つ表現物
時刻は午後1時を迎えた。今朝の起床は午前3時前であったから、起床してから随分と時間が経ったことになる。この日記を書き留めたら仮眠を取り、そこから午後の創作活動に取り組みたい。
そう言えば、本日はLiberation Dayという祝日である。道理で、オランダ国旗を掲げている家が多いわけだ。
祝日の今日は天気に恵まれている。空には雲があるが、それは雨雲ではなく入道雲であり、どこか柔らかそうに見える。
自分にとって、生きることと表現することが同義なものになりつつあることを午前中に感じていた。自らの人生を絶えず言葉·音·絵で表現すること。それを自らに課す。それを継続させる形で日々を過ごしていく。午前中もまたそのような形で進行していった。
午前3時前に起床したおかげもあり、午前中の段階で14曲ほど日記的な短い曲を作り、7つほど絵を描いた。午後からも創作活動を楽しみながら進めていこう。
午前中に考えていた雑多なことを書き留めておきたい。過去の偉大な作曲家たちに範を求める際に重要なことは、彼らの曲を参考にする過程において、自分の身体感覚と合わないところを削ぎ落とし、その箇所を自分の身体感覚で埋めていくことだということを改めて自覚した。
音楽というのは言葉と同様に身体運動であり、同時に生理的現象でもある。生理的に合わない音楽や音があることは当然であり、自らの作曲言語を構築していく際には、自分の内的感覚を育み、自らの身体運動と生理的性質に自覚的になっていくことである。
午後にいずれかの作曲家の曲を参考にする際にはその点を意識する。自分の感覚と合致するものは何であり、合致しないものは何かを探っていき、少しずつ自分の内的感覚を押し広げ、深めていく。そのプロセスを継続させていくことによって初めて、自分の作曲言語が形作られていく。
自分の内側の感覚の塊に絶えず言葉·音·絵を当てていこう。そのようにして感覚を純化させていく。そうすれば、自ずからより納得のいく表現物が析出されるだろう。
過去の様々な表現者の表現物を参考にすることを通じて、彼らの叡智と経験を少しずつ我がものにしていく。そのようにして自己を育んでいき、その過程で得られた知見や経験を他者に共有することを積極的に行っていく。それを言葉·音·絵という表現物を通して行っていく。
気がつけば、今参考にしているハーモニーの書籍もようやく500ページを超えた。一周するまであと少しである。
この書籍を参考にし終えたら、先日届いたばかりの“Contemporary Harmony”に取り掛かっていこうと思う。そのようなことを考えながら今使っている理論書の頁をめくっていると、20世紀になっても調性と旋律を大切にしていたフランシス·プーランクの曲に出会った。
彼の曲のフレーズが印象的であり、早速ながら今Spotify経由で一連の曲を聴いている。近々、プーランクの楽譜を購入しようと思う。過去の様々な作曲家から汲み取れるものは全て汲み取っていこう。フローニンゲン:2020/5/5(火)13:14
5800. 祝日の微笑ましい二つの光景より
時刻は午後7時を迎えた。これから徐々に沈みゆく太陽をねぎらうかのように小鳥たちが優しい鳴き声を上げている。
今日のオランダは、Liberation Dayという祝日であった。午後に買い物に出かけた帰り道、どこからともなく楽しげな音楽が聞こえてきた。
音楽が聞こえてくる方向に歩みを進めると、道路の脇で大道芸人風の男性が音楽を奏でていた。これは以前街の中心部でも見かけたのだが、それは一般的な楽器ではなく、リアカー付きのオルガンみたいな楽器である。そこから楽しげな音楽が流れていて、今日の祝日を祝っていた。
音楽に合わせて、赤ちゃんを抱き抱えた母親が小刻みに踊りながら赤ちゃんを揺らしていた。その他にもたくさんの人がその場にいて、1つの曲が終わると、そのたびに大きな拍手が起こった。
耳に心地よい音楽を背にしながら、自宅の方に歩みを進めていると、改めて音楽というのは、音を通じて心と魂を楽しませるものなのだと思った。もちろん、そうした音楽だけではないことは明らかだが、少なくとも私は、破壊的·堕落的な音楽ではなく、治癒的かつ楽しげな音楽の創造を希求したいと思った。
この一件と早朝に考えていたことは非常に似ている。作曲実践を通じて、兎にも角にもまずは自分の心を喜ばせることが大切である。それは作曲のみならず、絵画の創作にも当てはまる。
自己を楽しませ、自己を喜ばせる音や絵の創出を第一にしていく。そうではない創作物は他者を意識したつまらないものであり、自己欺瞞の産物になってしまう。明日からもまた、自分の心が納得するものを生み出し続けていこう。
今日はふと父のブログを見た。愛犬との旅の様子を綴る父のブログを見ていると、いつも心が和む。
愛犬はもう14歳を迎えた。人間の年齢で言えば、もう両親の年齢を超えて70歳ぐらいになるのではないかと思う。
愛犬の投薬量が減ったという言及がブログでなされていた。それを知って嬉しくなったのと同時に、ここ数ヶ月間、毎日遠隔治療として愛犬が元気になるようにエネルギーを送っていたことも貢献したかもしれないと思った。健康で長生きをしてもらうために、引き続き愛犬、そして両親に遠隔で気を送っていこうと思う。
いつも私はふとした時に、書斎の窓辺に歩み寄って、そこからバードウォッチングをする。それが好きなのだ。
早朝にスズメを観察していると、あることに気づいた。スズメたちが隣の家のニコさんの庭の餌箱をつつき、餌がポロポロと地面にこぼれていた。夕方になると、スズメがつついて地面にこぼした餌をハトが食べている。昨日もその光景を目にし、とても微笑ましかった。
つまりここでは、庭が存在し、ニコさんが存在し、そのニコさんが餌箱を設置し、そこに集まるスズメが存在し、彼らが餌をつつくという行為によってハトが恩恵を受けていることがわかったのである。そして、そうしたハトを眺めてニッコリしてしまうという恩恵を受けている私がいる。
「あぁ、この世界はこのように、存在と行為の連鎖的循環で成り立っているのだ」と思わず言葉が漏れた。今も試しに庭先を覗いてみたところ、昨日と同じ光景がそこに広がっていて思わず笑顔になった。
今日は夕方にもスズメたちが餌箱を突き、地面にこぼれた餌をハトが食べている。存在と行為の連鎖的循環。自分という存在と自分がなす行為は、この世界の連鎖的循環に絶えず関与している。フローニンゲン:2020/5/5(火)19:25